第一章 尾行
「知りたい?教えてあげない。自分でつかみ取りなさい」
――――どっかの誰かさんの教育方針――――
ただ〝歩く〟ことさえ困難な地区で、〝標的〟は軽やかに歩を進める。
毛先が捻じれた金髪が肩と首辺りで跳ねまわり、繊細な刺繍が施されたロングスカートと、ベイガ地区で買ったと思しきベージュ色の上着が、一歩一歩進む度に飛び散るドロで悲惨な事になっていく。
自分が次に踏むべき〈足場〉どころか、目の前に翳した手すら碌に見えない真っ暗なナッシュル地区で、それは当たり前の姿なはずなのに、〝標的〟はどうしてか人の目を惹きつけてやまない。
(いつもと同じなんだけどな……)
一定の距離を保ち、バレないように細心の注意を払いながら〝標的〟を尾行している、ラァズ・フィークは〝標的〟の生態を再認識した。
〝標的〟がナッシュル地区で指折りの美貌の持ち主なのは確かだが、地区には同じくらいの美貌の持ち主は他にもいる。
ナリアだってそうし、シアナもそう。けれど真っ暗闇でもこんなに人の目を奪っていくのは〝標的〟をおいて他に居ない。
家々の分厚く濁った窓から漏れる微かな明かりが〝標的〟の一つ一つの仕草を輝かせ、時々吹き荒ぶ極寒の強風は〝標的〟だけには優しく吹くのか、髪の毛を撫でていくのみ。
吐き出す白い息でさえ、のんびり揺蕩っているように見える。
もう何年も一緒に暮らし、〝標的〟の生態系を知っているはずのラァズにも、その後ろ姿は別人に見えた。家では動いているほうが珍しく、大酒飲みで、部屋があるのに部屋で寝ないで居間のソファを寝床にし、片付けをせず、ヘタをすれば下着姿で家の中を徘徊している人物と同一人物だなんて、誰も信じないだろう。
(でも、外に出たらコレだもんな)
〝標的〟の横を通り過ぎようとしていた一人の男性が、〝標的〟に目が釘付けで〈足場〉を踏み外し盛大に音を立ててドロ沼に落ちた。
その男性の後方から歩いてくるカップルらしき男女は、彼氏の方が〝標的〟に目を奪われ過ぎていて、明らかに必死に話しかけている彼女の話を聞いていない。彼女もそれを分かっているのか、〝標的〟を殺さんばかりの剣幕で睨む。
〝標的〟を見て眉を顰める年配女性、〝標的〟の姿を見た途端、聞こえるように噂話に興じる女性集団。その集団を苦笑いで見つめ、〝票t系〟と見比べる男性集団。
見慣れたそれらを知ってか知らずか、気にせず歩き続ける〝標的〟は堂々としながらも軽やかで、それもまた人の目を奪う。
(かっこ……いいなぁ)
ラァズはぼんやりとそんなことを思いながら、次の〈足場〉に飛び移った。
貧困区ナッシュル地区に、正常な地面は存在しない。
見渡す限り、灰色とこげ茶色が混じったような、ぐちゃぐちゃの底なし沼のようなドロ道だ。
一拍でもそんな地面に体重を預ければ即座に足首までが埋まり、膝まで埋まってしまえば、安定した地面が無い限り、もう一人では脱出が出来ない。
そんな中で唯一の〈足場〉とも言えるのが、作業を途中で放棄したように散乱する舗装用の敷石だ。サイズも色も厚さも全部バラバラの、当然ながら固定されていない不安定な敷石。
恐らく、敷石ではない何かの破片も大量に混じっているが、そんなことを気にする暇も住民も居ない。
そんな地面と〈足場〉で実現できる〝歩行方法〟なんて限られる。飛び石の要領で〈足場〉に飛び移って〝歩く〟か、埋まるのと汚れるのを覚悟の上で〝漕ぐ〟か。
当然、殆どの住民が採用したのは前者だ。
それ故に、そんな貴重な〈足場〉を一つでも沈めようものなら、大目玉どころの話ではない。
『酒の肴』は勿論のこと、人から人へ目撃証言は伝わり、人とすれ違う度に「足場には細心の注意を払いなさい」と言われ、ついには沈めた本人に〝一週間足場使用禁止令〟が地区長直々に言い渡されるのだ。
そうなれば、〈腕〉まで底なし沼のようなドロ道をかき分けて進まねばならず、〈腕〉に辿り着く頃には全身冷え切りの泥まみれになっている、という厳しい罰が待っている。
ラァズも幼少期に二枚ほど沈めて、〈足場〉の有難さを嫌というほど思い知らされた。
それ以降沈めた事は無いが、それでもいつでも何処でも〈足場〉に細心の注意を払いながら〝歩く〟なんて不可能だと身を持って知っている。
地区長は実の娘が関わっているのを知ってか知らずか頑として認めようとしないが、ワザと〈足場〉を沈めさせようと悪さをしてくるグループすらあるぐらいだ。そんな状況でトロトロ注意なんか払っていられない。
今みたく、誰かを尾行している時なんか特に。
(もう少しで〈初歩の鐘〉が鳴るかな……)
ラァズはちらほら石造りの家々に明かりが灯っていくのを眺めながら、被っていたフードを更に目深に被った。
ナッシュル地区で使われているガラスはベイファ地区全般で使われているものより、透明度が低く、保温性を高めるために分厚いうえにザラついているので、そんな簡単に映り込んだりしないが、〝標的〟相手に油断は禁物だ。
なにせ尾行をナリアが提案してから五年経った今でも、〝標的〟の職場まですら尾行が成功したことがないのだから。けれど、残念ながらラァズがどんなに頑張っても、細心の注意を払っても、不測の事態は起こる。
それも〝標的〟が仕組んでいるんじゃないかと思うほど、高頻度で起こる。
「おや、ラァズちゃんじゃないかい!」
〝標的〟との距離が空き、ラァズも進もうと足をドロ沼から引っこ抜いたその時、傍に人がいたら怪我させるぐらいの強さで玄関の重たい木製のドアを叩きつけるようにして開けて、その住民は叫んだ。
「げっ!」
ラァズは驚きで思わずドロに足を突っ込みながらも距離を置きつつ、飛び出してきた住人の姿を見て汚い声が漏れた。
アンバンおばさん。
垂れ目の優しい目付きに、ツヤツヤの顔、ナッシュル地区内では〝要警戒〟と評されるふっくらとした体。
朝食の準備をしようとしていたのか、前掛けを右手に持って、息を切らしている。分厚い曇ったガラス越しに〝標的〟を見つけでもして、慌てて出てきたのだろう。
家が乱立していると言っていい迷路みたいなナッシュル地区で人は一瞬で消えるから。
だが実際のところ〝おばさん〟と言っても、別段家族ぐるみの親交は無いし、個人的にも仲良くは無い。ただ近所付き合いに亀裂が入らない程度の気遣いとして、そう呼んでいるだけだ。
ラァズとしてはもう亀裂が盛大に入っているので、「おばさん」とも「さん付け」でも呼びたくないのだが仕方がない。
彼女に失礼な態度をとると、更に厄介な相手が家に来る可能性が高まる。
「〈腕〉が今日も貴女を包みますように。アンバンおばさん」
ラァズは先行く〝標的〟の後ろ姿をちらりと見て、内心でため息を付きながら尾行にピリオドを打った。ガラスに映ってなくても、先ほどの大声でラァズに気が付いただろうし、もし奇跡的にバレていなくてもアンバンおばさんの応対で時間を取られ、姿を見失う。どう考えても尾行は不可能だ。
とりあえず脱出不可能なほど足が沈み込まないように、足踏みをしておく。
「あら、嫌だ。おばさんだなんて他人行儀ね。〝お義母さん〟って呼んでくれてもいいのよ?」
アンバンは前掛けをブンブン振り回して、楽しそうに言った。
「それにしてもラァズちゃん、貴女また野宿したの? 可哀想に。そんな貧相な身体とボロボロの上着で野宿なんて死んじゃうわよ?」
(始まった……)
彼女が息を切らしてでも飛び出してきた理由はこれだ。
気に食わないフィーク家の住人を大声で、他の住民にも聞こえるように罵ること。
上辺だけ聞けば〝近所の子を心配している優しいおばさん〟で通るから、自分の鬱憤も晴らせて近所での評価も上がる、一石二鳥の暇つぶし。
「あのニーラさんは一体何をしているのかしねぇ。別に人様に大声で言えるような仕事をしていなくとも、娼婦なら……あら、私ったらごめんさないねぇ。――娼婦なら収入もいいでしょうに。血の繋がりが無くとも、ちゃんとしたモノ買ってあげればいいのに。ラァズちゃん、本っ当に可哀想」
井戸端会議の話のネタにもできないほど情報が無い〝標的〟とその家族に関して、住民達が作り上げた身の上話だ。
『ニーラさんは若い頃に複数の貴族の愛人をしていて、ナリアちゃんとラァズちゃんは、その時に出来た父親が分からない子なのよ。あっ、ヘタをすれば血すら繋がっていないのかも! で、認知なんてされるはずがないし、堕胎させるのもお金が掛かるし外聞が悪いから、嫌々面倒見ているのよ。でも真面な仕事に就けるはずも無かったから、泣く泣く娼婦をやっているんだわ。可哀想に。』
と、おおよそ、こんな感じに。
〝標的〟と同じ金髪のナリアはともかくとして、血のようにどす黒く、生々しい血液のような赤毛を持つラァズに「不義の子」というのは作り話にしても成立しないので、「血縁関係が無く愛していない」に飛びついた訳だ。
ラァズ自身、〝標的〟ともナリアとも血の繋がりは無いことは知っている。そもそも〝標的〟から直接、面と向かって言われのだから。
もし言われなかったとしても、ここまで露骨に外見が違えばバカでも気づく。だから別に「血縁関係が無い」と言われるのは構わないが、「愛されていない可哀想な子」と評価され憐れまれるのは、結構不愉快だった。―――学校でも、同じようなことを言われまくってはいるものの。
けれど、ここでムキになって言い返す、なんて愚行を犯すほど、ラァズはナッシュル地区を知らない訳では無い。
ノッてこないラァズに白けたのか、アンバンおばさんは声を張りあげて言葉を続ける。
「それにしても!」
その声は通行人が振り向くほど大きかった。実際、足を止めたり、朝の仕事を放棄して楽しそうに、この貶しを聞いている住民がちらほら居る。
「その髪! ニーラさんもナリアちゃんも染めろって言わないのかい? そんな派手で不気味な色味をしていたら差別の格好の的だろうに。ベイファの良い学校への〈受験〉が成功したとは言え、この手の事はてんで駄目ね、ナリアちゃん。世間知らずもいいとこ。ラァズちゃんがこんな容姿で生まれてきてしまったんだから、嘘の家族のよしみで、何か隠す為の知識や技術を教えてあげれば――」
アンバンおばさんの心配と見せかけた貶めは、きっかりきっちりナリアを一躍有名にした偉業、〈受験〉の成功から始まった。
それまでは異色で謎のフィーク家を遠巻きに眺めるか、煙たがる集団の一人でしかなかったのだが、その日以降、地区でも突出してフィーク家を目の敵にするようになったのだ。
しかもその方法は他の地区の連中のように、露骨に仲間外れにするとか、見える場所でワザとバカにするような言動をとる、みたいな幼稚なものではないから悪質だ。 挙句の果てに厄介な人間まで味方につけているから始末に悪い。
実際、ラァズはコイツの企みのせいで学校に遅刻させられた事がある。
(ニーラだったら肩透かし食らいまくるし、ナリアだったら頭脳で敵わないから、消去法で自分なんだろうな……)
ラァズは眉間に皺を寄せないように頑張りながら、少しだけ家族の才能を羨んだ。
「アンバンおばさん」
ラァズは、得意げに貶めの言葉を紡ぐ彼女に、出来うる限り気まずそうに、あえて小声で、目を合わせて言った。
「息子さんのアンファードは元気ですか?」
その言葉で、片目の世界しか知らないラァズにもはっきりと分かるほど、アンバンおばさんの得意げな表情が消え去り、ぶわっと真っ赤に染まった顔に怒りと屈辱と……憎しみが噴き出した。目元の皮膚がピクピク痙攣している。
こんなことで表情に怒りを出すなんて、まさしく"差別の格好の的"だ。
(こんなんでナリアに勝てるはずがない、ね)
ラァズが何を言ったのか聞こえなかったはずだが、それまで貶しを楽しそうに聞いていた住民たちの中から「プッ」と吹き出したような音が響く。
アンバンがフィーク家を目の敵にする理由は、ナリアの〈受験〉成功と同じぐらい地区では有名な話だ。従ってアンバンの反応を見るだけで、ラァズが言った事も容易に想像出来る。
アンバンが笑い声を聞き逃すはずもなく、顔が更に真っ赤に染まる――ラァズの髪色に負けないぐらい鮮やかに。
ラァズは内心で舌を出しながら「それじゃあ」と吐き捨てて、アンバンから離れた。無駄に勢いよく足をドロ沼から引っこ抜き、飛び散ったドロがアンバンにたっぷりかかるようにしてから。
アンバンの息子アンファードは〈受験〉失敗以降、それまで好成績を鼻に掛けていたことも相まって、学校での居場所を完全に失った。
失ってもラァズのように一人で学校生活を続ければ、それで話は済んだ。
だが、一人に耐えられなかったのかベイファ生徒だけの素行の悪いグループと、割に合わない約束事をしてしまったらしい。〈留年〉が決定的なものとなるまで勉強時間すらまともに取れなくなるほどパシリにされ、そのまま不登校になったのだ。
再度同じ学年をやり直す時が来ても、グループが卒業していないせいか不登校が続いており、地区の中では「アンファードはもう駄目だ」とハッキリと言われていた。
例え、グループが卒業していたとしても、学校に居場所がないのは変わらず、学べる期間には制限がある。
こんな事はナッシュル地区では、ありきたりな出来事で、ありふれた悲劇で、とても笑える笑い話で、明日は我が身だった。
ベイファ地区で〈初歩の鐘〉が鳴り始めた。




