〜お化粧のベールに守られた少年二人の無敵な放課後〜
第1話
鏡台の前に座ると、ひんやりとした空気が肌を包み込む。
目の前にあるのは、かつてお姉さんが使っていた化粧品たち。ひとつひとつのボトルの置き場所も、お気に入りのリップの色の名前も、全部僕の頭の中に焼き付いている。
もう、お姉さんはいないんだよね。
ふと口をつきそうになった言葉を、外村紫苑はぐっと飲み込んだ。寂しさに沈むために鏡の前に立ったわけじゃない。
新しいお洋服に袖を通すたび、お姉さんはいつも嬉しそうに笑って、紫苑の顔を覗き込んできたものだ。
『紫苑、せっかく可愛いお洋服を着たんだから、お化粧も特別にしなきゃダメだよ?』
優しく、丁寧に、魔法をかけるように筆を動かしてくれた、あの温かい指先。目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。
ファンデーションをのせる時の軽いリズム。アイラインを引くときの、お姉さんの少し真剣な息遣い。チークをふんわりと乗せられたときの、くすぐったいような高揚感。
何度も、何度も、お姉さんにしてもらったお化粧。だから、ちゃんと覚えている。忘れるはずがない。
紫苑は深く息を吸い、背筋をピンと伸ばした。
現代ダンジョンが日常に溶け込み、いつ何が起こるかわからない、こんな世界だからこそ。お姉さんが教えてくれた「自分を特別にする魔法」を、今度は自分の手で。
パフを手に取り、鏡の中の自分とまっすぐ目を合わせる。
「さあ、お化粧しましょう」
トントン、と肌に触れる柔らかな感触とともに、紫苑の新しい一日が始まる。
まずはスキンケアで肌を整え、お姉さんの遺した丁寧な手順通りにベースメイクを進めていく。毛穴を消し去り、透明感を出すためのコントロールカラー。肌のトーンを均一にするリキッドファンデーションを、指先とパフを駆使して薄く、均一に伸ばしていく。
まだ14歳という若さの、男の子特有の骨っぽさがほんの少し残る輪郭。けれど、紫苑の顔立ちはもともと中性的で、お姉さんによく似ていた。
お姉さんの形見であるアイシャドウパレットを開く。落ち着いたピンクブラウンの粉をブラシにとり、まぶたへ滑らせる。グラデーションが生まれるたび、鏡の中の瞳がみるみるうちに濡れたような輝きを帯びていく。
最後に、引き出しの奥から大切に取り出したローズピンクのリップを、唇の中央から外側へと広げた。
「できた……」
鏡の中にいたのは、どこからどう見ても、息を呑むほどに可憐な一人の美少女だった。お姉さんが生きていた頃に誂えてくれた、白いフリルのクラシカルなワンピースが、今の紫苑の姿に完璧に調和している。
女装はもう、紫苑にとって日常の延長線上にある行為だった。お姉さんを身近に感じるための、大切な儀式。だから、今更恥ずかしいなんて気持ちは微塵もない。
けれど、その瞬間だった。
ピコン。
静まり返った部屋の中に、聞いたこともない無機質な電子音が響いた。
「え……?」
紫苑が瞬きをすると、目の前の空間に、淡く発光する半透明のウインドウが出現した。それは、テレビのニュースやネットの配信画面で嫌というほど目にする、探索者だけが見られるというステータス画面だった。
エラー。外村紫苑は探索者登録をしていない。一般人のはずだ。
困惑する紫苑の視線の先で、ウインドウの文字が急速に更新されていく。
【固有異能:特別にする魔法が発動しました】
【対象の女装状態およびメイクの完成度を検知:最高品質】
【ステータス上昇補正を適用します】
システムログが流れると同時に、紫苑の身体の奥底から、経験したことのない熱いエネルギーが奔流となって湧き上がってきた。
「な、に……これ……?」
驚いて立ち上がろうとした瞬間、自分の身体が羽毛のように軽いことに気づく。視界が異常にクリアになり、部屋の外を走る車の音や、遠くの街の喧騒までが手に取るように理解できた。
おそるおそる、画面に表示された数値を視線で追う。
筋力、耐久、敏捷。そのすべてが、一般人の数倍、いや、ネットで噂されるBランクやAランクのプロ探索者すら凌駕するほどの異常な数値へと跳ね上がっていた。
さらに、その下に輝く項目が、紫苑の目を釘付けにする。
【獲得固有魔法:光聖魔法】
【スキル:魔力障壁、癒やしの光、閃光刃】
光聖魔法。それは、探索者ギルドの最高峰に君臨する一握りの聖女や、高ランクの回復術師しか扱えないとされる、極めて希少な属性の魔法だった。
「僕が……魔法を使える? そんなの、あり得ない……」
紫苑は自分の白い手袋に包まれた手を凝視した。指先を少し動かすだけで、空気中の魔力が自分の意志に従って整列していくのがわかる。
お姉さんが教えてくれたお化粧。自分を特別にするための魔法。
それが、現代ダンジョンがもたらした異能のシステムと結びつき、本当の『魔法』として開花してしまったのだ。女装をして、完璧な美少女でいる間だけ、世界をも揺るがす最強の力を発揮する規格外の存在として。
紫苑は小さく息を吐き出し、胸元に手を当てた。高鳴る鼓動の中で、不思議と恐怖はなかった。鏡の中に映る美少女の瞳は、どこまでも澄んでおり、まっすぐに自分を見返してくる。
「もし、この力が本当なら……」
お姉さんはもういないけれど、この世界には、まだ守るべき日常がある。学校の友達、そして――いつも隣にいてくれる、大切な幼馴染の顔が頭に浮かんだ。
その時、一階のインターホンが小気味よい音を立てて鳴り響いた。
紫苑はハッとして、ステータス画面を消す。玄関のモニターを確認するため、フリルを揺らしながら廊下へと急いだ。画面に映っていたのは、大きめのスクールバッグを両手で大事そうに抱え、少し緊張した様子で足をもじもじとさせている、親友の永井菜央の姿だった。
第2話
「あ、菜央ちゃん……!」
モニターに映る親友の姿を見て、紫苑は小さく声を上げた。
すぐに鍵を開けてあげたいけれど、今の自分の格好を思い出し、一瞬だけ足がすくむ。鏡台の前で完成させたばかりの、完璧な美少女の姿。白いフリルのワンピースに、丁寧に施したお姉さん譲りのメイク。
いつもなら、女装している時に不意の来客があれば居留守を使うか、大急ぎで着替えるところだった。けれど、身体の奥で脈打つ圧倒的な魔力の奔流と、視界の端で静かにまたたくステータス画面が、紫苑の思考をいつもと違う方向へ導いていた。
「……ううん。菜央ちゃんなら、大丈夫だよね」
菜苑は幼馴染だ。お互いに何でも話し合える、世界でたった一人の大切な親友。
紫苑は深く息を吸い込み、フリルの裾を軽く整えると、お姉さんに教わった上品な足取りで玄関へと向かった。
パチリ、と内鍵を外して、ゆっくりと重い扉を開く。
「はーい、お待たせ、菜央ちゃ――」
「う、わあ……っ!」
扉が開いた瞬間、外の光を浴びた紫苑の姿を見て、永井菜央は短い悲鳴のような声を上げて一歩後ろに飛び退いた。
大きなスクールバッグを胸の前に抱きしめたまま、菜央の丸い瞳がさらに丸くなる。その顔は、みるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染まっていった。
「あ、あのっ! ごめんなさい、僕、外村くんの家を間違えちゃって……って、え? ええっ!?」
「ふふ、ボクだよ、菜央ちゃん。間違えてないよ」
紫苑が少し悪戯っぽく微笑み、お姉さんの真似をして作った少し高めの声で囁くと、菜央は完全にフリーズしてしまった。
「し、紫苑……くん? 本当に、紫苑くんなの……?」
「うん。ちょっと、お姉さんの形見でお化粧の練習をしてたんだ。変、かな?」
「へ、変なんかじゃないよ! っていうか、その……凄く、可愛い、っていうか……本物の女の子にしか見えないよ……!」
菜央は視線を激しく泳がせながら、蚊の鳴くような声で呟いた。
その反応を見て、紫苑は胸をなでおろす。同時に、身体の奥にあるステータスを確認した。
筋力、耐久、敏捷、そして魔力。
それらを示す数値は、菜央と対面している今も、異常な高値を維持したままだ。身体が羽毛のように軽く、周囲の空気に漂う微細な魔力の粒が、自分の意志一つで自在に操れる感覚がある。
これほどの異能が覚醒しているというのに、外見はただの綺麗な女の子。このギャップに、紫苑自身が一番戸惑っていた。
「立ち話もなんだし、中に入って? 立ち話してると、近所の人に見られちゃうから」
「う、うん。お邪魔します……」
菜央を家の中に招き入れ、玄関の扉を閉める。
リビングへと向かう菜央の後ろ姿を見ながら、紫苑はその足取りがいつもよりぎこちないことに気づいた。そして、胸元に抱えられたスクールバッグが、妙に膨らんでいることにも。
「菜央ちゃん、そのカバン、ずいぶん重そうだね? 学校の教科書?」
「あ、これは、その……教科書じゃなくて」
ソファーに腰掛けた菜央は、カバンを愛おしそうに、けれどどこか申し訳なさそうに膝の上に置いた。
菜央は15歳。紫苑より一つ年上で、声がとても高く、顔立ちも女の子のように愛らしい男の子だ。普段からどこか儚げな雰囲気を纏っている彼だが、今日の菜央はいつも以上に緊張しているように見えた。
「ねえ、紫苑くん。さっきの紫苑くん、本当に綺麗だった。まるでお姉さんが戻ってきたみたいで……」
「ありがとう。お姉さんの手順通りにやると、自分でもびっくりするくらい変われるんだ」
「……変われる、んだよね」
菜央がぽつりと呟いた言葉には、深い憧れと、切実な響きが含まれていた。
その時、リビングのテレビから、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
二人がビクッとして画面を見つめると、ニュース番組のキャスターが緊張した面持ちで原稿を読み上げていた。
『ニュースをお伝えします。本日15時頃、渋谷駅周辺の第4ダンジョンにおいて、魔力の乱れが観測されました。現在、探索者ギルドによる警戒レベルが引き上げられています。付近にお住まいの方は――』
画面には、ダンジョンの入り口である巨大な光の亀裂と、その周りを警戒する探索者たちの姿が映し出されていた。
カメラの前を横切ったのは、派手な衣装を身にまとった少女。配信探索者として女子高生を中心に大人気のリCランク探索者、松浦かなだ。彼女はスマートフォンを片手に、「みんな、最前線からお届け中だよー!」と不敵に笑っている。
「またダンジョンが不安定になってるんだね……」
菜央が不安そうに身を縮める。
現代ダンジョンが日常に溶け込んだこの世界では、いつ魔物が街に溢れ出してもおかしくない。人々は常に、背中合わせの恐怖と共に生きていた。
けれど、今の紫苑は違った。
テレビ画面の向こうで警戒に当たっている探索者たちの装備や、流れる魔力の波形が、なぜか視覚的に『理解』できてしまうのだ。
(あの配信者の人の魔力……ボクの百分の一もない……?)
自分の異常なステータスを、改めて突きつけられた気がした。
もし世界が、ダンジョンが、この平穏な日常を脅かそうとするならば。お姉さんから受け継いだこの『魔法』の力で、ボクが――。
紫苑が拳を握りしめ、守るべき日常の象徴である菜央を見つめた、その時。
「あのね、紫苑くん」
菜央が意を決したように、膝の上のスクールバッグのファスナーをゆっくりと開けた。
「ボク、今日ね……紫苑くんに、どうしてもお願いがあって来たんだ」
カバンの中から覗いたのは、淡いピンク色のフリルが施されたブラウスと、目の粗いチェック柄のスカート。そして、ドラッグストアで買い集めたと思われる、真新しい化粧品の数々だった。
「これ……お洋服と、コスメ?」
「うん……。ボク、ずっと隠してたんだけど。本当は……紫苑くんみたいに、女の子になりたくて、仕方がなかったんだ」
菜央は顔を真っ赤にしながら、けれどまっすぐな瞳で紫苑を見つめ返した。
日常の境界線が、少しずつ、けれど確実に塗り替えられていく。
最強の力を手に入れた紫苑の部屋で、もう一つの『変身』の物語が、今まさに始まろうとしていた。
第3話
「ボク、ずっと隠してたんだけど。本当は……紫苑くんみたいに、女の子になりたくて、仕方がなかったんだ」
菜央ちゃんの口からこぼれ落ちた言葉は、静かなリビングの空気に、ひどく鮮明に溶けていった。
紫苑は目を丸くしたまま、菜央ちゃんの膝の上にあるスクールバッグに視線を落とす。そこには、まだパッケージも剥がされていないドラッグストアのプチプラコスメと、丁寧に畳まれた淡いピンクのブラウスが見えていた。
「女の子に、なりたい……?」
復唱すると、菜央ちゃんはきゅっと肩をすくめ、恥ずかしさに耐えるようにドレスの裾を握りしめた。その指先が、小さく震えている。
「うん……。変、だよね。男の子なのに、こんな、可愛いお洋服を着たいなんて……。でもね、ボク、自分の鏡を見るたびに、どうしても違和感があって。声も高いし、体つきも男の子っぽくなくて、学校でもたまにからかわれたりして。そんな時、紫苑くんがお姉さんのメイクをして、すごく綺麗に変身しているのを見て……ボク、胸が苦しくなるくらい、羨ましかったんだ」
菜央ちゃんの丸い瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
彼は15歳。紫苑より一つ年上で、普段は少し引っ込み思案な優しいお兄さんだ。だけど、今この瞬間、紫苑の前にいる菜央ちゃんは、守ってあげたくなるほど儚くて、健気な一人の『女の子』にしか見えなかった。
紫苑の胸の奥が、温かいもので満たされていく。
(変なんかじゃないよ、菜央ちゃん)
女装をすることで世界最強のステータスを手に入れた紫苑には、今の菜央ちゃんの心の痛みが、痛いほどによく分かった。自分を偽って生きる息苦しさ。そして、本当の自分を見つけてほしいという、切実な願い。
何より、紫苑にとって菜央ちゃんは、この世界で一番大切な友人だ。もし彼が傷ついているなら、その手を取って、全力で守ってあげたい。
「変なんかじゃないよ、絶対に」
紫苑はソファーから立ち上がり、菜央ちゃんの前で優しく膝をついた。白いフリルのワンピースが床に広がり、お姉さんの形見の甘い香水の香りがふわりと漂う。
紫苑は、菜央ちゃんの震える手を、そっと両手で包み込んだ。
「ボクね、お姉さんに教えてもらったんだ。『お化粧は、自分を特別にする魔法なんだよ』って。男の子だからダメなんて、そんなことお姉さんは一度も言わなかった。だから、菜央ちゃんが女の子になりたいなら、ボクがその魔法をかけてあげる」
「紫苑くん……」
「ボクにお任せ。菜央ちゃんを、世界で一番可愛い女の子にしてあげるからね!」
紫苑が満面の笑みで告げると、菜央ちゃんの瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。けれど、その表情はとても嬉しそうに、安心したように綻んでいた。
「うん……! ありがとう、紫苑くん……!」
菜央ちゃんは涙を拭うと、大切そうにカバンからお洋服と化粧品を取り出した。
その時、紫苑の視界の端で、またしても半透明のウインドウが静かに明滅した。
【固有異能:特別にする魔法の派生条件を確認】
【対象への『美の付与』の意志を検知しました】
【契約者の登録が可能です。登録しますか? YES / NO】
(え……? パートナー登録……?)
思わぬシステムメッセージに、紫苑は小さく息を呑んだ。
この『魔法』は、自分だけでなく、他人に施すことでも何らかの恩恵があるのだろうか。まだ詳細は分からない。けれど、紫苑の心はとうに決まっていた。
菜央ちゃんを傷つけるものすべてから、ボクがこの力で守る。そのための力なら、喜んで受け入れる。
紫苑は心の中で、迷わず『YES』を選択した。
ピコン、と優しい電子音が鳴り、ウインドウには【対象:永井菜央、仮登録完了。メイクの完成度に応じて能力が共有されます】という文字列が浮かび、消えた。
「じゃあ、まずは着替えようか。ボクの部屋の着替えスペースを使っていいからね」
「うん、分かった……! すぐ着替えてくるね」
菜央ちゃんはピンク色のブラウスとスカートを抱きしめ、少し気恥ずかしそうに、だけど足取りはとても軽く、部屋の仕切りの向こうへと消えていった。
衣服が擦れ合う微かな音を耳にしながら、紫苑はリビングの鏡台の前に戻り、メイク道具を並べ直した。お姉さんが使っていた一級品のブラシ、アイシャドウパレット、そしてファンデーション。
これからは、自分のためだけじゃない。大好きな菜央ちゃんを、最高に輝かせるための魔法の準備だ。
テレビの中では、依然として渋谷のダンジョンブレイクの予兆を告げるニュースが流れており、Sランク探索者の東郷陸翔や如月美鈴の出動が噂されていた。
世界の危機は、すぐそこに迫っているのかもしれない。
だけど、今の紫苑のセカイの中心は、この小さな部屋の中にあった。
「紫苑くん、お待たせ……。その、着替えてみたんだけど……どう、かな?」
仕切りの向こうから、照れくさそうに顔を出した菜央ちゃん。
まだノーメイクで、男の子の髪型のままだ。けれど、淡いピンクのブラウスに包まれた細い肩や、チェックのスカートから伸びる白い脚は、すでに驚くほど可憐だった。
「すっごく可愛いよ、菜央ちゃん! さあ、ここに座って」
紫苑は鏡台の前の椅子を叩いて、手招きした。
いよいよ、二人の男の娘による、秘密のメイクアップが始まろうとしていた。
第4話
「さあ、お化粧しましょう」
紫苑は優しく微笑み、鏡台の前の椅子に菜央を座らせた。
鏡の中に並んだ二人の姿は、どこからどう見ても、歳の近い可憐な美少女の二人組にしか見えない。白いフリルのワンピースをまとった紫苑と、淡いピンクのブラウスを着て緊張に身を硬くしている菜央。
「紫苑くん、なんだか、すごくドキドキする……。心臓の音が聞こえちゃいそうだよ」
「ふふ、大丈夫。リラックスして、ボクに全部身を任せてね」
紫苑は菜央の長い前髪を、パステルピンクのヘアクリップで丁寧に留めた。前髪が上がると、菜央の整った素顔が露わになる。大きな瞳、通った鼻筋、そして少し薄い唇。もともと中性的で可愛らしい顔立ちをしていたけれど、お化粧の魔法をかければ、その魅力は何倍、何十倍にも膨れ上がるはずだ。
まずはスキンケアから。紫苑はお姉さんの遺した上質な化粧水をコットンにたっぷりと含ませ、菜央の頬に優しくあてた。
「ひんやりして、気持ちいい……」
「お肌をしっかり保湿するのが、一番大切な基礎なんだよ。トントン、って優しく叩くように馴染ませてね」
紫苑の指先が、菜央の柔らかな肌に触れる。その指先の温もりに、菜央の長い睫毛が震えた。至近距離で見つめ合う形になり、菜央の頬が内側からじわりと熱を帯びていく。紫苑の真剣な瞳、お姉さん譲りのプロフェッショナルな手つき、そして部屋に漂う甘い香料の匂い。菜央は、胸の奥がキュンと締め付けられるような、気恥ずかしくも心地よい高揚感に包まれていた。
「次は、ベースメイク。菜央ちゃんのお肌はもともと綺麗だけど、男の子特有のわずかな色ムラを、このグリーンのコントロールカラーで消していくんだ」
紫苑は手際よくチューブからクリームを出し、菜央の額、両頬、鼻先、顎に少しずつ乗せていった。そして、パフを使って軽いリズムで叩き込んでいく。
トントン、トントン。
規則正しい、柔らかな感触。お姉さんが紫苑にかけてくれたあの優しい時間が、今度は紫苑の手を通して菜央へと受け継がれていく。
ベースメイクが仕上がるにつれて、菜央の肌は陶器のように滑らかで、透明感のある完璧な質感へと変わっていった。
「すごい……。これだけで、自分の肌じゃないみたい」
「まだまだ、これからが本番だよ。次は、お目目を大きく、印象的にしようね」
紫苑はアイシャドウパレットを開き、菜央のブラウスに合わせた淡いコーラルピンクの粉をブラシに取った。菜央の顔にそっと手を添え、親指で軽く瞼を押し上げる。
「目を閉じて、じっとしててね」
「うん……」
菜央が静かに目を閉じる。
紫苑は、菜央の少し荒くなった息遣いを感じながら、丁寧にブラシを滑らせた。グラデーションを作り、次に極細のアイライナーで目尻に少しだけラインを引く。これだけで、菜央の目の輪郭が引き締まり、守ってあげたくなるようなタレ目の愛らしさが強調された。
仕上げに、ピンクベージュのリップを取り出す。菜央の小さな唇に、ゆっくりと紅が乗せられていく。
(菜央ちゃん、本当に可愛いな……。ボク、絶対にこの笑顔を守らなきゃ)
紫苑がそんな強い気持ちを抱いた、その瞬間。
再び、紫苑の視界に鮮やかな半透明のシステムウインドウが割り込んできた。
【契約者:永井菜央へのメイクが進行中】
【メイク完成度:85%……90%……】
【共有スキル:『魔力同調』『魅了の盾』が解放されます】
【永井菜央のステータスに女装上昇補正が適用され始めています】
(え……っ!?)
紫苑は目を見開いた。
自分の身体の奥で渦巻く光の魔力が、目の前に座る菜央の身体へと、細い管を通るようにして流れ込んでいくのが分かった。菜央の華奢な肩が、かすかに白い光の粒子をまとってきらめいている。
「紫苑くん……? どうしたの? 急に顔が真っ直ぐになって……」
「あ、ううん! なんでもないよ。最後にお仕上げだね」
紫苑は動揺を隠し、菜央の頬にふんわりとピンクのチークを乗せた。これで、お化粧はすべて完成だ。
【メイク完成度:100%(極上)】
【パートナー登録が正式に完了しました。永井菜央の戦闘能力が一般人の数十倍に引き上げられます】
頭の中に響く無機質なアナウンス。
紫苑の手によって、ただ女の子になりたかっただけの親友が、自分に次ぐ規格外の力を秘めた『戦う美少女(♂)』へと変貌を遂げていた。
「さあ、できたよ、菜央ちゃん。鏡を見てみて」
紫苑が鏡台の角度を変えると、菜央は恐る恐る、自分の顔を鏡に映した。
第5話
「さあ、できたよ、菜央ちゃん。鏡を見てみて」
紫苑がそっと鏡台の角度を変えると、菜央は恐る恐る、自分の顔を鏡に映した。
次の瞬間、菜央の小さな唇から、言葉にならないかすかな吐息が漏れた。
大きな両手が、おめかししたばかりの頬にそっと添えられる。鏡の中にいたのは、淡いコーラルピンクの目元に、潤んだような薄紅色の唇、そして陶器のように滑らかな肌を持った、息を呑むほどに可憐な一人の美少女だった。
「これ……本当に、ボクなのかな……?」
菜央の丸い瞳から、きらりと一筋の涙がこぼれ落ちそうになる。紫苑は慌てて指先でそれを拭った。
「泣いちゃダメだよ、菜央ちゃん。せっかく綺麗にお化粧したんだから、滲んじゃう」
「うん……っ、ごめんなさい。でも、嬉しくて……。ボク、ずっとこういう女の子になりたかったんだ。鏡を見るのが、こんなにドキドキして、自分を好きになれそうなの、生まれて初めてだよ……!」
菜央は涙を堪えながら、満面の笑みを紫苑に向けた。
その笑顔は、内側から発光するような純粋な輝きに満ちていた。ピンクのブラウスの胸元で、小さなリボンが誇らしげに揺れている。
そんな菜央の姿を見つめながら、紫苑は胸の奥がぎゅっと熱くなるのを感じていた。
守りたい。この健気で、誰よりも可愛い親友の笑顔を、何があっても絶対に自分が守り抜いてみせる。男の子である紫苑が、もう一人の男の子である菜央に対して抱くには、あまりにも強烈で、優しすぎるほどの保護欲が、紫苑の心を支配していく。
しかし、紫苑が感動に浸っている間にも、彼の視界には淡い光を放つステータス画面が浮かび上がっていた。
【パートナー:永井菜央、覚醒完了】
【適合属性:風聖魔法】
【現在、魔力同調により外村紫苑のステータスの30%が共有されています】
(風の、聖魔法……?)
紫苑が心の中で呟くと同時に、菜央の身体を包む空気の質が変わったのが分かった。
部屋の中に、どこからともなく爽やかな、けれど圧倒的なエネルギーを秘めた微風がそよそよと吹き抜ける。菜央自身はまだその異変に気づいていないようだが、彼の華奢な身体には、並のAランク探索者を瞬時に一蹴できるほどの莫大な魔力と身体能力が、確かに宿り始めていた。
お姉さんが遺してくれたお化粧という魔法。それは紫苑を最強の聖女にするだけでなく、彼が認めた大切なパートナーをも、世界を揺るがす異能者へと引き上げる力を持っていたのだ。
「紫苑くん、見て見て! なんだかボク、すごく身体が軽くなった気がするよ。お洋服を着替えて、お化粧をしてもらっただけなのに、なんだか不思議な力が湧いてくるみたい……!」
菜央は椅子から立ち上がり、チェックのスカートをふわりと翻しながら、その場で小さく跳ねてみせた。その動きは羽毛のように軽やかで、一歩踏み出すごとに足元で透明な風の粒子が弾けている。
「それはね、菜央ちゃんが本当の自分を見つけて、心が特別になったからだよ。お姉さんも言ってたもん。お化粧は、自分を強くする魔法なんだって」
紫苑は優しく嘘をついた。まだ、ダンジョンやシステム、ステータス上昇の真実をすべて話して、菜央を怖がらせたくはなかった。今はただ、女の子になれた喜びだけを、純粋に噛み締めてほしかった。
「紫苑くんの言う通りだね。ボク、今ならどこへでも行けそうな気がする」
菜央は紫苑の一歩手前まで歩み寄ると、上目遣いでじっと紫苑の顔を見つめた。
メイクによって際立った菜央の大きな瞳には、紫苑への深い憧れと、熱い感情が揺らめいている。
(紫苑くん……本当に、お人形さんみたいに綺麗。男の子なのに、ボクのためにこんなに優しくしてくれて……)
菜央の心臓は、メイクを始める前よりもずっと激しく鐘を鳴らしていた。
至近距離で漂う、紫苑のワンピースから香る甘い匂い。自分を完璧な美少女に変えてくれた、紫苑の白くて温かい手の感触が、まだ肌に残っている。
もし、この『魔法』が解けないのなら。このまま紫苑と一緒に、誰も知らない遠いところへ行ってしまいたい――そんな、友人に対するものとは思えないほどの、熱烈な恋心が菜央の胸の中で急速に育ちつつあった。
「ねえ、紫苑くん」
菜央は恥ずかしさを隠すように、自分の両手を後ろで組み、少し体を揺らしながら言った。
「せっかく二人とも、こんなに素敵に変身できたんだもん。……このまま、女の子として、一緒にお出かけしない?」
「お出かけ? この格好のまま?」
「うん! 二人で可愛いカフェに行ったり、街を歩いたりしたいな。紫苑くんと一緒なら、ボク、何も怖くないよ」
無邪気に微笑む菜央の提案に、紫苑は一瞬、外のダンジョンの不穏なニュースを思い出した。けれど、鏡の中に映る自分たちの完璧な姿と、身体に満ち溢れる最強の力を確認し、力強く頷いた。
「そうだね、菜央ちゃん。よし、二人で秘密のデートに出かけよう!」
こうして、見た目は完璧な美少女二人組となった紫苑と菜央は、手をつないで、輝く日常の街へと一歩を踏み出すのだった。
第6話
「よし、二人で秘密のデートに出かけよう!」
紫苑がそう言って微笑むと、菜央の顔にパッと大輪の花が咲いたような笑顔が浮かんだ。
玄関の鏡でもう一度、お互いの身だしなみをチェックする。白いフリルのクラシカルなワンピースに身を包んだ紫苑と、淡いピンクのブラウスにチェックのスカートを合わせた菜央。どこからどう見ても、歳の近い仲良しの美少女二人組だ。
パチリと鍵を開け、二人は一歩、外の世界へと踏み出した。
初夏の爽やかな風が、二人のスカートの裾を軽やかに揺らす。一歩歩くたびに、紫苑の身体の奥では光の魔力が心地よく脈打ち、菜央の足元からは本人も気づかないほど微細な風の粒子が弾けていた。女装によるステータス上昇の恩恵は、外に出たことでさらに研ぎ澄まされていく感覚がある。
「なんだか、すごく不思議な気分……。いつも歩いている見慣れた道なのに、全然違う場所に思えちゃうな」
菜央は少し緊張した面持ちで、紫苑のすぐ隣を歩いていた。男の子の時よりも視線が少し低くなり、すれ違う通行人の視線がいつもと明らかに違うことに気づいたからだ。
「あ、あの二人、すごく可愛くない……?」
「モデルさんかな? すれ違ったとき、すごく良い匂いがした……」
通りすがりの女子高生や会社員の男性が、思わずといった様子で振り返る。菜央は顔を真っ赤にして、きゅっと紫苑のワンピースの袖を掴んだ。
「紫苑くん、みんなこっちを見ているよ……。ボク、男の子だってバレてないかな?」
「大丈夫だよ、菜央ちゃん。みんな、菜央ちゃんがあまりにも可愛いから見惚れてるだけ。胸を張って、ボクが隣にいるからね」
紫苑は優しく微笑み、袖を掴んでいた菜央の小さな手を、そっと自分の手で握りしめた。手袋越しでも伝わってくる、菜央の心地よい体温と小刻みな震え。紫苑の中で「この子を何があっても守るんだ」という男の子としての強い保護欲が、美少女の皮皮の内側でさらに膨れ上がっていく。
「うん……紫苑くんがそう言ってくれるなら、ボク、頑張れる」
菜央は嬉しそうに手を握り返し、一歩一歩、女の子らしい内股の歩調で紫苑に寄り添った。
二人が向かったのは、街の繁華街にある、パンケーキが有名なお洒落なアンティークカフェだった。店内は甘いトッピングの香りと、クラシック音楽が流れる落ち着いた空間だ。
「いらっしゃいませ。二名様ですね、こちらへどうぞ」
店員からもごく自然に女の子として扱われ、窓際の席へと案内される。メニューを開きながら、菜央の瞳がキラキラと輝き出した。
「わあ……! イチゴと生クリームがたくさんのったパンケーキ、すごく美味しそう。ボク、ずっとこれ食べてみたかったんだ」
「ふふ、じゃあそれにしよっか。ボクは紅茶と、ガトーショコラにしようかな」
注文を終え、ホッとしたのも束の間、紫苑はふと隣の席からの視線に気づいた。
そこには、カジュアルなパーカー姿で、山盛りのチョコレートパフェを幸せそうに頬張っている一人の女性がいた。ショートカットの髪に、どこか引き締まった体つき。彼女の胸元には、探索者ギルドの最高位を示す一歩手前、Bランクのバッジが光っている。
(あの人、探索者だ……。それに、すごく強い魔力を感じる)
紫苑の異能が、瞬時に相手の実力を測る。彼女の名前は笠木ゆみ。甘いものが大好きな実力派の探索者だった。
ゆみは紫苑と視線が合うと、パフェのスプーンを咥えたまま、人懐っこい笑顔でパタパタと手を振ってきた。
「ゴメンね、じろじろ見ちゃって! だって、二人ともすっごく可愛いんだもん。まるでお人形さんみたいで、お姉さん癒されちゃったなー」
「あ、ありがとうございます……!」
紫苑はお姉さんのような上品な仕草で会釈をし、菜央も顔を赤くしながらペコリと頭を下げた。
「今の若い子って、本当にお洒落だよねえ。よし、お姉さん、美味しいパフェを食べてエネルギー充填完了! 今日もダンジョン探索、頑張っちゃおっかな」
ゆみは残りのパフェを綺麗に平らげると、ウィンクをして席を立った。その背中を見送りながら、紫苑は改めて、この日常のすぐ隣に非日常であるダンジョンが存在していることを実感する。
「お待たせいたしました。イチゴのスペシャルパンケーキと、ガトーショコラです」
運ばれてきた甘いスイーツを前に、菜央は今日一番の笑みを浮かべた。
「紫苑くん、早く食べよう! はい、あーん……って、これ、女の子同士だと普通、だよね?」
少し照れくさそうに、イチゴを乗せたフォークを差し出してくる菜央。鏡の中の美少女二人が戯れるその光景は、カフェの空間をより一層華やかに彩っていた。紫苑は少し耳を赤くしながらも、「あーん」とそれを受け入れる。
秘密のデートは、あまりにも甘く、完璧な日常として流れていた。しかし、世界の歯車は、二人の預かり知らぬところで確実に狂い始めていたのだった。
第7話
「おいしい……。菜央ちゃん、これすっごく甘いね」
「本当? よかったぁ。紫苑くんにそう言ってもらえると、ボクが作ったわけじゃないのに嬉しくなっちゃうな」
フォークを引いて、菜央ちゃんははにかむように微笑んだ。
窓際から差し込む柔らかな初夏の光が、菜央ちゃんのメイクされた長い睫毛に反射して、きらきらと細かく輝いている。イチゴのソースを少しだけ唇の端につけたまま、幸せそうにパンケーキを頬張る姿は、完全にどこからどう見ても無垢な美少女そのものだった。
紫苑は自然と指先を伸ばし、菜央ちゃんの唇の端を優しく拭ってあげる。
「あ、ご、ごめんね……ボク、子供みたいで恥ずかしいな」
「ううん、可愛いよ。本当に、今の菜央ちゃんは誰よりも可愛い」
紫苑が本心からそう告げると、菜央ちゃんは小さく息を呑み、フォークを握ったまま耳の付け根まで真っ赤に染まってしまった。
俯き、チェックのスカートの裾をモゾモゾと弄る菜央ちゃんの胸の中は、今にも張り裂けそうなほどの鼓動で満たされていた。
(紫苑くんは、どうしてそんなに真っ直ぐボクを見てくれるんだろう。ボクが男の子だって知っているのに。お姉さんのお化粧で、ボクをこんなに特別にしてくれたのに……)
菜央ちゃんは、グラスの水に映る自分の顔を盗み見る。
そこには、今までの弱気で男らしくない自分はどこにもいなかった。紫苑が魔法をかけてくれた、完璧な美少女。
紫苑が男の子だろうと、女の子の姿をしていようと、そんなことはもう関係なかった。ただ、自分をこの暗い殻から連れ出してくれた外村紫苑という存在が、愛おしくて、愛おしくてたまらない。友人の境界線をとうに踏み越えた恋心が、菜央ちゃんの胸を締め付けていた。
一方、紫苑はガトーショコラにフォークを入れながら、街の様子にわずかな違和感を覚えていた。
(……なんだろう。さっきから、空気のピリピリした感じが収まらない)
女装ステータスの上昇補正は、単に身体を軽くするだけではない。五感が異常なほどに研ぎ澄まされ、街の地下から這い上がってくる「不純な魔力の波形」を、紫苑の肌は正確に感知していたのだ。
まるで、地盤沈下の前触れのように、大気に含まれる魔力が一方向へと急速に吸い込まれていくような感覚。
その時、カフェの喧騒を切り裂くように、遠くの交差点から激しいサイレンの音が響き渡った。
一台、また一台と、赤色灯を激しく点滅させた探索者ギルドの緊急車両が、猛スピードで通りを駆け抜けていく。カフェの店内にいた客たちが、何事かと一斉に窓の外へ視線を向けた。
「キャーッ! 何、これ、スマホの警報が消えないんだけど!?」
「おい、嘘だろ……渋谷の第4ダンジョンだけじゃなくて、このエリアの未登録ゲートも連動して励起してるって!」
店内のあちこちで、スマートフォンのエリアメールが不気味な警告音を奏で始める。
紫苑もポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見た。
画面には、赤背景の警告文字が躍っている。
【警告:管理番号外ダンジョンにおいて、高濃度の魔力暴発の兆候を検知。一般市民は速やかに最寄りの指定避難所へ退避してください】
「紫苑くん……これ、もしかして……」
菜央ちゃんの手が、カタカタと小さく震え出す。パンケーキの甘い香りが満ちていた空間は、一瞬にして冷ややかな恐怖の檻へと変わってしまった。
その頃、ここから数百メートルしか離れていない探索者ギルドの作戦本部では、案内嬢であり元Aランク探索者の七瀬あずみが、オペレーター席で鋭い視線をモニターに走らせていた。
「ギルド長! 第4ダンジョンの防壁が崩落、魔力の逆流波が商業地下街の旧坑道に流れ込んでいます! このままだと、地表に小規模なゲートが強制開門します!」
あずみの報告を受け、デスクに両肘を突いた探索者ギルド長、和泉康介が苦渋の表情で唸った。
「チッ、よりによってこんな人口密集地にか。現在、動かせる高ランク探索者は?」
「Sランクの東郷さんは別エリアの防衛に向かっています! 如月さんはこちらに向かっていますが、到着まで最短でも15分はかかります! 周辺のAランクパーティー、蒼輪の盟約と緋天の行軍に至急、現場への急行を要請しました!」
「15分だと……? 民間人の避難が間に合わんぞ!」
康介が机を叩く。
街の地下深くで、どす黒い魔力の渦が、不気味にその口を開けようとしていた。
そして、その恐怖の直上にいるのは、お互いの手を握りしめ、身を寄せ合う紫苑と菜央の二人だった。
第8話
「みんな、落ち着いて避難して! 慌てないで、非常口はあっちだよ!」
カフェの店員が声を張り上げるが、鳴り響き続ける緊急警報の不気味な電子音が、人々の理性をじわじわと削り取っていく。
席を立ち、出口へと殺到する客たちの波。ガシャーンと皿が割れる音が響き、店内は一瞬にして混沌の渦に巻き込まれた。
「紫苑くん……っ!」
菜央ちゃんが怯えた声で、紫苑の白いワンピースの袖をきゅっと強く掴んだ。せっかくお化粧をした可憐な顔が、恐怖で青ざめていく。
「大丈夫だよ、菜央ちゃん。ボクがついてるからね」
紫苑は優しく、けれど絶対に解けないほど強い力で菜央ちゃんの小さな手を握りしめた。
手袋越しに伝わる親友の震えが、紫苑の胸の奥にある男の子としての本能を激しく突き動かす。何があっても、どんな怪物が現れようとも、この子だけは傷つけさせない。
二人が店外へ出ると、商業施設の広場はすでにパニックの真ん中にあった。
行き交う人々が叫び声を上げて走り惑う中、紫苑の五感は、一般人には決して感知できない「世界の異変」を明確に捉えていた。
(……来る。すぐそこ、地下の通路から……!)
女装によるステータス上昇補正が、紫苑の脳内に警報を鳴らす。
突如、広場の中央にある地下街への階段から、ひび割れたガラスのような不気味な黒い光の粒子が噴き出した。アスファルトが激しく振動し、ドスン、ドスンと、不快な地鳴りが足元から響いてくる。
「いやあああ! 何か出てくる、下に何かいる!」
避難しようとしていた人々が、階段から這い上がってきた「それ」を見て、いっせいに蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
地表に無理やりこじ開けられた不完全なゲート。そこから姿を現したのは、どす黒い外殻に覆われた、巨大な蜘蛛のような形をした中型魔物、ダスク・スパイダーの群れだった。本来ならダンジョンの深層に潜むはずの魔物が、不気味な複数の複眼を赤く光らせながら、地上の光の中に這い出してくる。
シャーーーッ!
不快な駆動音のような鳴き声を上げ、先頭の魔物が、逃げ遅れて転倒した一人の女性に向かって鋭い鎌のような前脚を振り上げた。周囲には武器を持った探索者の姿はない。一般の警備員が腰を抜かしてへたり込んでいる。
「危ないっ……!」
菜央ちゃんが思わず悲鳴を上げて目を背けた。
救助が到着するまで、あと十数分。けれど、目の前の命が刈り取られるまでは、あと数秒もない。
(動け、ボクの身体……!)
紫苑の心臓が激しく跳ねる。
お姉さんから教わったお化粧は、自分を特別にする魔法。そして今、ステータス画面は、紫苑が人類最高峰の力を手に入れていることを厳然と示していた。
恐怖はない。あるのは、大切な日常を、そして隣で怯える菜央ちゃんを守りたいという純粋な意志だけ。
「菜央ちゃん、あの柱の陰に隠れてて。絶対に動いちゃダメだよ」
「え……? 紫苑くん、何を――」
菜央ちゃんが言葉を濁す前に、紫苑はその手を優しく離した。
白いフリルのワンピースを初夏の風に揺らしながら、外村紫苑は迷うことなく、化け物の群れが蠢く戦場の中心へと向かって駆け出した。
第9話
「紫苑くん、何を――行っちゃダメだよ!」
背後から聞こえる菜央ちゃんの悲痛な叫び声が、広場の喧騒に掻き消されていく。
紫苑は振り返らなかった。ただ一瞬、心の中で謝る。
ごめんね、菜央ちゃん。でも、ボクにはこれしかできないんだ。
逃げ遅れた女性の頭上に、ダスク・スパイダーの凶悪な前脚が迫る。鋭い鎌のような先端が、彼女の命を刈り取ろうと振り下ろされた。周囲の誰もが絶望し、悲鳴を上げることすら忘れたその瞬間。
白いフリルが、戦場に鮮烈に舞った。
「させない……っ!」
紫苑は地を蹴った。
その瞬間、身体の奥底から爆発的な熱量が全身の細胞へと行き渡る。女装ステータス上昇補正――それは、並の探索者が一生をかけても到達できない、神域の身体能力。
ドパンッ、と空気を切り裂く爆音が響き、紫苑の身体は一瞬で女性の前へと滑り込んでいた。
「え……?」
女性が涙に濡れた目を見開く。彼女の視界に飛び込んできたのは、およそ戦場には似つかわしくない、クラシカルな白ワンピースをまとった可憐な美少女の背中だった。
紫苑は手袋に包まれた右手を迷わず突き出した。心の中で、視界の端にまたたくスキル名を強く念じる。
(魔力障壁……!)
キン、と澄んだ美しい音が響き渡り、紫苑の前に幾何学模様を描く半透明の光の盾が展開された。
直後、ダスク・スパイダーの巨大な鎌が障壁へと激突する。凄まじい衝撃波が周囲のアスファルトを爆裂させたが、紫苑の展開した光の盾は、微塵も揺らぐことはなかった。
シャッ……!?
魔物が複数の複眼を怪しく明滅させ、信じられないといった様子で身を引く。
「大丈夫ですか? 今のうちに、早く走って!」
紫苑はお姉さんのような凛とした声で背後の女性に告げた。女性は何度も頷きながら、腰を抜かしつつも必死の思いで広場の外へと這いずり逃げていく。
それを見届け、紫苑はゆっくりと立ち上がった。
鏡の前で施した完璧なメイク。ローズピンクのリップが乗った唇を引き締め、コーラルピンクのアイシャドウで彩られた瞳が、群がる魔物たちを真っ直ぐに見据える。
(お姉さん……見てて。お姉さんが教えてくれた魔法で、ボク、大切な人を守るよ)
その時、物陰から必死に紫苑の姿を追っていた菜央ちゃんは、あまりの衝撃に息をすることさえ忘れていた。
「紫苑……くん……?」
そこに立っているのは、間違いなく先ほどまで一緒にパンケーキを食べていた、大好きな親友だ。けれど、今の紫苑から放たれる圧倒的な存在感と、周囲の空気を白く染め上げるほどの神聖な魔力は、まるでおとぎ話に出てくる伝説の聖女そのものだった。
戦うために変身した、世界で一番美しくて強い、僕のヒーロー。
菜央ちゃんの胸の奥で、紫苑への憧れと恋心が、抑えきれないほど激しく燃え上がっていく。
シャーーーッ!
仲間を阻まれたダスク・スパイダーの群れが、一斉に不快な音を立てて紫苑へと狙いを定めた。地下からさらに数匹が這い上がり、合計で十匹近い化け物が、一人の美少女を包囲する。
しかし、紫苑の心はどこまでも静徹だった。
指先を少し動かすだけで、大気中の魔力が歌うように自分の意志に同調していく。
「さあ……お片付けの時間だよ」
紫苑は静かに両手を広げ、光聖魔法の力を完全に解放した。
第10話
シャーーーッ!
十匹近いダスク・スパイダーが一斉に地を蹴り、四方八方から紫苑を目がけて殺到した。鉄をも断ち切る鋭い前脚の鎌が、白いフリルのワンピースを切り裂こうと、無数に降り注ぐ。
しかし、紫苑の視界の中では、その凶悪な突撃さえもが、まるでスローモーションの映像のように緩やかに映っていた。
(お姉さんのステップは……こうだよ)
紫苑は床の上で、かつてお姉さんがダンスを教えてくれたときのような、軽やかなステップを踏んだ。
フリルが円を描いてふわりと広がる。その優美な動きとは裏腹に、女装ステータス補正によって極限まで高められた敏捷性は、魔物たちの攻撃を紙一重ですべて置き去りにした。
空を切り、アスファルトを虚しく削り取る魔物の鎌。
その刃の隙間を、白い妖精のようにすり抜けた紫苑は、着地の瞬間に右手を天へと掲げた。
(閃光刃……!)
紫苑の細い指先から、眩いばかりの純白の光の刃が伸び上がる。それは魔力によって編まれた、実体のない光の剣だった。
紫苑がその腕を横一文字に一閃すると、空間に綺麗な光の軌跡が描かれた。
ズバァンッ!
神聖な光の刃は、ダスク・スパイダーの強固な外殻をまるでバターのように容易く一刀両断した。前線にいた三匹が、悲鳴を上げる間もなく光の粒子へと還り、消滅していく。
「すごい……本当に、聖女様みたいだ……」
広場の隅の太い柱の陰で、菜央ちゃんは胸の前できゅっと両手を握りしめ、ただただ圧倒されていた。
戦場を舞う紫苑の姿は、恐ろしいはずなのに、どこまでも美しかった。風に揺れる髪、真剣に標的を見据える凛とした横顔。お化粧によって際立ったその美貌が、激しい戦いの中でさらに輝きを増していく。
菜央ちゃんの心臓は、恐怖ではなく、紫苑への狂おしいほどの憧れと愛しさで破裂しそうだった。男の子であるはずの紫苑が、今は誰よりも気高く、強くて美しい少女として世界を救おうとしている。その姿が、菜央ちゃんの魂を激しく揺さぶっていた。
一方、その激闘の様子を、少し離れた歩道橋の上から見つめるスマートフォンがあった。
「ちょっとみんな……嘘でしょ!? カメラ見て、これ信じられる!?」
配信探索者である松浦かなは、避難勧告を無視してスマートフォンのカメラを広場に向けていた。バズるチャンスを逃さない彼女の執念が、偶然にもこの奇跡の光景を捉えていたのだ。
ライブ配信の画面には、白いワンピースを着た謎の美少女が、圧倒的な光の魔法で魔物を蹂躙する姿がリアルタイムで映し出されている。
『え、何これ!? CGじゃないよね!?』
『マジで聖女じゃん! 新人のSランク探索者か!?』
『服がフリフリで超可愛いのに強すぎるwww』
コメント欄が恐ろしいスピードで流れ、閲覧者数は一瞬で数万人へと跳ね上がっていく。かな自身も、レンズの向こうで繰り広げられる次元の違う戦闘に、興奮で声を震わせていた。
「異能の登録データにないよぉ……! ギルドの隠し玉!? ねえみんな、この可愛すぎる光の聖女様、一体何者なの――っ!?」
かなの絶叫が響く中、地下のゲートからドスンとさらに大きな地鳴りが轟いた。
ダスク・スパイダーの残党が、一斉に群れをなして紫苑を取り囲む。さらに、ゲートの奥から、先ほどとは比べ物にならないほど禍々しい魔力のプレッシャーが溢れ出ようとしていた。
「まだまだ来るんだね……」
紫苑は額に浮かんだわずかな汗を、手袋の背でそっと拭った。
メイクはまだ崩れていない。お姉さんの魔法は、まだ解けていない。紫苑は再び光の刃を構え、群がる化け物たちの中へと自ら飛び込んでいった。
第11話
キィィィン、と激しい金属音が広場に響き渡る。
紫苑が放った閃光刃と、ダスク・スパイダーの凶悪な鎌が正面から激突していた。女装補正による圧倒的な筋力のおかげで、華奢な美少女の体躯でありながら、巨大な魔物を力任せに押し返す。
しかし、地下の亀裂からは、まるで黒い泥が湧き出すように次々と新しい魔物が這い上がってきていた。
(きりがない……! ボクの魔力は大丈夫だけど、このままだと広場全体が囲まれちゃう……!)
紫苑はフリルの裾を翻してバックステップを踏み、間合いを取る。さすがに十数匹もの中型魔物に同時に狙われると、守りに回る時間が増えていく。完璧に施したはずのベースメイクが、激しい運動による熱気でわずかに火照り始めていた。
物陰からその光景を見つめる菜央ちゃんは、胸が張り裂けそうなほどに拳を握りしめていた。紫苑を助けたい。でも、自分はただの一般人の男の子で、何の力もない。その無力さが、菜央ちゃんの心を痛烈に締め付ける。
その時だった。
「おいおい、ギルドの緊急要請を受けて来てみりゃ……なんだ、このお嬢ちゃんは!?」
広場の入り口から、地鳴りのような太い声が響いた。
直後、凄まじい風切り音とともに、一本の巨大なトマホークが空中を回転しながら飛来する。肉厚な刃は、紫苑の背後に迫っていたダスク・スパイダーの脳天を正確に叩き割り、一撃で消滅させた。
「直哉、のんびりしてる暇はねえぞ! お嬢ちゃん、怪我はねえか!」
「岩永さん、助かります……! みんな、突撃だ!」
駆けつけたのは、探索者ギルドからの緊急召集に応じたAランクパーティー『蒼輪の盟約』の面々だった。
リーダーの剣士、朝霧直哉が鋭い剣閃で魔物を引き裂き、トマホークを回収した重戦士の岩永剛毅が、その巨体を生かして前線を押し上げていく。さらに、後方からは水属性魔法使いの篠宮雫音が、細い杖を掲げて魔物の足元を氷の鎖で縫い留めた。
「え、あ、ありがとうございます……!」
紫苑はお姉さんのような上品な仕草を崩さないまま、少し高めの声で頭を下げた。
「礼なんていいさ。それにしても……君、どこのパーティーの子だい? その格好でこの強さ、ただ者じゃないね」
朝霧直哉は、紫苑の白いフリルワンピースと、息を呑むほど完成された美少女ぶりに一瞬だけ目を奪われながらも、気さくな笑みを浮かべて剣を構え直した。まさか目の前にいる可憐な少女が、14歳の男の子だとは夢にも思っていない。
「私は……ただの一般人、です。でも、放っておけなくて」
「一般人!? 冗談だろ、その魔力量で……。まあいい、詮索は後だ。直哉、奥からさらにデカいのが来るぞ!」
斥候の葉山一真が、地下のゲートを指差して叫ぶ。
その言葉通り、不完全な開門を果たしたゲートの奥から、これまでの蜘蛛とは明らかに一線を画す、禍々しいオーラをまとった巨大な影が姿を現そうとしていた。
「久遠寺、後方の警戒を頼む! お嬢ちゃん、俺たちのサポートに回ってくれ!」
「はい、分かりました!」
紫苑は力強く頷いた。
実力派のAランク探索者たちの参戦により、戦況は一気に動き出す。しかし、紫苑の身体の奥にある異能のシステムは、これから現れる『本尊』の危険度を、冷徹な数値として弾き出していた。
第12話
ズズズ……と、アスファルトが内側から持ち上がるような不気味な地鳴りが広場に響き渡った。
地下街への階段が激しく崩落し、その瓦礫を押し退けて姿を現したのは、ダスク・スパイダーたちの長とも言える上位種、ダスク・ウィーバーだった。家一軒分ほどもある巨大な漆黒の身体、血のように真っ赤に濡れた八つの複眼。その全身から放たれるどす黒い魔力のプレッシャーは、これまでの魔物とは次元が違っていた。
「チッ、ただの小規模ブレイクじゃねえな……! 完全に中ボス級だぞ!」
蒼輪の盟約のリーダー、朝霧直哉が剣を強く握り直し、額に冷や汗をにじませる。
重戦士の岩永剛毅がトマホークを構えて前に出るが、ダスク・ウィーバーが激しい咆哮とともに放った漆黒の衝撃波により、前線が大きく押し戻された。
「くっ……なんて魔力量だ……!」
後方で水属性の魔法を展開しようとしていた篠宮雫音も、その圧力に一瞬詠唱を遮られてしまう。さらに、中ボスの出現に呼応するように、周囲のダスク・スパイダーたちが一斉に狂暴化し、探索者たちへ襲いかかった。
「きゃあああっ!」
悲鳴が上がった。蒼輪の盟約の回復術師、久遠寺澄花が、背後から迫った魔物の不意打ちを受けて倒れ込む。彼女をかばおうとした岩永の足元にも、蜘蛛の糸が絡みつき、動きを封じられてしまった。一気に押し込まれるAランクのプロ探索者たち。
(みんながやられちゃう……! ボクが、ボクがもっと強くならなきゃ!)
紫苑は激しく高鳴る胸を白い手袋の手で押さえた。
身体の奥の魔力が、焦燥感とともに乱れそうになる。完璧に施したはずのベースメイクが、冷や汗と熱気で崩れそうになるのを感じた。もし今、お化粧が崩れてしまったら、お姉さんの魔法が解けて、この最強の力が消えてしまうかもしれない。
その時、紫苑の脳裏に、鏡の前でいつも優しく微笑んでいたお姉さんの声が蘇った。
『紫苑、お化粧はね、ピンチの時ほど背筋を伸ばして、綺麗にしていなきゃダメ。自分を特別にする魔法は、誰かを、大切な人を守るためにあるんだから』
(そうだった……。ボクは、お姉さんの魔法を信じる。ボクが綺麗でいる限り、ボクは絶対に負けない!)
紫苑は深く息を吸い込み、ふっと乱れかけた心を静徹な凪へと戻した。
鏡の中の自分を思い描く。凛とした瞳、引き締まった唇、崩れない完璧な美。自分を美少女であると完全に強く自認したその瞬間、紫苑の身体の奥で、眠っていた本当の『聖女の力』が限界を突破して爆発した。
ピコン。
【外村紫苑の美の自認を検知:限界突破】
【光聖魔法の出力が最大化されます】
「な、なんだこの魔力は……!?」
朝霧直哉が驚愕の声を上げて振り返る。
広場の中央、白いフリルのワンピースをまとった美少女の足元から、まるで噴水のように眩い純白の光の柱が立ち昇っていた。その圧倒的な神聖さに、狂暴化していた蜘蛛たちが一瞬で威圧され、動きを止める。
紫苑の髪が光の風に煽られて美しく舞い上がる。その横顔は、もはや神話の時代から抜け出してきた本物の聖女そのものだった。
「傷ついた人たちに……癒やしの光を!」
紫苑が両手を優しく差し伸べると、足元の光の柱が数条の暖かな光の帯となって走り、負傷した久遠寺澄花や、動きを封じられていた岩永剛毅を包み込んだ。澄花の傷が一瞬で塞がり、岩永の足元を縛っていた呪いの糸が、光に触れただけで綺麗に霧散していく。
「嘘……私の最高位の回復魔法より、ずっと温かくて、一瞬で……!」
澄花が目を丸くして自分の身体を見つめる。
紫苑から放たれる規格外の光は、戦場全体の絶望を文字通り一瞬で塗り替えていく。
「お待たせしました。ボクが、あのでっかい化け物を止めます!」
お姉さんのような凛とした、けれどどこか可憐な声を響かせ、紫苑は光の風を纏いながら、巨大なダスク・ウィーバーの正面へと真っ直ぐに突き進んだ。
第13話
「シャアァァァァッ!」
最大級の警戒対象と認識したのか、巨大なダスク・ウィーバーが八つの複眼を血のように激しく明滅させた。家一軒分はある巨体を震わせ、その太い前脚から、凝縮された漆黒の魔力弾を容赦なく撃ち出してくる。
空気を腐食させながら迫る闇の塊。避けるにはあまりにも巨大な面攻撃だった。
「お嬢ちゃん、危ねえっ!」
岩永剛毅が叫ぶが、紫苑の心は鏡の水面のように静まり返っていた。
(お姉さんの魔法は、闇になんか負けない)
紫苑は怯むことなく真っ直ぐに突き進み、白い手袋の手を前方へとかざした。
「魔力障壁・全開!」
パァン、とガラスの鈴を鳴らしたような美しい音が響き渡る。紫苑の前に展開されたのは、先ほどとは比較にならないほど巨大で、精緻な幾何学模様を描く純白の光の盾だった。
ズドォォォンッ!
漆黒の魔力弾が障壁に激突し、激しい爆風と黒煙が広場を包み込む。朝霧直哉たちが思わず腕で顔を覆うほどの衝撃。しかし、煙が晴れた中心で、紫苑の白いフリルワンピースはチリ一つ汚れていなかった。完璧な美を維持したまま、光の盾は魔物の全力の攻撃を完璧に無効化してみせたのだ。
「嘘だろ……あのクラスの攻撃を、呪詛の侵食すら受けずに防ぎやがった……!」
直哉が驚愕に目を見開く。
魔物が次の行動に移るより早く、紫苑は地を蹴った。女装ステータス補正の敏捷性が、光の尾を引くような速度となって紫苑の身体を中空へと押し上げる。
空中へと舞い上がった紫苑の姿に、初夏の太陽の光が重なる。
丁寧に引いたアイライン、濡れたように輝くコーラルピンクの目元、そして真っ直ぐに標的を捉える強い意志。その姿は、配信探索者の松浦かなが構えるスマートフォンの向こうの、何万人もの視聴者の網膜に、決して消えない衝撃として焼き付けられていた。
『マジの、マジで本物の聖女様だ……!』
『美しすぎて息ができない……!』
コメント欄の熱狂を余所に、紫苑は両手を胸の前で合わせ、全ての魔力を指先に集中させた。お姉さんから教わった、自分を特別にする魔法。そのすべてを、一撃に込める。
「これで、おしまいです……! 閃光刃、最大出力!」
紫苑の放った言葉とともに、彼の両手から、天を突くほどの巨大な純白の光の剣が生成された。それは広場全体を昼間よりも眩しく照らし出し、ダスク・ウィーバーの纏うどす黒いオーラをまたたく間に霧散させていく。
「はあああぁぁぁっ!」
可憐な叫び声とともに、紫苑は空中から光の巨剣を真っ直ぐに振り下ろした。
眩い閃光が世界を白く染め上げる。
ズバァァァァァンッ!!
激しい爆音とともに、ダスク・ウィーバーの巨大な身体が頭頂部から真っ二つに叩き割られた。魔物は悲鳴を上げることすら許されず、その巨体を無数の光の粒子へと変え、大気の中へと溶けるように消滅していった。
静寂が、広場に戻ってくる。
残っていたダスク・スパイダーの残党たちも、主を失ったことでゲートの奥へと這うようにして逃げ帰り、開いていた不完全な亀裂は、光の余韻に押されるようにして完全に閉じ去った。
「勝った……のか?」
朝霧直哉が呆然と呟き、蒼輪の盟約のメンバーたちも武器を下げてへたり込む。
未曾有のダンジョンブレイクの予兆は、突如現れた一人の『美少女』によって、完全に、そして完璧に阻止されたのだった。
パチパチ、と遠くの避難所の陰から、小さな拍手の音が聞こえ始める。それが次第に歓声へと変わり、広場全体へと広がっていこうとしていた。
「あ、あの! お嬢ちゃん! 君の名前は――」
岩永が声をかけようと一歩踏み出した瞬間、紫苑はハッと我に返った。
五感が告げている。このままここにいれば、大騒ぎになり、自分の正体がバレてしまう。何より、あの配信者のカメラがこちらを狙っている。
(大変、早く菜央ちゃんのところに戻らなきゃ……!)
紫苑はプロの探索者たちに深々と一礼すると、フリルの裾を翻し、驚異的な速度で広場の裏路地へと駆け出した。
「あっ、待ち姉ちゃん!?」
岩永の制止の声も虚しく、白い妖精のような姿は、あっという間に人混みの向こうへと消えていく。
紫苑が真っ向から向かったのは、最初に見立てた太い柱の陰だった。そこには、恐怖と、それ以上の熱い興奮で胸を震わせ、両手をきゅっと握りしめたままの菜央ちゃんが待っていた。
「菜央ちゃん、無事!? 怪我はない!?」
紫苑が駆け寄り、その小さな手を再び握りしめる。
「紫苑くん……!」
菜央ちゃんの丸い瞳には、溢れんばかりの涙と、そして言葉にできないほどの熱烈な光が宿っていた。二人は混乱が広がる広場を背に、誰にも見つからないよう、しっかりと手を繋いだままその場を脱出するのだった。
第14話
「はぁ、はぁ……ここまで来れば、きっと大丈夫だよね」
紫苑は菜央の手を引いたまま、繁華街から数本外れた静かな裏路地へと滑り込んだ。
白いフリルのワンピースをパタパタと手で仰ぎながら、冷や汗を拭う。幸いなことに、お姉さんの遺してくれた化粧品は非常に優秀で、これだけ激しく動いたというのにメイクは微塵も崩れていなかった。鏡の中の可憐な美少女のまま、紫苑は小さく胸をなでおろす。
「すごかった……すごかったよ、紫苑くん……!」
隣で同じように肩を揺らしていた菜央が、感極まったような声を上げた。お化粧によって際立たされた大きな瞳が、潤みを帯びながら紫苑を真っ直ぐに見つめている。
「ボク、本当にびっくりしちゃった。紫苑くんが本物の聖女様みたいに光って、あの大きな化け物を一瞬でやっつけちゃうんだもん。まるでおとぎ話のヒーローを見てるみたいだった……!」
「ふふ、ありがとう、菜央ちゃん。でも、ボクも必死だったんだよ。菜央ちゃんに怪我がなくて、本当によかった」
紫苑が優しく微笑むと、菜央は嬉しそうに、けれどどこか気恥ずかしそうに頬を赤らめて俯いた。
しかし、二人が安堵の息を漏らしていたその瞬間も、外の世界では文字通りの大嵐が巻き起こっていた。
ピコン、ピコン、ピコン。
二人のスマートフォンが、ほとんど同時に狂ったような通知音を鳴らし始める。
何事かと紫苑が画面を開くと、SNSのアプリを開くまでもなく、ニュースの速報ポップアップが画面を埋め尽くしていた。
【速報:渋谷エリアの未登録ゲートに『謎の白衣の聖女』が出現。中ボス級魔物を一撃で完全消滅】
【ネット騒然! 配信者・松浦かなの生放送に映り込んだ謎の美少女探索者、瞬く間に世界トレンド1位へ】
「え……っ!?」
紫苑は思わず声を裏返した。
慌ててリンクをタップすると、そこには先ほど配信探索者の松浦かなが撮影していた動画が、無数のアカウントによって拡散されているページが表示された。
画面の中で、白いフリルワンピースを美しく翻し、純白の光の巨剣を掲げてダスク・ウィーバーを一刀両断する自分の姿が、恐ろしいほどの高画質で再生されている。
『この子マジで何者!? ギルドの隠し玉?』
『服がロリータっぽくて超可愛いのに、やってることがSランク最上位クラスなんだがww』
『名もなき聖女様、美しすぎて完全に一目惚れした』
コメント欄は毎秒数千件のスピードで加速し、閲覧者数はすでにミリオンを突破していた。
その頃、探索者ギルド本部の作戦室では、重苦しい沈黙が流れていた。
大画面モニターに映し出された紫苑の戦闘映像を、腕を組んだギルド長・和泉康介が険しい目で見つめている。
「あずみ。この少女の魔力波形、過去の登録データと照合はできたか?」
オペレーター席の七瀬あずみが、キーボードを叩きながら首を振った。
「いえ、ダメです。国内はおろか、海外の探索者データベースにも該当する固有魔力はありません。完全に未登録の、野生の異能者です。ですが……この光聖魔法の出力は、控えめに言ってもAランク上位、いえ、現存するSランクの聖女たちに匹敵します」
「おいおい、そんなお宝がこの街に隠れてたってのか?」
部屋の壁に背を預けていたSランク探索者、東郷陸翔が、鋭い眼光の奥に興味深い色を浮かべて不敵に笑った。
「こんなに可愛いお嬢さんが、一人で中ボスを片付けちゃうなんてね。プロのメンツ丸潰れじゃん。ねえ、美鈴はどう思う?」
「フン、生意気な小娘ね」
同じくSランクの如月美鈴が、長い髪を指先で弄りながら高飛車に鼻を鳴らす。
「衣装に凝る暇があるなら、さっさとギルドに登録しなさいっての。まあ、私の氷結魔法の方が綺麗だけど……少しだけ、興味はあるわね」
ギルドの重鎮たちが色めき立つ中、当の本人は裏路地で頭を抱えていた。
「どうしよう、菜央ちゃん……ボク、すごくバズっちゃってるみたい……」
「大、大丈夫だよ、紫苑くん! お化粧してるし、お洋服もいつもと違うから、学校の友達や先生には絶対にバレないよ」
菜央は紫苑の震える手をきゅっと握りしめ、必死に励ました。
「それにね……ボク、世界中の人が紫苑くんを褒めてるの、なんだか自分のことみたいに誇らしいな。だって、紫苑くんはボクだけの……ううん、ボクの、一番大切な人だから」
菜央の言葉に、紫苑はハッとして隣を見た。
夕暮れの光が裏路地に差し込み、菜央のメイクされた横顔をオレンジ色に染め上げていく。その瞳に宿る熱い光に、紫苑の胸がドクンと不規則な鼓動を刻んだ。
「……ありがと、菜央ちゃん。うん、まずは急いでボクの家に帰ろう。あそこなら、一番安全だから」
二人は周囲の目を盗むようにして、夕闇が迫る街を、互いの手を離さないまま自宅へと急ぐのだった。
第15話
「ただいま……っ」
パチリ、と内鍵が閉まる頼りない音が、静まり返った外村家の玄関に響き渡った。
靴を脱ぎ、リビングの重い扉を開けて中に入った瞬間、二人はどちらからともなく、その場にへたり込んでしまった。
フローリングの冷たさが、白いタイツを透かして伝わってくる。
「はぁ……はぁ……、帰って、これたね、紫苑くん……」
菜央ちゃんは大きめのスクールバッグを床に落とし、胸元を押さえながら激しく肩を上下させていた。淡いピンクのブラウスの襟元が、走ったときのアシストの風でわずかに乱れている。
「うん……。何とか、誰にも見つからずに済んだみたい」
紫苑もまた、フリルの袖で額に浮いた冷や汗をそっと拭った。
女装によるステータス上昇補正のおかげで肉体的な疲労はほとんどないはずなのに、精神的な緊張感が、細い身体をずっしりと重くさせていた。
リビングのテレビは、消されたままだ。
けれど、ポケットの中で何度も微振動を繰り返すスマートフォンが、外の世界で今なお自分たちの話題が沸騰していることを嫌でも伝えてくる。
現代ダンジョンの脅威をたった一人で退けた、謎の光の美少女。その正体が、今この部屋の床に座り込んでいる14歳の男の子だなんて、世界中の誰も想像すらしていないだろう。
緊迫した戦場から、いつもの見慣れた静寂の部屋へ。
あまりにも急激な日常と非日常の往復に、二人の間にしばらく、かすかな呼吸の音だけが流れた。
窓の外からは、遠くを走るパトカーやギルドの緊急車両のサイレンが、かすかに、けれど途切れることなく聞こえてくる。街の混乱はまだ続いているのだ。
けれど、この四角い部屋の中だけは、外の世界から完全に切り離された、二人だけの安全な聖域だった。
「紫苑くん……ちょっと、お洋服直させてね」
菜央ちゃんが、少し震える声で呟きながら、膝立ちのまま紫苑の方へと擦り寄ってきた。
女の子の座り方のまま近づいてくる菜央ちゃんの顔は、走った熱のせいか、それとも別の理由からか、メイクのチークよりもずっと赤く染まっている。
「あ、うん……。ボク、どこか乱れてる?」
「うん。背中のリボンが、戦ったときに少し解けちゃいそうになってる。じっとしてて?」
菜央ちゃんの細い指先が、紫苑の白いワンピースの背中に触れた。
手袋を外した菜央ちゃんの指先は、少しだけ冷たくて、けれど触れられた場所からドクドクと熱が広がっていくような錯覚を覚える。
(菜央ちゃん……)
至近距離から、菜央ちゃんの髪から漂うプチプラのシャンプーの匂いと、お化粧の甘い香料の匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐる。
紫苑は、菜央ちゃんが怪我をしていないか、もう一度確かめるようにじっとその姿を見つめた。
メイクによって綺麗に整えられた、長い睫毛。
いつもは弱気な親友の男の子なのに、今のその瞳は、何か大きな決意を秘めているかのように真っ直ぐで、深く、潤んでいた。
「……できたよ。これで大丈夫」
リボンを結び終えた菜央ちゃんだったが、その手を紫苑の背中から離そうとはしなかった。
それどころか、結んだリボンの上から、紫苑の華奢な背中にそっと手のひらを添え、さらに距離を縮めてくる。
二人の距離は、互いの吐息が唇に触れ合いそうなほどに近かった。
「菜央、ちゃん……?」
「紫苑くんの心臓、すごくドキドキしてる……。ボクの、聞こえちゃうかな」
菜央ちゃんの声は、いつもよりずっと低く、けれどどこか熱を帯びて鼓動を打っていた。
恐怖の興奮はすでに冷めている。なのに、部屋の空気は、戦場にいたときよりも遥かに濃密で、息ができないほどに張り詰めていた。
第16話
カーテンの隙間から差し込む夕暮れの光が、リビングの床に長いオレンジ色の影を落としていた。
部屋の中を包む空気は、どこまでも静かで、どこまでも濃密だった。
菜央ちゃんは紫苑の背中にそっと手を添えたまま、じっと自分の膝の上のスカートを見つめていた。淡いピンクのブラウスの胸元が、彼の不規則な呼吸に合わせて小さく上下している。
(ボク……今、どんな顔をしてるんだろう)
菜央ちゃんは、少し離れた場所にある鏡台へ視線を向けた。
そこには、夕日の光を浴びて、切ないほどに潤んだ瞳をした一人の美少女が映っていた。紫苑がその白くて温かい手で、丁寧に魔法をかけてくれた、完璧な自分の姿。
今日という一日は、菜央ちゃんにとって人生のすべてがひっくり返るような大事件の連続だった。
ずっと憧れていた女の子の姿になれたこと。大好きな紫苑くんと一緒に街を歩けたこと。そして、ダンジョンの化け物が現れたとき、紫苑くんが自分を守るために、世界で一番強くて美しい聖女様になって戦ってくれたこと。
恐怖が去った今、菜央ちゃんの胸の奥に残っているのは、ただ一つだけの純粋で、狂おしいほどの感情だった。
(紫苑くんは、あんなに強くて、あんなに綺麗で……。ボクを一般人の女の子みたいに、ずっと守ってくれた)
紫苑くんの手の温もり、戦場で前を走っていたときの凛々しい背中、そして今、目の前で自分を心配そうに見つめてくれている、ローズピンクの唇。
男の子とか、女の子とか、もうそういう境界線はどうでもよかった。
自分をこの暗い殻から連れ出してくれた外村紫苑という男の子を、自分を世界で一番特別にしてくれたこの美少女(♂)を、心の底から愛している。その想いが、メイクを施した胸の奥で、マグマのように熱く脈打っていた。
「紫苑くん……」
菜央ちゃんはぽつりと、掠れた声で名前を呼んだ。
「お出かけ、すごく楽しかった。化け物が出てきたときは本当に怖かったけど……紫苑くんが助けてくれたから、ボク、どこも痛くないよ」
「うん、本当によかった……。菜央ちゃんに何かあったら、ボク、お姉さんに顔向けできないところだったよ」
紫苑はほっとしたように眉を下げ、いつもの優しい幼馴染の笑顔を見せた。白いフリルのワンピースの袖から伸びる手袋の手が、菜央ちゃんの乱れた前髪を優しく整えようとする。
その優しさに触れるたび、菜央ちゃんの胸は締め付けられるように愛しさで満たされていく。
ただの「ありがとう」じゃ足りない。
命を救ってくれたお礼も、自分を女の子にしてくれたお礼も、普通の言葉なんかじゃ、この胸の熱さを半分も伝えられない。
菜央ちゃんはきゅっと唇を噛み締め、背中に添えていた手に力を込めた。自分のすべてをかけた、本当の気持ちを伝えるための準備を、心の鏡台の前で整えていく。
「あのね、紫苑くん。ボク、ちゃんとお礼が言いたいんだ」
オレンジ色の夕闇が、静かに部屋の隅々まで溶け込んでいく。
菜央ちゃんの大きな瞳に、決意の光がじわりと灯った。
第17話
「あのね、紫苑くん。ボク、ちゃんとお礼が言いたいんだ」
菜央ちゃんの掠れた声が、夕暮れのリビングに静かに響いた。
窓の外から差し込むオレンジ色の光は、もうほとんど赤に近い濃さを帯びている。その光に照らされた菜央ちゃんの顔は、恥ずかしさからなのか、それとも胸に秘めた熱い感情のせいなのか、夕日よりも赤く染まっていた。
紫苑は菜央ちゃんの髪に伸ばしかけていた手を、空中で止める。
いつもなら、優しく笑って「気にしないで」と言うところだった。けれど、目の前の親友から放たれるただならぬ空気感に、紫苑の言葉は喉の奥で止まってしまう。
じわり、と部屋の空気が張り詰めていく。
女装補正によって研ぎ澄まされた紫苑の五感は、今の菜央ちゃんの全身から、言葉にならない切実な『波形』が発せられているのを敏感に察知していた。それは戦場で感じた魔物の殺気とは正反対の、けれど同じくらい強烈に心を揺さぶる、純粋で濃密な感情のうねりだった。
「菜央ちゃん……?」
紫苑が小さく首を傾げたその瞬間。
すっ、と菜央ちゃんの白くて細い両手が伸びてきて、紫苑の右手を包み込んだ。
メイクをしたとき、紫苑がはめてあげた白い手袋。その上から重ねられた菜央ちゃんの手は、小刻みに、けれど拒絶を許さないほど強い力で震えていた。
「紫苑くんの言う通りだったね。お化粧は……自分を特別にする魔法なんだって、ボク、今日やっと分かったよ」
菜央ちゃんはきゅっと紫苑の手を握りしめ、上目遣いに紫苑の瞳を真っ直ぐに見つめた。
丁寧に引かれたアイラインに縁取られたその大きな瞳には、夕日の光が反射して、まるで小さな宝石のようにキラキラと潤んだ光を湛えている。
「このお洋服を着て、紫苑くんにお化粧をしてもらった時、ボク、本当に魔法にかかったみたいに嬉しかったの。ずっと鏡を見るのが嫌いだったボクが、初めて、自分のことを可愛いって思えたんだよ?」
「……うん。菜央ちゃん、本当に可愛かったよ」
「ううん、それだけじゃないんだ」
菜央ちゃんは一歩、床を這うようにして紫苑との距離を詰めた。
淡いピンクのブラウスのフリルが、紫苑の白いワンピースの裾と擦れ合い、カサリと微かな音を立てる。至近距離から、ドラッグストアで選んだ甘いイチゴのようなコスメの香りが、お姉さんの遺した気品ある香水の匂いと混ざり合って、紫苑の鼻腔を真っ直ぐに突き刺した。
「化け物が目の前に現れて、世界がめちゃくちゃになりそうだった時、ボクは怖くて動けなかった。でもね、紫苑くんがボクの前に立って、真っ白な光で戦ってくれた時……ボク、怖いだけじゃなかったんだ。胸の奥が、すごく熱くなって、苦しくなって……」
菜央ちゃんの息遣いが、少しずつ荒くなっていく。
握られた紫苑の手のひらに、菜央ちゃんの手の熱がじんわりと染み込んできた。手袋という境界線すら、その熱量の前には無意味に思えるほどだった。
「紫苑くんは、男の子なのに……ううん、男の子のボクのために、あんなに綺麗で強い女の子になって守ってくれた。その姿が、ボクの頭からどうしても離れないんだよ」
「菜央ちゃん、ボクはただ、大切な友達を守りたくて――」
「友達、なのかな……?」
菜央ちゃんがぽつりと呟いた言葉に、紫苑は息を呑んだ。
友達。そのありふれた言葉の枠には、もう到底収まりきらないほどの感情が、菜央ちゃんの大きな瞳の中で、波紋のように激しく揺れ動いていた。
二人の距離は、もう数センチメートルもなかった。互いのローズピンクの唇から漏れる熱い吐息が、お互いの肌を優しく撫でる。
いつも隣にいたはずの幼馴染の境界線が、夕闇の境界線とともに、ゆっくりと、けれど確実に溶け始めていた。
第18話
「友達、なのかな……?」
菜央ちゃんが呟いたその言葉は、夕闇に沈みゆく部屋の中に、ひどく重く、甘く、響き渡った。
紫苑は何も言えずに、ただ菜央ちゃんの瞳を見つめることしかできなかった。女装によるステータス上昇の異能は、今の菜央ちゃんの身体の奥からあふれ出る、狂おしいほどの感情の波形を冷徹なほどに捉えている。
身体の芯が痺れるような、圧倒的な熱量。
それは、戦場で命を懸けて発動した光聖魔法の光よりも、ずっと濃く、深く、紫苑の心を縛りつけていた。
「ねえ、紫苑くん。ボクね、ずっと怖かったんだ」
菜央ちゃんは紫苑の手を握ったまま、ぽつり、ぽつりと、胸の奥底に隠していた澱を吐き出すように語り始めた。
「声が高くて、男の子っぽくなくて、みんなにからかわれて……。自分が男の子だっていうことが、時々、すごく息苦しくなってた。でも、紫苑くんがお姉さんのお化粧をして、信じられないくらい綺麗に変身しているのを見た時、ボクのセカイが変わったんだよ」
菜央ちゃんの大きな瞳から、きらりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
せっかく丁寧に仕上げたベースメイクの上を、一筋の光の線が伝っていく。紫苑はそれを拭ってあげたいと思ったけれど、握られた手が強すぎて、動くことができなかった。
「紫苑くんは、男の子のボクのままでも優しくしてくれた。そして今日、ボクをこんなに可愛い女の子に変身させてくれた。それだけじゃない……あんな化け物たちの前に真っ先に飛び出して、世界で一番かっこいい美少女になって、ボクを守ってくれたんだよ?」
菜央ちゃんはぐっと顔を近づけた。
お互いの鼻先が触れ合いそうなほどの距離。イチゴのような甘いコスメの香りと、お姉さんの遺した上品な香水の匂いが完全に混ざり合い、紫苑の脳を甘直に揺さぶる。
「その時ね、分かっちゃったんだ。ボクの胸がこんなに苦しいのは、ただの憧れなんかじゃないって。ボク……紫苑くんのことが、大好きなんだ」
「菜央、ちゃん……」
「友達としてじゃないよ。ボクが男の子のままでも、女の子の姿をしていても関係ない。紫苑くんが男の子でも、世界を救う聖女様でも、ボクは……紫苑くんという存在のすべてを、愛しちゃったんだよ」
それは、歪みのない、純粋で、あまりにも強烈な恋心の吐露だった。
女の子になりたくて仕方がない可愛い男の子が、完璧な美少女の皮をまとったまま、自分を特別にしてくれたもう一人の男の娘へ捧げる、命がけの告白。
夕日は完全に地平線の向こうへと沈み、部屋の中には薄暗い藍色の闇が広がり始めていた。
けれど、菜央ちゃんの瞳だけは、まるで夜空にまたたく星のように、熱く、潤んだ光を放ちながら紫苑を真っ直ぐに射抜いていた。
第19話
薄暗い藍色の闇が落とし込まれたリビングで、紫苑の思考は完全に停止していた。
手のひらから伝わってくる、菜央ちゃんの熱。
夕闇の中でもはっきりと分かるほど、潤んだ瞳で自分を見つめる、完璧な美少女の姿。
「ボクは……紫苑くんという存在のすべてを、愛しちゃったんだよ」
菜央ちゃんの告白が、鼓膜の奥で何度もリフレインする。
それは、これまで過ごしてきた「男の子同士の幼馴染」という平穏な日常の終わりを告げる、あまりにも決定的な一言だった。
(菜央ちゃんが……ボクを……?)
胸の奥が、これまでに感じたことのない妙な熱さでジンと痺れていく。
お姉さんのお化粧で綺麗にしてあげた、守るべき親友。男の子としての保護欲。それらがすべて、菜央ちゃんの真っ直ぐな恋心の重圧によって、形を変えていくような感覚。
女装ステータスの上昇補正が、紫苑の心臓の鼓動をドクン、ドクンと、部屋中に響き渡りそうなほどの音量で脳内に伝えてくる。
その時、沈黙を破るように、二人の間に微かな電子音が響いた。
【魔力同調率が上昇しています:現在35%】
【パートナー:永井菜央の好感度上昇により、固有属性『風聖魔法』が一部アクティブ化されました】
頭の中に直接響くシステムメッセージ。
それと同時に、部屋の空気がフワリと浮き上がった。エアコンも窓も閉め切っているはずなのに、菜央ちゃんの身体を中心に、優しく、けれどどこか熱を帯びた微風が、渦を巻くように吹き始めたのだ。
「あっ……」
菜央ちゃんが小さく声を漏らす。
風に煽られて、二人のスカートの裾がカサカサと音を立てて重なり合う。菜央ちゃん自身、自分の感情の高ぶりが魔力を動かしていることに気づいていないのだろう。ただ、その風はあまりにも温かく、紫苑の身体を包み込んで離そうとしなかった。
「紫苑くん……困らせちゃって、ごめんなさい。でも、言わないと、ボク、胸が張り裂けそうだったから……」
菜央ちゃんはきゅっと目を閉じ、繋いだ手にさらに力を込めた。せっかくのメイクが涙で少し滲んでしまっている。
その弱々しくも、自分への愛に溢れた姿を見た瞬間、紫苑の胸の奥のドギマギとした感情は、一つの確固たる想いへと収束していった。
男の子だから、とか、女の子の格好をしているから、とか、そんなことは今の自分たちには些細な問題でしかなかった。
「……ううん。困ってなんか、ないよ」
紫苑は、握られていた右手を優しく返し、今度は自分から菜央ちゃんの小さな手をしっかりと握り返した。
「ボクもね、菜央ちゃん。今日、菜央ちゃんをお化粧して、女の子の姿にしたとき……世界で一番可愛いって、本気で思ったんだ。それに、化け物の前で菜央ちゃんが怯えているのを見たとき、自分の命に代えても守るって決めた。その気持ちはね……ただの友達に対するものじゃ、なかったかもしれない」
「紫苑、くん……?」
菜央ちゃんが驚いたように目を見開き、濡れた睫毛を揺らす。
「ボクたちの魔法は、まだ始まったばかりだよ。だから……この魔法が解けるまで、ううん、解けた後もずっと、ボクの隣にいてほしい」
紫苑が真っ直ぐに告げると、菜央ちゃんの瞳から、今度は嬉し涙がぽろぽろと溢れ出した。
部屋の中に満ちていた優しい風が、二人の祝福を歌うように、さらに心地よく吹き抜けていく。
二人はどちらからともなく身を寄せ合い、薄暗い部屋の中で、お互いの温もりを確かめ合うように深く抱きしめ合うのだった。日常がどれだけ壊れようとも、世界がどれだけ自分たちを注目しようとも、この絆だけは絶対に離さないと誓いながら。
第20話
カサリ、と重なり合ったワンピースのフリルが、静かな部屋に小さな音を立てる。
薄暗いリビングの真ん中で、紫苑と菜央ちゃんは、お互いの肩に顔を埋めるようにして強く抱きしめ合っていた。
女装補正のステータスがもたらす、繊細すぎるほどの五感。抱きしめた菜央ちゃんの身体は驚くほど華奢で、けれどその胸の奥からは、トクトクと早鐘を打つような愛おしい鼓動がダイレクトに伝わってくる。
「紫苑くん……ボク、本当に、夢を見てるみたい……」
紫苑の肩口で、菜央ちゃんが鼻声を漏らしながら呟いた。
涙で少し濡れたブラウスの生地が、紫苑の鎖骨のあたりに心地よい冷たさを与える。けれど、菜央ちゃんの身体そのものは、まるで熱を帯びた果実のようにぽかぽかと温かい。
「夢じゃないよ、菜央ちゃん。ボクも、今すごく心臓が痛いくらい鳴ってるもん」
紫苑は優しく微笑み、菜央ちゃんの細い背中に回した手に、もう少しだけ力を込めた。
部屋を優しく満たしていた『風聖魔法』の微風が、二人の想いが通じ合ったことを祝福するように、ゆっくりと凪いでいく。大気の中に溶け込んだ魔力は、いつまでも二人の周囲を温かく守るように揺らめいていた。
世界がどれだけ自分たちの戦いに驚愕し、ネットがどれだけ『謎の聖女』の正体を探そうと躍起になっていようと、今この瞬間、この六畳間の聖域にいるのは、お互いを見つけただけの、恋する二人の美少女(♂)だった。
しばらくそうして、お互いの体温と香りを確かめ合うように抱き合っていたが、ふと、紫苑の視線がリビングの大きな鏡台へと向いた。
「あ……菜央ちゃん、ちょっと見て」
「え……?」
紫苑に促され、菜央ちゃんはゆっくりと身体を離し、涙を溜めた目のまま鏡の方を振り返った。
薄暗い藍色の闇の中、窓から差し込む街灯の淡い光に照らされて、鏡の中には二人の可憐な少女の姿が映し出されていた。
お姉さん直伝のクラシカルな白ワンピースを着た紫苑。そして、ピンクのブラウスにチェックのスカートを合わせた菜央ちゃん。
二人とも、激しい戦いと、何より今の情熱的な告白のせいで、お化粧のチーク以上に両頬を林檎のように真っ赤に染めている。菜央ちゃんの目元は涙で少しだけ滲んでいたけれど、その表情は、今日出会ったどの瞬間よりも、息を呑むほどに美しく輝いていた。
「ボクたち……本当に、女の子みたいだね」
菜央ちゃんが、自分の映る姿を見て、照れくさそうに、けれど本当に幸せそうに唇を綻ばせた。
「みたい、じゃないよ。今、この魔法がかかっている間は、菜央ちゃんは世界で一番可愛い女の子だよ」
紫苑はそっと手を伸ばし、菜央ちゃんの頬に伝う涙の跡を、白い手袋の指先で優しく、愛おしそうに拭ってあげた。
「うん……! ありがとう、紫苑くん」
菜央ちゃんはもう一度、今度は満面の、大輪の向日葵のような笑顔を咲かせた。
日常は変わってしまった。ダンジョンという非日常の脅威はすぐ隣にあり、自分たちはその中心に巻き込まれてしまった。
けれど、この最強の『魔法』と、お互いを想い合う不滅の絆がある限り、どんな未来が訪れても恐れることはない。
完璧な美少女の姿をした二人の少年は、静かに訪れた夜の闇の中で、しっかりと手を繋ぎ直した。新世代の聖女と、その隣に寄り添う風の乙女。二人の秘密の恋と、世界を揺るがす戦いの日々は、ここから鮮烈に幕を開けるのだった。
第21話
カーテンを閉め切ったリビングに、ようやくいつも通りの静けさが戻ってきた。
二人は手を繋いだまま、どちらからともなく床に座り込み、お互いの顔を見合わせて小さく吹き出した。
「ふふ、ボクたち、なんだかすごいことになっちゃったね」
菜央ちゃんが、涙の滲んだ目を細めてはにかむ。夕闇のなかでも、その笑顔は信じられないほど可憐で、紫苑の胸を優しく締め付けた。
「本当にね。でも……菜央ちゃんが笑ってくれてよかった」
紫苑がそう言うと、菜央ちゃんは嬉しそうに、けれど少しだけ寂しそうに自分のチェックのスカートの裾を指先で弄った。
「ねえ、紫苑くん。このお化粧を落としたら……ボクたち、また普通の男の子に戻っちゃうんだよね?」
その言葉に、紫苑は一瞬、胸がちくりと痛んだ。
確かにお姉さんの遺した化粧品がもたらす『魔法』は、クレンジングで洗い流してしまえば消えてしまう。ステータス上昇も、世界を震撼させた光聖魔法も、すべては元の14歳の少年の姿へと戻る。
けれど、紫苑は首を横に振った。
「ううん、戻らないよ。形としての魔法は解けるかもしれないけれど、今日、菜央ちゃんがボクを好きになってくれたことや、ボクが菜央ちゃんを守りたいって思った気持ちは、お化粧を落としたって絶対に消えたりしない。それに……」
紫苑は菜央ちゃんの小さな手を、今度は少し茶目っ気たっぷりに握り直した。
「ボクがいつでも、菜央ちゃんを世界一可愛い女の子に変身させてあげるから。だから、何も心配しなくていいんだよ」
「紫苑くん……」
菜央ちゃんの瞳に、今度は嬉しさでいっぱいの光が灯る。風聖魔法のなごりか、部屋の空気がもう一度だけ、ふわりと二人の髪を揺らした。
その時、ローテーブルの上で裏返しのまま放置されていた紫苑のスマートフォンが、再び激しく震え出した。画面には【着信:お姉ちゃん】の文字が明滅している。
「あ、お姉さんからだ……!」
紫苑は慌ててスマートフォンを手に取り、通話ボタンを押した。
「も、もしもし、お姉さん!?」
『あ、紫苑? 無事だった!? 今ニュース見て心臓止まるかと思ったんだけど!』
スピーカーから響いてきたのは、いつもの余裕たっぷりな調子を完全に失った、取り乱したお姉さんの声だった。
『あの渋谷のゲートに出た白いフリフリの聖女様、どう見ても私のクローゼットにあったワンピースよね!? というか、あの完璧なベースメイクとハイライトの入れ方、私が教えた技術そのものじゃない!』
「う、嘘……そこですぐバレちゃうの!?」
紫苑は思わず顔を引きつらせた。ネットの何万人もの目が欺けても、メイクの師匠であるお姉さんの目は誤魔化せなかったらしい。
『当たり前でしょ、自分の可愛い弟の顔を見間違うわけないじゃない! ……でも、信じられないわ。まさか私の教えたお化粧で、あんな規格外の異能に目覚めちゃうなんて。とにかく、今すぐ私もそっちに向かうから、菜央ちゃんも一緒に待ってて!』
「えっ、あ、ちょっと、お姉さん――」
ツーツー、と無情にも通話は切れてしまった。
「紫苑くん、お姉さん、なんて……?」
菜央ちゃんが不安そうに首を傾げる。
「あはは……お姉さん、ボクの正体に気づいちゃったみたい。今からこっちに来るって」
紫苑が苦笑いしながらスマートフォンを置くと、菜央ちゃんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに「そっか」と小さく笑った。お姉さんが来てくれるなら、これからのギルドへの対応や、バズってしまったネットへの対策も、少しは心強い。
「じゃあ、お姉さんが来る前に、少しだけお顔を直しておこうか。お互い、泣き顔のままだと、お姉さんにからかわれちゃうもんね」
「うん、そうだね!」
二人は立ち上がり、リビングの鏡台の前へと並んで座った。
鏡の中の二人の美少女は、お互いに視線を合わせて、今日一番の穏やかな笑顔を浮かべていた。
魔法が解けるまでの、あと少しの時間。
外村紫苑と永井菜央の、新米聖女コンビとしての本当の戦いと、誰にも言えない秘密の恋路は、嵐のあとの静かな夜の中で、ゆっくりと、けれど確かに育まれていくのだった。
第22話
「二人とも、お待たせ! 無事だったのね!?」
リビングの扉が勢いよく開き、息を切らせたお姉さんが飛び込んできた。
いつもはお洒落で完璧な大人の女性である彼女が、髪を少し乱し、肩を激しく上下させている。その必死な様子から、どれほど生きた心地がしなかったかが痛いほど伝わってきた。
「お、お姉さん、急に帰ってくるからびっくりしたよ……」
「びっくりしたのは私の方よ! ニュースの映像を見た瞬間、心臓が跳ね上がるかと思ったんだから!」
お姉さんはバッグをソファーに放り出すと、鏡台の前に並んで座っていた紫苑と菜央ちゃんの元へすたすたと歩み寄り、二人の肩をがっしりと掴んだ。
そして、至近距離からじっくりと二人の顔を覗き込む。
「……うん、ベースメイクのよれも最小限だし、アイラインの引き方も合格。それに菜央ちゃん、ピンクのアイシャドウがすごく似合ってるじゃない。泣いちゃったみたいだけど、それすら守ってあげたくなる儚さを演出できていて、控えめに言って最高の発色ね」
「え、あ……ありがとうございます、お姉さん……」
菜央ちゃんは突然のプロの評価に、頬をぽっと赤くしてペコリと頭を下げた。
「って、感心してる場合じゃないわ!」
お姉さんは自分で自分にツッコミを入れると、一転して真面目な、探索者としての鋭い表情に切り替わった。
「紫苑、菜央ちゃん。あなたたちが今日起こした奇跡は、もう個人の範疇を超えて世界中に拡散されちゃってる。特にギルドの動きが早いわ。『蒼輪の盟約』の直哉たちから詳細なレポートが上がったみたいだし、何よりSランク探索者たちが『謎の聖女』の身元特定に動き出してるの」
その言葉に、紫苑と菜央ちゃんは顔を見合わせ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
ついに、プロの探索者たちの世界、そして国を挙げた異能の渦に、本格的に巻き込まれようとしているのだ。
「でも、安心しなさい。私の可愛い弟と、その可愛いお嫁さん候補を、そう簡単にギルドのむさ苦しいオッサンたちに引き渡すわけないでしょ?」
お姉さんは不敵な笑みを浮かべ、人差し指をチッチッと左右に振った。
「お嫁さん……っ!?」
菜央ちゃんが「お嫁さん」というワードに過剰に反応し、顔を真っ赤にして両手で顔を覆ってしまう。
「お姉さん、からかわないでよ! それより、これからボクたちはどうすればいいの? お化粧を落としたら、ただの一般人に戻るんだよね?」
紫苑の問いかけに、お姉さんは少しだけ目を細め、静かに首を横に振った。
「いいえ。異能の覚醒を一度でも果たした身体は、その感覚を忘れないわ。お化粧を落とせばステータスは元に戻るけれど、あなたたちの魂には、もうしっかりと『聖女の座』が刻み込まれちゃったのよ。だから……」
お姉さんは鏡台の上に、きらきらと輝く新しいコスメパレットをトン、と置いた。
「これからは、あなたたちの意志で『変身』をコントロールできるようにならなきゃダメ。自分たちの日常を守るために、もっと完璧な魔法を身につけるのよ」
薄暗い部屋のなかで、新しいコスメたちが街灯の光を反射して怪しく、そして美しく輝いていた。
日常を守るための、非日常のレッスン。
外村紫苑と永井菜央の、最強で最かわな男の娘聖女コンビとしての本格的な修行の日々が、お姉さんという最強のプロデューサーを迎えて、今ここに幕を開けようとしていた。
第23話
「これからは、自分の意志で『変身』をコントロールできるようにならなきゃダメ」
お姉さんの力強い言葉が、静まり返ったリビングに心地よく響いた。
ローテーブルの上に置かれた最新のコスメパレットは、まるでこれから始まる二人の運命を象徴するように、街灯の光を受けてきらきらと輝いている。
「コントロールって……具体的にどうすればいいの? お姉さん」
紫苑が小首を傾げると、お姉さんは自慢げに胸を張った。
「まずは『オンとオフの切り替え』よ。今のあなたたちは、お化粧をした瞬間に強制的にステータスが跳ね上がって、感情が高ぶると魔力が暴走しかけちゃう状態。それじゃ、普通の街歩きもまともにできないでしょ? 必要な時に、必要な分だけ『聖女』の力を引き出すの」
お姉さんは菜央ちゃんの前にしゃがみ込み、その手袋を外した小さな手を優しく包み込んだ。
「菜央ちゃん。さっき、紫苑を想って『風の魔法』が発動したって言ったわね? それはあなたの魂が、紫苑の魔力と同調した証拠。つまりね、菜央ちゃんもお化粧によって、紫苑をサポートする『聖女の守護者』としての異能に目覚めつつあるのよ」
「ボ、ボクが……紫苑くんの守護者……」
菜央ちゃんは自分の手のひらを見つめ、じわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
ただ守られるだけの存在じゃない。大好きな紫苑くんの隣に立ち、その背中を支える力が、自分にも宿り始めている。その事実が、菜央ちゃんに小さな、けれど確かな勇気を与えていた。
「よし、善は急げよ! クレンジングで一度お肌をリセットしたら、さっそく基礎からレッスン開始! 今夜は徹底的に付き合うわよ!」
お姉さんの号令に、二人は「はい!」と力強く頷いた。
ーーその頃、夜の帳が降りた渋谷の街。
昼間のダンジョンブレイクの興奮が冷めやらぬ異能取締局の支部では、一枚の不鮮明なスクリーショットが、プロジェクターによって大画面に映し出されていた。
「これが出現した『謎の聖女』の拡大画像です」
報告を行うエージェントの声が、張り詰めた会議室に響く。
画面に映っているのは、光の巨剣を掲げ、風に白いフリルワンピースを翻す紫苑の姿。その顔立ちは、最新の画像解析をもってしても、施された完璧なハイライトとシェーディング、そして光聖魔法の残光によって、絶妙に輪郭がボヤけて特定できないようになっていた。
「これほどの能力者が、ギルドの登録にも、我が局の監視ネットワークにも引っかかっていないとは……」
局長と呼ばれる初老の男が、苦々しく眉間を揉む。
「Sランクの如月美鈴や東郷陸翔も、独自にこの少女をスカウトしようと動いているようです。もし彼女がテロ組織や未登録の犯罪クランに囲い込まれでもしたら、戦力バランスが崩壊しかねん。何としても、ギルドより先に身元を割り出し、我が局の保護下に置くんだ」
「了解しました。周辺の防犯カメラ、および当日のSNSの投稿位置から、足取りを徹底的に追跡します」
動き出す国家機関、そして欲を剥き出しにするプロの探索者たち。
世界が自分たちを捕らえようと網を広げ始めていることなど、14歳の少年たちはまだ知る由もない。
「ほら紫苑! ブラシの持ち方が甘い! 魔法を込めるなら、指先まで神経を行き渡らせなさい!」
「う、うん……っ! こう?」
「あぅ……紫苑くん、ファンデーションが冷たくて、ちょっとくすぐったいよ……っ」
外村家のリビングでは、お姉さんの愛の鞭が飛び交うなか、二人の美少女(♂)が顔を寄せ合い、必死に自分たちの「魔法」を磨き続けていた。
第24話
「ん……ちょっと、動かないでね、菜央ちゃん」
深夜の一時を回った外村家のリビング。紫苑は鏡台の前で、菜央ちゃんのすぐ目の前に腰を下ろしていた。
二人の距離は、お互いの睫毛の長さが数えられるほどに近い。紫苑の白い手袋の指先が、菜央ちゃんのふっくらとした唇にそっと触れ、紅いリップを丁寧に馴染ませていく。
「ふぇ……う、うん……」
菜央ちゃんは緊張で身体をカチコチに硬くしながら、上目遣いで紫苑を見つめていた。
お姉さんのスパルタ指導のもとで始まった、魔力コントロールのためのメイクレッスン。ただ綺麗に化粧をするだけでなく、異能の波形を意識しながら、肌の一点一点に魔力を均等に「置いていく」という、気の遠くなるような作業だ。
「よし、これでリップは完璧。……じゃあ、いくよ?」
紫苑がふっと息を整え、お姉さんに教わった通り、指先からごく微量の魔力を菜苑ちゃんの唇へと流し込んだ。
ピコン。
【外村紫苑の魔力操作:『加護の付与』を検知】
【パートナー:永井菜央の『風聖魔法』が微弱に活性化します】
その瞬間、菜央ちゃんの唇がほんのりと淡い桜色の光を放ち、部屋の中にストロベリーの甘い香りをはらんだ、心地よい微風がサーッと吹き抜けた。
「あ……! 凄いですお姉さん、魔力が暴走しないで、ちゃんとボクの意思に合わせて風が動いてます……!」
菜央ちゃんが嬉しそうに声を弾ませる。昼間の、あの周囲を圧倒するような狂暴な突風ではない。今の風は、まるで菜央ちゃんの優しい心をそのまま形にしたような、穏やかで温かい守護の風だった。
「上出来よ、二人とも!」
ソファーで足を組んで点数を付けていたお姉さんが、満足そうにパチパチと拍手を送った。
「お化粧の厚みや色によって、引き出すステータスや魔力の質を変化させる。それが、私の編み出した『コスメティック・エンチャント』の基礎よ。紫苑が光で道を切り開き、菜央ちゃんが風でそれを支える。これならギルドの連中に見つかっても、戦闘の余波で街を壊さずに済むわね」
お姉さんはそこまで言うと、ふう、と少し真面目な顔になってスマートフォンの画面を二人に向けた。
「……とはいえ、のんびり練習している時間も、そう長くはなさそうだけどね」
画面に映し出されていたのは、探索者ギルドの公式掲示板のスクリーンショットだった。
【緊急告知:渋谷エリアのゲート周辺にて、魔力残渣の異常値を観測。二次ブレイク(連続発生)の危険性あり。近隣のAランク以上の探索者は警戒に当たられたし】
「二次ブレイク……? 昼間の蜘蛛の化け物は、もう全滅したはずなのに……」
紫苑が不安そうに眉をひそめる。
「不完全なゲートが無理に閉じられた反動よ。地球側の空間が不安定になって、より強力な『門番』が引きずり出されようとしているのね。おそらく、明日の夜あたりが山場よ。ギルドも総力戦で構えるでしょうけど……」
お姉さんは紫苑の白いフリルワンピースと、菜央ちゃんのブラウス姿を交互に見つめ、いたずらっぽく、けれど最高に頼もしい笑みを浮かべた。
「国のエージェントや、お高くとまったSランク探索者たちに正体がバレたら面倒なことになるわ。だから……明日はギルドの鼻を明かして、誰よりも完璧に、スマートに事件を解決しちゃうわよ。最強の『聖女コンビ』の初陣よ!」
「はいっ……!」
紫苑と菜央ちゃんは、お互いに顔を見合わせ、強く、深く、頷き合った。
鏡の中に映る二人の美少女の瞳には、大切な人を、そして自分たちの日常を守り抜くという、確固たる決意の光が美しく宿っていた。
第25話
翌日の夜。渋谷の街は、昼間の喧騒が嘘のように異様な静寂に包まれていた。
不完全なゲートが無理に閉じられた反動――『二次ブレイク』の予測時刻が刻一刻と近づき、半径数百メートル一帯には完全な立ち入り禁止区域に指定され、厳重な結界が張られている。
「……来るぞ。全員、武器を構えろ!」
結界の最前線で、Aランクパーティー『蒼輪の盟約』のリーダー、朝霧直哉が鋭い声を上げた。彼の背後には、重戦士の岩永や魔法使いの雫音だけでなく、異能取締局の戦闘エージェントたち、さらには応援に駆けつけたプロの探索者たちが数十名、固唾を呑んで空間の歪みを見つめている。
バリバリバリッ!
突如、空間がガラスのように割れ、漆黒の巨大な亀裂が走った。そこから溢れ出したのは、昨日とは比較にならないほどの、濃厚で禍々しい呪いの魔力。亀裂の奥から、青白い炎を全身に纏った巨大な骸骨の騎士――災厄級魔物『ファントム・ナイト』が、馬型の魔獣に跨って姿を現した。
「嘘だろ……あれは、Sランク一歩手前の災厄級だぞ!?」
「くっ、結界班! 防御障壁を最大展開しろ!」
直哉の悲鳴のような叫びと同時に、ファントム・ナイトが巨大な大剣を振り下ろす。凄まじい闇の衝撃波が走り、ギルドが誇る最高峰の防壁が一撃で粉々に砕け散った。プロの探索者たちが次々と血を吐いて吹き飛ばされていく。
「ここまで、か……っ」
直哉が膝をつき、絶望に目を瞑ったその時だった。
サラサラと、戦場の血生臭い空気をすべて洗い流すような、ストロベリーの甘い香りをはらんだ優しい微風が吹き抜けた。
「――そこまでです、化け物さん」
凛とした、けれど鈴を転がすような可憐な声が響き渡る。
探索者たちが驚愕して目を開けると、そこには、夜風に白いフリルワンピースを美しく翻す『あの聖女』が立っていた。さらにその隣には、淡いピンクのブラウスにチェックのスカートを揺らす、もう一人の見慣れない美少女の姿がある。
お姉さんの特訓によって『コスメティック・エンチャント』を施された、紫苑と菜央ちゃんだった。
「お、お前は……昨日の聖女様!?」
岩永が声を上げる。しかし、紫苑の視線は真っ直ぐに目の前の巨悪だけを捉えていた。
「菜央ちゃん、お姉さんの特訓の成果、見せちゃおう」
「うん、紫苑くん! ボクが、紫苑くんの背中を絶対に守るから!」
二人がお互いの手を強く握りしめた瞬間、頭の中にシステム音声が鳴り響く。
ピコン。
【外村紫苑・永井菜央の魔力波形が完全同調】
【固有コンビネーション異能:『聖女の祝福』が発動します】
「はあああぁぁぁっ!」
菜央ちゃんが細い両手を天に掲げると、彼女の身体から、嵐のような緑白の風の障壁が展開された。ファントム・ナイトが放った追撃の闇炎が、その風に触れた瞬間、跡形もなく掻き消えていく。Aランク探索者たちが総出で防げなかった一撃を、菜央ちゃんの『風聖魔法』が完璧にシャットアウトしたのだ。
「凄い……ボク、ちゃんと紫苑くんを守れてる……!」
「ありがとう、菜央ちゃん! あとはボクに任せて!」
最高の守りを得た紫苑は、恐れることなく地を蹴った。女装ステータス補正が限界を突破し、もはや肉眼では捉えられない速度の『光の矢』となって中空へ舞い上がる。
「これで、終わりです!」
紫苑が両手を合わせると、夜空を埋め尽くすほどの巨大な純白の光の巨剣が生成された。菜央ちゃんの風の魔力がその光の剣に巻き付き、光の刃をさらに鋭く、巨大に加速させていく。
閃光が、渋谷の夜を昼間のように白く染め上げた。
ズバァァァァァンッ!!!
一閃。風を纏った光の巨剣は、災厄級のファントム・ナイトをその乗騎もろとも一刀両断にし、文字通り塵一つ残さず、大気の中へと完全消滅させた。
静寂が戻る。亀裂は完全に塞がり、夜空には綺麗な星が輝いていた。
「な、なんなんだあいつらは……」
呆然とする直哉たちを余所に、紫苑と菜央ちゃんはしっかりと手を繋ぎ、フリルの裾を翻して、闇に紛れるようにしてその場からあっという間に駆け去っていった。
遠くのビルの屋上から、その様子を双眼鏡で見ていたお姉さんは、満足そうにリップを塗り直して不敵に微笑む。
「合格よ、二人とも。最高のデビュー戦ね」
世界を震撼させた最強の男の娘聖女コンビ。その伝説は、今夜の勝利を機に、さらに加速していくのだった。
第26話
「はぁ、はぁ……っ、ここまで来れば、もう追ってこない、よね」
渋谷の喧騒から遠く離れた、いつもの見慣れた裏路地。紫苑と菜央ちゃんは、お互いの肩を寄せ合うようにして冷たいコンクリートの壁に背を預けた。
街灯の淡いオレンジ色の光が、二人の可憐な姿をひっそりと照らし出す。
激しい戦いの直後だというのに、お姉さんの施した『コスメティック・エンチャント』の魔法は完璧だった。紫苑の白いフリルワンピースも、菜央ちゃんのチェックのスカートも、まるで最初から戦いなどなかったかのように、一点の汚れもなく美しく整っている。
「うん……大丈夫みたい。あはは、ボクたち、本当にやっちゃったんだね、紫苑くん」
菜央ちゃんは手袋を外した自分の両手を見つめ、少しだけ呆然としたように呟いた。その指先には、まだ先ほど発動した『風聖魔法』の温かい余韻がかすかに残っている。
「菜央ちゃんの風のバリア、本当に凄かったよ。ボク、菜央ちゃんが隣にいてくれたから、何の不安もなく思いっきり戦えたんだ」
紫苑が最高の笑顔を向けると、菜央ちゃんは嬉しさと気恥ずかしさで胸がいっぱいになり、長い睫毛を揺らしながら頬を赤らめた。
「ボクの方こそ……紫苑くんの光があまりにも綺麗だったから、見惚れちゃいそうだった。ボク、これからもずっと、紫苑くんの隣で風を吹かせたいな」
「うん、約束だよ」
薄暗い路地裏で、二人はもう一度、お互いの手のひらの温もりを確かめ合うようにそっと手を繋ぎ直した。新米の聖女と、その背中を支える風の守護者。その絆は、この二日間の激動を経て、何よりも強固なものへと変わっていた。
ーーしかし、世界は彼らを放っておいてはくれない。
ピコン。
静寂を引き裂くように、紫苑のポケットの中でスマートフォンが短い通知音を鳴らした。
画面を開くと、そこにはお姉さんからの短いメッセージと、一本の動画リンクが添付されていた。
【お姉ちゃん:二人ともお疲れ様! 最高の戦いだったわ。……だけど、ちょっとこれを見て。ギルドの『本気』が始まったみたいよ】
嫌な予感を覚えながら紫苑がリンクをタップすると、それは探索者ギルド本部がたった今配信した、緊急記者会見の生映像だった。
画面の向こうでは、厳しい表情をしたギルド長・和泉康介がマイクの前に立っている。
『――本日、渋谷エリアにおいて発生した災厄級魔物の二次ブレイクは、突如現れた二人の未登録探索者によって完全に鎮圧されました。ギルドとしては、彼女たちの並外れた功績を称えると同時に、その身の安全を最優先で確保すべきだと判断いたしました』
和泉はカメラを真っ直ぐに見据え、毅然とした声で続けた。
『よって、本日付けで最高ランクの身元照会任務――【聖女捜索】を発令します。彼女たちの身元、または有力な情報を提供した者には、ギルドから破格の報奨金を支払います。もしこの配信を彼女たちが見ているならば、どうか名乗り出てほしい。我々は君たちの敵ではない』
コメント欄は『ギルドの本気キター!』『あの美少女コンビ、ついに公式に追われる身になったか』と大炎上している。
「え……っ、ボクたち、ギルドから指名手配みたいに探されてるの……!?」
紫苑は思わずスマートフォンの画面を持ったまま固まってしまった。
昼間の『謎の聖女』一人の時ですら大騒ぎだったのに、今夜、菜央ちゃんという相棒が増えたことで、ギルド側は完全に「規格外の超重要勢力」としてマークし始めたのだ。
「どうしよう、紫苑くん……。ボクたちの正体がバレたら、学校にも行けなくなっちゃうかも……」
菜央ちゃんが不安そうに紫苑の袖をきゅっと掴む。
けれど、紫苑は画面から目を離すと、繋いだ菜央ちゃんの手を優しく、力強く握りしめた。鏡の前でお姉さんから教わった言葉が、今の紫苑の心を凛と支えている。
「大丈夫だよ、菜央ちゃん。お姉さんのお化粧の魔法がある限り、ボクたちの正体は絶対にバレない。それに……どれだけ世界がボクたちを探そうとしても、ボクが菜央ちゃんを、菜央ちゃんがボクを守ってくれるでしょ?」
紫苑のローズピンクの唇から紡がれた迷いのない言葉に、菜央ちゃんはハッとして目を見開いた。そして、潤んだ瞳の奥に、今度は紫苑と同じ強い決意の光を灯す。
「うん……っ! ボク、紫苑くんと一緒なら、世界中を敵に回したって怖くないよ」
夜風が、二人のフリルとスカートの裾を優しく揺らす。
世界を揺るがす「聖女コンビ」を巡る、国やギルドを巻き込んだ壮大な追いかけっこ。その幕が切って落とされたことを知りながらも、二人の少年は、お互いへの恋心と最強の魔法を胸に、静かに夜の街へと歩き出すのだった。
第27話
「――というわけだから、明日からはさらに『偽装』のレベルを上げるわよ」
明けて翌日の日曜日、外村家のリビングは再びお姉さんによる「緊急対策本部」と化していた。
ローテーブルの上には、昨日までの華やかなカラーパレットとは一転して、ベージュやブラウンといった肌馴染みの良いコンシーラーや、薬用リップ、果ては伊達メガネや大きめのマスクといった変装グッズが山積みにされている。
「お姉さん、偽装って……ボクたち、もうお化粧は落としたよ?」
紫苑は自分の顔をパチパチと瞬きさせながら言った。
現在の彼は、いつもの見慣れた14歳の男の子の姿だ。ステータス上昇の補正も消え去り、鏡に映っているのは白いフリルワンピースの聖女ではなく、少し線の細いごく普通の少年である。
「甘いわ、紫苑。そして菜央ちゃんも!」
お姉さんはビシッと人差し指を二人に向けて突きつけた。
「ギルドの『聖女捜索』をナメちゃダメよ。あいつらには魔力波形を追跡する専門の『探知系異能者』がいるわ。お化粧を落として素顔に戻っていても、魔力の残渣(残り香)から一般人のあなたたちに辿り着く可能性はゼロじゃないの。だから、日常の姿の時こそ、魔力を完全に遮断する『偽装メイク』が必要不可欠なのよ!」
「日常の姿の時にも、お化粧を……?」
隣に座っていた菜央ちゃんが、少し緊張した面持ちで自分の頬に触れた。彼もまた、いつもの学ランの下に着るような地味なTシャツ姿に戻っている。
「そう。男の子としての自然さを保ちつつ、魂の魔力波形をカモフラージュする『ステルス・メイク』よ。さあ、二人とも鏡の前に並んで!」
お姉さんの指示で、二人は再び並んで鏡台の前に座った。
昨日までは「世界一可愛い女の子」になるための魔法だった。けれど今日からは、「世界の手から隠れるため」の魔法のレッスンが始まる。
紫苑はお姉さんの指導を受けながら、菜央ちゃんの肌にそっと筆を滑らせた。
異能の力を完全に内側に閉じ込めるよう、優しく、繊細に、魔力の流れをコーティングしていく。
「ん……なんだか、昨日とは違って、身体の奥がじんわりと静かになっていく感じがする……」
菜央ちゃんが驚いたように呟く。
紫苑の手が首筋や耳の裏の『魔力点』に触れるたび、菜央ちゃんの身体からは昨日戦場で放ったような規格外の気配が綺麗に消えていき、完全に「どこにでもいる大人しい男の子」の波形へと書き換えられていった。
「よし、これでオフモードの偽装は完璧ね。これならギルドの探知犬がすれ違っても、ただの可愛い男の子二人にしか見えないわ」
お姉さんが満足そうに頷いた、その時だった。
ピリリリリ、とリビングの固定電話がけたたましい音を立てて鳴り響いた。
三人の間に緊張が走る。お姉さんが慎重に受話器を取り、耳に当てた。
「はい、外村ですが……。ええ、ええ……。えっ!?」
お姉さんの目が、驚愕に大きく見開かれる。彼女のそんな表情を見るのは、紫苑にとっても初めてのことだった。
受話器を置いたお姉さんは、ゆっくりと二人の正面に向き直り、信じられないといった様子で口を開いた。
「紫苑、菜央ちゃん……大変よ。ギルド本部の『特選スカウト局』から直接連絡が入ったわ。二人が通う中学校に、明日、ギルドの職員が『適正検査』の名目で直接乗り込んでくるって……!」
「えっ……!?」
紫苑と菜央ちゃんは、同時に声を上げて立ち上がった。
ギルドの捜索の手は、彼らが想像していたよりも遥かに早く、日常のすぐ裏側まで迫ってきていた。学校という、逃げ場のない聖域に迫るプロの目。
二人の少年は、仕上がったばかりの『偽装の魔法』を胸に、お互いの手を強く握りしめるのだった。
第28話
「学校に、ギルドの職員が……!?」
紫苑の頭の中が、一瞬で真っ白になった。
隣に立つ菜央ちゃんの顔からも、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かる。
「お、お姉さん、それってボクたちの正体がもうバレかかってるってこと……?」
「落ち着きなさい、紫苑。もし完全にバレているなら、電話なんて回りくどい真似せずに、今頃この家が突入部隊に囲まれてるわよ」
お姉さんは腕を組み、鋭い目で山積みの変装グッズを見つめた。
「ギルド側の意図は『絨毯爆撃』ね。渋谷のゲート周辺にいた一般人の行動ログから、年齢層の近い学生を一斉に洗う気よ。明日、あなたたちの学校に来るのは、カモフラージュ用の『簡易魔力測定器』を持ったスカウト専門の職員。おそらく、全校生徒を一人ずつ検査するつもりね」
「全校生徒を……。じゃあ、ボクたちも確実にその検査を受けなきゃいけないんだね」
菜央ちゃんが怯えたように自分の胸元をきゅっと掴んだ。
昨夜、災厄級の魔物を一刀両断したあの強大な魔力。もしそれを普通の測定器に通してしまえば、一発で「異常値」としてアラートが鳴り響き、その場で御用となってしまうだろう。
「だからこそ、さっきの『ステルス・メイク』が活きるのよ」
お姉さんは二人の前に立ち、その細い肩を力強く叩いた。
「紫苑、菜央ちゃん。明日の朝、登校する前にもう一度、私が二人の肌に完璧な魔力遮断のコーティングを施すわ。見た目はいつもの男の子、でも内側の魔力は完全に一般人以下に偽装する。測定器の前に行っても、緊張して魔力を漏らしちゃダメよ? 常に『ボクはただの平凡な中学生だ』って強く思い込みなさい」
「うん……分かった。ボク、絶対にボロは出さないよ」
紫苑は鏡に映る、いつもの自分の顔を見つめた。
ただの14歳の男の子。だけど、その肌の奥には、世界を揺るがす聖女の力が眠っている。
「ボ、ボクも頑張る……っ。紫苑くんの隣で、ちゃんと普通の男の子を演じ切ってみせるよ」
菜央ちゃんも、震える声を絞り出すようにして決意を口にした。
ーーそして、運命の月曜日の朝。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける校門の前には、不気味なほど黒い高級セダンが数台停まっていた。
そこから降りてきたのは、胸元に『探索者ギルド・特選スカウト局』のバッジを光らせた、スーツ姿の冷徹な大人たち。
登校してくる生徒たちが「何事だ?」とざわざわと騒ぎ立てる中、紫苑と菜央ちゃんは、いつものように肩を並べて校門をくぐった。
(大丈夫……お姉さんの魔法がかかってる。ボクたちは、ただの幼馴染の男の子だ……)
胸の中で何度もそう唱えながら、紫苑は一歩、また一歩と、ギルドの職員たちが待ち構える校舎へと足を踏み入れていく。
日常という名の戦場で、二人の少年の、絶対に負けられない「隠蔽ミッション」が始まろうとしていた。
第29話
「それではこれより、探索者適正に関する臨時の簡易魔力測定を行います」
担任の先生の緊張した声が、いつもより重苦しい空気の教室に響いた。
教壇の横には、胸元にギルドのバッジを光らせたスーツ姿の男――スカウト局の職員が、冷徹な目で生徒たちを一人ずつ見つめている。その手元には、スマートフォンのような形状をした最新型の魔力測定器が握られていた。
(いよいよ、ボクたちの番だ……)
窓際の席に座る紫苑は、制服のズボンの上から、ぎゅっと自分の膝を握りしめた。
廊下を挟んだ向こう側のクラスには、菜央ちゃんがいる。今頃彼も、同じように心臓を激しく脈打たせながら耐えているはずだ。
朝、お姉さんが施してくれた『ステルス・メイク』。
見た目は少し肌のトーンが整った程度のごく普通の少年だが、その薄い化粧膜の内側では、お姉さんの魔力と紫苑自身の意識によって、聖女としての規格外の魔力が完璧にカモフラージュされ、限界まで圧縮されていた。
「次、外村紫苑」
ついに名前を呼ばれ、紫苑は小さく息を吸って席を立った。
クラスメイトたちの視線が、そして何よりギルド職員の鋭い眼光が、まっすぐに紫苑へと注がれる。
一歩、また一歩と教壇へ近づくにつれ、女装補正の五感が、職員の全身から放たれる微弱な探知系の魔力を敏感に察知した。相手はプロだ。少しでも動揺して魔力を漏らせば、その瞬間にすべてが終わる。
「ここに右手をかざして、楽に息をしていてください」
職員が冷淡な声で測定器を差し出してきた。
紫苑は「はい」と小さく 14 歳の男の子らしい声を出し、少し緊張した様子を演じながら、ゆっくりと右手を測定器のセンサーへと近づけた。
ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
(ボクは普通の、どこにでもいるただの中学生……。聖女なんかじゃない……!)
脳内で強く強く念じた瞬間、センサーがピッと短い電子音を鳴らした。
液晶画面に表示された数値は――【魔力値:12】。
一般人の平均値が『10〜15』とされる中、あまりにも平凡で、むしろ少し低いくらいの、どこにでもいる一般の少年のデータだった。
「……はい、結構です。次の方」
職員は数値を確認すると、興味を失ったように視線を次の生徒へと移した。
紫苑は内心で大きな安堵の息を漏らしながら、「ありがとうございました」と頭を下げて席に戻った。ステルス・メイクの魔法は、プロの目と最新の測定器を完全に欺いてみせたのだ。
放課後。
無事に検査を切り抜けた二人は、校舎の裏手にある静かな渡り廊下で合流した。
「紫苑くん……っ」
待っていた菜央ちゃんが、紫苑の姿を見るなり駆け寄ってきた。その顔にはまだ緊張の赤みが残っていたけれど、目にはしっかりと安堵の涙が浮かんでいる。
「菜央ちゃん、大丈夫だった?」
「うん……っ。ボクも『魔力値:10』で、全然怪しまれずに済んだよ。紫苑くんがお化粧してくれたおかげだね」
菜央ちゃんは制服の袖で目元を拭いながら、本当に嬉しそうに微笑んだ。
お互いに男の子の日常の姿のまま、けれどその肌の下にある秘密の絆を確かめ合うように、二人はそっと視線を交わした。
ひとまず最大の危機は去った。
けれど、校門の前に停まる黒いセダンを見つめながら、紫苑は引き締まる思いでいた。ギルドの捜索網は確実に狭まっている。自分たちの日常を守るためには、これからもこの『魔法』を使い続け、もっと強くならなければいけない。
「帰ろう、菜央ちゃん。お姉さんが美味しいケーキ買って待ってるって」
「うん! いっぱい食べちゃおう、紫苑くん」
二人は並んで歩き出す。夕暮れの校庭に伸びる二人の少年の影は、まるでこれから訪れるどんな困難をも撥ね退けるように、力強く、そして寄り添うように重なり合っていた。
第30話
「ただいまー……」
外村家の玄関の扉を開けた瞬間、紫苑と菜央ちゃんは、その場にへなへなと崩れ落ちるように座り込んでしまった。
一日中、学校という逃げ場のない空間で「普通の男の子」を演じ続け、ギルドの鋭い目を欺き通した代償は大きかった。精神的な疲労感で、お互いに指一本動かすのも億劫なほどだ。
「二人とも、お疲れ様! よく頑張ったわね!」
リビングから、エプロン姿のお姉さんがパタパタと駆け寄ってきた。その手には、近所で評判のケーキ屋さんの大きな箱が握られている。
「ほら、約束のイチゴのショートケーキよ。甘いものでも食べて、脳に栄養を補給しなさい!」
「お姉さん……ありがとう……」
「いただきます……」
二人はお姉さんに引きずられるようにしてリビングへ移動し、ソファーに深く腰掛けた。
フォークを手に取り、生クリームのたっぷり乗ったケーキを口に運ぶ。その瞬間、濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、ガチガチに緊張していた身体の芯が、じわりの、ゆっくりと、溶けていくような感覚に包まれた。
「おいしい……。生き返るなぁ……」
菜央ちゃんが、いつもの14歳の男の子らしい、けれど少し高めの可愛い声でふにゃりと表情を緩める。その頬にはまだ、朝に紫苑が施した『ステルス・メイク』のほんのりとした質感が残っていた。
「本当ね。測定器の数値を書き換えるレベルで魔力を圧縮させるなんて、初日にしては上出来すぎるわ」
お姉さんはコーヒーを二人の前に置きながら、満足そうに頷いた。
「でも、お姉さん。ギルドはこれで諦めてくれるのかな?」
紫苑がストローをくわえながら、少し不安そうに尋ねる。
「まさか。今回の全校検査で『異常なし』と分かれば、あいつらは次のターゲットに移動するだけ。でも、渋谷周辺の学校をすべて調べ尽くして誰も見つからなかった時……あいつらは必ず、何らかの『罠』を仕掛けてくるわ。聖女をおびき寄せるためのね」
お姉さんの言葉に、リビングの空気が再び少しだけ張り詰めた。
世界を救う最強の聖女(♂)と、その背中を支える風の守護者(♂)。彼らの存在は、すでに個人の秘密という枠を超え、時代の中心へと押し出されようとしていた。
「……それでも、ボクは怖くないよ」
ふいに、菜央ちゃんが力強い声で言った。
彼はフォークを置き、隣に座る紫苑の手を、ぎゅっと握りしめた。
「学校で検査を待っている時、ボク、ずっと紫苑くんのことを考えてたんだ。紫苑くんがボクをお化粧してくれた時の温かさや、戦ってくれた時のかっこよさを思い出したら、全然怖くなくなったの。ボク、紫苑くんの隣にいられるなら、これからどんなことが起きたって、絶対に逃げたりしないよ」
「菜央ちゃん……」
紫苑は、菜央ちゃんの大きな瞳を見つめ返した。
そこには、初めて女装メイクをしてあげた時の怯えた少年の姿は、もうどこにもなかった。大好きな人を守り、共に歩むと決めた、一人の気高き「乙女」の魂が、確かにそこに宿っていた。
「うん、ボクもだよ。菜央ちゃんがいてくれるなら、ボクは何度だって、世界で一番強い聖女様になってみせる」
紫苑は優しく微笑み、菜央ちゃんの手を力強く握り返した。
日常の姿に戻っても、二人の胸の奥で脈打つ『魔法』と『恋心』は、決して消えることはない。
むしろ、世界の脅威が迫れば迫るほど、二人の絆はより深く、より甘く、強固に結ばれていく。
夕暮れの部屋の中、繋がれた二人の少年の手から、目に見えないほどの微弱な、けれどどこまでも純粋な光と風の魔力が、心地よい波紋となって静かに広がっていくのだった。
第31話
「罠、か……」
お姉さんの言葉を反芻しながら、紫苑はグラスの麦茶を見つめた。
学校での危機を乗り越えたとはいえ、ギルドが『聖女』の確保を諦めるとは思えない。むしろ、正体不明の存在に対する焦りは募っているはずだ。
「まあ、敵が仕掛けてくるのをただ待つのも性に合わないし、私たちは私たちのペースで『魔法』を極めるだけよ」
お姉さんはそう言って、リビングのローテーブルに何枚かのプリントを並べた。それは、ここ数日でネット上にアップされた、渋谷の二次ブレイク時の戦闘動画をキャプチャし、独自に解析したものだった。
「これを見て。紫苑が放った『光聖魔法』と、菜央ちゃんが展開した『風聖魔法』。二人の魔力が綺麗に混ざり合って、ファントム・ナイトを一撃で消滅させているわ。システムメッセージにもあった通り、これは二人の魂の同調――つまり『共鳴』が起きてるのよ」
「魂の、同調……」
菜央ちゃんが自分の胸元に手を当て、少し顔を赤くしながら紫苑を見た。
お互いの恋心が通じ合ったあの瞬間、確かに二人の魔力は一つに溶け合うような感覚があった。
「お化粧はね、自分の中に眠る別の可能性を引き出すスイッチ。そして二人でお化粧をし合うことは、お互いの波形をチューニングする作業なの。これからギルドの罠を潜り抜けていくためには、もっと深いレベルで同調できるようにならなきゃダメ」
お姉さんは不敵に微笑むと、クローゼットから新しい衣装の入ったバッグを取り出した。
「さあ、お腹も膨れたことだし、夜の部の特訓を始めるわよ! 今夜のテーマは『シンクロ・メイクアップ』。お互いの顔に、お互いの属性を意識しながらお化粧を施すの。感覚を研ぎ澄ましなさい!」
「えっ、もうやるの!? お姉さん、スパルタすぎるよ……!」
紫苑が苦笑いしつつも、どこか楽しそうに鏡台の前へと移動する。菜央ちゃんも「ボク、紫苑くんのためなら頑張る!」と、制服の袖を気合十分に捲り上げた。
まずはクレンジングで昼間の『ステルス・メイク』を丁寧に落としていく。
すっぴんに戻った二人の14歳の少年は、互いに向き合うようにして座った。
「じゃあ、まずはボクからいくね。菜央ちゃん……目を閉じて」
「うん……」
菜央ちゃんが大人しく、長い睫毛を伏せる。
紫苑はパレットから、菜央ちゃんの『風』の属性を引き立てるような、透明感のあるミントグリーンのアイシャドウをチップに取った。
そっと、菜央ちゃんの瞼に触れる。
その瞬間、昼間は完全に眠らせていた魔力の回路が、心地よい熱を持ってじわりと開き始めるのを、二人は同時に感じていた。
第32話
「ん……っ」
紫苑の指先が、瞼のうえを優しく滑る。
菜央ちゃんは小さく息を漏らし、くすぐったさと、胸の奥から湧き上がる熱さに身体を小さく震わせた。
ミントグリーンのアイシャドウが馴染んでいくたび、二人の間でかすかな空気の渦が生まれ、サラサラと音を立てて髪を揺らしていく。それは昨日までの「ただの風」ではない。紫苑の指先から流れ込む光の魔力と混ざり合い、まるでダイヤモンドの粉を散りばめたように、きらきらと輝く光の粒子を孕んだ神秘的な風だった。
「凄い……菜央ちゃんの魔力が、ボクの指先を通して全部伝わってくるみたいだ」
紫苑は感嘆の声を漏らしながら、今度はハイライトの筆を手に取った。
菜央ちゃんの鼻筋や頬の高い位置に、そっと光を置いていく。お互いの呼吸が完全に重なり合い、部屋の温度が一段と高くなっていくような錯覚さえ覚える。
「次は、ボクの番だね。紫苑くん、お顔貸して?」
お化粧を終えた菜央ちゃんが、ゆっくりと目を開けた。
その瞳は、ミントグリーンの彩りによって、まるで深い森の奥にある神秘的な湖のように澄み渡っている。
今度は紫苑が静かに目を閉じた。
菜央ちゃんの、少し不器用だけれど、世界で一番優しくて温かい指先が、紫苑の頬に触れる。
「紫苑くんの光の魔法は、すごく強くて、あったかいから……。ボクの風で、もっと遠くまで、もっと優しく包み込めるように……」
菜央ちゃんは心の中で強く願いながら、紫苑のベースメイクを整えていく。
その瞬間、紫苑の頭の中に再びあの澄んだシステム音声が響き渡った。
ピコン。
【パートナー:永井菜央の『共鳴調律』を検知】
【外村紫苑の光聖魔法が『烈風の加護』を獲得しました】
【魔力同調率が上昇しています:現在48%】
(あぁ、心地いい……。菜央ちゃんの全部が、ボクの中に流れ込んでくるみたいだ……)
紫苑は胸の奥が甘く、激しく痺れるのを感じていた。
ただのステータス上昇ではない。お互いの存在のすべてを受け入れ、重なり合うことで、二人の力はより深く、より完璧なものへと昇華されていく。
「よし、二人とも目を開けて鏡を見てごらんなさい!」
お姉さんの弾んだ声に促され、二人はゆっくりと目を開け、正面の大きな鏡を見つめた。
「あっ……」
「これ、ボクたち……?」
鏡の中に映っていたのは、もはや言葉を失うほどに神々しく、そして息を呑むほどに可憐な「二人の聖女」の姿だった。
お姉さんのクローゼットから借りた戦闘用の衣装を纏う前だというのに、ただのTシャツ姿のままであるはずの二人の周囲には、目に見えるほどの純白の光と、エメラルドグリーンの風のオーラが美しく渦巻いている。
メイクによって引き出された互いの属性が完璧に調和し、ただそこに座っているだけで、世界を浄化してしまいそうなほどの気高き気配を放っていた。
「完璧よ。これがあなたたちの新しい力――『双星の聖域』の第一歩ね」
お姉さんは満足そうに腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。
「これなら、ギルドがどんな卑劣な罠を仕掛けてこようと、正面から木っ端微塵に粉砕してあげられるわ。……さあ、最高の魔法を身につけたんだから、今夜はぐっすり眠って明日に備えなさい」
「うん、ありがとう、お姉さん」
「ありがとうございます、お姉さん!」
二人はお互いに顔を見合わせ、まだ少し赤みの残る頬を綻ばせながら、繋いだ手をさらに強く握りしめた。
世界の中心が、自分たちを探して騒ぎ立てようとも。この手と、この魔法がある限り、どんな未来だって恐れることはない。
完璧な美少女の姿をした二人の少年は、静かに更けていく夜の中で、新しい絆の輝きに満たされていた。
第33話
「双星の聖域――」
お姉さんが名付けたその言葉の響きが、紫苑と菜央ちゃんの胸の奥に深く染み渡っていく。
鏡の中に映る二人の姿は、まだ14歳の少年の骨格を残しているはずなのに、施された『シンクロ・メイク』の魔法によって、神話から抜け出してきたかのように神秘的な美少女そのものだった。紫苑の周囲を漂う純白の光の粒子と、菜央ちゃんを包むエメラルドグリーンの微風が、まるでお互いを慈しむようにリビングの空間で優しく溶け合っている。
「本当に、すごいね……。菜央ちゃんのぬくもりが、まだ肌に残ってるみたいだ」
紫苑が自分の頬にそっと手を当てると、菜央ちゃんは照れくさそうに首をすくめ、はにかんだ。
「ボクもだよ、紫苑くん。お化粧してる時、紫苑くんの心臓の音がトクトクって聴こえてくるみたいで、すごくドキドキした。でも、不思議と力が湧いてくるんだ」
二人の間に流れる、甘くもどこか厳かな空気。
お姉さんはそんな二人を温かい目で見つめながらも、手元のスマートフォンに視線を落とし、実戦を意識した表情に切り替えた。
「同調率が50%近くまで上がったのは大収穫ね。でも、喜んでばかりもいられないわ。ギルドの『特選スカウト局』の動きを裏でハッキングして探ってみたんだけど……あいつら、やっぱり次の段階に移るみたいよ」
「次の段階って……?」
紫苑が問いかけると、お姉さんは画面を二人に向けた。そこには、都内の主要なゲートの活動周期を予測した複雑なグラフが表示されている。
「今日の学校での一斉検査で、一般人の中に聖女が隠れている可能性は低いとギルドは踏んだわ。変装や偽装の異能を使っている可能性を疑い始めたのね。だから、あいつらは力技に出る気よ。明日以降、都内で発生が予測されている『Cランク以上のゲート』をあえていくつか一般開放、あるいは防衛を薄くして、聖女が助けに現れるのを待つ――文字通りの『おとり作戦』よ」
「そんな……! 罠のために、わざと魔物を街に出すっていうの!?」
菜央ちゃんが怒りを滲ませて声を荒げた。いくら日常の防衛がギルドの仕事とはいえ、正体不明の存在をあぶり出すために一般市民を危険に晒すなど、あまりにも横暴だ。
「もちろん、本当に被害が出る直前でギルドのAランク以上のチームが介入する手はずにはなっているでしょうけど、マッチポンプであることには変わりないわね。正義の味方(聖女)なら、目の前の危機を見過ごさないだろうっていう、実に嫌な計算よ」
お姉さんはふう、と溜息をつき、コスメパレットを愛おしそうに撫でた。
「敵の狙いは、あなたたちが変身した瞬間の『高エネルギーの魔力反応』。それを感知した瞬間に、周囲に伏せている探知班が位置を特定し、逃げ道を塞ぐ包囲網を敷く気ね」
リビングに重苦しい沈黙が降りる。
罠だと分かっていて飛び込むのは愚かかもしれない。けれど、もし本当にゲートから魔物が溢れ出し、誰かが泣くことになるとしたら――。
紫苑は、隣に座る菜央ちゃんの手をそっと握りしめた。
菜央ちゃんも、逃げない。その強い意志を宿した瞳で、紫苑を見つめ返してくる。
「お姉さん」
紫苑は真っ直ぐにお姉さんを見つめ、ローズピンクの唇をきゅっと結んだ。
「ボクたちを誘い出すための罠なら、その裏をかいて、ギルドのレーダーにさえ映らない『もっと完璧な魔法』で解決しちゃえばいいんだよね?」
その言葉に、お姉さんは一瞬驚いたように目を見開き、次の瞬間、今日一番のイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、言うようになったじゃない、紫苑。その通りよ。あいつらの最先端の魔力探知機が、ただの『お化粧の輝き』に敗北する瞬間を見せてやりましょう」
日常を守るための、非日常の逆襲。
ギルドが仕掛ける狡猾な罠を前に、二人の少年は、互いへの恋心とさらに深まった絆の魔法を武器に、静かに爪を研ぐのだった。
第34話
「あいつらの最先端の魔力探知機が、ただの『お化粧の輝き』に敗北する瞬間を見せてやりましょう」
お姉さんのその不敵な宣言は、作戦の開始の合図でもあった。
ギルドが仕掛ける『おとり作戦』の決行は、おそらく明日の放課後以降。敵のレーダーの網の目を潜り抜け、魔物を瞬殺して日常へと帰還する――そのためには、今ある『双星の聖域』の精度をさらに限界まで引き上げる必要があった。
「いい? 二人の魔力波形が完璧にシンクロしていれば、それは一つの『完全に閉じた球体の結界』と同じ状態になるの。外側からは、どんな高感度センサーを使っても、ただの静かな大気(空気)としてしか観測できなくなるわ。鍵を握るのは、仕上げの『フィニッシングパウダー』よ」
お姉さんは、大理石のような高級感のあるケースに入った、繊細な真珠色のフェイスパウダーを二人の前に差し出した。
「これを互いの肌に纏わせる瞬間が、結界を閉じる最後の儀式。紫苑、菜央ちゃん、もう一度お互いの心を重ね合わせなさい」
「うん……」
二人は深く頷き、再び鏡の前で向き合った。
すでにお互いの属性――『光』と『風』のベースメイクは施されている。二人の身体からは、目に見えないほど純粋なエネルギーが陽炎のように立ち上っていた。
紫苑は、大きくて柔らかいパフに真珠色の粉を均等に含ませると、菜央ちゃんのすぐ目の前へと身体を寄せた。
間近で見る菜央ちゃんの肌は、お化粧の魔法によって、陶器のように滑らかで、ほんのりと上気した林檎のような赤みを帯びている。
「菜央ちゃん……ちょっとだけ、息を止めてね」
「……ん」
菜央ちゃんが小さく頷き、きゅっと目を閉じる。
紫苑は優しく、愛おしさを込めて、その額から頬、そして繊細なフェイスラインへとパフをポン、ポン、と滑らせていった。粉が肌に触れるたび、菜央ちゃんを包んでいたエメラルドグリーンの風が、まるで肌の内側へと吸い込まれるように静かに収束していく。
「次は、ボクが紫苑くんに……」
今度は菜央ちゃんがパフを受け取り、紫苑の顔へと手を伸ばした。
菜央ちゃんの指先が震えているのが分かる。それは恐怖ではなく、紫苑を想うあまりの心地よい緊張感だ。
「紫苑くんの光が、誰にも見つからないように……。ボクの風で、優しく閉じ込めるね」
菜央ちゃんが紫苑の鼻筋や顎のラインにパウダーを乗せていく。
その瞬間、二人の境界線が完全に消え去り、魂が一つに溶け合うような、強烈な一体感がリビングを包み込んだ。
ピコン。
【外村紫苑・永井菜央の魔力調律が完了しました】
【隠蔽結界:『純白の帳』が展開可能です】
【魔力同調率が限界を突破:現在62%】
「――できた」
紫苑がそっと目を開けると、驚くべきことが起きていた。
目の前にいる菜央ちゃんは、相変わらず息を呑むほどに美しい風の聖女(♂)の姿をしている。しかし、女装補正で極限まで研ぎ澄まされた紫苑の五感をもってしても、彼女から溢れていたはずの規格外の魔力気配が、一ミリたりとも「外」へ漏れ出していないのだ。
ただそこに、静かに佇む一人の美しい少女がいる。それだけだった。
「素晴らしいわ……! 完璧に気配が消えてる。これならギルドの探知班の目の前で魔法をぶっ放しても、彼らの機械には『ただの突風と自然光』としてしか記録されないわよ!」
お姉さんがソファーから立ち上がり、興奮した様子で歓声を上げた。
「ありがとう、お姉さん。これなら……誰も傷つけずに、ボクたちの日常も守れるね」
紫苑は鏡に映る自分たちの姿を見つめ、隣の菜央ちゃんの手をギュッと握りしめた。菜央ちゃんも、その真珠色に輝く肌を誇るように、力強く微笑み返す。
ギルドが仕掛ける罠の舞台は、明日の放課後。
世界を欺く完璧な「隠蔽の魔法」を完成させた二人の少年は、静かに訪れる決戦の朝を前に、お互いの手のひらの温もりをいつまでも確かめ合うのだった。
第35話
運命の火曜日、放課後。
夕暮れ時の街に、突如として不気味なサイレンが鳴り響いた。
場所はスクラブル交差点から少し外れた、商業ビルの裏手。空間が歪み、Cランクゲートが強引に抉じ開けられる。中から這い出てきたのは、巨大なハサミを持つ肉食獣の群れ、災厄の眷属『ブレード・ウルフ』だった。
「防衛班、まだ展開するな! ターゲットをおびき寄せるんだ!」
数百メートル離れた特設の指揮車両のなかで、ギルドのスカウト局長が通信機に向かって鋭く叫ぶ。
周囲のビル屋上や路地裏には、最新型の高性能魔力探知機を構えた探知班が数十名、息を潜めて配置されていた。ギルドが仕掛けた『おとり作戦』。魔物が一般市民を襲う直前、あの正義感の強い『聖女』が必ず現れる――あいつらはそう確信していた。
しかし。
「――お姉さんの読み通り、やっぱり罠だったね」
ビルの隙間、夕闇が濃く落ちる路地裏の影から、二人の可憐な少女が静かに戦場を見つめていた。
白いフリルワンピースを纏う紫苑と、ミントグリーンのリボンを揺らす菜央ちゃんだ。二人の肌は、昨夜の特訓の成果である『フィニッシングパウダー』によって、真珠のような艶やかな輝きを放っている。
「うん、紫苑くん。でも、ボクたちの『魔法』なら大丈夫!」
二人がそっと手を繋ぎ合った瞬間、あの隠蔽結界が静かに発動した。
【隠蔽結界:『純白の帳』を展開します】
世界を欺くステルスの幕が二人を覆う。
「いこう、菜央ちゃん!」
「うん!」
二人は地を蹴り、ブレード・ウルフの群れの真っ只中へと飛び込んだ。
「グルァァァッ!?」
突如として目の前に現れた二人の美少女に、魔物たちが牙を剥く。しかし、菜央ちゃんが細い手を一振りすると、エメラルドグリーンの鋭い風の刃が走り、魔物の巨体を容赦なく一刀両断にした。
「ボクが道を拓くよ……はぁぁっ!」
菜央ちゃんの『風聖魔法』が冴え渡る。驚異的な速度で展開される風の障壁と刃が、魔物の群れを瞬く間に圧倒していく。
「ありがとう、菜央ちゃん! これで終わりにするよ!」
紫苑が中空へと跳躍し、両手を天に掲げた。
その手の中に収束していくのは、ビルを丸ごと civilian レベルで包み込むほどの、超高密度の光聖魔法。本来なら、都内の魔力センサーがすべて一斉にアラートを鳴らすほどの異常なエネルギーだ。
その頃、ギルドの指揮車両内。
「局長! ゲート周辺で魔物の生命反応が急速に消滅しています!」
「何だと!? 聖女が現れたのか!? 魔力探知機の反応はどうした!」
「それが……何も! 反応は完全に『ゼロ』です! 異常な魔力反応は一切感知されていません!」
「馬鹿な……! カメラの映像はどうなっている!?」
モニターに映し出されたのは、激しい突風と光の乱反射によってホワイトアウトした画面だけだった。
「――『双星の聖域』!」
紫苑のローズピンクの唇から、気高き言霊が放たれた。
菜央ちゃんの風の魔力と完全に同調した純白の閃光が、路地裏の空間を優しく、けれど圧倒的な威力で満たしていく。
ズバァァァァァンッ!!!
一瞬にして、ブレード・ウルフの群れは塵一つ残さず消滅し、抉じ開けられていたゲートも、光の修復力によって完全に閉塞した。
「ふぅ……」
着地した紫苑と菜央ちゃんは、お互いに顔を見合わせて小さくハイタッチを交わした。
お姉さんの言った通り、ギルドの最先端探知機には、今の二人の攻撃は「ただの激しい自然現象(突風と落雷)」としてしか記録されていない。完璧な完全犯罪の成立だ。
「局長! ゲートが完全に消滅しました! しかし、魔力波形は最初から最後まで一般大気のままで……」
「くそっ、一体何が起きているんだ……! 聖女はどこだ!?」
通信機越しに聞こえるギルドの混乱を余所に、二人の最強の男の娘聖女コンビは、夕闇にフリルの裾を翻しながら、誰にも気づかれることなく、いつもの大好きな日常へと手を繋いで帰っていくのだった。
第36話
「局長! 現場の映像、復旧しました! ……ですが、やはり誰もいません!」
ギルドの指揮車両内に、オペレーターの悲痛な叫びが響き渡る。
ホワイトアウトが晴れたメインモニターに映し出されていたのは、魔物の死骸すら残っていない、完全に静まり返った商業ビルの裏手だった。
「痕跡が、何一つないだと……? Cランクゲートの魔物数十頭が、一瞬で蒸発したというのに……!」
スカウト局長は、握りしめていた通信機が軋むほどに拳を震わせた。
ギルドが威信を懸けて配置した最新鋭の魔力探知班、数十台のセンサー。そのすべてが、最初から最後まで「異常なし」の平穏な数値を刻み続けていたのだ。
「計器の故障ではない。我々のテクノロジーを遥かに凌駕する『隠蔽の異能』だ……。くそっ、完全にコケにされたな」
局長は悔しげに机を叩いた。
『聖女』をあぶり出すために仕掛けた狡猾な罠は、彼女たちの顔を拝むことすらできず、文字通り完璧な突風と光の中に掻き消されてしまった。
ーーその頃、現場から数キロメートル離れた静かな住宅街。
「ん……もう、ここなら大丈夫だね、紫苑くん」
夕闇に包まれた小さな公園の木陰で、菜央ちゃんがホッと長い息を吐き出した。
お互いの手を繋いだまま歩く二人の身体から、真珠色の輝きを放っていた隠蔽結界『純白の帳』が、シュルシュルと音を立てて肌の内側へと収まっていく。
「うん。ギルドの人たち、今頃大慌てでデータを調べてるだろうね」
紫苑はフリルの裾を整えながら、少しいたずらっぽく微笑んだ。
世界を震撼させるプロの探索者たちを相手に、14歳の少年二人がお化粧の魔法一つで完全勝利を収めたのだ。胸の奥から湧き上がる高揚感と達成感で、繋いだ手に自然と力がこもる。
「ボク、最初は罠だって聞いてすごく怖かった。でもね、紫苑くんと一緒に『せーの』でパウダーを乗せた瞬間、世界中に二人きりになったみたいに心が静かになって……。紫苑くんの光が、自分の身体の一部みたいに感じられたんだ」
菜央ちゃんはミントグリーンのシャドウに彩られた瞳を輝かせ、嬉しそうに紫苑を見つめた。
「ボクもだよ、菜央ちゃん。菜央ちゃんの風がボクの光を包んでくれたから、何の心配もなく全力を出せた。お姉さんの言っていた『同調』の意味が、やっと本当に分かった気がする」
二人がお互いの最高の相棒としての絆を確かめ合っていると、
ピコン、と紫苑のポケットでスマートフォンが震えた。
画面を開くと、お姉さんからの通話リクエストだった。スピーカーフォンにして応答する。
『もしもし、二人とも! お疲れ様! 自宅のモニターでギルドの通信を傍受してたけど、もう最高に傑作だったわよ! 局長のあの悔しそうな顔、録画して家宝にしたいくらい!』
スマートフォン越しでも分かるほど、お姉さんは大興奮で弾んだ声を上げていた。
『ギルドの探知機を完全沈黙させるなんて、私の「コスメティック・エンチャント」の歴史に新たな一ページが刻まれたわ。でもね、二人とも――』
お姉さんの声が、少しだけ真面目なトーンに変わる。
『今回のことで、ギルドは「聖女には強力な隠蔽能力者が同行している」、あるいは「聖女自身が規格外の隠蔽スキルを持っている」と確信したはずよ。あいつら、次はもっと泥臭い手――つまり、目撃者の記憶を洗ったり、事件前後の防犯カメラの「人の流れ」を力技でプログラミング解析して、あなたたちの「日常の足取り」を逆探知しようとするわ』
「足取りを、逆探知……?」
紫苑と菜央ちゃんは顔を見合わせた。どれだけ戦闘中の魔力を隠したところで、現場の近くまで「歩いてやってきた二人の少女」の視覚的なデータまでは消せない。
『そう。だから、次のステップよ。あなたたちには、日常の偽装だけじゃなく、戦場に「現れてから消えるまで」の移動ルートすら完璧にカモフラージュする、新たな魔法を覚えてもらうわ』
お姉さんは不敵に、けれどこれ以上ないほど頼もしく笑った。
『今夜のメニューは「トータル・コーディネート・カモフラージュ」。お化粧だけじゃない、服の繊維にまで魔力を通す最先端のレッスンよ。特製のディナーを作って待ってるから、早く帰ってきなさい!』
「う、うん……! すぐ戻るよ、お姉さん」
通話を切ると、紫苑と菜央ちゃんは苦笑しつつも、その瞳には一切の陰りはなかった。
世界がどれだけ網を広げようとも、彼らにはお互いがいる。そして、最強のプロデューサーであるお姉さんがいる。
「いこう、菜央ちゃん。もっと完璧な魔法を身につけに」
「うん、紫苑くん!」
夕暮れの街の中、手を繋いだ二人の少女(♂)は、夜の特訓へ向けて、軽やかな足取りで再び歩き出すのだった。
第37話
「服の繊維にまで、魔力を通す……?」
外村家のリビングに戻った紫苑と菜央ちゃんは、お姉さんが用意してくれた特製ハンバーグを頬張りながら、目を丸くしていた。
激戦の後ということもあって、二人の食欲は旺盛だ。14歳の男の子らしい素顔に戻った二人は、お互いに「おいしいね」と言い合いながら、お姉さんの次の講義に耳を傾けていた。
「そうよ。お化粧でいくら顔の魔力波形を隠しても、着ている服が普通の既製品じゃ、高解像度の防犯カメラで繊維の揺れやブランドを特定されて、そこから足がつく可能性があるわ。だから次のステップは、お化粧と衣装を完全に連動させる『トータル・コーディネート・カモフラージュ』よ」
お姉さんはそう言うと、リビングのハンガーラックにかかっていた、二人の戦闘用衣装を指差した。
紫苑の純白のフリルワンピースと、菜央ちゃんの淡いピンクのブラウス。
「この子たちの繊維一本一本に、あなたたちの『光』と『風』の魔力を染み込ませるの。そうすることで、衣装自体が一種の『光学迷彩』のような役割を果たすわ。現場に向かう時、そして立ち去る時、カメラの映像をリアルタイムで歪ませて、残像しか映らないようにするのよ」
「服そのものを魔法のアイテムにしちゃうんだね……」
菜央ちゃんが感心したようにワンピースの裾に触れる。
「善は急げよ! ご飯を食べ終わったら、さっそく衣装の『調律』を始めるわよ。今夜は二人の魔力を衣服に定着させるために、お互いに衣装を着せ付け合うところからスタート!」
「えっ……着せ付け合うって、ボクが菜央ちゃんに……?」
紫苑が少し顔を赤くすると、お姉さんは当然のようにウィンクした。
「そうよ。他人の魔力を衣服に馴染ませるには、肌と生地が触れ合う瞬間の『初期同調』が一番肝心なの。さあ、クレンジングを済ませて、衣装部屋へゴー!」
ーー数分後。
薄暗いライトに照らされた衣装部屋で、紫苑は菜央ちゃんの前に立っていた。
菜央ちゃんはすでにいつものTシャツを脱ぎ、白いキャミソール姿になっている。線の細い、男の子にしては少し華奢すぎる肩先が、部屋の空気の中でほんのりと白く浮かび上がっていた。
「じゃあ……菜央ちゃん、ブラウスを着せるね」
「うん……お、お願いします、紫苑くん」
菜央ちゃんは恥ずかしそうに視線を斜め下に落とし、小さな声を絞り出した。
紫苑はハンガーから淡いピンクのブラウスを取り外すと、菜央ちゃんの細い腕をそっと袖へと通していった。指先が菜央ちゃんの柔らかな肌に触れるたび、ドクン、と胸の鼓動が跳ね上がる。
お姉さんに言われた通り、指先から「風」の魔力を意識しながら、フロントのボタンを上から順に一つずつ留めていく。
「ん……あったかい、な……」
菜央ちゃんが小さく呟いた。
紫苑の指がボタンを留めるたび、ブラウスの生地がほんのりと緑色の光を帯び、菜央ちゃんの身体に吸い付くようにフィットしていく。生地を通じて、紫苑の優しさと、彼自身の光の魔力が心地よく流れ込んでくるのが分かった。
「よし、次はリボンを結ぶよ」
紫苑は菜央ちゃんの首元にミントグリーンのリボンを添え、丁寧に結び目を作った。お互いの吐息が届くほどの距離。菜央ちゃんの長い睫毛が細かく震えているのが、すぐ目の前に見える。
「できた……。すごく似合ってるよ、菜央ちゃん」
紫苑が結び目を整えて手を離すと、菜央ちゃんはゆっくりと顔を上げ、鏡の中の自分を見つめた。
その瞬間、ブラウスの繊維全体からサーッと心地よい微風が吹き出し、菜央ちゃんの身体の輪郭が、まるで陽炎のように一瞬だけブレて見えた。
ピコン。
【永井菜央の専用衣装:『比翼の微風』の初期同調を検知】
【衣服の光学迷彩機能:『残像偽装』が解放されました】
「あ……! 見て紫苑くん、ボクの身体が、鏡の中で少し透けてるみたい……!」
菜央ちゃんが驚きの声を上げる。
お化粧だけでなく、纏う衣装までもが二人の魔力と同調し、世界からその存在を隠すための完璧な「盾」へと進化を遂げたのだ。
「大成功ね!」
衣装部屋のドアの隙間から覗いていたお姉さんが、我が事のように嬉しそうに拍手を鳴らした。
「さあ、次は菜央ちゃんが紫苑にドレスを着せる番よ! お互いの魔力を完全にクロスさせて、どんな監視カメラも捉えられない『無敵の双星』を完成させるわよ!」
「はいっ、ボク、紫苑くんのために一生懸命がんばる!」
菜央ちゃんは気合を入れるように拳を握り、今度は紫苑の方へと一歩歩み寄った。
ギルドがどれだけ泥泥とした追跡網を広げようとも、この部屋で紡がれる少年たちの絆と美しき魔法は、常にその遥か先を行く。二人の秘密のクローゼットの中で、世界を欺く新たな奇跡が、今まさに着々と仕上がろうとしていた。
第38話
「じゃあ、紫苑くん……ボク、着せるね」
菜央ちゃんは少し上気した顔で、ハンガーにかかった純白のフリルワンピースを両手で大切そうに抱え持った。
日常の男の子の服を脱ぎ、白いアンダーウェア姿になった紫苑は、少し気恥ずかしそうに身を縮める。男の子にしては滑らかで白い肩筋に、衣装部屋の淡い光が綺麗に落ちていた。
「うん……よろしくね、菜央ちゃん」
紫苑がそっと両腕を上げると、菜央ちゃんは慎重に、壊れ物を扱うような手つきでワンピースを頭から被せた。
サラリとした上質な生地が紫苑の肌を滑り、フリルの裾が足元へと広がっていく。
「背中のチャック、閉めるよ……?」
「あ、うん……」
紫苑が背中を向けると、菜央ちゃんの細い指先が、紫苑の背線の肌にそっと触れた。
その瞬間、ビクッと紫苑の身体が跳ねる。菜央ちゃんの指先からは、今しがた同調を終えたばかりの、瑞々しい「風」の魔力がじんわりと伝わってきた。
菜央ちゃんは呼吸を整えながら、ゆっくりとチャックを引き上げていく。
一ミリ進むごとに、紫苑の身体に眠る「光」の魔力がドレスの繊維へと吸い込まれ、純白の生地が内側からポォッと神聖な輝きを放ち始めた。
「できた……っ。うわぁ、やっぱり紫苑くん、すっごく綺麗……」
チャックを閉め終えた菜央ちゃんが、正面に回り込んで思わずため息を漏らした。
パフスリーブから伸びる白い腕、キュッと締まったウエストから広がる幾重ものフリル。お互いの魔力が完全にクロスしたことで、ドレスの輝きは昨日までとは比べものにならないほど神々しさを増している。
ピコン。
【外村紫苑の専用衣装:『天聖の衣』の最終同調を検知】
【パートナー:永井菜央の魔力とのクロス結合が完了しました】
【隠蔽スキル:『光学的幻影』が解放されます】
紫苑が自分の手元を見つめると、ドレスの輪郭が周囲の光に溶け込むように、一瞬だけフッと輪郭を失って透けたように見えた。
「これなら、どんな高性能の防犯カメラの前に立っても、ボクたちの姿はただの『通り抜ける光の残像』にしか映らないね……!」
紫苑が喜びを滲ませて鏡に向き直ると、そこにはすでに完璧なシンクロを遂げた、光と風の聖女コンビが並んでいた。
「ブラボー! 完璧、完璧よ二人とも!」
パチパチパチ、とお姉さんが激しく拍手をしながら衣装部屋に入ってきた。その目は、最高級の宝石を完成させた職人のように爛々と輝いている。
「顔の『ステルス・メイク』、肌の『フィニッシングパウダー』、そしてこの『魔力衣服』。これであなたたちの三位一体の防御壁が完成したわ。ギルドがどれだけ街中の防犯カメラをハッキングして逆探知しようとしても、そこには誰も映っていない。あなたたちは最初から、ただの風と光として戦場に現れ、風と光として去っていくのよ」
お姉さんの力強い言葉に、紫苑と菜央ちゃんは深く、強く頷き合った。
お互いに着せ付け合い、お互いの魔力を肌と繊維で感じ合ったことで、二人の魂の結びつきはもう誰にも引き離せないレベルにまで達している。
――その時。
リビングに置いてあったお姉さんのノートパソコンから、ウー、ウー、と短い警告音が響いた。
「あら、ギルドの通信傍受に動きがあったみたいね」
お姉さんが素早くリビングに戻り、画面を確認する。紫苑と菜央ちゃんも、フリルとスカートの裾を揺らしながらその背後に並んだ。
画面に表示されていたのは、ギルド長・和泉康介から各Aランクパーティーへ下された、極秘の指令書だった。
『――おとり作戦の失敗を受け、ターゲット(聖女)が超高等な隠蔽スキルを保持していると断定。これよりフェーズ3へ移行する。都内全域の未登録ゲートの監視を強化し、次回発生時は“能力無効化の結界石”を同時展開せよ。力で姿を暴き、拘束する』
「能力の、無効化……」
菜央ちゃんが小さく息を呑む。
「あいつら、いよいよ力尽くで引き剥がしに来る気ね。お化粧の魔法そのものを掻き消そうっていう魂胆よ」
お姉さんはふっと鼻で笑うと、画面を閉じ、二人の美少女(♂)を振り返った。
「だけど、無駄よ。あなたたちの絆は、そんな既製品の結界石なんかで壊せるほど安っぽくないわ。明日も学校があるんだから、今夜はもうお着替えして寝なさい。次の戦い、ギルドの鼻を完全にへし折ってあげるわよ!」
「「はい!」」
二人の少年は、互いに繋いだ手の温もりを誇るように微笑み合った。
迫り来るギルドの総力戦。けれど、深く結ばれた二人の聖女の輝きは、どんな結界をも撃ち破る準備を、すでに完全に整えていた。
第39話
「能力無効化の結界石、か……」
翌日の放課後、いつものように並んで下校する道すがら、菜央ちゃんが制服のポケットに手を入れながら、ぽつりと呟いた。
初夏の西日が、二人の少年をオレンジ色に染め上げている。
お姉さんの指示通り、今日も日常の姿の『ステルス・メイク』を完璧に施しているため、すれ違うプロの探索者たちも、まさかこの二人が世界を騒がせている聖女コンビだとは夢にも思っていない。
「うん。お化粧の魔法そのものを狙い撃ちにして、ボクたちの正体を無理やり暴くつもりなんだと思う」
紫苑は前を見据えたまま、小さな声を返した。
ギルドの次なる一手は、異能そのものを強制的に解除する特殊な結界。
もしその結界の中で戦うことになれば、お姉さんの『コスメティック・エンチャント』が解け、戦場のど真ん中で「中学生の男の子」の素顔に戻ってしまう危険性があった。正体がバレるだけでなく、ステータス補正が消えれば命に関わる。
「もし、お化粧が落ちちゃったら……ボク、紫苑くんと一緒にいられなくなっちゃうのかな」
菜央ちゃんが不安そうに足を止めた。その瞳が、夕日に揺れている。
紫苑は優しく微笑むと、菜央ちゃんの細い手をそっと握りしめた。
「大丈夫だよ、菜央ちゃん。お姉さんが言ってたじゃない。ボクたちの絆は、そんな既製品の石ころなんかで壊せるほど安っぽくないって。それに……」
紫苑は菜央ちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。
「お化粧は、ただの『偽装』じゃないんだ。菜央ちゃんがボクを想って、ボクが菜央ちゃんを想って重ねた、本物の力だよ。だから、何があっても絶対に解けたりしない」
「紫苑くん……」
菜央ちゃんの頬が、夕日とは違う熱でぽっと赤くなる。紫苑の言葉は、どんな防御魔法よりも強く、菜央ちゃんの心を包み込んでいった。
その時だった。
びりびり、と大気が不気味に震え、二人のスマートフォンが一斉に緊急警告音を鳴らした。
エリアは、彼らが今いる通学路からわずか数百メートル先――閑静な住宅街の一角。
ピコン。
【警告:エリア内にエリアボス級(Bランク高位)ゲートの発生を感知】
【周囲の探索者は、直ちに防衛網を展開してください】
「来た……っ!」
二人は顔を見合わせ、すぐさま路地裏の影へと駆け込んだ。
そこには、あらかじめお姉さんから渡されていたポータブルの衣装ケースが隠してある。二人は手際よく、お互いの制服を脱ぎ、あの魔力を染み込ませたドレスとブラウスへと着替えていく。
「菜央ちゃん、いくよ」
「うん、紫苑くん!」
手早くクレンジングシートで日常のメイクを落とし、互いの顔に向き合う。
タイムリミットは数十秒。けれど、二人の呼吸は完全に重なっていた。光のパレットと、風のチップ。迷いのない指先が互いの肌を滑り、一瞬にして『光と風の聖女』が夕闇の中に降臨する。
【魔力同調率:65%】
【隠蔽結界『純白の帳』、衣装スキル『光学的幻影』――同時発動】
気配を完全に消し去った二人の少女(♂)は、フリルとスカートを翻し、魔物の咆哮が響く現場へと音もなく跳躍した。
そこは、すでに異能取締局の戦闘車両と、ギルドのAランク探索者たちが二十名以上も包囲網を敷いている戦場だった。
中央に君臨するのは、巨大な三つの頭を持つ魔獣『ケルベロス』。
「よし、おとりにかかったぞ! 魔力反応は皆無だが、ゲートの減少速度から見て、奴らは確実にこの中にいる!」
指揮官の咆哮とともに、四隅に配置された巨大なクレーン車から、禍々しい紫色の光を放つ巨大な結晶――『能力無効化の結界石』が、地面へと突き立てられた。
ゴオオオオオンッ!!!
激しい衝撃波とともに、戦場全体が不気味な紫色の結界に覆われる。
「これですべての異能、隠蔽スキルは強制解除だ! 姿を現せ、謎の聖女!」
ギルドの勝鬨が響く中、結界のど真ん中に、光と風の残像を纏った紫苑と菜央ちゃんが、ふわりと着地した。
「……あれ?」
ギルドの探知班が、目を見開いて測定器を二度見する。
強制解除の結界が発動しているというのに、二人の美少女の姿は、一ミリも揺らぐことなく、むしろ夕闇の中でさらに神々しく輝きを増していた。
「馬鹿な、なぜ異能が解けない!? あの姿は幻影ではないのか!?」
驚愕するギルドの面々を余所に、紫苑はローズピンクの唇を吊り上げ、気高き笑みを浮かべた。
「残念でした。ボクたちのこれは――『異能』なんかじゃなくて、『恋(魔法)』ですから」
隣で菜央ちゃんが、ミントグリーンの瞳をきらめかせながら、激しい突風をその手に纏わせる。
ギルドが仕掛けた絶対の結界の中で、二人の聖女の本当の反撃が、今幕を開けようとしていた。
第40話
「な、なぜだ……!? 『能力無効化の結界石』が、完全に機能しているというのに……!」
ギルドの探知班の絶叫が、紫色の結界内に響き渡る。
彼らの手元にある測定器は、結界内のすべての異能が強制解除され、ゼロになっていることを示していた。だが、目の前に立つ二人の美少女――紫苑と菜央ちゃんの可憐な姿は、消えるどころか、夕闇の中でいっそう神々しい輝きを放っている。
ギルドの科学とテクノロジーは知る由もなかった。
お姉さんの施した『コスメティック・エンチャント』は、システムによって付与された一過性の「異能」などではない。
お互いを想い、手を取り合い、肌に触れて紡ぎ出した魂の調律――すなわち、人間自身の意志と絆がもたらした「本物の魔法」なのだ。
「菜央ちゃん、いこう!」
「うん、紫苑くん! ボクたちの風で、全部吹き飛ばしちゃおう!」
菜央ちゃんが強く地を蹴ると、ドレスの繊維から爆発的なエメラルドグリーンの風が巻き起こった。
無効化の結界などまるで意味をなさず、むしろ抑圧されていた反動で、その風はいつも以上に鋭く、力強い。
「ガルルルァァッ!?」
三つの頭を持つ巨獣『ケルベロス』が、迫り来る風の圧に怯え、巨大な爪を地面に突き立てて踏みとどまろうとする。だが、菜央ちゃんが細い両腕を大きく振るうと、結界の天井をも切り裂くような『烈風の嵐』が、ケルベロスの巨体を容赦なく宙へと巻き上げた。
「すごいや、菜央ちゃん……! ボクも、全力でいくよ!」
紫苑は光のドレスの裾を翻し、宙に浮いたケルベロスを見上げて両手を掲げた。
その手のひらに集束していくのは、世界を優しく照らし、すべての悪意を浄化する純白の光。
『能力無効化』という絶望の檻の中で、二人の少年はお互いの瞳を見つめ合い、確信に満ちた笑みを交わした。
【魔力同調率:70%】
脳内に響くシステム音声さえも、二人の熱い恋心に祝福を与えるかのように高らかに鳴り響く。
「これで終わりです――『双星の・聖域』!!」
紫苑のローズピンクの唇から紡がれた言霊とともに、極大の光の奔流が放たれた。
菜央ちゃんが作り出した嵐の軌道に乗り、光は螺旋を描きながらケルベロスを完全に包み込む。
ズドォォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃音とともに、結界のど真ん中で純白の太陽が爆発したかのような閃光が弾けた。
それはギルドの『無効化の結界石』そのものを内側から粉々に砕き、禍々しい紫色の空間を、一瞬にして元の美しい夕焼け空へと塗り替えていく。
「ア、ア、エリアボスが一撃で……消滅……!?」
唖然と立ち尽くすギルドの探索者たち。
光の粒子と爽やかな夜風が戦場を吹き抜ける中、彼らの前に残されていたのは、傷一つない綺麗なアスファルトと、ただ静かに佇む二人の美少女の残像だけだった。
「局長! 結界石、四基ともすべて完全大破! 魔力測定不能……ターゲットの追跡、完全に不可能です!」
通信機から流れる悲痛な報告を聞きながら、スカウト局長はガタガタと震える手でマイクを握りしめることしかできなかった。
力尽くで引き剥がそうとした結果、ギルドは彼女たちの底知れない「底力」を、身を以て知ることになったのだ。
ーー数分後。
作戦エリアから遠く離れた、いつもの静かな裏路地。
「はぁ……っ、やったね、紫苑くん!」
「うん、やったよ菜央ちゃん……!」
二人は衣装の迷彩機能を切り、素顔の中学生の男の子へと戻りながら、お互いの身体を強く抱きしめ合った。
結界の中で「お化粧が落ちるかもしれない」という恐怖に打ち勝ち、自分たちの絆が本物だと証明できたことが、何よりも嬉しかった。
日常を守り抜いた達成感に浸る二人のポケットで、スマートフォンがピコンと音を立てる。
画面には、お姉さんからの特大のハートマークと、一枚の写真が届いていた。
【お姉ちゃん:大・大・大勝利ね! ギルドの鼻をへし折った記念に、今夜は最高級のお肉で焼肉パーティーよ! 早く帰ってきなさい、ボクたちのヒーロー(聖女様)!】
「あはは、お姉さん、もう準備してるよ」
「うん、お腹ペコペコだね、紫苑くん」
二人は顔を見合わせてクスクスと笑い、繋いだ手をさらに強く、恋人同士のようにしっかりと握り直した。
世界がどれだけ牙を剥こうとも、この最強の魔法と、隣にいる特別な人がいる限り、彼らの平穏な日常が壊されることは決してない。少年たちは夕闇に包まれた街の中を、幸せな笑顔で家路へと急ぐのだった。




