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第62話 似姿を越えて

二条院──北の方の御局


几帳の向こうに、北の方が座している。


端然。


静謐。


そして、圧。


その前に正座する源氏の君。


(戦だ。)


心の中で呟く。


これまで幾度となく修羅場を潜り抜けてきた。

だが今回は違う。


今回は——自分から来た。


「……本日は、珍しく改まっておられますね。」


北の方の声は、穏やか。穏やかだが、逃げ道はない。


「うむ。」


源氏の君、咳払い。


「少し、相談があってな。」


「女人のことですか?」


即答。


早い。


「……なぜ分かる。」


「それ以外で、あなたが“相談”と仰ることはございません。」


ぐうの音も出ない。


源氏の君、正座を微妙に直す。


「——北山で、一緒に姫君を見かけただろう。」


「ええ。雀の子が逃げたと泣きそうになっていたあの子でしょうか。」


わかっている、という声。


「身元を調べたのだが……十ほどの姫でな。」


沈黙。


空気が一段冷える。


「……十。」


「いや、その、出自は高く、将来も危うい立場で——」


「お可愛らしい姫でしたね。」


にこり。笑顔。怖い。


「母上に、少し似ていてな。」


ぴたり。


北の方の手が止まる。


源氏の君、内心で紗世の顔を思い出す。


(守るなら最後まで守れ。北の方にも話せ。)


逃げるな。


「私は——」


深呼吸。


「あの姫を引き取りたいと考えている。」


沈黙。


長い。


庭の鹿威しの音が、やけに響く。


「……保護、でございますか?」


源氏の君の背筋が伸びる。


「保護だ。」


即答。


「欲しいから、ではなく?」


痛いところを突く。


(和泉殿か、あなたは。)


「違う。」


言い切る。


「後ろ盾を失えば、不遇になる。私は、それを避けたい。」


北の方はしばらく源氏の君を見つめる。


「途中で、手放されませんね?」


「……」


一瞬詰まる。


北の方、目を細める。


「途中で“やはり懐かしくなくなった”などと仰いませんね?」


(ホントに、和泉殿とは繋がってないのか!?)


「言わぬ!」


思わず声が大きくなる。


北の方、くすりと笑う。


「声が大きい時は、少し動揺なさっている証拠です。」


「動揺しておらぬ。」


「では、なぜ正座が三度も崩れたのでしょう。」


源氏の君、そっと座り直す。


(戦だ。)


北の方は扇を閉じる。


「その姫は、あなたの母上ではありません。」


「分かっている。」


「あなたの寂しさを埋める役目も、負いません。」


「……分かっている。」


「ならば。」


一拍。


「引き取りなさいませ。」


源氏の君、顔を上げる。


「よいのか?」


「ええ。」


さらり。


「あなたが“守る”と決めたのでしょう?」


見透かした目。


「その代わり。」


やはりあった。


「わたくしに隠し事をなさらぬこと。」


「……うむ。」


「そして、姫を育てる責任を、あなたご自身が負うこと。」


「もちろんだ。」


北の方は微笑む。


「では、わたくしは“継母役”でございますね。」


「継母などと申すな。」


「では何と?」


「……共に、守る者だ。」


少しだけ、北の方の目が柔らぐ。


「珍しいことを仰いますね。」


「和泉殿に言われたのだ。」


しまった。


北の方の眉がぴくり。


「和泉殿に?」


「いや、その、相談をな。」


「わたくしより先に?」


源氏の君、固まる。


(戦、第二幕。)


北の方はにこやかに言った。


「和泉殿には、どのように?」


「ほ、保護か欲かと問われた。」


「……良い問いですね。」


静かに。


「和泉殿は、賢い。」


源氏の君は思う。


(敵か味方かわからぬが…。)


北の方は立ち上がる。


「では、姫が来られる日を整えましょう。」


歩きながら、ぽつり。


「十歳、ですか。」


止まる。


振り向く。


「源氏の君。」


「な、なんだ。」


「次は、せめてわたくしより年上にしてくださいませね。」


「次はない!」


即答。


北の方は、くすくす笑いながら几帳の奥へ消えた。


源氏の君は一人、深く息を吐く。


(勝ったのか、負けたのか。)


だが一つだけ確かなことがある。


逃げなかった。


そして、北の方は——共に守ると言った。


戦は終わった。


いや。


新しい戦の始まりかもしれぬ。




───────



北山は、都よりひと足早く夏の匂いを含んでいた。


若葉の青が濃くなり、風が梢を渡るたび、山の影が揺れる。

牛車を降りた源氏の君は、ほんのわずかに目を細めた。


都の光は華やかだが、ここは静かすぎる。


僧都の庵にほど近い、祖母君の住まいは、質素ながらも気品を失ってはいなかった。几帳越しに漂う香は、弱く、細い。病の匂いを隠すほどの強さはない。


案内され、源氏の君は畳に手をついた。


「このたびは、お加減いかがにございますか」


几帳の向こうで、かすれた声が返る。


「山の風に支えられております。都の御方には、少し退屈な地でございましょう。」


試すような響きだった。源氏の君はわずかに微笑む。


「静かなところほど、心の声がよく聞こえます。」


一瞬の沈黙。


祖母君は、ゆっくりと言った。


「では、お心の声に従ってお越しになったのでしょうか。」


真っ直ぐな問い。


都で交わされる曖昧な言葉は、ここでは通じない。源氏の君は、ほんのわずか、息を整えた。


「姫君のことにございます。」


その名を出した途端、几帳の向こうの空気が張り詰める。


「この山里においては、いささか窮屈にございましょう。学ぶにも、交わるにも限りがございます。――わたくしが後見を務めとう存じます。」


さらりと述べたが、その声音には軽さはなかった。


祖母君はすぐには応じない。

代わりに、別の声が、縁のほうから弾んだ。


「都のお方!」


小さな足音。


几帳の隙間から、幼い顔がのぞく。


黒々とした髪、澄んだ瞳。

風を含んだような笑み。


「前、いらしてたお方ですよね。またいらしたの?」


源氏の君は思わず目を和らげた。


「また来ては、いけなかったかな。」


「ううん。都のお話、聞きたいの。」


無邪気な声。何の疑いもない。


源氏の君の胸に、わずかな痛みが走る。


――似ている。


その思いがかすめる。だが今は、それを押し込める。


この子は、誰かの影ではない。


目の前で笑う、一人の姫だ。


祖母君の声が、静かに落ちた。


「姫は、何も知りませぬ。」


「ええ。」


「都へ出れば、風は甘くもあり、また鋭くもありましょう。」


「承知しております。」


「途中で手放すことはなりませぬ。気まぐれも、飽きも、許されませぬ。」


源氏の君は、若紫を見た。


彼女は袖をつまみ、まっすぐに見上げている。


「都って、遠いの?」


その問いに、源氏の君は答える。


「遠いが……寂しくはさせぬ。」


祖母君の気配が、わずかに揺れた。


「そのお言葉、違えませぬか。」


都では、誓いなどいくらでも交わされる。

だがここでの言葉は、山に吸い込まれ、逃げ場がない。


源氏の君は深く、頭を下げた。


「違えませぬ。」


しばしの沈黙。


やがて祖母君は、細く息を吐いた。


「姫を、姫としてお育てくださるなら。」


条件は一つ。


“誰かの代わり”としてではなく。


源氏の君は、静かに頷いた。


若紫は、何も知らぬまま、嬉しそうに言う。


「都のお庭には、蛍はいる?」


源氏の君はふと笑った。


「いるとも。だが、ここほど素直には光らぬ。」


──


やがて話は、穏やかなところへ落ち着いた。


姫を都へ迎えることに、祖母君は異を唱えなかった。

ただし――今すぐではなく。


「わたくしの命も、そう長くはございますまい。」


几帳の向こうで、祖母君は静かに言う。


「それでも姫は、最期までこの山に在りたいと申します。幼いなりに、別れというものを感じておるのでしょう。」


若紫は意味を十分に理解しているわけではない。

けれど、祖母の袖を握る指先には、確かな意志があった。


「おばば様が眠るまで、いっしょにいるの。」


その声に、祖母君は目を細める。


源氏の君は、しばし黙した。


都へ連れ帰ることは、難しくない。

だがそれは、この小さな心を置き去りにすることでもある。


「……ご尤もにございます。」


静かに、そう答えた。


「姫が望まれるままに。山の夏を、最後までお過ごしなさいませ。」


祖母君の気配が、わずかに和らぐ。


「では、その後は」


「はい。責をもって、お預かりいたします。」


約束は、急がぬことでかえって重みを増した。


若紫は、二人のやり取りを半ば分からぬまま聞き、やがて源氏の君に駆け寄る。


「じゃあ、また来てくれる?」


「来よう。何度でも。」


「ほんと?」


「ほんとだ。」


幼い笑みが、初夏の光の中でほどける。


山の風が吹き抜ける。


都へ移る日は、まだ少し先。


若紫は、祖母のそばで、もうひと季節を過ごす。


源氏の君は初めて、“似ているから”ではなく、“この子の未来を、自分が引き受ける”という重みを感じていた。


そしてそれは、甘やかな欲よりも、ずっと重かった。


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