第350話 隣に立つために
───翌日・四条邸台盤所
簡素な衣にたすき掛けをした紗世が、腕を組んで食材とにらめっこしていた。
四条邸の台盤所責任者である多治比が、紗世の顔を伺う。
「姫様、お料理は何を作られますか?」
紗世はしばらく黙って考えたあと、口を開いた。
「天ぷら……とか、揚げ物料理にしようと思ってるんだけど。」
「天ぷら?」
「小麦粉と水で衣を作って、食材を揚げるの。前に唐揚げって作ったでしょ? 調理法は唐揚げと同じだよ。」
「唐揚げですか! あれはとても美味でございましたな!」
多治比が嬉しそうに笑う。
紗世は、なおも腕を組んだまま考えていた。
天ぷら、揚げ物と言っても色々ある。
野菜、魚、肉、きのこ……。
(秋だし、きのこの天ぷらも良いし、魚もあった……。さつまいもも良いな。)
そして、ふと試作用として貰ってきた食材の一つに目を止めた。
木箱に入った、その食材。
木箱には、『讃岐』の文字が記されている。
紗世が木箱を開けると、そこには乾麺の素麺が収められていた。
(みんな……元気かな。この素麺は製麺所のみんなの手で生み出されたんだよね。)
紗世は素麺を手に取った。
すると、ある料理が頭に浮かんだ。
「よし!」
紗世は袖を捲り、試作に取り掛かった。
───午後
夕刻前、兼成が帰ってきた。
台盤所から、香ばしい匂いが漂ってくる。
「この匂い!……姫が料理をしているのか!?」
迎えに出た栄に聞いた。
「ええ。明日に控えた観月の宴の試作だそうです。」
「あ……ああ。そうだったな。」
兼成は、どこか複雑そうな顔をした。
紗世の料理は好きだし、食べたい。
しかし、その料理をきっかけに、帝の興味を余計に引いてしまったら――。
そんな懸念もあった。
兼成は自室へ着くと、静かに座して考えた。
(お主上が姫を宴に呼んだのは、純粋に料理に興味があるだけなのか、それとも姫自身も気に入ったからなのか。)
兼成は天井を仰いだ。
(観月の宴も、あのクソ叔父がお主上に進言したのだとしたら……。)
「何かあるかもしれぬな……。」
小さく独りごちた。
兼成は、叔父である藤原家宗のことをよく知っている。
自分の思い通りに事を進めるためなら、汚い手も平然と使う人間だ。
いくら父親である兼成が姫の入内に反対したとて、家宗にとっては何でもないことだろう。
帝の謁見の場。
帝や高位貴族が集まる観月の宴。
兼成が介入できないところで、紗世を帝に会わせようとしている。
狡猾な家宗らしいやり方だった。
「己の栄華のために、一族の者を駒扱いするところ……昔と変わらんな。」
兼成は苦々しい顔をした。
「姫を駒などにさせるものか。」
───
手順を教わった多治比が、試作を揚げている時だった。
「姫様、惟成様がいらっしゃいましたよ。」
真砂の声が台盤所に響いた。
多治比の手元を覗き込んでいた紗世が、ぱっと顔を上げる。
「姫様、手順は分かりました。惟成様をお出迎えに行ってください。」
「ありがとう。あとはお願いね。惟成迎えに行ってくる! 真砂、着替えるから手伝って。」
紗世はぱたぱたと廊下を渡って行った。
惟成は、通された部屋へと腰を下ろした。
(なかなか続けて来れないな。)
紗世の元へ通い、三夜を重ねたい。
そう思っているのに、ここへ来てから夜警の仕事が頻繁に回されるようになった。
(これも妨害なのか……。)
惟成は頭を抱えた。
これまで、武芸の腕を磨けばいいと思っていた。
強くなれば、紗世を守れる。
与えられた任を果たし、武官として功を立てれば、それで十分だと思っていた。
だが――。
それだけでは足りない。
自分よりも身分の高い者が紗世を望めば、自分には拒む力すらない。
どれほど武芸に秀でていても、政や身分の壁を越えることは出来ない。
(やはり、武芸の腕だけではダメだ。)
惟成は、ゆっくりと拳を握った。
(紗世のためにも、出世しなければ。使われる側ではなく、使う側に回らねば……。)
今まで、出世したいなどと思ったことはなかった。
ただ任を果たし、武官として腕を磨く。
それでいいと思っていた。
だが今は違う。
紗世を守るためには、自分自身が力を持たなければならない。
そのためには、もっと上へ行く必要がある。
惟成の胸に、初めて「出世したい」という欲が芽生えた。
すると、部屋に兼成がやって来た。
「兼成様。お邪魔しております。」
惟成は軽く頭を下げた。
「うむ。惟成、姫が明日の観月の宴に呼ばれたことを知っておるか?」
「観月の宴!?」
(もう、お主上に呼ばれたのか。)
惟成の心臓が強く脈打った。
「三夜、通えそうか?」
兼成は惟成を見た。
「いえ……夜警の仕事をここに来て頻繁に回されまして……。」
「やはり、強引な手で来るか。」
兼成は、深いため息をついた。
惟成は少し黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「兼成様。」
「なんだ。」
「私は……出世したいと思っています。」
兼成が目を見開いた。
「ほう。」
「今まで、そんなことを考えたことはありませんでした。武芸を磨いて、与えられた任を果たせば、それでいいと思っていたので。」
惟成は自分の手を見つめた。
「ですが、それだけでは紗世を守れないと分かりました。」
「……。」
「私より身分の高い者が紗世を望めば、私には何も出来ない。」
惟成の声は静かだった。
「どれだけ武芸に秀でていても、身分や政には敵わない。」
兼成は黙って惟成を見つめている。
「だから……もっと上へ行きたいのです。」
惟成は顔を上げた。
「私自身が力を持って、紗世を守れるようになりたい。」
「出世して……権力を持ちたいということか。」
「はい。」
惟成は迷わず答えた。
「ただ、私自身が偉くなりたいわけではありません。」
「では、何のためだ?」
「紗世のためです。」
即答だった。
兼成はしばらく何も言わなかった。
やがて、ふっと息を吐く。
「……そうか。」
そして、惟成をまっすぐ見た。
「惟成。権力というものは、持てば持つほど、自分の望み通りに使えるものではなくなるぞ。」
「承知しております。」
「それでも欲しいか。」
「はい。」
惟成は強く頷いた。
「紗世を守るために必要なら、欲しいです。」
兼成は、その言葉を聞いて静かに目を細めた。
「……以前のお主なら、そんなことは言わなかっただろうな。」
「私も、そう思います。」
惟成は苦笑した。
「ですが……紗世を失うかもしれないと思ったら、今までのままではいられません。」
兼成はしばらく惟成を見つめていた。
そして、僅かに口元を緩める。
「ならば、強くなれ。」
「……はい。」
「武芸だけではない。人の上に立つなら、人を見る目も必要だ。己を利用しようとする者がいれば、利用されぬだけの力も持て。」
「はい。」
惟成は深く頭を下げた。
「必ず。」
その返事には、これまでとは違う強さがあった。
兼成は、それを聞きながら静かに頷いた。
「……そうか。」
「それならば、儂もお主を応援しよう。」
惟成が顔を上げる。
「兼成様……。」
「ただし。」
兼成は、少しだけ険しい顔をした。
「出世するために、姫を置き去りにするような男にはなるな。」
「……もちろんです。」
惟成は即座に答えた。
「私が上へ行きたいのは、紗世の隣に立つためです。」
兼成は一瞬目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「ならば、儂も安心だ。」
惟成も静かに笑った。
だが――。
その二人の知らないところで、明日の観月の宴へ向けて、家宗の策は着々と進んでいた。




