第340話 夜更けの訪問
───夜・四条邸
外は既に暗くなり、戌の刻から亥の刻へと変わろうとしていた。
「それでは紗世様。お休みなさいませ。」
「うん。おやすみ。」
真砂は御帳台の帳を下ろし、静かに退出した。
虫の声も小さくなり、邸内の灯りもほとんど消えている。
月は雲に隠れ、静かで暗い夜だった。
(今日は、色々あったな……。)
紗世は小さく息を吐いた。
(お主上に会って、お主上はうどんが好きだと仰って、また話を聞かせてくれって……。)
紗世は蝋燭の灯を見つめた。
(それから……鷹丸様は中務卿宮様で……私のこと、まだ諦めてないって。これからもアプローチしてくるって……。)
ふと、脳裏に昼間の惟成の姿が浮かんだ。
汚れたままの狩衣。
内裏の門まで迎えに来てくれたこと。
中務卿宮様と一緒に帰ると言った時の、惟成の顔。
無表情だったが、紗世には分かった。
──傷付けた。
「鬼退治、きっと急いでくれたんだろうな……。」
紗世の胸が、ちくりと痛んだ。
「もし、宮様と再会してなかったら、一緒に帰ってきて……もしかしたら、今日から三夜通いやり直してたかもしれないのに……。」
中務卿宮にいくら好きだと言われても、考えるのは惟成のことだった。
考えれば考えるほど、想うのは惟成のことばかり。
(考えても、仕方ないよね。もう寝よう。)
紗世は、ふうっと蝋燭の灯りを消した。
そして床に入り、目を瞑る。
(明日は、惟成来てくれるかな……。会いたいな……。)
───
四条邸内の灯りはほとんど消え、灯りがあるのは門の篝火くらいだった。
四条邸の門から少し離れた所に、男が立っていた。
惟成だった。
(もう亥の刻になる。もう紗世は休んでいるだろうな。)
本当は、申の刻頃に一度四条邸を訪ねていた。
だが、その時はまだ中務卿宮が滞在していた。
会いたかった。
しかし、今はもう亥の刻に入ろうとしている。四条邸の灯りも、ほとんど消えていた。
流石に、この時刻に紗世を訪ねるわけにはいかない。
(宮様の気持ちは、まだ変わっていない。それを聞いて、紗世はどう思った? 遅い時間まで宮様と何を語った? もしかして、次の約束をしたり……。)
焦りと不安。
そんな感情で埋め尽くされていると、自分でも分かっていた。
冷たい秋の風が吹く。
どれほどの時間、そこに佇んでいたのか。
「………流石に非常識か……。帰るか。」
そう言って、惟成は踵を返した。
自分では、そう思った。
しかし、惟成の身体は四条邸の塀を飛び越えていた。
───
惟成は静かに庭を回り、紗世の部屋へと向かった。
天狗の修行により、人に見つからず紗世の部屋へ行くことは容易だった。
だが、惟成は敢えて邸の者に見つかるよう歩いた。
こっそり忍び込むつもりはなかった。
紗世に会いたいという己の気持ちを、隠すつもりもなかった。
「そこにいるのは誰ぞ。」
庭の隅で、使用人の男に声をかけられた。
小さな灯りで、惟成の顔が照らされる。
「こ……惟成様! このような刻に、一体……。」
惟成は人差し指を口に当て、声を抑えるような仕草をした。
「こんな夜更けに、すまぬ。迷惑と重々承知している。」
四条邸の者は全員、紗世と惟成の関係を知っている。
そして、邸の主である兼成も、惟成を認めていることも。
邸の中には、既に惟成を紗世の夫同然に思っている者も少なからずいた。
この男も、そんな一人だった。
「姫様の元へ行かれますか。」
「ああ。……会いたいのだ。」
この男も、今日、中務卿宮が来ていたことを知っていた。
だからこそ、惟成がどんな想いでこんな時刻に来たのかも、なぜこんなにも切なげな顔をしているのかも、痛いほど分かった。
「姫様のお部屋へ行くのでしたら、こちらを回って行かれると良いでしょう。遠回りですが、ほとんど人と鉢合わせることはないので。」
「ああ。ありがとう。」
そう言って、惟成は暗い邸の廊下を静かに渡っていった。
紗世の部屋の前に来ると、惟成は深呼吸をした。
何度も夜を共にしたはずなのに、なぜか緊張していた。
静かに、小さく簾を開ける。
御帳台の中から、微かな寝息が聞こえた。
帳を捲り、中へと身体を滑り込ませる。
紗世が眠っていた。
寝息に合わせて、胸が小さく上下している。
惟成はしばらく紗世の寝顔を見つめていた。
(今日は、お主上とどんな話をした? どんな声をかけてもらった? 宮様とは何を話していた?)
聞きたいことが、次から次へと脳裏に浮かぶ。
だが、眠っている紗世を起こしてまで尋ねることはできなかった。
(お主上に宮様……なぜ紗世に興味を示すのは、高貴な方ばかりなのだろうな。)
惟成は、思わず苦笑した。
ザアアア……
その時、強い風が吹いた。
帳の隙間から風が吹き込み、紗世の一筋の髪が顔にかかる。
惟成は、かかった髪を指で掬い、耳にかけようとした。
「…………っん……冷た………。」
髪を掬った時、惟成の指が紗世の頬に触れた。
紗世は、うっすらと目を開けた。
「え………。」
すぐに分かった。暗闇に浮かぶ見慣れた影。
「惟成………。」
紗世の顔に笑みがこぼれた。




