第304話 天狗の修行
───塩江・山中
朝靄の残る山中を、惟成は一人歩いていた。
木々の間から差し込む朝の光はまだ淡く、濡れた土からは冷たい匂いが立ち上っている。
昨夜までの疲れは、身体の奥に重く残っていた。
それでも足を止めることはなかった。
山道を抜けた先、苔むした大岩の上に天狗が立っている。
「来たか。」
「……ああ。」
「日が昇りきるのも待たずに戻ってくるとは感心だ。人間というものは、もっと休みたがるものだと思っていた。」
「時間がない。」
惟成は短く答えた。
「讃岐にいられるのは、ひと月もない。それまでに、できる限りのことを身につけたい。」
天狗は惟成をしばらく眺めていたが、やがて小さく笑った。
「なるほど。では、時間を惜しむお前に、まず一番大切なことを教えてやろう。」
「何だ?」
「立て。」
惟成は眉をひそめた。
「……立っているが?」
「その立ち方を捨てろ。」
「何?」
天狗が近づき、惟成の肩へ指先を置いた。
ほんの僅かに押す。
それだけだった。
それなのに、惟成の身体が揺れた。
「……。」
惟成は無意識に足へ力を込める。
すると天狗は、今度は胸を押した。
ぐらり。
また身体が揺れる。
「踏ん張るな。」
「踏ん張らなければ倒れる。」
「ならば、倒れぬ場所に身体を置け。」
惟成は黙った。
意味が分からない。
武官として剣を振り、馬を駆り、幾度も実戦を経験してきた。身体の使い方には自信がある。
だが――目の前の天狗にとって、それらは何の意味もないらしい。
「お前は足で立っている。」
天狗が惟成の腹を指した。
「ここで立て。」
「腹で立つ……?」
「そうだ。身体の中心をここに置け。」
惟成は言われるまま、腹の奥へ意識を集めた。
肩の力を抜く。
膝をわずかに緩める。
足の裏から伝わってくる地面の感触を確かめる。
そして、静かに息を吐いた。
天狗の指が肩に触れる。
今度は――
揺れなかった。
「……。」
惟成自身も、わずかに目を見開く。
「今のが、丹田を意識して立つということだ。」
「まだよく分からん。」
「分からなくていい。身体に覚えさせろ。」
天狗は再び惟成を押した。
肩。
胸。
腰。
背中。
押されるたびに、惟成の身体は僅かに揺れる。
それでも先ほどのように、足だけで踏ん張ることはなくなっていた。
「剣を振る時も同じだ。」
天狗は言った。
「腕だけで振るな。足だけで踏み込むな。身体の中心から力を伝えろ。」
「……。」
「お前は今まで、腕で剣を振り、脚で地面を蹴っていた。」
「そうだ。」
「それでは遅い。」
惟成は黙って自分の手を見た。
剣を握る。
いつもと何も変わらない。
なのに、今まで当たり前だと思っていた身体の使い方が、急に頼りないものに思えてきた。
「次は呼吸だ。」
「もう次か。」
「時間がないのだろう?」
惟成は小さく笑った。
「……そうだったな。」
それから数刻。
惟成は山道を走っていた。
坂を上り、岩を越え、木の根を避けながら、ただひたすらに走る。
最初のうちは何でもなかった。
だが、次第に息が上がってくる。
肺が熱くなり、胸が大きく上下する。
「呼吸を整えろ!」
背後から天狗の声が飛ぶ。
「走っているのに、どうやって――」
「だから覚えるのだ!」
惟成は歯を食いしばった。
吸う。
吐く。
肩を上げない。
腹の奥へ息を落とす。
一歩。
また一歩。
身体は苦しい。
それでも呼吸を乱さないよう意識する。
すると、不思議なことに、ほんの少しだけ身体が軽くなった。
「……。」
天狗はその変化を見逃さなかった。
「今だ。」
「何が?」
「余計な力が抜けた。」
惟成は走りながら、自分の身体を探った。
確かにそうだった。
肩も、腕も、脚も、先ほどまでより僅かに自由になっている。
「戦う時も同じだ。」
天狗が言う。
「恐怖や焦りで呼吸が乱れれば、身体は固まる。身体が固まれば、動きも遅くなる。」
「だから呼吸を支配するのか。」
「違う。」
天狗は笑った。
「呼吸に身体を合わせるのだ。」
惟成は、その言葉を胸の内で繰り返した。
呼吸に身体を合わせる。
今まで考えたこともなかった。
翌日。
惟成は一本の大樹の下に立っていた。
風が吹くたび、枝葉がかすかに揺れる。
天狗はその枝の上に腰を下ろしていた。
「今日も立っていろ。」
「それだけか?」
「そうだ。」
天狗が枝を軽く揺らした。
さらさらと葉が舞い落ちてくる。
一枚が惟成の肩へ落ちた。
「……?」
「避けろ。」
「葉を?」
「身体に触れさせるな。」
惟成は呆れたように息を吐いた。
だが、次の瞬間には二枚、三枚と葉が落ちてくる。
惟成は身体を捻った。
一枚を避ける。
次の一枚が頬へ向かう。
首を傾ける。
さらに一枚。
今度は肩を引く。
「遅い。」
「避けているだろう。」
「目で見てから動いている。」
「それの何が悪い?」
「敵は、お前が見てから斬ってくれるのか?」
惟成は言葉を失った。
天狗は枝を大きく揺らした。
一度に数十枚の葉が舞い落ちる。
惟成は身を低くし、身体を捻り、足を運ぶ。
だが――
一枚が頬に触れた。
「……。」
天狗が笑った。
「顔に触れたな。」
「分かっている。」
「今は十七枚。」
「数えていたのか。」
「当然だ。」
惟成は呆れながらも、再び木の下へ立った。
何度も繰り返す。
葉の落ちる音。
風の向き。
枝の揺れ。
それらを感じながら、目で追うより先に身体を動かす。
やがて――
葉が頬を掠めることはなくなっていった。
天狗が満足そうに目を細める。
「少しは分かってきたようだな。」
「目で見るより先に、風や音を感じる。」
「そうだ。」
「これが敵の気配を読むということか。」
「その入口だ。」
木の葉を避けられるようになった頃。
天狗は地面から小石を拾った。
「今度はこれだ。」
「……。」
惟成は嫌な予感を覚えた。
「避けろ。」
次の瞬間、小石が飛んできた。
ヒュッ――
惟成が首を傾ける。
石が耳元を抜けていった。
「今のは見えていたな。」
「見えていた。」
「では、これはどうだ。」
二つ。
三つ。
四つ。
小石が次々と飛んでくる。
惟成は身体を捻り、身を沈め、時には腕で弾いた。
だが――
五つ目が脇腹に当たった。
「っ……!」
「遅い。」
「分かっている。」
また飛んでくる。
避ける。
弾く。
転がる。
立ち上がる。
それでも、身体は少しずつ変わっていった。
小石が飛んでくる。
その瞬間、目が追うより先に身体が動く。
風の変化。
空気を裂く音。
天狗の腕の動き。
それらが一つの感覚として身体に伝わってくる。
そしてある時――
惟成は目を閉じた。
「何をしている?」
「見ない。」
「ほう。」
天狗が小石を放つ。
ヒュッ。
惟成の身体が僅かに傾く。
石が頬を掠めた。
二つ目。
一歩下がる。
三つ目。
刀の鞘で弾く。
カンッ。
天狗の顔から笑みが消えた。
「今のだ。」
「……。」
「今、お前は見ていなかった。」
惟成はゆっくり目を開けた。
「気配だけで動いたのか。」
「そうだ。」
天狗は頷いた。
「ようやくだ。」
それからさらに数日。
山中の開けた場所に、二人は向かい合っていた。
惟成は刀を構えている。
対する天狗は、何の構えも取らない。
「今日は何をする?」
「戦う。」
惟成の口元が僅かに上がった。
「ようやくか。」
「嬉しそうだな。」
「ここまで来て、まだ葉や小石を避けるだけでは物足りん。」
「では来い。」
惟成は地を蹴った。
以前なら、脚の力だけで踏み込んでいた。
今は違う。
丹田を意識する。
呼吸を合わせる。
身体の中心から力を伝える。
一閃。
天狗は身体を僅かにずらして避けた。
惟成は止まらない。
二撃。
三撃。
刀と刀がぶつかる。
カァンッ!
衝撃で手が痺れる。
それでも身体の中心は崩れない。
天狗の拳が迫る。
惟成は――
避けた。
拳が来るのを見てからではない。
その前に身体が動いていた。
「……!」
天狗の目が細くなる。
惟成は踏み込む。
刀を返す。
斬り上げる。
天狗が受ける。
カァンッ!
弾かれる。
だが、惟成は倒れない。
一度身を沈め、呼吸を整え、再び構える。
天狗は黙って惟成を見ていた。
「……少しは、人間らしい動きになってきたな。」
「それは褒めているのか?」
「褒めている。」
「ならば、もう一度だ。」
惟成が構える。
天狗が笑う。
「いい。」
風が吹き抜けた。
木々がざわめき、木の葉が一斉に舞い上がる。
その向こうで、天狗の姿がふっと消えた。
惟成の身体が動く。
次の瞬間――
カァンッ!!
山中に、鋭い刃の音が響き渡った。




