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第26話 戌の刻の攫い

「和泉殿。」


取次ぎ役の女房に呼び止められ、紗世は足を止めた。


「簪職人の遣いの方が来てるわ。何か急ぎの用らしいのよ。」


「えっ? こんな時間に? もう戌の刻になるのに……。」


注文内容に不明点でもあったのだろうか。

紗世は首を傾げながら、ぶつぶつと独り言をこぼしつつ門へ向かった。


門前には、腰の低そうな中年の男が立っていた。

何度も頭を下げながら、申し訳なさそうに口を開く。


「へえ、すいません。親方がどうしてもこの部分を確認しねえと簪が作れねぇって言うもんでして……。」


男は頭を掻きながら、懐から紙に包まれた簪を取り出した。


「ええと……どの簪の、どの部分でしょう?」


紗世が男の手元を覗き込んだ――その瞬間だった。


──ガバッ!


背後から、強い力で羽交い締めにされる。


「────むぐっ!!」


口に布を押し込まれ、声が塞がれた。


「よしっ! 早くしろ!」


職人の遣いを名乗っていた男が、小声で合図を送る。


(なにこれ……まさか……誘拐!?)


体を持ち上げられ、足をばたつかせるが、空を切るだけだった。


紗世は抱えられたまま、少し離れた場所に停めてあった小さな牛車へと運ばれ、そのまま押し込められた。


改めて口に布が巻かれ、さらに男が紗世の衣の裾を踏むようにして腰を下ろす。


(裾、踏まれた……身動き、取れない……!)


「よし、出せ。」


ギイ、と音を立てて牛車が動き出した。


「悪いな、女房さんよ。別に傷つけたりはしねえ。とあるお方の所へ行くだけだ。心配すんな。」


(いや、どう見ても悪人面だし……心配要素しかないんだけど!!)


内心で叫びながら、紗世は必死に思考を巡らせた。


(私を攫ったのは二人。

一人はここで裾を踏んでる男。

もう一人は、外で牛を引いてるはず。


牛車である以上、速度は遅い。飛び降りても致命傷にはならない。

ただ、このまま遠ざかれば戻るのが難しくなる。

時間も遅いし、独りで戻れば野盗や野犬の危険もある……。


ここから離される方がもっと危険。)


紗世は静かに目を閉じ、呼吸を整えた。


(落ち着け。状況整理。

飛び降りれば追ってくるのは一人……多分。

すぐ捕まる可能性は高いけど、大声を出せば近くの邸の下人が出てくるかもしれない。)


考えている、その時だった。


──ガッタン!!!


牛車が大きく揺れた。


「すまねえ! 暗くてでけえ石に気づかなかった!」


外の男の声と同時に、


バタッ


牛車の中の男が横に転がった。


その瞬間、紗世は見逃さなかった。

衣の裾から男の足が離れた、その一瞬の隙を。


紗世は迷わず牛車から飛び降りた。



ドサッ!!!



「おい! 止まれ! 女が逃げた!!」


口に当てられた布を取り、走った。


(くっ……重い! 動きにくい!)


何枚も重ねた衣は足を縛るように重く、うまく走ることができない。

長い裾が地面を引きずる。


ズザッ──!!


裾を踏み、紗世は前のめりに転んだ。


「……っ!」


足に走る痛み。


必死に腕で前へと這うが、背後にはすでに男の気配が迫っていた。


ガシッ!


後ろから衣の首元を掴まれる。


「きゃああ!!」


──その瞬間だった。


男の腕を、横から掴む別の手。


暗闇の中、月明かりを受けてギラリと反射する太刀。


低く、張りのある声が響いた。


左兵衛府(さひょうえふ)兵衛志(ひょうえのさかん)、源惟成である。

手向かうな。」




男は、必死に笑みを作りながら言い訳を重ねた。


「い、いや……そんな……私は何もしておりません。大きく揺れた牛車から女房殿が落ちてしまいましてな、助け起こそうとしただけで……。」


「……こちらの女房殿は、怯えているように見えるが?」


惟成の低い声が夜気に沈む。


「そ、それは転げ落ちたのが怖かっただけで――」


男が言い終える前に、


ドンッ!


惟成の胸元を強く突き飛ばし、男は叫んだ。


「おい!行くぞ!!」


牛を引いていたもう一人の男に怒鳴り、牛車をその場に放り出したまま、闇の中へと走り去った。


惟成は一瞬、追撃の構えを取ったが――

へたり込んで震える紗世の姿を見て、足を止めた。


「……和泉殿!」


惟成は駆け寄り、膝をついて声を掛けた。


「無事か!?」


「惟成……殿……?」


紗世は混乱の中で名前を口にし、言葉が途切れ途切れになる。


「どうして……ここに……?」


惟成は息を整えながら、事情を説明した。


「邸へ戻る途中、六条御息所様の御邸の前を通ったのだ。その少し先で、牛車に何かを積んでいる影が見えてな……不審に思っていた。

すると御息所邸の女房が出てきて、『和泉殿を見なかったか』と尋ねられたのだ。職人に呼ばれて門外へ出たが姿が見えぬと……

もしやと思い、先ほどの牛車を追ってきたのだ。」


その言葉を聞くうちに、張り詰めていた緊張が一気に解けた。


恐怖が、遅れて押し寄せる。


紗世の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「……っ」


「和泉殿!」


惟成は慌てて声を掛ける。


「も、もう大丈夫だ。立てるか?」


惟成が差し出した手を取ろうとした瞬間――


「……痛っ。」


足に鋭い痛みが走り、紗世は顔を歪めた。


「……足を痛めたか。」


惟成は静かに言い、紗世に背を向けてしゃがみ込んだ。


「和泉殿。私におぶされ。邸まで送ろう。」


「い、いえ!そんな……助けていただいただけでも十分ですのに……これ以上ご迷惑を――」


「手を引いて歩くより、この方が早い。足も痛めぬ。」


正論だった。


紗世はしぶしぶ、惟成の背に腕を回した。


「……あの、惟成殿。私、重いので……無理でしたら……」


「重い?」


惟成は少し首を傾げて言った。


「武具や防具の方がよほど重い。父上から和泉殿とは同年と聞いているが、同年とは思えぬほど軽いな。

……ちゃんと食事は取っているのか?」


「と、取っております!!」


(惟成殿……私と同い年なんだ……。


現代なら中学生くらいの感覚なのに、この時代じゃ立派な成人で、武官で……。


……背中、あったかいな……。)


恐怖で凍っていた心に、静かな安堵が広がる。


そして、ほんの小さな――

自覚のないときめきが生まれていた。


やがて六条御息所邸の門前に着くと、灯りに気づいた女房たちが一斉に駆け寄ってきた。


「和泉殿!!」

「和泉!大丈夫!?どうしたの!?」


口々に叫びながら、紗世を取り囲む。


惟成は静かに紗世を降ろし、取次ぎ役の女房に向かって言った。


「お手数だが、六条御息所様にご報告がある。

お取次ぎを願えるか。」


夜の闇の中、静かに事件は**“邸の内側”へと持ち込まれていった**。


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