第24話 都、呪い始めました
末摘花は、御簾の向こうで一礼し、静かに口を開いた。
「日が傾く前に、今日はこれで失礼いたします。」
「もうお帰りになるのですか?」
紗世が少し名残惜しそうに言うと、末摘花は小さく頷いた。
「実は……式部卿様から、外出はしばらく控えるようにと仰せつかっておりまして。」
「外出を?」
六条御息所が、静かな声で問い返す。
「はい。近頃、宮中や都のあちこちで、女人が急に苦しみ出すという事案が相次いでいるそうなのです。
御息所様も、和泉殿も、くれぐれもお気をつけなさって。」
「急に……苦しみ出す?」
紗世の眉が寄る。
「病ではなく?」
「病とは思えぬそうです。倒れた方々は、比較的お若く、健康な方が多いと……。」
末摘花は一拍置いてから、声を潜める。
「式部卿様から聞いた話では……祈祷師が、悪霊、生霊、あるいは呪詛の類ではないかと申したそうです。」
――生霊?
――呪詛?
紗世の背筋に、ぞわりと寒気が走る。
思わず、横に座る六条御息所をちらりと見る。
しかし、御息所はいつもと変わらぬ静かな表情で、ただ末摘花の話を聞いているだけだった。
「……苦しみ出した女人に、共通点などはあるのでしょうか。」
六条御息所が、憂いを含んだ声で問う。
「それが……貴族だけでもないようなのです。」
「え?」
紗世が思わず身を乗り出す。
「庶民の方も……?」
「はい。式部卿様から伺ったところによると、五条のあたりの、庶民的な住まいに暮らす女人も倒れたそうで。」
五条――。
紗世の胸が、嫌な音を立ててざわつく。
「そのお住いは……生垣に、綺麗な夕顔の花が咲いているお住いだそうです。」
「……夕顔?」
「倒れたとき、ちょうど源氏の君がその場におられ、すぐに祈祷師を呼ばれたとか。」
――あの瓜があああああ!!!
紗世の頭の中で、叫び声が爆発する。
(……うん?
夕顔?
生垣に夕顔……?)
記憶が、一気につながる。
(ああああああああ!!!
夕顔!!
源氏物語で一番最初に亡くなる女性!!!
六条御息所様の生霊によって!!!)
心臓が早鐘を打つ。
(でも……待って。夕顔って、物語のかなり初期に出てくる人物のはず。
末摘花より前のはずなのに…。なんで、順番が変わってるの?
……私が、六条御息所様のそばにいるから?
何かが、ズレてる……?)
紗世は、はっとして我に返る。
「……常陸宮の姫君。」
声が、わずかに震える。
「その、夕顔の邸のお方は……どうなったのですか?」
「一応は、命は取りとめたそうです。」
末摘花は静かに答えた。
「源氏の君がすぐに祈祷師を呼ばれたのが、功を奏したのでしょう。」
――やっぱり。
(原作と違う。夕顔は、亡くなるはずだった。
そのまま命を落とすはずの人が、生きている。)
紗世は、無意識に拳を握る。
(原作と違うなら……呪詛をかけたのが、六条御息所様じゃない可能性もある。
生霊じゃない“何か”の可能性もある……。)
視線が、再び六条御息所へ向かう。
御息所は、静かに目を伏せている。
その表情は、いつもと変わらず――
優雅で、穏やかで、そして、どこまでも静謐だった。
けれど紗世には、その静けさが、今までとは違う意味を持って見え始めていた。
(これは……物語が、変質し始めてる。
私が介入しているせいで、世界線がズレてる。
本来の源氏物語じゃなくなりつつある……?)
静かな部屋の中で、
見えない“異変”だけが、確実に広がり始めていた。
その夜。
都のとある貴族の邸。
蝋燭の火が揺れる薄暗い部屋の中で、ひとりの女が座っていた。
ガリっ、ガリっ……
爪を噛む音だけが、異様に響く。
灯火に照らされたその顔は青白く、瞳だけが異様な熱を帯びていた。
「……なぜ……」
低く、粘つくような声。
「なぜ、源氏の君は……私のところへは来ないの?」
ガリッ、と強く爪を噛む。
「なぜ、落ちぶれた……醜い女を、美しくしたの……?」
呼吸が荒くなる。
「なぜ……市井の……取るに足らない女のもとへ通うの……?」
声が震え、次第に早口になる。
「どうして……どうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!!」
片手には、くしゃくしゃに握り潰された文。
そこには、六条御息所邸からの返書が記されていた。
――
「和泉は六条御息所邸の女房であり、他家へは遣れない。
飾り髪の依頼が多すぎるゆえ、飾り髪の依頼はすべて断っている」
――
ダンッ!!
ダンッ!!
ダンッ!!
文を握り潰したまま、拳を畳に叩きつける。
「……和泉という女房さえいれば……」
歪んだ声で、吐き出すように呟く。
「私も……美しいと評判になるはずなのに……。」
息が荒くなる。
「源氏の君も……私に興味を示してくれるはずなのに……!」
視線が、ゆらりと動く。
几帳の影。
そこに置かれた、小さな木箱。
女は、ゆっくりと立ち上がり、ふらつく足取りで近づいた。
「……それに……」
囁くような声。
「……和泉という女房がいれば……」
箱を見下ろしながら、口元が歪む。
「……憎い女の髪が……簡単に、手に入るのに……。」
震える手で、木箱の蓋に触れる。
――カタリ。
中には、人形と、数本の髪。
人形には、墨で記された文字。
「夕顔」
蝋燭の火が揺れ、その文字が不気味に浮かび上がる。
女は、ゆっくりと笑った。
愛ではない。
嫉妬でもない。
恋でもない。
それは――
歪んだ執着と、承認への渇望と、他者を支配したいという欲望が絡み合った、醜く濁った感情だった。
蝋燭の火が、ふっと揺れる。
その影の中で、女の笑みだけが、異様に浮かび上がっていた。




