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ある日突然、群れを成して飛び立った虫は、とある町の畑に襲い掛かった。
「それはとても恐ろしい光景でした。
立派に実った作物が、あっという間に虫に集られ、喰い尽くされていく。
どれだけ太鼓を叩き鳴らしても、虫たちはまったくなんの反応もせずに、ただひたすらに、畑を蹂躙し続けました。
わたしは物陰に身を潜め、恐ろしさに震えながら、じっと見ていることしかできませんでした。
虫たちは、狂ってしまったのか。
それとも、これこそ虫たちの本性だったのか。
白く枯れた森と共に戦う同士のような気さえしていたのに。
そのときは、もうまったく、虫に裏切られた気持ちでした。」
僕は胸にじっととまっているブブにそっと指を触れた。
ブブは眠っているのか、何の反応もない。
僕にとってのブブは、もうすっかり友だちみたいなものだ、と少なくとも僕の側は思っている。
だけど、今もし、ブブが、僕にはまったく理解できない行動をとりはじめたら…
それが、災厄と呼ぶほどに、重大なことだったら…
僕は、いったいどうするのだろう。
「畑の作物を喰い尽くすと、虫は群れを成して、また次の畑へ、その次の畑へと移動していきました。
わたしは成す術もなく、ただその虫のあとをついていきました。
けれど、そのうちに、虫たちを見ていて、気づきました。
虫たちは、畑の作物を食べていても、やっぱりお腹を満たすと消滅するのです。
あの白く枯れた森を食べていたときのように。
消滅しても、また次々に生まれてきますから、いっこうに数は減らないのですけれど。
確かに、虫たちは消滅してまた生まれて、を繰り返しているのです。
それから、虫の進む経路にも気づきました。」
おっちゃんは枝を拾ってくると、地面に絵を描きながら続けた。
「虫はこう、こんなふうに、ところどころ蛇行しながら、先へ進んで行ったんです。
けれども、畑は、ここや、ここにもありました。」
おっちゃんは蛇行する線の上にいくつかバツ印をつけた。
そこは、虫に喰い荒らされた畑だ。
それから、線から少し離れた脇にいくつかマルをつけた。
「たとえば、ここからこの畑へ行く、この距離は、ここからこの畑への距離よりも明らかに遠い。
それに、虫はこの地点ではこちらをむいていたのに、ここへ来て、この畑には目もくれずに、こちらへと突然、旋回するのです。」
おっちゃんは線の上のバツ印を指しながら説明する。
「むしろ、ここやここの畑のほうが、正面にもあたり、距離も近かったはずなのに。
けれども、虫はこの畑には見むきもせず、ここの次は、一直線にここへとむかいました。」
おっちゃんは途中のマル印をすっ飛ばして、次のバツを棒の先で叩いた。
「…虫は、喰い荒らす畑を選んでいる?
それは、たとえば、食べる作物と食べない作物がある、ということじゃ…?」
ないんだろうな、と予想はしながらも尋ねてみた。
案の定、いいえ、という返事が返ってきた。
「ここと、ここと、ここ、は同じ作物が植えられていました。」
おっちゃんはマルとマルとバツを棒の先で叩いた。
つまり、虫は、植えてある作物で荒らす畑を選んでいるわけじゃない。
もしそうなら、より近い畑を荒らさずに遠くの畑に行く理由がない。
虫の考えていることは、僕らには分からない。
何も考えていないんじゃないかって、思うこともある。
だけど、もしかしたら、僕らの思いもよらないような、もっと深淵な意志、のようのもので、動いているのじゃないかと、思うときもある。
「虫の群れを追いかけながら、わたしは思いました。
もしかしたら、わたしは、同士のことをもっとちゃんと信頼すべきだったのかもしれない。
虫たちは、白く枯れた森を食べるのと同じ理由で、畑を喰い荒らしているのかもしれない。」
それは僕もうっすらと思っていた。
「この線は、いったい、なんなんだろう?」
僕はバツ印を結ぶように虫たちが移動した線を目で辿った。
それは、まるで、地図に描かれた川かなにかみたい…
「川?」
そうか、と思った。
アルテミシアに聞いたことがある。
地面の下には川があるんだ。
アルテミシアはその川の流れの音を聞くことができる。
そして、その川に地面から穴を掘れば井戸になる。
「そうか。井戸水だ。」
僕はずっとその線を上流へと辿った。
「もしかして、そこにあるのは?」
「白く枯れた森、です。」
おっちゃんは一帯をぐるっと囲った。
それから、マル印のついた辺りにも線を引き始めた。
「ここには、こんなふうに、地上の川があります。
この川の水源は、こっち。まだ無事な森のほうから流れ出しています。
ここには雨水を溜める大きな溜め池があって、この畑の水はこれを使っています。」
おっちゃんは地図をさらに拡げていく。
虫に襲われなかった畑には、無事な森から流れ出した川の水か、もしくは、近くに溜め池があって、そこの水が使われていた。
「虫が襲ったのは、白く枯れた森から流れ出した水を使っている畑なんだね?」
「…わたしには、地下の水脈がどうなっているのかは分かりません。
ただ、あのあたりには地上の川は少なく、森に降った雨は地中深く沁み込んで、どこか遠くの地の泉に湧き出している、と昔、聞いたことがあります。
その遠くの泉へと続く水の流れの途中に井戸を掘り、その水を使って畑を作っているとしたら。
虫たちがその畑を喰い荒らしたのは、そのせいなのじゃないか、と。」
畑の穢れというのはそういうことか、と僕もようやく理解した。
「白く枯れた森は、地下の水脈まで、穢しているというの?」
「…それは、分かりません。
ただ、虫の動きを追っていて、そんなふうに想像しただけですから。」
おっちゃんは、ちょっと情けない顔をした。
それもそうか。
それは確かに確かめようもない、かもしれない。
「え?
ちょっと待って?
ということは、あの町の井戸って…」
僕ははっと気づいた。
あの町の畑を虫が襲ったってことは、あの町の井戸も穢れているってこと?
だけど、あの町の人たちはみんな、あの井戸水を使っている。
僕らだって、あの水をもうずっと使っていた。
僕は、はっとして、胸元のブブを見下ろした。
ブブは、友だちだと、思ってたんだけど。
もしかして、ブブにとっては、僕も穢れていて、そして…
まさか、ね?
いやいや、流石にそれはないでしょう?
僕は頭を振って、不穏な考えを追っ払った。
「虫たちは、あの町の畑も襲ったんだよね?」
「それなのですけれどね。
あの町だけは、少し事情が違ったんです。」
おっちゃんはそう言った。




