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ぐらぐらと、焚火にかけた鍋が煮えたぎっていた。
ざざっと音を立てて噴き零れた鍋に、おっちゃんは、はっとしたように顔を上げて、おやおや、と言った。
「すみません。
すっかり煮詰まってしまいました。」
そう言いながら、ものすごい色になったお茶をカップに入れて手渡してくれる。
とてつもなく濃く煮だしたお茶は、それはそれは苦かった。
一口飲んで、うっく、と顔をしかめた僕に、おっちゃんは、くくっと笑った。
さっきの話し、いったいどのくらい前のことなんだろう。
だけど、おっちゃんはもう、笑うこともできるようになったんだな、って思った。
「そのときから、わたしは、ひとり、この森に残って、この森を護ろうと、決意したんです。」
本当は自分が出て行くはずだった森。
だけど、この森にはもう、護る民がいなくなってしまった。
それは、自分のせいだとしたら。
僕も、同じようにしたかもしれない。
「この森のことは、幼いころから、しっかりと教えられてきましたから。
ひとりでも、生きていくことはできました。
森を傷つけたあの連中は、二度とここに来ることはありませんでした。
よほど、懲りたのでしょう。」
それは、そうだろうね。
だけど、それでよかったんだと思うよ。
神聖な森は、神聖だからこそ、穢してはいけない。
それはやっぱり、大事なんだと思う。
森に棲む者にも。森には棲まない者にも。
「なんて言ってますけど。
本当は、わたし自身が森の外では暮らしていけなかっただけなんですけどね。」
おっちゃんはちょっと困ったように付け足した。
「両親は、わたしが平原の民であることも隠しませんでしたし、いつか平原に帰らなければならないとも教えました。
そのいつかのために、わたしに両親の知る限りの平原の知識や、平原の民の言葉も教えてくれました。」
「ご両親は、平原の民の言葉を知っていたの?」
「年老いた森の民はね?
とてつもなく、いろんなことを知っているものです。」
うーん。それは納得するけどね。
「それでも、いざ、そのときが来れば、わたしにはこの森を出る勇気がありませんでした。
それに、ここにはもう誰もいなくなってしまった。
誰かがここを護らないといけない、とも思って。
もちろん、そんなの、ただの出ていかない言い訳に過ぎませんけど。
大義名分を与えられたみたいな気になって、ね?」
「森を出るって、とてつもなく勇気のいることだよね。
僕も、それは分かるよ。」
もしも、ルクスとアルテミシアがいなかったら、僕だって、いまだに森を出ていたかどうか分からない。
いや、きっと、出ていなかったと思う。
森にいれば、森の民は、生きていられるんだ。
何もかも、生きていくのに必要なものは、森が与えてくれる。
だから、わざわざそこから出て行きたくなんかない。
おっちゃんも、赤ん坊のときからずっと森で森の民に育てられたんだもの。
見た目は平原の民でも、中身は僕らと一緒、森の民だと思う。
「けれど、やはり、わたしには、森を護ることなど、所詮、不可能だったんですよ。」
そう言っておっちゃんは深いため息を吐いた。
それはそれは、深いため息だった。
「ついてきて、もらえますか?」
そう言うと、おっちゃんはいきなり立ち上った。
僕は苦いお茶をまだ半分も飲んでなかったけど、急いでカップを脇に置いて立ち上った。
おっちゃんは黙って洞窟を出ていく。
僕も急いで追いかける。
そこは綺麗な森だった。
ここに棲んでいた森の民が、どれだけここを大切にしていたかよく分かる。
手入れの行き届いた森だった。
だけど、そのわりに、なんだか元気がない、かな?
森を歩いていて僕は思った。
今の僕には、森の歌はもう聞こえないから、森が今どんな気分なのかは、前ほどには分からないんだけど。
なんとなく、ここの森には、違和感がある。
と、思ったときだった。
突然、目の前が、真っ白に開けた。
いや、違う。
辺り一帯の木が全部なくなってしまって、森のなかに、まるで道が作られたみたいになっている。
そして、そのむこうは…
真っ白く枯れた森。
白枯病に侵された森だった。
「…これは…」
「最初は、一本の木が、真っ白になったんです。
わたしはそれが悪いことだとは気づかずに、ただ、白い木も綺麗だな、くらいに思っていました。
すると、次第にその木の周囲の木も白くなっていって。
あっという間に、森の一画が真っ白く枯れてしまいました。
流石に、わたしも、まずいと思い、白く枯れた木を切り倒し始めました。
けれども、白い木は、倒しても倒しても、その外へとまた拡がっていくのです。
そうして、とうとう、こんなことに。」
その道は町の大通りよりまだ幅が広くて、右も左も、見渡す限り続いていた。
「皮肉なものでね?
…この道はね?
そもそも、あの連中が森へやってきたときに、馬車を通すために作ったものが最初なんです。
今はあのころより、もっと広く、長く、なってますけどね。
でも、この道のおかげで、白く枯れた森は、くい止められました。
森の民が去る原因になったものが、森の民の去った森を護ったなんて。」
大きくて綺麗な森のなかに、その道は、あまりにも異様な光景だった。
けれども、この道のおかげで、こちら側の森は護られているんだ。
「ところが、ね。」
その先の言葉を切って、おっちゃんはいきなり太鼓を取り出すと、とことこと軽くたたき始めた。
すると、ふわり、ふわ、ふわ、と白い森からあの祓い虫が飛び立ち始めた。
「彼らは、いつの間にかこの森にやってきました。
彼らの大好物はこの白く枯れた木なんです。
彼らの群れにかかれば、あっという間に木を一本、食べつくしてしまいます。
だけど…
彼らの動きをよく見ていてください。」
僕は言われるままに祓い虫を観察した。
そうして、思わず、あっ、と小さく叫んでいた。
「…消え、た?」
「そう。
彼らは、お腹いっぱいになると消えてしまうんです。
後にはあの白い木は残らない。
この大きな道は、彼らが作ったんです。」
ごくりと唾を飲んで、僕はもう一度、左右を見渡した。
なんてことだ。
あんなに小さな虫がこんなに大きな道を作ったなんて。
「あの虫は、たとえ消えても、また次から次へと、無限に生まれてきます。
まるで、泉から水が湧くように。
そうして、白く枯れた木を食べていくんです。」
それは…
虫は、森を護っている、んだろうか。
虫にそんなつもりがあるのかは分からないけれど。
少なくとも、白枯病が広まるのをくい止めているのは確かだ。
「この太鼓は、小さいころ、父がわたしに作ってくれたものです。
子どもの玩具だったんですけれど、ひとりになってからも、淋しさを紛らわせるために、よく叩いていましてね?
すると、あの虫が、この太鼓の音に反応して動くことに気づいたんです。」
そうしておっちゃんは、虫使い、になったんだ。
「そうやって、わたしは虫に力を借りながら、白い森から元の森を護っていました。
ところが、あるとき、虫たちが、一斉に飛び上がったんです。
そして、群れを成して、森を出て行きました。
わたしは、ただただ驚いて、虫の後を追いました。」
おっちゃんはすっと目を上げた。
僕はそこに、虫の群れが見える気がした。




