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平原の民は森に災厄をもたらす。
たとえ無垢な赤ん坊であっても。
そんな言い伝えは嘘っぱちだ、って僕は思うんだけど。
「あるとき、平原の民の一軍が、森に侵入してきました。
彼らは森の入り口で、森中に響き渡るほどの声で呼ばわりました。
悪党の森の民ども。
ご領主の大切なご子息をお返しせよ、と。」
リョウシュというのはどういう存在なのか、最近、少しずつ分かってきた気がする。
そして、平原の民には、あちこちに、リョウシュ、というものがいるのだ、とも。
「おっちゃんは、リョウシュの息子、だったの?」
「さて。どうでしょうか。本当のところは、わたしにも分かりません。
ただ、彼らは、そう言ったんです。
彼らは、森の民は、大切なご領主のご子息をさらった悪人だと決めつけていました。」
それはひどい言いがかりだ。
森の民は、迷子だったおっちゃんを保護して助けたわけだし。
そもそも、赤ん坊だったおっちゃんには、自分の力で森に来るなんてことはできないわけで。
赤ん坊を森に連れて来て置き去りにしたのは、リョウシュの側の誰かだろう。
もう長い間ずっと、ここの森の民は、平原の民には関わらないようにしていた。
平原の民も、この森には近づかなかった。
そんな森に赤ん坊を置き去りにするなんてこと、よっぽどのよっぽどな事情だと思う。
だけど、その事情に森の民は関係ないし。
むしろ、赤ん坊を助けてもらって、有難うと言われてもいいくらいだ。
「森の民は、もちろん、彼らに気づいていました。
けれど、最初、森の民は、彼らのことを無視していました。
あまりに失礼な言い草に、話し合いなど無駄だと思ったのかもしれません。
わたしは自分が出て行くと言いました。
けれど、それを郷長は引き留めました。
お前は平原の民だけれど、この郷の大切な仲間だ。
大切な仲間をあのような輩のところへは行かせない、と言って。」
森の民って、普段はあんまり他人には干渉しない。
だけど、いざというときには、誰より、仲間を大切にする。
森の民にとっての仲間は、人だけじゃない。
森の木々も、生き物たちも、森の民にとっては大切な仲間だ。
郷で育ったおっちゃんだって、もちろん、大切な仲間だろう。
仲間が、その意に反して、辛い目に遭うとき。
森の民は、全力でその仲間を守る。
「何の反応も見せなければ、そのうちに諦めて帰るだろう、と。
ほとんどの森の民は、そういう考えだったのだと思います。
けれども、彼らの考え方は違っていました。
返事をしない森の民に、業を煮やした彼らは、ずかずかと森に踏み込んできました。」
あっちゃー。それは、まずい。
森の民の棲む森には、勝手に踏み込んじゃいけない。
それって、余所の家の庭に勝手に入り込むようなもんだ。
不可抗力で迷い込んだってんならともかく。
そんなことをすれば、いろんな手段を使って、排除される。
その方法は、多少強引だったり、手荒だったりも、する。
命までは取られないだろうけど。
怪我、くらいは覚悟しないといけない。
「彼らは馬や馬車に乗っていました。
そして、通ることのできない場所の森の木々を、切り倒し、火をつけました。」
「なんてことを!
森を傷つけたの?」
思わず叫んでしまった。
それは、まずいどころの話しじゃない。
森の民は、平原の民が森に迷い込んだとしても、あまり関知しない。
助けることもしないけど、べつに意地悪もしない。
ただ、無事に出て行くまでは、見守っては、いる。
命が危いときには、ちょこっと助けたりもする。
なにも森に害をなさずに、静かに出て行くなら、ただ黙ってそれを見届けるんだ。
だけど、故意に森を傷つける者に、森の民は容赦しない。
即刻、排除されるだけなら、まだ優しいほうだ。
それは、森の民に対して、戦を仕掛けたようなものだから。
同じかそれ以上の苦しみを返されてもいい、と宣言したのと同じことになってしまう。
森の民は、自ら進んで戦うことはしない。
だけど、森ってところには、元々危険がいっぱいだ。
そして、森の民は、自分の森の危険を、熟知しているんだ。
たとえば、毒虫。
虫の好む匂いのする草を、敵の野営する場所へそっと置いてくる。
あとは、夜の間に、虫が働いてくれる。
それから、毒茸。
幻覚を起こす茸をそっと敵の食料に忍ばせる。
あとは蝶々に頼んで、夢見る彼らを崖っぷちにご案内。
毒蛇をばらばらと直接頭上に撒く。
なんてのは、結構、乱暴だと思うんだけど。
即効性はあるみたい。
とにかく。
森で森の民に喧嘩を売ってはいけない。
それは絶対に。
森の民は森の危険は熟知しているから。
それを避けることも、利用することも、できるんだ。
森の民の棲む森は、勝手に木を伐っちゃいけない。
生き物を殺したり、大地を汚してもいけない。
それは全部、森の民にとって、大切な仲間だから。
「…結局、その一団は、全滅しました。」
「………。」
森の民は、直接手は下さなくても、そのくらいできる。
だけど、よっぽどのことがない限り、そこまでは、やらない。
だから、それは、よっぽどのことだったんだ。
「…火を、つけたからだね?」
おっちゃんは、小さくうなずいた。
それは、絶対にやっちゃいけないんだ。
たとえば、どうしてもやむを得ない事情で焚火をして、失火させたとしても。
結構、ひどい、お仕置きをされる。
それは、迷い人、森の民、関係なく。
僕らだって小さいころから、それだかはダメだと、かなり厳しく言い聞かせられている。
なのに。
それどころか、わざと火をつけた、んだから。
それは、絶対に絶対に、やっちゃいけないことだった。
「平原の民にとっては、戦う相手すら見えないんですから。
そもそも、相手になりません。
命からがら逃げようとした者は、追いかけられまでは、しませんでしたけど。
大怪我を負った者は大勢いたようです。」
だから、森の民に喧嘩を売ってはいけない。
平原の民にも、そういう言い伝えをしておくといいんじゃないかな。
「しかし、彼らを追い払った後、森の民は、この森から去ることを決意しました。」
「森を、護れなかった、から。」
それも、森の民のしきたりのひとつだった。
よほどひどく、森は傷つけられてしまったんだろう。
そうでなければ、森の民だって、そこまではしないと思う。
だけど、そんなにまで森を荒らされてしまったのなら、森の民はもう、その森を出て行くしかない。
森を護れない民には、その森に棲む資格はない、って。
それも、森の民のしきたりなんだ。
平原の民は禍を呼ぶ。
たとえ、無垢な赤子でも。
そんなのは、ただの迷信だって、思うんだけど。
それでも、こういうことが、あってしまうと。
昔からの言い伝えの重み、みたいなものを、ひしひしと感じる。
「夏至祭りの翌朝。
郷の仲間たちは、全員、この森を去りました。
けれど、わたしは、一緒に行くことは、許されませんでした。
今度こそ、お前はお前の生きる道を見つけろと言い渡されました。
わたしにも、どうしても一緒に行きたいとは言えませんでした。
皆が、森を去らなければならなくなったのは、わたしのせいなのですから。
自分が旅立つはずだった朝に、わたしは、ここで、皆を見送りました。」
なんとも重苦しい気持ちになって、僕らはしばらく、黙っていた。




