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隣にいたルクスがちょいちょいと僕の袖を引いた。
「なあなあ、あの読めない本もさ、見せてみたらどうだ?」
あ。そっか。
この人たちなら、もしかしたら、あの本も読めるかもしれない。
いい考えだと思って、僕は急いでもう一度、あの本を取りに戻った。
持ってきた本を恐る恐る族長に差し出しながら、僕は言ってみた。
「あの、これ、両親の持ち物のなかにあったんですけど…
もしかして、族長さんなら、読めますか?」
族長は一目本を見るなり、目を丸くして、おう、と小さく叫んだ。
「これは!
どうしてあなた方のところに?」
受け取ろうと差し出した両手が、ぷるぷると震えている。
族長は、ものすごく丁寧に、本を開いて、ページをゆっくりとめくった。
その手つきはとても貴重な物を扱うように、この上もなく丁寧だった。
なんだか、寝る前にベットに寝転んで眺めていたのが、申し訳ないような気になった。
「あの。
これって、そんなに貴重な本だったんですか?」
族長は本に見入っていたけれど、こっちに目を上げて、重々しく頷いた。
「これは、大昔、やはり今のように世界に崩壊が近づいていたとき。
平原の民が、異界とここを繋いで、世界を救った。
その術を書いてある物なのです。」
へ?
そんなすごい物だったの?
「そのときに、異界と繋いだ扉からは、たくさんの宝物がもたらされたそうです。
この書物はそのひとつで。
元は異界の言葉で書かれていた物を、平原の民の賢者が読み解いて、平原の文字で書き記しました。
おそらく、これはその写本の一つでしょう。」
なんだ。写本か。よかった。
「しかし、写本とはいえ、とても貴重な物です。
ここに書かれている術を使えば、この世界を支配し、王となることも可能だと言います。
むやみやたらと悪用されることを避けるため、この写本は三つだけしか拵えられなかったとか。
平原の民は、この書物は、世界を救う宝として、大切に保管し、滅多に人目には触れさせないと言います。」
うへえ。
長年、部屋の隅っこに埃被って積み上げてあったなんて、やっぱり、ものすごく、まずかったんじゃない?
「…そんな大事な物だったなんて…」
「これは、ご両親がここにもたらしたのですか?」
族長の質問に、僕はうんうんと何度も頷いた。
族長は、うーむ、と唸って考え込んだ。
「しかし、ミーロンとフラウラはいったいどこでこれを…」
ですよね?うん。僕もそれ、思います。
平原の民がそんなに大切にしまい込んであったものが、うちで埃被ってたなんて。
けど、両親も、そんなに大事な物なのに、僕には何も言わなかったんだよね…
「ここに書いてあること、族長様なら、お分かりになるんですか?」
じっと隣で話しを聞いていたアルテミシアが、横からそう尋ねた。
族長は、しばらく何か考えてから、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。
いくらかは読めるところもありますが、すべてを読みこなすことはできません。
わたしたちは、平原の近くに棲み、多少の交流はありましたけれど。
それでも、平原の民の文化のすべてを理解するほどの深い親交はなかったのです。」
それは、仕方ないかな、と思う。
「ご両親も読めなかったから、この本の価値に気づかなかったんじゃないかな?」
アルテミシアはそう言って僕をじっと見た。
アルテミシアは、僕がショックを受けていることに、気づいてくれてたみたいだった。
「あの。
さっき、大昔にも、世界が崩壊しかかった、って言いましたか?」
ルクスは僕とは違うところが気になったみたいだった。
ええ、と族長は頷いた。
「その崩壊って、止められたんですか?」
「今現在、この世界が存在しているということは、止められたということでしょう。」
それはそうだ。
「止めたのは平原の民だった?」
「そこは正確には分かりません。
ただ、平原の民の間には、世界の崩壊を止めた英雄の伝説というものが語り伝えられていると聞いたことがあります。」
「世界の崩壊を止めた英雄、か…」
ルクスはなにやらじっと考え込んだ。
僕の両親は、その英雄の伝説を調べるために平原へ行ったのかもしれない。
両親が旅に出ると言ったとき、郷のみんなは、そんなことはしても無駄だから、と引き留めた。
いざとなれば、僕らは遠い彼の地へ行けばいい。
そこは永遠の楽園で、崩壊も混乱も訪れないのだから。
僕の両親は、わざわざ無駄なことをする変わり者で、あるのかどうかも分からない方法を探して苦労する愚か者。
そんなふうに思っている人たちもいるって、僕もなんとなく感じていた。
僕はそんな両親の元に生まれたかわいそうな子どもだ、って。
誰かに面とむかってそう言われたわけじゃないけど。
そういうのって、なんとなく、分かってしまうもんだよね。
だけど、その方法は本当にちゃんと存在していて。
そうして、僕の両親は、それを探して、この本に辿り着いた。
両親のしていたことは、無駄なことじゃなかったんだ。
そう思うと少し嬉しかった。
そっと背中に温かい掌を感じて、そっちをむくと、アルテミシアが微笑みながら頷いてくれた。
僕の辛い思いを、ルクスとアルテミシアだけは、いつもちゃんと分かってくれていた。
「平原の民に聞けば、この本に書いてあることも分かるかな?」
僕はアルテミシアを見上げて聞いてみた。
うーん、それはどうかな、とアルテミシアは首を傾げた。
「平原の民って、どんな人たちなのか、あたしたちはよく知らないし。」
平原の民のことは、僕も両親から聞いたことしか知らない。
とてもおおらかで、親切な人たちらしいけど。
時として、大きな争い事も起こるし、同族で殺し合いのようなこともするらしい。
僕ら森の民から見ると、ちょっと怖い人たち、という印象もある。
そもそも、話す言葉も使う文字も違うから、考えていることを伝えるのだって簡単じゃない。
僕も、両親はよく、そんなところへ旅をしたいよな、って正直、思ってた。
だけど、きっと、両親は、本気でこの世界の崩壊を止めたかったんだろう。
そのために、難しいことだって、乗り越えようとしてたんだ。
「この本ってさ、平原の民の宝物だったんだろ?
この世にたった三つしかないののうちの一つなんだろ?
お前の両親が、不正な手段でこれを手に入れたとは、俺は思わないけど。
平原のやつらも、同じように思ってくれるとは限らない。
だとしたら、もし俺たちがこの本を持って行って、この読み方を教えてくれ、と言ってみても。
泥棒扱いされて、本を取り上げられる、だけかもしれないなあ。」
そっか。
ルクスの言うことももっともだ。
だけど、僕はいいことに気づいた。
「でもさ。だとしたら、平原にはまだこれと同じ本が二冊あるってことだよね?
だったらさ。平原の人たちは、また、崩壊を止めてくれるかもしれないよね?」
だって、大昔にも一度、そうしてくれたんでしょう?
なんだ。
だったら、僕らは余計な心配しなくてもいいのかも。
僕はちょっと安心して、だったらこの本はまたこっそりしまっておこう、って思った。