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滝の掌は滝つぼより先には伸ばせないみたいだった。
それでも、高く高くに持ち上げられて、僕には湖の全体が見えていた。
こうして高いところから見ると、改めて大きな魚だ。
この魚はいったいどこからやってきたんだろう。
ちょうど湖が堰き止められた辺りに吊り橋があって、そこに人影のようなものが見える。
人影は右へ行ったり左へ行ったり走っているようだ。
だけど、ここからじゃ声も聞こえないし、人影もとても小さくて、何をしているのかは分からない。
銀色の魚の背中には、黒い斑模様があって、それが、どことなく怒っている人の顔のようにも見えた。
その模様の目と目が合って、僕はどきっとした。
まずい、と思った瞬間だった。
ざばあっとものすごい水しぶきと共に、魚は宙に飛び上がった。
キィエーーーッ!
とてつもない雄叫びと共に、魚は湖へと落ちていく。
ざんぶり、と湖の水が、周囲へと溢れた。
これ以上、あいつを暴れさせちゃ、ダメだ。
僕は、あの、キィエーーーッ!にダメージを受けながらも、そんなことを思っていた。
だけど、どうしたらいいんだろう?
魚をなだめる方法なんて、思い付かないんだけど。
とりあえず、笛、吹いてみる?
それしか思い付かなかったから、僕は滝の掌の上に座って笛を吹き始めた。
なるべく静かな。
眠たくなるような。
ところが。だった。
笛の音がまだ歌にもなっていないのに、魚はまた暴れ出した。
キィエーーーッ!キィエーーーッ!キィエーーーッ!
雄叫びを上げて、何度も何度も水上へと飛び上がる。
え?もしかして、笛はお嫌いですか?
ごめん。もうやめるから。そんなに怒らないで?
僕は慌てて笛をやめた。
キィエーーーッ!キィエーーーッ!キィエーーーッ!
魚はばしゃばしゃと湖の水を跳ね飛ばして暴れている。
あんなに暴れたら、水がなくなっちゃって、魚が困るんじゃないかな、って思うけど。
いや、それ以上に、あんなに魚が暴れたら、屋敷や畑も水浸しになってしまうんじゃ…
僕はそこに立ち尽くして、その様子を見ているしかなかった。
そのときだった。
どこからともなく、不気味な音が聞こえてきた。
なにかの笛の音かな?
それはまるで、世界に溢れる音を、少しずつずらしたような、首の後ろがちりちりして、背中がむずむずしてくるような音だった。
そして、音は、あくまで、音、で、少しも曲にはなっていなかった。
なんとも形容し難い不気味な音色なんだけど、それが鳴った途端に、魚は急に大人しくなった。
そしてゆっくりと湖の底へと沈んでいった…
その途端、滝は僕をもう一度、滝の裏側の洞穴に放り込んだ。
滝の帳に隠された場所で、僕は大きく息を吐いた。
魚の雄叫びに前ほどダメージを受けていないのは、少し、慣れたからなんだろうか。
もしかしたら、うんと高いところから見ていたからかもしれない。
それでも、どうしようもなく気持ち悪くて、吐き気をこらえていたら、目の前にちょろちょろと水が流れてきた。
有難く、飲ませてもらう。
この水には、森の匂いを感じる。
清浄で、正常な、森の匂い。
世界則からずれていない、あるべきところにあるべきものが収まっている感じ。
だけど、あの魚はそこから少し、ずれている感じがする。
そして、あの魚を大人しくさせた笛の音も。
水を飲んだら少し落ち着いて、そのままずるずると僕は洞穴の中で横になった。
ううう、疲れた。もう一歩も歩けない。
少し休んでから戻ろう。
気持ち悪いのに、僕は何度も何度も、頭の中で、あの笛の音をおさらいしていた。
だけど、そうだ。
今日、初めて、思ったんだ。
あの、キィエーーーッ!のなかに。
なんだか、悲しそうな気持ちがあるって。
それは、あの不気味な笛の音のなかにも感じた。
というか、あの笛の音を聞いて、始めて気づいたんだ。
魚は、泣いている、って。
なんで、泣いているの?
君を慰めるものは、あの狂った笛の音しかないんだろうか?
そんなことを考えながら、もう僕は眠気に耐えられなくなって、気がついたら、そのまま眠り込んでいた。
目が覚めたらすっかり夜は明けていた。
滝の帳越しに明るい外の光を感じる。
ずっとこんなにすぐ近くで滝はすごい音を立てて流れているんだけど。
少しもうるさいとは思わなくて、むしろ、久しぶりにぐっすり眠れた気がした。
ルクスとアルテミシアは、もう戻っているかな。
僕も屋敷に戻ろうと思って、滝に声をかけた。
「滝さん。僕をここから出してもらえないかな?」
だけど、昨夜みたいな滝の掌は、伸びてはこなかった。
お、や?
「滝さん。僕、ここから出たいんだけど?」
あ。もしかして、笛をご所望ですか?
僕は笛を吹いてみたけど、滝は、うんともすんとも、何の反応もしなかった。
え?ちょ、どういうこと?
もしかして、あれって、夜限定、とか?
だとしたら、僕、夜になるまで、ここから出られないってことかな?
僕は恐る恐る帳越しに外を眺めてみた。
うへっ、深い。
滝つぼは深くて、底が見えない。
岸ははるかむこうで、泳いで渡るなんて、絶対に無理だと思った。
「…滝さーん、ここから、出してよぉ?」
僕は懇願してみた。
両手を合わせてお願いしてみた。
だけど、滝は、まったく知らん顔だった。
やっぱり、夜になるまで、待つしかないのかな。
…困った。
まさかここに閉じ込められるとは思わなかった。
ちょっとお腹がすいて、滝に手を突っ込んで水を飲んだ。
うん。やっぱりここの水は美味しい。
きょろきょろと辺りを見回したら、洞窟の上から森苺の蔓が下りてきていて、その先に美味しそうな苺がたくさんなっていた。
やったー。
僕は苺を採って食べた。
うん。これなら、夜までなんとか過ごせそうだけど。
僕がいなくなっていたら、ルクスやアルテミシアが心配するんじゃないかな。
それとも、ここだと気づいて探しにきてくれるかな。
それにしても、どうしようもなくて、僕は、ひとまずそこでじっとしているしかなかった。




