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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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あれからあの獣の声は聞こえない。

あれは、もしかしたら、僕の勘違いだったんだろうか。

そんなことを僕は思い始めていた。


たっぷり苺を食べて、僕らは部屋に帰った。

お腹いっぱいになって、眠りに就いたんだけど。

奇妙な夢をたくさん見て、その夜はあまりよく眠れなかった。


翌朝。

屋敷のシヨウニン、だという少女が、朝食の支度ができたと呼びにきてくれた。


君は、どうする?って、アルテミシアは僕に聞いてくれたけど、僕ももちろん一緒に行くと答えた。

昨夜食べた苺のおかげでお腹はすいていなかったけど。

やっぱり、ちゃんと直接、お礼を言いたかったんだ。


シヨウニンは、着替えを手伝うとか言うんだけど。

それは丁重にお断りした。

着替えくらい、自分でできる。


食堂に案内された僕らは、朝っぱらからずらっとテーブルに並べられた料理に、ちょっとくらくらした。

なに、これ?

煮たり焼いたり蒸したりした、肉や魚、それから得体のしれない食べ物が、所狭しと並んでいる。

僕の食べられそうな野菜や果実は、肉や魚の脇に飾りのようにちょこっとのっかっているだけで、ほとんど食べられそうなものはなかった。


いや、それでも、ルクスは肉は大好物なんだし。

余所のお家で出してもらった食事に文句をつけるなんて、礼儀知らずもいいところだ。


ところが、その食べ物のすべてから、なんだろう、黒い、靄、みたいなものが、立ち上っているのが、うっすらと見えているんだ。

これは…食べられない。

というか、食べちゃいけない、ものの気がする。


こんな靄の立ち上る食べ物を見たのは初めてだけど。

どう見たって、これは、ヤバいもの、だった。


リョウシュ、という人は、恰幅のいい初老の平原の民だった。

確か、代替わりしたばかり、って聞いた気がするから、もっと若い人かと思ってたけど。

ちょっと意外だった。

はきはきとにこやかにこっちを見て、何か言ってるんだけど。

…ごめん、何を言っているのか、よく分からない…


昨日ルクスとアルテミシアの言っていたことが、なんだか分かった。

言葉は確かに、森の民の言葉なんだ。

だけど、言ってることが分からない。

気持ち?みたいなのが、伝わってこない。


なんなんだろう、この違和感は。

僕はくらくらして、少し、気持ち悪くなってきた。

リョウシュの顔は、ちらっとは見たけど、ぞくりとして、慌てて目を伏せてしまった。

笑っているのに、その背中には、黒い影を背負っていて、とにかく恐ろしかった。

禍々しいに禍々しいを足して、禍々しいをかけたもの。

それはまさに、このリョウシュの後ろにある陰だった。


リョウシュは長々となにか喋っている。

とうとう堪えきれなくなって、口元を抑えてしゃがみこもうとした僕を、慌ててアルテミシアは支えてくれた。


「折角ご招待いただいたのに、すみません。

 弟はまだ、体調が回復していないようです。

 もう少し休ませていただいても?」


ルクスは森の民の言葉でリョウシュに言った。


「それはそれは、いけませんね。

 すぐに召使にお部屋へとお連れさせましょう。」


リョウシュがそう答えるのが聞こえた。

けれど、リョウシュが誰か呼ぶ前に、ルクスははっきりと言った。


「それには及びません。

 弟は少し人見知りをするので。

 この子の世話は私たちにお任せください。」


僕、人見知りなんかしたっけ?

あ、いや、ちょっとするかも。

それにしても。

ルクスってば、自分のこと、私、なんて言ってる。

初めて聞いたなあ…


ぼんやりとそんなことを考えていたら、立てるか?とルクスに言われた。


僕はアルテミシアとルクスに両方から支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。

うん。なんとか大丈夫。

だけど、もうここにはあまり居たくない。


「皆様方、お食事は?」


リョウシュはルクスに尋ねた。

ルクスはにこっとして答えた。


「お待たせするのも申し訳ないですし、どうぞ、お召し上がりください。

 折角ご馳走を用意していただいたのに、すみません。

 残念ですが、私たちは、今朝は遠慮させていただきます。」


いや、あの、ごはんでしょう?

それは、残念じゃなくて、遠慮しといてよかったと思うよ。

むしろ、リョウシュにだって、食べないほうがいい、って言ってあげたほうがいいと思うんだけど…


それはそれは、とリョウシュは言うと、いきなり目の前の肉の塊を両手に持って、がふっ、と食らいついた。

べしょっという音がして、肉汁がリョウシュの口の両端から溢れだす。

それを手の甲で払って、リョウシュはもう一口、かぶりついた。


う。ダメだ。

音だけで気持ち悪い…


僕はまた口元を抑えたけど、急いでこれだけは言っておかなくちゃ、と思い直した。


「あ、あの…

 助けていただいて、有難う、ございました…」


リョウシュはくちゃくちゃと音をさせて肉を咀嚼しながら、顔を上げずに、なんのなんのと言った。


「森の民を助ければ、いいことがありますからなあ。

 楽しみにしておりますよ。」


その瞬間。ちらっと上目遣いにこっちを見たリョウシュの目と、僕は目が合ってしまった。

途端に、耳がきん、という音に打ちぬかれたような気がして、僕はまたよろよろとしゃがみ込みそうになった。


「これは大変だ!」


アルテミシアは大袈裟に叫んで、僕とリョウシュの間に立つようにして、僕をリョウシュから隠してくれた。

僕はものすごく助かったと思った。


「おい。俺の背に乗れ。」


ルクスはさっきまでのにやけた声じゃなくて、ちょっと真剣な声になっていた。

僕は、自分で歩くって言おうとしたけど、アルテミシアに支えてもらって、ルクスの背中に乗せられた。


苦しい。

もうこれ以上、ここにいたくない。

動かないからだはルクスの背中に乗せられて、僕はその部屋を後にした。


「…ごめん、ルクス、アルテミシア…」


寝室に戻ると、僕は寝台に寝かされた。

心配そうに覗き込むふたりに、僕は謝ることしかできなかった。


「お前に謝ることなんか、なんもないだろ?

 それより、こっちこそごめんな。無理させて。」


ルクスはそう言って僕の頭をいつもよりちょっと優しく撫でた。


「これを飲め。」


アルテミシアは薬湯をこしらえると、僕にカップを手渡した。


薬湯を飲むと気分がすっきりしてずいぶんマシになった。


「しかし、やっぱりお前にあのリョウシュは無理だったかあ。」


ルクスは昨夜採ってきた苺を袋から出してきて、ぱくぱく食べ始めた。


「なんだろう?なーんか俺でも、やな感じ?がするんだよなあ。」


「君はよく今、ものが食べられるなあ。」


アルテミシアは呆れたのか感心したのかよく分からない目をルクスにむけた。

ルクスは、ん?、とアルテミシアのほうにも苺を差し出したけど、アルテミシアは、いや、いい、と手だけ振って断った。


「あのリョウシュの後ろに、黒くて恐ろしい陰があるんだ。」


僕はふたりに打ち明けた。

あの陰を思い出すと、ここにいても、からだが震えてしまう。


「やっぱり、君には見えるんだ。」


ルクスとアルテミシアは目を合わせて頷いた。


「あのままじゃ、あのリョウシュだって、無事でいられないと思う。

 なんというか、あの陰は…

 禍々しいに禍々しいを足して、禍々しいをかけた、そういう感じ。」


「そりゃまた、たいそう、ヤバそうだな。」


ルクスはうっと顔をしかめた。


「あの陰は、いったいなんなんだろう?」


「何か、悪いものが憑りついているのか。

 はたまた、リョウシュ自身の内側から溢れだしているのか。」


アルテミシアは怖いことを淡々と言った。


「う。

 …何とか、した、ほうが、いい、の、かな?」


僕はびくびくと尋ねてみた。

何とかする、ったって、どうしたらいいかなんか、分かんないけど。


「どうかな?

 もしかしたら、リョウシュ自身が、望んでああなっているのかもしれんし。」


アルテミシアは淡々と答えた。

そんなまさか、望んで、ああなりたい人なんて、いるのかな?


ルクスを見ると、ルクスも、うーん、って唸って考え込んだ。


「リョウシュのことはともかく。

 あの水は、なんとかしないと。

 それは間違いない。」


それは僕も大賛成だ。

だけど、それこそ、どうしたらいいかなんて、分かんないよ。


「例えば、毒消しの薬草を大量にぶち込む…

 んなことしたって、無駄だよな?」


ルクスは言いかけたけど、アルテミシアの冷ややかな視線を受けて、ちょっとしょんぼり意見を引っ込めた。


「あの毒は、毒消しでどうにかなるものじゃないんだ。」


アルテミシアは首を振った。


「むしろ、浄化。

 あの本に水を浄化する秘術はなかったか?」


アルテミシアに尋ねられたルクスも、同じように首を振った。


「お前も読んだんだろ?

 浄化の術は赤の火以外にはない。

 けど、浄化しないといけないのは水なんだから。

 赤の火じゃ、浄化は難しいだろうな。」


「だよな。うん。

 あたしもそう思った。

 けど君なら何か気づいているかもと思って。

 聞いてみただけだ。」


アルテミシアにそう言われたルクスは、ちょっと悔しそうに唇を尖らせた。


「すまないね。お役に立てなくて。」


「あの、お役に立てない、のの筆頭は、僕だから。

 ごめん、本当に。」


ルクスが役立たずなら、僕なんてどうなるんだ。

情けなくなってそう言ったら、アルテミシアはこっちを見てにっこりした。


「君は十分に役に立っているよ。

 君にはいろんなものが、見える、から。

 それは、いつも大事な手掛かりになる。」


「そうだそうだ。

 いい加減、自分を役立たずだと思い込むのはやめにしろ。

 お前は大事な俺たちの仲間だ。」


そう言ってくれるふたりの優しさが有難くて、僕は思わず涙ぐんでしまった。






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