60
夜になるとアルテミシアとルクスは出かけて行った。
僕はひとりお留守番。
情けないけど、あの獣の声はもうごめんだった。
屋敷のすぐ裏は切り立った崖になっていた。
耳をすませると、滝の音も聞こえてくる。
昼間、遠くから見たとき、崖の上の方は霧に包まれていてよく見えなかった。
ただ、ものすごく高くて険しい崖なのは間違いなかった。
明日、夜が明けたら、見に行ってみようか。
ルクスの汲んできてくれた水は、普通に美味しい水だ。
ということは、滝の上の水は穢されてはいないんだ。
ここの人たちにも、水を飲むなら、湖じゃなくて、滝の水を飲んだほうがいい、って、教えてあげたほうがいいかな。
ここには大勢の人がいる、ってルクスとアルテミシアは言っていた。
ほとんどは、あの町から通う人たちで、彼らは、リョウシュにツカエテ、いる。
リョウシュ、に、タイカ、をもらって、仕事をしているんだ。
彼らはリョウシュのことを、ゴシュジンサマ、と呼ぶらしい。
昼間、ふたりに食事を提供してくれたとき、一緒に食べたのはリョウシュだけだった。
リョウシュには家族もいるみたいだけど、その家族は出てこなかったそうだ。
他にも部屋に人はいたけど、その人たちは、食事の世話をしてくれただけ。
その人たちにも話しかけても、みんなうつむいて首を振るだけで、何も答えてはくれなかったそうだ。
ただ、リョウシュだけは上機嫌で、ふたりにいろいろと話しかけた。
リョウシュは、森の民の言葉も話せるらしい。
だけど、リョウシュの言いたいことは、半分も分からなかった、ってふたりは困ったように言っていた。
リョウシュって、いったいどんな人なんだろう?
ちょっと、気にはなるけど。
リョウシュ、のことを話すルクスやアルテミシアの表情を見ていると。
なんだかちょっと、会わないで済むなら、会わないほうがいいかな、って思ってしまう。
だけど、助けてもらったのは、事実なんだし。
それは、やっぱり、ちゃんとお礼を言わないとダメだよね。
朝食には、また、リョウシュも来るだろう。
明日の朝には多分、僕も起きられるだろうし。
ちゃんと直接会って、話さなくちゃ。
そうだ。何か、リョウシュにお礼をしよう、と思った。
お礼と言っても、僕にできるのは、笛を吹くことくらいだけど。
あの町の人の魂の歌。
あれを吹いたら、リョウシュも喜んでくれるんじゃないかな?
少し練習をしておこうと思って、僕は寝床に起き上がると笛を取り出した。
それからあの歌を吹き始めた。
ふふ。
なんて、力強い歌なんだろう。
この歌を吹いていると、なんだか僕まで元気をもらえる気がするなあ。
夢中になって吹き鳴らしていたときだった。
突然、「うるさいっ!」という声が、屋敷中に響き渡った。
僕はびっくりして、笛を取り落としてしまった。
幸い、床に落ちて割れることはなかったけど。
うるさい?
そんなふうに言われたのは初めてだ。
ピサンリには一度、夜に笛を吹くと蛇が出る、って言われたこと、あったけど。
ピサンリも、うるさい、とは言わなかった。
うるさい、かな?
そっか。今から寝ようとしている人には、元気な歌は、うるさかったかな?
まだ、寝るには少し早い時刻のような気もするけど。
明日早起きだから、早く寝るのかもしれないし。
とにかく、悪いことをしてしまった。
僕はしょんぼりと笛をしまった。
お礼をするために練習してたんだけど。
それで誰かを怒らせてしまったんなら、逆効果だ。
そのとき、ふと気づいた。
さっきの、うるさい、が、ちゃんと聞こえていたことに。
それって、うるさい、って、森の民の言葉で言ったってことだ。
この屋敷には、森の民の言葉を使える人がたくさんいるのだろうか。
笛をやめると、辺りの静寂がいっそうくっきりした。
そういえば、虫の鳴く声がしない。
人は大勢いるらしいけど、その人たちの話し声とか、気配とかもない。
夜にはみんな町へ帰っちゃうのかな。
いや、だけど、夜にも大勢の、シヨウニン、がいる、って、ルクスたちは言ってなかったっけ。
みんな、ひっそりと、息を潜めるようにしている、のかな、って思った。
虫たちも、うるさい、って叱られるから、黙っているのかな。
いや、虫に、うるさい、なんて言ったって、黙ったりするわけないけど。
大きな湖があって、草木もたくさん生えているのに。
なんだか、ここには命の気配がしない。
いや、ここを支配する重たい静寂が、生き物の気配を全部飲み込んでいる感じ。
なんだろう。ここに長く居たくない。
ずん、と胸の中に重くのしかかるもの。
禍々しいに禍々しいを足して、禍々しいをかけた、みたいな感じ。
息をするのも、なんだか重苦しい。
静寂を唯一破るのは、静かな滝の音。
僕はどうしても今すぐその滝のところへ行きたくなって、思わず寝床を脱け出していた。
マントを羽織って部屋を出る。
足音を忍ばせて、長い廊下を歩く。
大きな大きなお屋敷だった。
誰かに出会う前に、建物の外に出られたのはよかった。
庭には飾りなのだろうか、大きな岩がいくつもごろごろしている。
僕はその岩陰に隠れながら、少しずつ進んでいった。
他には音がしないから、滝の音を頼りにそっちへ行くのは難しくなかった。
滝の音は、まるで僕を招くように、ずっと静かに聞こえていた。
遠く、振り返ると、月の光を浴びて、湖は一面、青く光っていた。
大きな湖だ。
あの水が全部毒になるなんて。
いったい、どうしたらそんなことになるんだろう。
綺麗な風景のはずなのに、何故か、その青を、僕は美しいと思えなかった。
水面にぎらぎらと光る銀色のものが、なんだか、ちくちくと感じた。
前をむくと、滝もまた、青く光っていた。
ただ、こっちの青には、僕はほっとした。
同じ、青なのに。
滝つぼは険しい崖に囲まれていて、その中央に、細く、滝が流れている。
滝つぼは結構な広さがあって、滝に直接触れることはできない。
滝つぼから流れ出す水は、小さな川になって、その先で湖へと流れ込む。
僕は滝つぼの水にそっと手を浸してみた。
けれど、すぐに、ぴりっとした刺激を感じて、手を引っ込めた。
この水も、無事じゃないんだ、と思った。
じゃあ、あの僕の飲んだ水は、あの滝から直接汲んできたの?
僕は広い滝つぼのむこうにある滝を眺めた。
ルクスはあそこまでどうやって行ったんだろう?
滝つぼに湛えられた水は深くて、底は見えない。
ルクスも僕と同じで、泳げなかったはずだ。
だとしたら、この崖をよじ登ったのかな。
険しい崖には木はあまり生えていなくて、足場になりそうなところもあまりない。
これをよじ登って、あの滝の水を汲むなんて、ものすごく大変そうだと思った。
少なくとも、僕には無理だ。
そのときだった。
おーい、という声に僕は思わず目を上げた。
すると目の前の崖から、ぴょん、と身軽にルクスが飛び降りてきた。
「え?」
「起きてきたのか?
からだは辛くないか?」
ルクスは心配そうに僕を見下ろして言った。
「あの崖、上ったの?」
僕はルクスの問いに答えるより先に質問していた。
ルクスはちょっと苦笑して僕の髪をくしゃっとした。
「昼間、上ったときに、森苺を見つけたって言ったら、姫に採ってこいって言われてさ。
それに、明日の朝飲む水も必要だったし。」
ルクスは背中に背負った袋を見せた。
「腹、減ってるだろ?
苺、食うか?」
ルクスは袋から苺を取り出して見せた。
きらきらと赤い美味しそうな苺だった。
「アルテミシアは?」
僕は苺に手を伸ばしそうになるのを堪えて尋ねた。
苺はすっごく美味しそうなんだけど、なんだか、食い意地が張っているのはみっともないって思って、手を出せなかった。
「姫はもう少し湖の水を調べるんだと。」
「恋人同士設定なら、一緒にいないとダメなんじゃないの?」
というか、傍にいなくて、アルテミシアに何かあったらどうするんだ。
ちょっと責めるようにルクスを見たら、ルクスは肩を竦めて言った。
「喧嘩してひとりしくしく泣いてるフリするから、大丈夫だってさ。
それより、先に行って、苺と水を採ってこい、って。」
あいつが言い出したら聞かないのは、知ってるだろ?って付け足した。
それは、知ってるけど…
「危険は、ないのかな…?」
「あいつになんとかできない危険は、俺がいたって、何もできない。」
ルクスは堂々と断言した。
「…だけど、ふたりいたら、せめて…」
「俺があいつの足を引っ張るだけだな。」
なんで、そんなこと、自信たっぷりに言い切るんだ。
「ルクスは、アルテミシアのこと守りたい、とか思わないの?」
僕はちょっとむっとして尋ねた。
「いつかはそうなりたい、とは思ってる。
だけど、今はまだ、守られているのは俺のほうだ。
それはお前も同じだろ?」
確かに。僕は頷くしかなかった。
「自分の実力は正確に把握しないと。
いざというとき、本当に大切なものは守れない。
だけど、俺もお前も、今が自分の最高じゃない。
まだまだ、俺たちには、伸びしろがある。」
良い事言うなあ、とちょっと思ってたのに、ルクスは付け足した。
「まあ、アルテミシアにも伸びしろはあるけど。
というか、あいつのほうが、伸びしろ、大きいかもしれないけど。」
それじゃあ、僕ら、一生かかっても、アルテミシアには追いつけないってこと?
僕が情けない顔をしたら、ルクスは、けけけっと笑った。
「なんだい?ふたりして楽しそうだな。」
そこに噂の姫君がご登場。
僕らは慌てて姫にむかって背筋を伸ばした。
べつに、悪口は、言ってないよ?悪口はね?
だけど、なんかちょっと、気まずくて、ルクスと僕はこっそり目を見交わした。
「気分はどうだ?」
アルテミシアは僕を見てルクスと同じことを尋ねた。
僕は今度はちゃんと答えた。
「大丈夫。
だけど、部屋にいると息が苦しくなってきて。
この滝を見にきたんだ。」
「この土地で唯一汚染されてないのは、この滝の水だけだからな。」
アルテミシアは滝を見上げて言った。
「この崖の上は、どうなっているのか分からないけれど。
少なくとも、この水だけは清浄だ。」
「ここの滝つぼの水も、毒なの?」
「ああ。触るなよ。」
僕はさっきちょっと手をつけてみたのは黙っておいた。
「苺は?あったか?」
アルテミシアはルクスにむかって言った。
「もちろんですよ、姫君。」
ルクスはふざけてお辞儀をしてみせた。
それからちょっと恨めしそうにアルテミシアを見上げた。
「えらくあっさり恋人設定を受け容れたと思ったら。
最初から、俺にはこれを採りに行かせるつもりだったんだろ?」
「君はとても身が軽いからな。」
アルテミシアは、悪びれた様子もなく、ただ、ふふっと笑った。
「ちぇっ。
まあ、水の調査なら、アルテミシアひとりで十分だからな。」
ルクスは拗ねたふりをして、苺をひとつ自分の口に放り込んだ。
「うん。うまい。
ほら、お前らも食え。
なんなら、また採りに行ってやるから。」
「ああ。折角だから、摘みたてをいただこうか。」
アルテミシアは苺をひとつ取ると僕の手にのせてくれた。
それから僕らは苺をたっぷり食べた。
結局、ルクスはその後、二回、苺を採りに行った。
崖をよじ登るのは大変だったと思うんだけど。
ルクスは文句も言わず、というか、妙に嬉しそうに苺を採りに行ってくれた。




