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もう一つの楽園  作者: 村野夜市


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夜になるとアルテミシアとルクスは出かけて行った。

僕はひとりお留守番。

情けないけど、あの獣の声はもうごめんだった。


屋敷のすぐ裏は切り立った崖になっていた。

耳をすませると、滝の音も聞こえてくる。


昼間、遠くから見たとき、崖の上の方は霧に包まれていてよく見えなかった。

ただ、ものすごく高くて険しい崖なのは間違いなかった。

明日、夜が明けたら、見に行ってみようか。


ルクスの汲んできてくれた水は、普通に美味しい水だ。

ということは、滝の上の水は穢されてはいないんだ。


ここの人たちにも、水を飲むなら、湖じゃなくて、滝の水を飲んだほうがいい、って、教えてあげたほうがいいかな。


ここには大勢の人がいる、ってルクスとアルテミシアは言っていた。

ほとんどは、あの町から通う人たちで、彼らは、リョウシュにツカエテ、いる。

リョウシュ、に、タイカ、をもらって、仕事をしているんだ。

彼らはリョウシュのことを、ゴシュジンサマ、と呼ぶらしい。


昼間、ふたりに食事を提供してくれたとき、一緒に食べたのはリョウシュだけだった。

リョウシュには家族もいるみたいだけど、その家族は出てこなかったそうだ。

他にも部屋に人はいたけど、その人たちは、食事の世話をしてくれただけ。

その人たちにも話しかけても、みんなうつむいて首を振るだけで、何も答えてはくれなかったそうだ。


ただ、リョウシュだけは上機嫌で、ふたりにいろいろと話しかけた。

リョウシュは、森の民の言葉も話せるらしい。

だけど、リョウシュの言いたいことは、半分も分からなかった、ってふたりは困ったように言っていた。


リョウシュって、いったいどんな人なんだろう?

ちょっと、気にはなるけど。

リョウシュ、のことを話すルクスやアルテミシアの表情を見ていると。

なんだかちょっと、会わないで済むなら、会わないほうがいいかな、って思ってしまう。


だけど、助けてもらったのは、事実なんだし。

それは、やっぱり、ちゃんとお礼を言わないとダメだよね。


朝食には、また、リョウシュも来るだろう。

明日の朝には多分、僕も起きられるだろうし。

ちゃんと直接会って、話さなくちゃ。


そうだ。何か、リョウシュにお礼をしよう、と思った。

お礼と言っても、僕にできるのは、笛を吹くことくらいだけど。

あの町の人の魂の歌。

あれを吹いたら、リョウシュも喜んでくれるんじゃないかな?


少し練習をしておこうと思って、僕は寝床に起き上がると笛を取り出した。

それからあの歌を吹き始めた。


ふふ。

なんて、力強い歌なんだろう。

この歌を吹いていると、なんだか僕まで元気をもらえる気がするなあ。


夢中になって吹き鳴らしていたときだった。

突然、「うるさいっ!」という声が、屋敷中に響き渡った。

僕はびっくりして、笛を取り落としてしまった。

幸い、床に落ちて割れることはなかったけど。


うるさい?

そんなふうに言われたのは初めてだ。

ピサンリには一度、夜に笛を吹くと蛇が出る、って言われたこと、あったけど。

ピサンリも、うるさい、とは言わなかった。


うるさい、かな?

そっか。今から寝ようとしている人には、元気な歌は、うるさかったかな?


まだ、寝るには少し早い時刻のような気もするけど。

明日早起きだから、早く寝るのかもしれないし。

とにかく、悪いことをしてしまった。


僕はしょんぼりと笛をしまった。

お礼をするために練習してたんだけど。

それで誰かを怒らせてしまったんなら、逆効果だ。


そのとき、ふと気づいた。

さっきの、うるさい、が、ちゃんと聞こえていたことに。

それって、うるさい、って、森の民の言葉で言ったってことだ。

この屋敷には、森の民の言葉を使える人がたくさんいるのだろうか。


笛をやめると、辺りの静寂がいっそうくっきりした。

そういえば、虫の鳴く声がしない。

人は大勢いるらしいけど、その人たちの話し声とか、気配とかもない。

夜にはみんな町へ帰っちゃうのかな。

いや、だけど、夜にも大勢の、シヨウニン、がいる、って、ルクスたちは言ってなかったっけ。


みんな、ひっそりと、息を潜めるようにしている、のかな、って思った。

虫たちも、うるさい、って叱られるから、黙っているのかな。

いや、虫に、うるさい、なんて言ったって、黙ったりするわけないけど。


大きな湖があって、草木もたくさん生えているのに。

なんだか、ここには命の気配がしない。

いや、ここを支配する重たい静寂が、生き物の気配を全部飲み込んでいる感じ。


なんだろう。ここに長く居たくない。

ずん、と胸の中に重くのしかかるもの。


禍々しいに禍々しいを足して、禍々しいをかけた、みたいな感じ。

息をするのも、なんだか重苦しい。


静寂を唯一破るのは、静かな滝の音。

僕はどうしても今すぐその滝のところへ行きたくなって、思わず寝床を脱け出していた。


マントを羽織って部屋を出る。

足音を忍ばせて、長い廊下を歩く。

大きな大きなお屋敷だった。


誰かに出会う前に、建物の外に出られたのはよかった。

庭には飾りなのだろうか、大きな岩がいくつもごろごろしている。

僕はその岩陰に隠れながら、少しずつ進んでいった。


他には音がしないから、滝の音を頼りにそっちへ行くのは難しくなかった。

滝の音は、まるで僕を招くように、ずっと静かに聞こえていた。


遠く、振り返ると、月の光を浴びて、湖は一面、青く光っていた。

大きな湖だ。

あの水が全部毒になるなんて。

いったい、どうしたらそんなことになるんだろう。

綺麗な風景のはずなのに、何故か、その青を、僕は美しいと思えなかった。

水面にぎらぎらと光る銀色のものが、なんだか、ちくちくと感じた。


前をむくと、滝もまた、青く光っていた。

ただ、こっちの青には、僕はほっとした。

同じ、青なのに。


滝つぼは険しい崖に囲まれていて、その中央に、細く、滝が流れている。

滝つぼは結構な広さがあって、滝に直接触れることはできない。

滝つぼから流れ出す水は、小さな川になって、その先で湖へと流れ込む。

僕は滝つぼの水にそっと手を浸してみた。

けれど、すぐに、ぴりっとした刺激を感じて、手を引っ込めた。

この水も、無事じゃないんだ、と思った。


じゃあ、あの僕の飲んだ水は、あの滝から直接汲んできたの?

僕は広い滝つぼのむこうにある滝を眺めた。

ルクスはあそこまでどうやって行ったんだろう?

滝つぼに湛えられた水は深くて、底は見えない。

ルクスも僕と同じで、泳げなかったはずだ。


だとしたら、この崖をよじ登ったのかな。


険しい崖には木はあまり生えていなくて、足場になりそうなところもあまりない。

これをよじ登って、あの滝の水を汲むなんて、ものすごく大変そうだと思った。

少なくとも、僕には無理だ。


そのときだった。

おーい、という声に僕は思わず目を上げた。

すると目の前の崖から、ぴょん、と身軽にルクスが飛び降りてきた。


「え?」


「起きてきたのか?

 からだは辛くないか?」


ルクスは心配そうに僕を見下ろして言った。


「あの崖、上ったの?」


僕はルクスの問いに答えるより先に質問していた。

ルクスはちょっと苦笑して僕の髪をくしゃっとした。


「昼間、上ったときに、森苺を見つけたって言ったら、姫に採ってこいって言われてさ。

 それに、明日の朝飲む水も必要だったし。」


ルクスは背中に背負った袋を見せた。


「腹、減ってるだろ?

 苺、食うか?」


ルクスは袋から苺を取り出して見せた。

きらきらと赤い美味しそうな苺だった。


「アルテミシアは?」


僕は苺に手を伸ばしそうになるのを堪えて尋ねた。

苺はすっごく美味しそうなんだけど、なんだか、食い意地が張っているのはみっともないって思って、手を出せなかった。


「姫はもう少し湖の水を調べるんだと。」


「恋人同士設定なら、一緒にいないとダメなんじゃないの?」


というか、傍にいなくて、アルテミシアに何かあったらどうするんだ。

ちょっと責めるようにルクスを見たら、ルクスは肩を竦めて言った。


「喧嘩してひとりしくしく泣いてるフリするから、大丈夫だってさ。

 それより、先に行って、苺と水を採ってこい、って。」


あいつが言い出したら聞かないのは、知ってるだろ?って付け足した。

それは、知ってるけど…


「危険は、ないのかな…?」


「あいつになんとかできない危険は、俺がいたって、何もできない。」


ルクスは堂々と断言した。


「…だけど、ふたりいたら、せめて…」


「俺があいつの足を引っ張るだけだな。」


なんで、そんなこと、自信たっぷりに言い切るんだ。


「ルクスは、アルテミシアのこと守りたい、とか思わないの?」


僕はちょっとむっとして尋ねた。


「いつかはそうなりたい、とは思ってる。

 だけど、今はまだ、守られているのは俺のほうだ。

 それはお前も同じだろ?」


確かに。僕は頷くしかなかった。


「自分の実力は正確に把握しないと。

 いざというとき、本当に大切なものは守れない。

 だけど、俺もお前も、今が自分の最高じゃない。

 まだまだ、俺たちには、伸びしろがある。」


良い事言うなあ、とちょっと思ってたのに、ルクスは付け足した。


「まあ、アルテミシアにも伸びしろはあるけど。

 というか、あいつのほうが、伸びしろ、大きいかもしれないけど。」


それじゃあ、僕ら、一生かかっても、アルテミシアには追いつけないってこと?

僕が情けない顔をしたら、ルクスは、けけけっと笑った。


「なんだい?ふたりして楽しそうだな。」


そこに噂の姫君がご登場。

僕らは慌てて姫にむかって背筋を伸ばした。

べつに、悪口は、言ってないよ?悪口はね?

だけど、なんかちょっと、気まずくて、ルクスと僕はこっそり目を見交わした。


「気分はどうだ?」


アルテミシアは僕を見てルクスと同じことを尋ねた。

僕は今度はちゃんと答えた。


「大丈夫。

 だけど、部屋にいると息が苦しくなってきて。

 この滝を見にきたんだ。」


「この土地で唯一汚染されてないのは、この滝の水だけだからな。」


アルテミシアは滝を見上げて言った。


「この崖の上は、どうなっているのか分からないけれど。

 少なくとも、この水だけは清浄だ。」


「ここの滝つぼの水も、毒なの?」


「ああ。触るなよ。」


僕はさっきちょっと手をつけてみたのは黙っておいた。


「苺は?あったか?」


アルテミシアはルクスにむかって言った。


「もちろんですよ、姫君。」


ルクスはふざけてお辞儀をしてみせた。

それからちょっと恨めしそうにアルテミシアを見上げた。


「えらくあっさり恋人設定を受け容れたと思ったら。

 最初から、俺にはこれを採りに行かせるつもりだったんだろ?」


「君はとても身が軽いからな。」


アルテミシアは、悪びれた様子もなく、ただ、ふふっと笑った。


「ちぇっ。

 まあ、水の調査なら、アルテミシアひとりで十分だからな。」


ルクスは拗ねたふりをして、苺をひとつ自分の口に放り込んだ。


「うん。うまい。

 ほら、お前らも食え。

 なんなら、また採りに行ってやるから。」


「ああ。折角だから、摘みたてをいただこうか。」


アルテミシアは苺をひとつ取ると僕の手にのせてくれた。


それから僕らは苺をたっぷり食べた。

結局、ルクスはその後、二回、苺を採りに行った。

崖をよじ登るのは大変だったと思うんだけど。

ルクスは文句も言わず、というか、妙に嬉しそうに苺を採りに行ってくれた。





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