59
目を覚ましたのは、薄暗い部屋のなかだった。
窓から差し込む日は、もう夕方近いようだった。
「気が付いたかい?」
静かな声がして、アルテミシアと目が合った。
アルテミシアは枕元の椅子に腰掛けて、ずっと僕のことを看ていてくれたみたいだった。
「お水、飲む?」
「ちょっと待った!」
ばんっ、という音がして、部屋の扉が開き、ルクスが入ってくるのが見えた。
「それはダメだ。
飲むならこっちにしろ。」
ルクスはそう言って水差しを差し出した。
「水源の滝から汲んできた。
こっちのほうがマシなはずだ。」
アルテミシアは、そうだね、と言うと、僕に渡そうとしていたカップの水を窓から捨てて、ルクスの持ってきた水差しの水を注いだ。
「浄化塩は入れてみたけど、とても飲めたものじゃなかった。
からだの弱っている子にはあの水は毒になるだろう。」
「水が、毒になる?」
手渡されたカップの水をしげしげと見ながら僕は尋ねた。
「それは大丈夫だ。」
ルクスはちょっと怒ったみたいに言った。
「だけど、あの湖の水は、毒だ。」
「湖の水が毒?」
あんなにたくさんあるのに?
湖全体の水が毒になる、なんてこと、あるんだろうか。
たとえ毒を流したとしても、あの水全部毒にするなんて、よっぽどの量を流し込まないといけないだろうし。
そんなの現実には無理だ。
だけど、ルクスは眉をひそめて頷いた。
「臭いを嗅いだだけで、毒だって分かる。
この俺が分かるんだから、よっぽどだ。」
アルテミシアも、悲しそうに頷いた。
「あんなことが現実にあるなんて、びっくりしたけど。」
じゃあ、本当に湖の水全部が毒なんだ。
「なんで、そんなことに?」
思わずそう尋ねていた。
「毒になった原因は分からん。
しかし、調べるのも、簡単ではなさそうだ。」
ルクスはますます怒ったみたいに言ってため息を吐いた。
毒になったから、水を堰き止めたのかな。
僕はちょっと考えた。
それならそうと、町の人たちにも知らせなくちゃ。
「それより、具合はどうだい?」
アルテミシアは僕の額に手を当てて尋ねた。
それから、熱はないね、とちょっとにっこりした。
「どこが苦しかったの?
突然、気を失って、びっくりしたんだよ。」
「アルテミシアが診ても、お前の倒れた原因は分からなかったんだ。」
ルクスも心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「ごめん。心配かけて。」
僕はふたりに謝った。
「ものすごい音が、したんだ。
キェーッ、みたいな。
ふたりには、聞こえなかった?」
「キェーッ?」
ふたりは顔を見合わせてから、同時にこっちを見て首を振った。
だろうなあ。そうじゃないかと思ったんだ。
なんか最近、僕にだけ聞こえる、僕にだけ見える、ってことがよくある気がする。
だけど、あんなひどい音なら、聞こえたのが僕だけでよかったって思う。
聞こえていたら、三人揃って倒れていたかもしれない。
「…とても耐えられなくて。
耳を塞いでも、頭のなかに響いてきて。
と思ったら、ふっ、って何も分からなくなってた。」
「からだが耐えきれなくなったんだろうな。」
アルテミシアはふむと頷いてから、なにかこしらえに行った。
ルクスはさっきまでアルテミシアの腰掛けていた椅子に座って、僕のほうへ顔を近づけた。
「…それは、何の音だったんだ?」
「…分からない。
……なにか、獣の声?みたいだな、とも思ったけど。
いや、でも、獣は、あんなふうには、鳴かない、かな…」
「今は?その声は?」
「今は聞こえない。」
「あの近くに棲んでいる獣かなにか、なんだろうか?
とりあえず、ここにいれば安全か?」
「もしかしたら、それは、現実の獣の声、ではないかもしれないな。」
アルテミシアはなにか薬湯をこしらえてきて、僕に手渡してくれた。
アルテミシアの腰袋には、いつも、なにがしかの薬草が入っている。
薬湯はちょっと苦かったけれど、匂いがとてもよくて、飲むと気分もすっきりした。
「幻の獣の声?か?」
ルクスはうーんと首を傾げた。
アルテミシアは部屋の隅からもうひとつ椅子を持ってくると、ルクスの隣に並んで座った。
「探してみる?
だけど、君はその声には耐えられないよね?」
僕は、むうと考え込んだ。
つくづく僕って、いっつも役立たずだ。
「…ところで、ここって、どこ?」
なんとなく想像はついてたんだけど、念のため尋ねてみた。
「リョウシュの屋敷。」
返ってきた答えは予想通りだった。
「君が突然気を失って慌てていたら、湖を見張っていた兵士に見つかったんだ。」
「それで例の、迷い込んだ旅の森の民?の話しをしたら、ここへ連れてこられた。」
いたずらっぽく笑って、ルクスは肩を竦めてみせた。
「なんかさ、それなりに、歓迎?されてるみたいだったけど。」
「森の民は幸運をもたらす使いだ、とか言われたっけ。」
ふたりは顔を見合わせて、やれやれ、と苦笑した。
「そんなふうに思われるのって、ご先祖たちのお蔭なんだろうけどね?」
「なーんか、期待されてるみたいなのが、なんとも。」
僕も一緒になって苦笑した。僕ら、そんな特別な存在じゃないよね?
「俺たちには、食事とか用意してくれたんだけど。」
「とても、食べられたものじゃなくてね?」
「あの水は毒だ。」
そっか。
それで、僕が目を覚ます前に、滝まで水を汲みに行ってくれたんだ。
「だけど、そんな毒の水を飲んでいるのに、ここの人たちは、平気なの?」
それが心配になった。
ルクスとアルテミシアはまた顔を見合わせてから、同時にこっちを見た。
「まったくだな。」
「見た感じ、平気そうだよ。
あたしたちの食べられなかった食事も、がつがつ食べていた。」
えー…と僕は眉をひそめた。
「毒だって、気づいてないのかな?
それとも、森の民には毒だけど、平原の民だと問題ないのかな?」
「毒は誰にとっても毒だと思うな。」
アルテミシアは、むぅと唸った。
「少なくとも薬草は、森の民、平原の民、関りなく同じ効果があるからね。」
そっか。ということは、毒だって、どっちにも同じように毒になるんだ。
「いったい、どういうことだろうな?」
ルクスは腕組みをして考え込んだ。
「やっぱり、湖を、もう一度、見に行ってみないか?
堰き止められている原因も、まだ分からないし。」
「湖か…
けど、また、幻の獣?の声がするかもしれないよね?」
アルテミシアは僕のほうを心配そうに見た。
僕はしょんぼりうつむいた。
「ごめんね、僕、足手まといだよね?」
そんなことはない、とルクスは僕の背中に手を置いた。
「それじゃあ、今夜、俺とアルテミシアと二人で、ちょっと調べてみよう。
そうだな。ロマンチックな夜の湖でこっそり逢引きをする恋人同士、という設定でどうだ?
お前はアルテミシアの弟で、旅の疲れで休んでいることにしよう。」
なにその設定?
いろいろ言いたいことはあったけど、その前に、仕方ないなあ、とアルテミシアの言うのが聞こえた。
「付き合ってやるか。」
いいの?アルテミシア?
だけどルクスは妙に楽しそうに、よし、今夜決行だ、と頷いた。




