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皆が一列に並ぶと、前に進み出たのはピサンリだった。
誰も、手に松明等の火は持っていない。
雨に濡れた森はひどく湿っていて、火なんか点くのかなとちょっと思った。
ピサンリは高く手を差し上げた。
その手に持った何かが、きらりと光を放った。
あれは、なんだろう?
なにか、小さな石みたいだけど。
ピサンリは石を握った手を宙で大きく動かした。
するとそこに光の軌跡のような絵図が現れた。
あれは、なんだろう?
でも、どこかで、見たことがある気がする。
「…あれは、あの本にあった…」
隣にいたルクスが小さく呟いたので気がついた。
そうだ。
あれは、あの本に描いてあった絵図にそっくりなんだ。
両親の部屋の片隅に置かれていた不思議な本。
平原の民の言葉と文字で書かれていて、何が書いてあるのか分からない。
そこにはあの絵図みたいな図形がたくさん描いてあって、複雑で綺麗なその文様を、毎晩のようにルクスと眺めていた。
その本には世界を救う方法が書いてあるらしい。
悪用されないようにと、世界でたった三冊しかない。
とてもとても貴重な本。
なんでそんなものが僕の家にあったのかも謎だけど。
それを知ったルクスは、ほんの一瞬の躊躇いもなく、平原へと出発した。
平原の民の言葉と文字を学ぶために。
いろいろあって、僕なんかはもう、その本のことは、結構忘れてたんだけど。
ルクスはコツコツと言葉を勉強して、少しずつ、本も解読していった。
その本に描いてあった絵図が。
何を示しているのか分からなかったあの絵図が。
たった今、目の前で、宙に描かれていた。
一筆書きで描かれていく絵図は、きらきらとそのまま宙に留まっていた。
ピサンリは、僅かの迷いもなく、すらすらと絵図を描いていた。
あれは、なんなんだろう?
僕らはただ息を呑んで、ピサンリのすることを見ているだけだった。
やがて、絵図は完成したらしかった。
ピサンリが腕を下ろすと、絵図はますます強く光り輝いた。
その輝きが赤く染まり、そのむこうに、ぼっと、光り輝く赤い炎が出現した。
あっと言う間に、炎は白く枯れた森に燃え広がった。
不思議なことに、この炎は熱くはなかった。
ただ、眩しいほどに赤い光を放っていた。
赤い炎は、無事な森のほうへはその腕を伸ばそうとはしなかった。
これは、ただの炎じゃないと思った。
浄化の火、と言えばいいだろうか。
白く立ち枯れた木々は、浄化の火に包まれ、赤く眩しい光を放っては崩れ落ちていった。
それにしても、木がそうなる姿は、ひどく胸の痛む光景だった。
他にどうすることもできないと分かってはいても。
ひとつ、ひとつ、崩れるたびに、僕のなかの力も抜け落ちるようだった。
こうするしかないんだ。
これが一番いいんだ。
ルクスの声が何度も何度も頭のなかに響いた。
僕だって、それは分かっていた。
だけど、心が痛いのだけは、どうしようもなかった。
僕らの目の前で、白く枯れた森は、浄化されていった。
浄化の火に焼かれた木々は、燃え殻を残すこともなく、跡形もなく消えていった。
あの、旅の人たちの森も、こんなふうに消えていったのかな。
あの場所には、もう、何もなかったっけ。
もしかしたら、森を焼いた森の民は僕が思うより多いのかもしれない。
僕らより先に彼の地へと旅立って行った人たちのなかには、森を焼いた人たちもいたんだろう。
白く枯れる病は、森の外側からじわじわと進んできているけれど。
そのあたりに棲んでいた民は、出立の前に、自分たちの森を焼いたのかもしれない。
そうして、その痕が、あの何もない荒野になっていたんだ。
僕らの郷は、森の奥深いところにあった。
僕らの郷の周りの森は、元気はなかったけれど、まだ枯れたりはしていなかった。
僕らの郷のみんなは、森が枯れる前に、そこを去ることにしたんだ。
森の民なら誰だって、森を焼いたりなんか、したくない。
だけど、僕らの郷のみんなは、もしかしたら、卑怯なのかな?
僕らの森を守らずに、逃げてしまったのかな。
もしかしたら、僕らの故郷の森も、いつか白く枯れるのかもしれなくて。
そうなっても、病を止める民はもうそこには残ってなくて。
誰も止めなければ、病は余所の森にも拡がっていく。
だけど、森を焼くことは、とてつもなく、辛い。
こうするしかない。こうするしかないんだ、って。何度も何度も自分に言い聞かせても。
だから、まだ森が無事なうちに、そこを去ろうって、去ったらいいんだ、って僕も思う。
だって、僕らの森が必ず、白く枯れるとは限らないんだし。
白く枯れる病は、もしかしたら、僕らの森には来ないかもしれないんだし。
あの森は永遠に無事なまま、あの場所にあるのかもしれないんだし。
少なくとも、僕らは、それを知らないままなんだし。
知らなければ、ずっと無事だって思ってられるって、思っちゃうし。
思っていたんだ、って思うし。
僕のからだからは次第に力が抜けて、僕はよろよろとそこに膝をついた。
それでも、目だけは、目の前の光景を見続けていた。
いっそ、目を逸らせてしまいたかったけど。
どうしても、見ないでいることはできなかった。
辛い。苦しい。辛い。
胸のなかに大きな塊が詰まっているみたい。
だけど、こんなに辛いのに。
涙は、出てこない。
喉の奥になにかが詰まって、声すらも出てこない。
と、ふと。
歌が、聞こえた。
はっとして顔を上げた。
アルテミシアだった。
送別の歌。
もう二度と会えない仲間を送るときの歌だった。
アルテミシアの声はどこまでも清んで、世界へと拡がっていった。
それはどこか、あの浄化の火に似ていた。
それは、凄まじいほどに綺麗な声だった。
村人たちは、みんな、ぽかん、と口を開いて、歌うアルテミシアを見ていた。
ルクスも。それから、多分、僕も。
この悲しい気持ちを、アルテミシアは歌にしたんだと思った。
悲しみも歌になれば、こんなに綺麗なんだと思った。
この歌は、ずっと、好きにはなれなかった。
だから、自分で歌ったことは一度もなかった。
だけど、この場にこれ以上に相応しい歌はないと思った。
そして、初めてこの歌を美しいと思った。
浄化の火も美しかった。
この上もなく悲しい光景なのに、それでも、どこか、美しかった。
浄化の火は温かくて、雨に濡れた僕らも乾かし、温めてくれた。
それは、僕らに憑りつきかけていた病気も、ついでに浄化していってくれるみたいだった。
とても悲しくて辛い景色に。
とても悲しい歌が響いていく。
どこまでも。
僕は、ただただ呆然と、成す術もなく、それを見ているだけ。
苦しみは、ずんと重たく胸に留まって、からだから出ていかない。
多分、もう一生、僕はこれを抱えて生きていくんだと思う。
抱えていかなくちゃいけないものを、背負ってしまったのだと思う。
白く枯れた森は静かに燃えていった。




