月の好い日は窓を開けて
それは贈るのでも贈られるのでもなく。
ただ一緒に、「なる」ものだということ。
*
静寂を破ったのは、低く小さな笑い声だった。
虚脱したまま目をやれば、黒部さんが肩を震わせて笑っていた。
「様を見ろ。貴様を幸せになんてさせなかったぞ。幸福になんてさせやしなかった。香奈が望んで掴めなかったものを、お前が手に入れるなどあってなるものか。様ァ見ろ!」
やがてそれはのけぞるような哄笑に変わり、不意に途切れる。
ひとつ、深い息を吐いて、黒部さんは私を見た。
「まったく、虚しいな。ああ、虚しい限りだ。あれの言った通りだ。復讐なんて実に虚しい。だが、な」
その双眸の奥に、あの燃え盛るものは消え失せていた。
彼の中の炎は、自身の何もかもを焼き尽くして灰に変えてしまったようだった。
「──これは、やり遂げたからこそ言える言葉だ」
満足気な無表情で彼はこめかみに銃口を当て、けれど思い止まった。
「ここでは、迷惑が過ぎるな」
幽鬼のように足を引きずり、黒部さんは部屋を出ていく。
やがて玄関の開閉音が響き、続けて、銃声。
ひとつの人生の幕引きを追うように、熱に毒された私の意識も暗黒に落ちた。
次に目を開けた時、見えたのは病院の天井だった。
マンションの住人からの通報を受け、駆けつけた警察に保護されたのだという。
私が意識を取り戻した時には既に、黒部さんは非常に危険で悪質なストーカーであると断定されていた。階下の部屋から、銃弾の他にも刃物類や盗聴機器などが押収され、疑いの余地なしとされてしまったのだ。
私はそれについて、特に何の否定しなかった。
胸に穴があいたような心地に陥っていたのもあるが、黒部さん自身が世評などは歯牙にもかけないだろうと思ったからだ。あの人は多分、徹頭徹尾自己完結した人だった。自分の世界だけで生きている人だった。
部屋の血痕については大分質されたが、「熱の所為で意識が混濁していてよくわからない」で押し通した。私の症状についての病院側の証言もあって、それはそのまま信用された。
しばらくして見舞いに来た叔母は、この騒ぎのおかげで私を家から追い出すようにした事が親族に知れ渡って、随分と肩身の狭い思いをしているらしい。
愚痴を入り混ぜつつでしきりに転居を勧められたが、私は頑として譲らなかった。
ストーカー事件として落着となっているから、その被害者である私が部屋を離れないのを、周囲には大層不思議がったようだった。
でも私にとって一番不思議は、塔子さんの行方が杳として知れない事だ。
事件当時部屋に居たはずの、私と黒部さん以外の第三者。撃たれて多量の血痕を残したその人物は事件当初から捜索されたが、結局不首尾に終わっているという。
ベランダから落ちた彼女は、あの後どうなったのだろう。
その運動能力を最後に振り絞って、息絶えてすら遺体が発見されないような場所に隠れてしまったのか。
映画の吸血鬼みたいに、過ごした長い時間がいっぺんにその上を訪れて、塵か灰になってしまったのか。
それとも──。
人生二度目の退院が許されたのは、事件から半月が過ぎてからだった。
色々な人が立ち入った私の部屋は今は綺麗に清掃がされて、すっかり見知らぬ場所のようになっている。
そんな居間のテーブルの上に、真新しいクロッキー帳が二冊揃えて置かれていた。隣には一渡りの硬度の鉛筆の入った筆箱が、やはり二つ。
どちらにも見覚えがなくて、なんだろうと首を傾げたその時、塔子さんの声が過ぎった。
──プレゼントは別に、精一杯で考えておくわ。
ああ。彼女はあの日こ、れを携えて来てくれたのだ。
「……」
帳面の表紙をゆっくりと指で撫でる。きっと、一生懸命に選んでくれたのだろうなと思った。
だというのに、あんな事になってしまった。
不意に切り裂かれて、奪い取られるみたいな終わりを|また_・・》迎えてしまった。
まるで幸福に裏切られたような塔子さんの胸中を慮ると、やり切れない気持ちになる。
──あなたの娘はちゃんとあなたに、『ただいま』と『さようなら』を言えたのではなくて?
避けられない別れの日が訪れるにしても、それは突然ではなく、せめて納得のいくものがいい。塔子さんの動機の優しさを、痛いくらいに思い知る。
そして同時に、私は塔子さんを深く恨んだ。
あの日彼女は確かに言った。「私に未来を贈ろうと思っていた」と。
つまり塔子さんは、黒部さんの事がなかったとしても、私の為にいなくなってしまうつもりでいたのだ。私を置いていってしまうつもりでいたのだ。
だのに、こんな。
まるでいつまでも一緒に、隣で絵を描いてくれるみたいなプレゼントを用意して。
──わたしはあなたの側にいるわ。二度と鴇が寂しくならないように、ずっと。
あの人は頭良さそうなのに馬鹿で、もう本当に大馬鹿で、人の気持ちなんて全然考えていなくて。
私を助けて綺麗に退場してのけて本人は大満足なのかもしれないけれど、自分がいなくなったら私が泣くに違いないだとか、そういう肝心なところにまるで思い至っていないのだ。
塔子さんの面影を見るだけで私の胸が張り裂けそうになる事を、ちっともわかっていないのだ。
鈍い足取りで、私は冷蔵庫へ向かう。
中から洋菓子の小箱を取り出し、開けた。
見た目は綺麗なままだけれど、賞味期限を過ぎたケーキは、とうに悪くなってしまっている。
そう。
甘くて素敵なものは、駄目になってしまったのだ。
ずるずると床に座り込み、私は子供のように泣きじゃくった。
抱き締めてくれる人は、もう、いなかった。
*
それでも立ち止まらずに、時間は流れる。
四月を迎えて私は予備校生になり、新しい環境を慌ただしく過ごすうちに、暦は移ろい五月になった。
私の体は、あれ以来すっかり普通と健康を取り戻していた。熱だって、あの日を最後に一度も出ていない。これに関しては黒部さんや塔子さんの仮説が正鵠であったのだろう。
事情を知らない病院はまたしても首を傾げ果て、結局再び経た生死の体験が、ショック療法として功を奏したのだろうと結論づけた。
そして変化は、体ばかりでなく心にも訪れていた。
塔子さんとの、夜ごとの長話が影響したものだろうか。いつの間にか私は、人の輪に踏み込んでいけるようになっていた。人と正対して会話ができるようになっていた。
私と人とを隔てるガラスが、半ばは自分で張り巡らせたものだと気がついて。そうしたら、ふっと楽になったのだ。
私が相手を知らないように、相手も私を何も知らない。
だから不安で緊張するのはお互い様だ。最初から気を許しあって何もかもわかりあえるなんて、そうはない事なのだから。
なら塔子さんに倣って、時にやわらかく笑めばいい。上辺だけのようでも、そこから付き合いは始まって、やがて深い縁へと強まっていく。
そんな境地に至ったら、予備校では随分と友人ができた。
おそらくはそのお陰で、私のクロッキーには、少しずつ人物が増えていった。塔子さんのくれた方の帳面は、さながら絵日記のように私の毎日が描き綴られている。
最近は水彩に興味が出てきたので、うち何枚かに色をつけてみようかと企ててもいた。
食欲が戻ったのもあって、自炊だって始めた。やってみれば思いの外に面白くて、一人暮らし向けの料理の本を買い込んでしまったくらいだ。今では友人が部屋に来た折に、手料理を振る舞う事だってある。
やるべき事はたくさんあった。
やりたい事もたくさんできた。
足を止めてふと振り返れば、私は時間を重ねて少し大人になれていた。
胸に在る思い出は、決して良いものばかりではない。
まだ苦いものも、辛い、傷と呼ぶしかないようなものもある。けれどそれすら私が重ねた歴史であって、つまり全部を含めて私なのだ。
入り混じって組み変わって元の船ではなくなって──それでも確かに、私は私としてここに在る。
その事に。もうなんの不安も抱かなかった。
それなりにではなく確かに足元を踏み固め、私は一人として安定する。
永遠じみて遠く思えた「来年」へ向け、ゆっくりと歩を進め出していた。
そんな、ある日の事だ。
私は残り僅かになったクロッキー帳のページに、私の筆ではない絵を見つけた。
それは私の寝顔のスケッチで、一人を除いて誰にも触らせていないものだから、すぐに塔子さんの筆だと当て推量ができた。
それにしても、と私は小さく苦笑する。
だらしのない私の寝顔を、よくもまあこうも愛らしく仕上てくれたものだ。
塔子さんの優しい目線が少し思い出されて、癒えたはずの傷が鈍く疼いた。
きっと、だからだろう。
その夜私は、塔子さんの夢を見た。
「お久しぶりね、鴇」
覚えている通りのやわらかな声音で、まるで何もなかったみたいに彼女が笑むから。
夢だと承知しているのに、口も利けないくらいに胸が一杯になってしまう。
「……鴇?」
返事ができずにいたら、塔子さんはちょこんと体を曲げて、下から私の顔を覗き込む。
見つめられる恥ずかしさが先に立って、ぷいと私はそっぽを向いた。
「怒っているの?」
「怒ってないと思ってる?」
本当はそこまで立腹していないけれど、でもやっぱり、恨み言のひとつくらいは言ってやりたかった。それで塔子さんの勘違いに乗っかったら、途端彼女はしゅんと悄気返る。
「ごめんなさい。どうすれば許してもらえるかしら?」
「そんなの、自分で考えてよ」
いくら夢だからって、そんな顔を見たいわけじゃなかった。なのに私は素直になれずに突き放す。まるで拗ねた子供のようだと、自分でも思う。
塔子さんは「困ったわ」と口元に手を当て、
「立ち話もよくないわよね。座りましょう?」
それからベッドの上に腰を下ろして、隣をぽんぽんと叩いて差し招く。
その一連の挙措で、私たちはいつもの通り、寝室に居るのだと気がついた。流石は夢だ。妙なところでいい加減だ。
仏頂面を作りつつも従うと、すいと肩を抱き寄せられた。そのまま小さな子を宥めるみたいに「よしよし」と頭を撫でられる。
「塔子さん」
「なあに?」
「こんなので、誤魔化されないんだからね」
「だめ?」
「……駄目じゃ、ないけど」
塔子さんの細い指が、あれから少し長くした私の髪をさらさらと梳かしていく。それだけで満たされて懐柔されてしまう自分がちょっぴり悔しい。
「じゃあ、ご機嫌は直ったかしら」
「ううん、全然」
「あら」
「だって、だって私は寂しかったんだよ。ずっと側に居てくれるっていったのに。二度と寂しくなんてならないように、一生一緒に居てくれるって言ったのに。塔子さんの、嘘つき」
すると彼女は驚いたように目を瞬かせ、
「鴇が怒るのは、そこなの? わたしはもっとひどい嘘を、鴇についていたのよ? わたしは、本当は」
「知らない。そんなの知らないし、どうでもいいよ。だって塔子さんは、塔子さんだもん」
「──」
遮って私が言い切ったら、塔子さんはふわっと、泣いてるみたいな顔で笑った。
不意打ちでたおやかな腕が首に回され、そのままぎゅうっと抱きつかれる。まるで心臓の音に耳を澄ますみたいに、塔子さんは私の胸に顔を埋めた。
「鴇には幸せをあげたかったのに。あげたつもりでいたのに。わたし、また間違えてしまったみたい」
「そうだよ。塔子さんは間違ってばっかりだよ。何が私の幸福かなら、私が自分で決めるんだから」
細い肩を抱き返して、耳元に囁く。
背筋を撫で摩ると、ふっと彼女の力が抜けて、私たちの距離はますますに近くなる。
「でも、許してあげる。だって私も、塔子さんに嘘をついてたし」
「え?」
「あの日ってね、本当は私の誕生日なんかじゃないんだ。塔子さんに来てもらう口実が欲しくて、でたらめを言っちゃった」
腕の中で塔子さんは相好を崩し、「騙したのね」と軽く私を睨む振りをする。
私も屈託なく笑って見せて、
「だからさ。塔子さん、いつかきっと帰ってきてよ。それで今度こそ、誕生日のお祝いをしてよ。私、待ってるから。いつまでも待ってるから」
感情は抑えるつもりだったのに、約束の声は途中から震えた。
塔子さんは、ゆっくりと抱擁を解く。そうして私へ伸ばした指が、静かに滲んだ涙を拭った。
「鴇。鴇。鴇」
幾度も繰り返し名前を呼んで。
私の頬を、塔子さんの冷たい両手が包み込む。
「あなたはいつもそうやって、わたしを助けてくれるのね」
朝の光に目覚めれば、やはり私は独りだった。
何度も、何度も。
これは夢だと、繰り返し自分に言い聞かせて、心構えをしていたのに。なのに思い出してしまったぬくもりの所為で、とてもとても肌寒かった。
それでも、これが現実だ。
私はもぞもぞ体を起こすと、肩に掛け布団を羽織るようにして、ベッドの上で膝を抱えた。深呼吸で脳に酸素を送り込み、昨夜の夢を咀嚼する。
普通に考えるのなら、あれはただの願望だ。
塔子さんが無事で居て欲しい。塔子さんにまた会いたい。そう願う私が自分に見せた、どうしようもない幻だ。
けれど、奇妙な手応えがあった。
とてもとても細くか細く、けれど私と塔子さんはまだ繋がっていて。眠りという自我の薄い領域で、本当に言葉と心を交わした。
そんな、不可思議な確信があった。
塔子さんの遺体が見つからなかった時。その行方が知れなくなってしまった時。
「それとも」と浮かんだ思考が、光明めいて頭を過ぎる。
私の中の彼女が消えてしまうくらいに弱り果てて、でもそれでも、塔子さんはどこかで生きている。
そうしていつの日か、きっと、また。
そう考えたら胸の奥に、ぽっと小さな火が灯る気がした。
勿論こんなのは全部、都合のいいだけの妄想なのかもしれない。
手応えも何も、私の錯覚なのかもしれない。
でも、信じたいと思った。信じようと思った。
私の命は、塔子さんが救ってくれたものだ。なら彼女をずっと想って生きたって、少しもおかしい事なんてない。
そんなふうに居直ると、私は布団を脱ぎ捨てベッドを下りる。
しまってあった塔子さんの分のクロッキー帳と筆箱を、私のそれと並べて置いて。
夢での約束通りにしようと、心を決めて一人頷く。
だから私は、今も。
月の好い日は窓を開けて、彼女の帰りを待っている。