プロローグ
いくらスポーツといえど、大人が中学生を殴りに行くのは暴力的で、いかにも大人気ないことだ。
しかし、私は全盛期が過ぎたと笑われる負け犬だ。見栄えなんて気にしていられない。そしてなにより、相手は世界大会連覇を狙う最強のチャンピオンである。
2049年、月面に来てなお人々は地球の重力を模倣し、地に足をつけて戦う。正面からの1対1こそ至高といわんばかりに、奥行き14m、幅2mの逃げ場のないステージを用意する。
だが決して勝負を強制しない。ルールに従うかどうか。利用規約と個人情報保護方針にチェックを入れて、アカウントとパスワードを設定する。そして電子サインをするかどうか。
私は「野石研人」とサインした。
勝ちたい、と思ったから、この細長いステージの上で私は戦っている。
対戦相手の、ひとまわり年下の少女の言葉を思い出す。
「そうですよねっ! たとえ相手が素人さんでも! ランドセル背負うてる小学生でも! よぼよぼのお年寄りの方でも! 病人やったとしても! 研人さんは、ほんまの本気でぶん殴りますもんねっ!」
(その通りだけども)
少女の周りには円軌道が視覚化されている。そのうえを衛星のごとく回転しているのは、蛍光オレンジに光る6つの手だ。これらを操ることで、彼女は一歩も動かずに戦うことができる。
逃げず、臆さず、正面から敵と戦う。
(強いな……、さすがチャンピオン)
オレンジ色の物体がぶつかる度に、衝撃音が月に響く。その大きな音に隠れて、シューズが擦れる音がしていた。
私の武器は、この2つのこぶしだ。手袋はオレンジに輝いていて、宇宙の色に溶け込むことはない。パンチや手刀の動きがよく見える。シューズも同じ色で、煤けた白い地面にフットワークの軌跡を描いている。
覗き込めば吸い込まれそうな宇宙の黒色と、星々の点描が広がっている。クレーターがいくつもある灰色の大地は、空気が澄み過ぎていて、遠近感を狂わせる。クレーターの一つに水を溜め、浮かべたのは、フェンシングの舞台を模した白いステージだ。
そして、月面に蛍光オレンジの軌跡が描かれる。
もちろん、現実の月じゃない。
月面で戦うVRゲームである。現実の私たちは寝転んでいるだけ。なにも人類が月に進出した後も、殴り合いをしてるってわけじゃない。……まっ、ゲームの設定はそうだし、実現しても驚かないけど。
私たちは、何億年経っても、張り合い、競い合うだろう。
勝つために──。




