主に歯向かう有翼生物
演劇の舞台に立ったことなんてないから実際はどうか知らないけれど、セリフがすっ飛んでしまって途方に暮れたとき、きっとこのような心臓の早鐘音のみが響くのだろう。
影分身するように振動した月が頭上を横切る。震える月光で明滅する世界は、俳優の次の演技を待つように静寂に包まれている。
どこか遠くから雷鳴に似た甲高い音が響き、鼓膜を震わせた。
その波紋が眼球を揺らす中、天に浮かぶ分厚い雲が割れる光景を見た。
まるで流れ星の到来――しかしその実態は、醜悪な化け物の飛来だった。
化け物は空中を旋回し、搦めとられた哀れな俺を思ってか、わずか数メートルという至近距離にやってくる。胸部から生えた三対計六枚の翼を羽ばたかせ、器用にホバリングしている。先程の甲高い音は、こいつの鳴き声らしく、それに混じり時折嗄れ声も上げる。
まるで奇怪な鳥だ。
細長い顔。ちょうど鳥の嘴のようだ。眼らしきものは見当たらない。大きく開かれた口内には鋭利な牙が生え揃っている。ヒトでいう顎にあたる付近に牙以上に鋭利な棘が何十本と生えている。それは翼の付け根付近から背中にかけてもみられる。
腹部付近から二本の長い脚が伸びていて、先端には鋭利な鉤爪がある。
笛の音に呼び寄せられたもの――有翼生物ビヤーキーである。
『まさかこんなところまで迎えに行くことになるなんてね』
ビヤーキーから声がした。しかも、聞き慣れた声だ。
「広野先生っ!?」
何故ビヤーキーから先生の声が? 思考の渦はしかし、俺を捕縛していないもう一方の触手がビヤーキーに迫ったことで、中断される。触手はブルブルと震えている。まるで憤怒の炎を燃え滾らせるように。
『怒るのも無理はないわよね。これはあなたの従属ですもの。ねえ? 旧支配者ハスターさん?』
ハスターの怒りが湖畔で手を合わせる者らを囃し立てる。
――何故ハスター様の奉仕生物からヒトの声がするんだ!?
――ハスター様に逆らうなんて!
喧騒は次第に殺意にも似た沸騰となる。一撃をかわされたハスターは完全に俺への興味を失ったようで、二本の触手が己を裏切ったビヤーキーに向けられる。
それ即ち、束縛を解かれた俺の体が落下することを意味する。直後、股間に猛烈な寒気を感じた。
遥か頭上で、二本の荒れ狂う触手の群れの中で踊るような動きをしているビヤーキーが見える。目を瞑って歯を食いしばる。しかし予想していた水の衝撃はなく、代わりに少しの衝撃が脇腹に直撃する。
何か細長いものがぶつかったようだ。無我夢中でそれにしがみつくと、再び体が上昇する感覚に包まれた。
目を開く。それはビヤーキーの長い首だった。まるで鉄棒にぶら下がるように、咄嗟に力強く掴んだ。数本の棘が刺さるも、麻痺しているのか痛みは感じなかった。
『ここは空気が悪いわ。さっさと帰るわよ!』
前内と月山さんは暴徒と化す人々の間からこちらに手を振っている。
『いつもの二人ね。あの子たち、蜂蜜酒は飲んだのかしら?』
頷くと、飛行速度が上がる。息をするのがやっとだ。
『上出来よ。あれがないと星間空間に放り投げられちゃうから』
集団の頭上にホバリングしたビヤーキーは、六枚の羽で強烈な突風を巻き起こす。二人含め、とても動けるような状況ではない。
周囲の動きを封じ、すぐさま二人をピックアップする。まるでラインを流れる不良品を弾き出すような正確な動きだった。
月山さんは俺の横で、長い首にしがみついている。
「まさかビヤーキーに乗る日が来るなんて!」
先程までの虚ろな表情は消え、くりっとした瞳を輝かせる月山さん。頬に黒髪が張り付き、額にも汗が溢れている。猛烈な風でスカートがなびくが、ビヤーキーの首に押し付けた自らの体で辛うじて押さえている。
「僕は荷物じゃないぞっ!」
下方から前内の声が聞こえた。奴はビヤーキーの右脚で掴まれ、まるで宙ぶらりんのジェットコースターに乗っているような態勢で運ばれている。鉤爪が安全バーみたいで可笑しかった。こちらを見上げた前内は、いけないものを見てしまったかのように視線を逸らす。
「もう、前内くんったら!」
咄嗟に月山さんがスカートを押さえる。赤面する彼女は「次見たらもう何も作ってあげないから!」と言い放ち、プイと首を振る。こんな状況だけど胸の高鳴りを押さえることが出来なかった。
『乗り心地は悪いけど少しだけ我慢してね』
広野先生のアナウンスの後、不意に視界がグニャリと歪んだ。
目の前に大きな月が現れ、クレーターが笑っているように見えた。
人々の喧騒を上書きするように、甲高いビヤーキーの鳴き声が鼓膜を震わせた。
その直後、地の底から這い出るような不気味なため息のような声を最後に、何も聞こえなくなった。間もなく、視界は真っ暗に染まった。