名状しがたきもの
「ハスター! ハスター! ハスター! ハスター!」
集団が叫ぶその名は――。
星々の間を吹きすさぶ全ての風を統治する邪神にして、水の邪神と対をなすもの。
古代都市カルコサのハリ湖にて、星辰が正しき位置に戻るときを待ち受けている【宇宙の風を束ねるもの】。
禁断の書【黄衣の王】にてその一端を顕現させるもの。【古のもの】から地球の支配権を奪った旧支配者の一柱――。
【名状しがたきもの】ハスター。
今、ハリ湖の水面を砕き、現れ出でたものがある。
高い、高い、水面に建つ塔だ。暗黒の空で不気味に光る月に向けて、それはぐんぐんと伸びていく。塔を伝う水が月光を受けて艶めかしく光る。
塔は不意にグニャリと形を変える。
輪郭が一瞬ぼやけ、崩れ落ちるかと思いきや、鮮やかにしなった。まるで軟体動物のように。
それは塔などではなかった。
「あ、あれは――」
一本の触手だ。
襞をたたえた先端が、集団を値踏みするように見下ろす。表面には蛸を思わせる吸盤状のものがびっしりと生えている。
集団から安堵に満ちた嘆息が零れ、それを見上げ、黙礼を続けている。
やがて触手は集団の一部に覆い被さると、一瞬にして数十人を絡めとる。ギュウと締め付けられ苦痛に悶える者、歓喜の涙を流す者――。
絡めた者たちを高々と掲げる。まるで杯を翳すようだ。
杯の遠い彼方――深き闇を孕んだ天空その一点に、一際輝く星が見える。
触手はゆっくりと湖底に消えた。
水面を走るように波紋が広がり、天空で輝く星の姿を揺らす。
集団にはポッカリと隙間が空いた。まるでつまみ食いされたかのようだ。近くで月山さんが指を組んで、なおも祈りを捧げている。
触手が再び姿を現す。今度は一本ではなく、二本だ。
つまみ食いの続きをするつもりらしい。
前内は未だにブツブツと念仏を唱えている。
「続きは戻ってからにするぞ!」
奴の腕を掴む。体格は俺のほうが良いので、さほど苦労なく連れ出すことに成功したのも束の間、
「月山さんっ!」
触手の一本が集団に迫る。そこに月山さんも含まれている。一層強く前内の腕を引き、その勢いそのまま月山さんの手を取る。
「帰るよっ!」
「帰る?」
虚ろな瞳がギョロッと向けられる。
「やだなあ丸瀬くん。私たち、帰ってきたじゃん!」
これは二人揃って前内講義ならぬ『丸瀬訓練』が必要みたいだ。
二人を集団から連れ出した瞬間、背後から歓喜と嗚咽が同時に聞こえた。
宙に浮かぶ集団がジタバタと足掻いている。漆黒の空をバックに海の怪物クラーケンが人間を踊り食いする場面を描写した絵画のようだ。その一場面の登場人物に加わりかねない状況に、額にかいた汗が凍り付く。
二本の触手が湖面に消え、次に姿を現した時、湖畔に虚ろな目をした者たちが新たに加わっていることに気づく。今この時も、狂気に誘われた者たちが足を運んでいるのだ。周囲を徐々に肉の壁に阻まれ、逃げ道がどんどん塞がっていく。
行く末は湖底。
迫りくる邪神の影。
いっそのこと身を任せよう――芽吹きかけた邪な感情を否定するかのように、命の息吹がポケットから吹き荒れる。
「お守り、か」
すぐに蜂蜜酒入りの褐色瓶と石笛を引っ張り出す。
先生によると蜂蜜酒を飲むと時空の束縛から解放される。笛を吹くとビヤーキーがやってきて任意の場所まで運んでくれる。星間移動も可能だという。
カルコサがどこにあるのか定かではないが、とりあえず飲んで吹けばいいのだ。
「邪神の加護をっ!」
躊躇なく褐色瓶の蓋を開けた。
甘ったるい蜂蜜の香りの奥で、鼻をつくアルコールの匂いがする。一口含むとドロリとした液体が食道を伝う感覚が走り、次いで体の内側がポカポカし始める。
「月山さん、ちょい失礼!」
急いで月山さんに飲ませる。抵抗されるかと思ったけど、彼女はなすがままにドロリとした液体を口に含んだ。抵抗心すら削ぎ落とされてしまったらしい。飲み込んだ後、その味に酔いしれるように目を閉じた。
「ねえ、もっとちょうだい……ちょうだい……」
よほど気に入ったらしいけど、残り少ないので我慢してもらうしかない。酒なら無事帰還した後、好きなだけ飲めばいいのだから。
次に前内。眼鏡のレンズに鬼のような形相の俺が映る。
「抵抗するなら瓶ごと突っ込むぞ!」
奴は頑なに口を開こうとしないので、頬を掴んで無理やり流し込んだ。月山さんと違って若干苦しそうだが帰還のためだ、我慢してもらう他ない。
もう一方の手で石笛を掴む。ゴツゴツした肌触りで一般的なホイッスルと同じ形をしている。中にコルク球は入っていないので音が出る筈もないのだが……。
半信半疑で咥え、思い切り息を吹く。
その結果――思い切り咳込む羽目になった。
「鳴らねえじゃんかよっ!」
案の定、笛は全く音を発さない。今度広野先生に文句を言わなければ――。
「……え」
襞に覆われた太い触手が体に絡みつき、思考の渦が絶たれる。
ネバネバした液体がシャツにどんどん染み込んでいく。掴んで振りほどこうとするも微動だにしない。ナメクジを抱きしめたような感触に、逆に嫌悪感を抱く結果となる。
力を込めた際に、褐色瓶を滑り落してしまった。拾う間もなく、襞と吸盤の感触が全身に広がって、奇妙な浮遊感に襲われる。既に両足は地面から離れていた。
手元にあるのは鳴らない石笛のみだ。
心地よい――ああ、とうとう精神を汚染されたか――とすら思える浮遊感。暗黒の湖面上空で俺は貢物のように捧げられている。傾く視界の中、湖畔から歓喜の声が上がる。
『汝に問う。大いなるクトゥルフは神だったのか?』
湖面から視線を感じる。
そして今、手持ち無沙汰のもう一方の触手のすぐ脇――ブクブクと泡が発生する。
――ぬめり。
暗い双眸がこちらを見つめる。底なしの闇を湛えた瞳無き視線だ。さらに、ギラギラと光る無数の歯を覗かせる。
水面が跳ねた。奇妙な魚だ。腹の辺りから両脚が生えている。恐らくクトゥルフの眷属たる水棲生物【深きものども】だろう。崇拝しているクトゥルフの敵対者であるハスターの動向を探っていたのであろうか。
顔を覗かせたハスターは、無情にもそれに噛みつきバリバリと噛み千切る。水の色に同化して見づらいが、ハスターの口周辺は真っ赤に染まっているだろう。骨をも噛み砕いているらしく、咀嚼音が風に乗って鼓膜を刺激する。まるで積年の恨みを晴らすような行為だ。
『――否』
湖底にて何か大きなものが蠢く気配がする。それが湖底全体に体を横たえている気がするのは、あながち間違いではあるまい。
『我こそ、神だ』
俺を掴んだ触手が、ゆっくりとハスターの口元に迫る。
何故だろう。
何故俺は【名状しがたきもの】を前にして、抵抗を続けていたのだろう。
そんなもの無意味ではないか。
『――あなたに邪神の加護があらんことを祈っているわ』
広野先生の言葉で我に返る。しかしもう遅い。ハスターに捕らわれた時点で負けだ。
否、初めから勝ち目なんてなかったんだ。
「君らしくないぞ、ニジュウ!」
「丸瀬くんがそっち行ってどうするのよぉ!」
全く、うちのチームメイトは都合がいいことを言いやがる。
「もう二度と読むんじゃねえぞ!」
湖畔に立っているであろう、良き探求者仲間だった二人に向けて叫んだ。
こんなことなら夏休み実家に帰っておけばよかった……。後悔すらも消えていく。
「ニジュウ! 今からビヤーキーを呼ぶ呪文を唱えるよ! そのあとに思い切り石笛を吹くんだ! いいね?」
前内の叫びで我に返る。石笛は鳴らない筈だが――。
「スフェンリコテリアムニシエディフッレマロウカバヤスティンヴェリリ……」
謎の詠唱の後、
「今だっ、ニジュウ!」
藁にも縋る思いで今一度、笛に向けてありったけの空気を吹き出す。
下手したら行き場を無くした空気の圧力により肺が破裂するかもしれない。そうなったら入院費は奴に請求してやる。
先程の感覚とまるで違うのは吹き込んだ瞬間にわかった。
間もなく、耳を劈く笛の音がハリ湖に響き渡った。




