かの混沌たちよ、主への喜びよ
零れ落ちる混沌と暗黒から逃れ、附属図書館にやってきた。
館内に人気はない。しかし先程まで多くの学生たちが調べものなどをしていたらしく、机には荷物や書き物がそのまま残されていた。それらを放り投げてまでハスターとアザトースの対峙に祈りを捧げに行ったのだ。
立入禁止の看板を越え、三階フロアに足を踏み入れる。
一階二階と比べて本棚は少なく殺風景だが、掃除は行き届いており、隙間が目立つ棚だが埃一つ見当たらない。特別閲覧室は小部屋になっていて、入口は電子ロックが掛かっていた。
「教員たちも滅多には利用しない部屋なの」
広野先生は教員証を翳して難なくロックを解除してみせた。利用する場面が多々あっては世界がもたないだろう。
部屋に入り、所蔵された禁忌の書物たちが一斉に逆立つような感覚がした。
ボロボロの装丁をしたものや、意味不明の記号が書かれたものなど時代を問わず様々な言語で書かれた禁忌の書物が保管されていた。
初めて訪れる場所に目を奪われるばかりだった。書物をジッと見つめていた月山さんはビクッと後退する。曰く「目が合った」とのこと。青地さんと一緒に震え出す。
前内の視線は落ち着かない。次々に名だたる書物を発見し、手を伸ばしたくてウズウズしているようだった。広野先生に手を触れないよう釘をさされていなかったら、きっと今頃外の状況を忘れて読み耽るに違いない。
クトゥルフ神話を取り戻す――その手段を一言で表すと『毒を以て毒を制す』だ。
「ここ三洲華大学にはアラブの狂える詩人【アブドゥル・アルハザード】が書き記した禁断の魔術書にして究極の諸刃の剣――【死霊秘法】の断片が保管されている」
足を止めた前内が切り出す。
そのような噂があることは知っていたが、広野先生が何も言わないのだから真実なのだろう。言われてみれば【黄衣の王】があって【死霊秘法】がないとは、書店の棚に有名作家の代表作が置いてなくて超マイナー作品が置いてあるようなものだ。
「それを使って禁忌の秘儀を実行する。僕は生憎読めないので蛇人間である広野先生、そして元蛇人間の民さんに行ってもらう」
二人は無言で頷いた。先程奴が確認したことこそ、このことについてだった。
「これによりクトゥルフ神話世界を全て二次元に押し戻す。僕らの手に取り戻すんだ」
【死霊秘法】は旧支配者や【外なる神】について書かれ、それらを信仰する団体や前内が言った秘儀についても言及されていると伝えられる。八世紀頃に書かれたらしいが長い時を経る過程でバラバラになり、世界中の有名図書館に断片が残されている。つまり完本は存在しないのだ。
閲覧室中央――煌びやかな祭壇の上に、A4サイズ程度の数枚の紙断片がクリアケースに入れられて安置されている。前内の両目が少年のように輝く。
紙断片を覗いた月山さんが驚愕する。
そこにはぎっしりと見たことがない記号が並んでいる。広野先生によるとアラビア語だという。
「この断片の中に、その秘術についての記述は本当にあるの?」
首を傾げた青地さんに広野先生が代わって口を開く。
「もうずっと前だけど、中身を読んだことがあるの。確かに存在するわ。この世ならざるものと遭遇したとき、あるいは顕現したときの対処法としての最後の砦。いわば諸刃の剣」
「春子さんから聞かされた記憶を思い出しましたわ。あれはまだ私が入りたての頃――」
昔話を始めそうになった民さんを広野先生が黙らせる。民さんはまるで子供のように口を噤んだ。
「正直、正式に唱えたことはないからここからは未知の領域よ。本当にいいのね?」
広野先生が最終確認をする。
【死霊秘法】は諸刃の剣――ヒトに残された最後の手段ではあるが、成功するかどうかは定かではない。何が成功して、何が失敗するかも未知数なのだ。
月山さんはじっくりと断片を眺めている。
「こんなの、読めるんですか?」
彼女の質問に力強く頷く広野先生だった。
「なんならこの言葉の原型をつくったのは私の祖先よ」
言い終えたその時、図書館が大きく揺れた。
*
特別閲覧室に広野先生と民さんを残し外に出ると、構内に異様な光景が広がっていた。
ハスターとアザトース――互いの存在を身に纏った黒々と泡立つ不気味なシンボルが今もなお、三洲華大学上空に向かってヒタヒタとその勢力を伸ばしているのだ。
それは暗黒神話を象徴する新たな啓示に思われた。
アザトースを用いてハスターを抑え込む作戦は見事に失敗したと言わざるを得ない。
もとを正せばアザトースは人智を越えた【外なる神】の総帥――ヒトを救済するような存在ではないのだ。
図書館前で立ち尽くしているところへ紺色の猫が駆けてくる。
フェリスはみゃあみゃあと耳障りな鳴き声を上げる。予想もしなかった展開に慌てふためいているようだ。青地さんが抱き上げ、ようやく安心したように小さく唸った。
言葉を用いてそれを表現するとしたら、黒々とした十字架だろうか。
アザトースが情けをかけて三次元空間に下った仮初の姿である巨大な眼球。黒い瞳はコロコロとその場で回転し、のたうつように走る血管から供給される混沌を受け、絶えず収束と膨張を繰り返している。睫毛のようにヒラヒラと空間を漂う細い波は互いに連結を開始し、不気味な幾何学模様を模写し始める。
故郷の造形に恋焦がれているのだろうか。いくつかの模様が完成したとき、瞳の回転が止まり一滴の雫が垂れ流された。それは落下した瞬間は丸型だったが、アスファルトを黒く塗り潰す寸前にギザギザした突起を出現させていた。三次元への憐憫か、高次元への羨望かは眼球だけではとても判断できない。
これが十字架の横棒を担っているのだとしたら、縦棒はハスターの触手だ。
巨大な眼球を真下から貫く、今もなおドクドクと蠢く粘着質な触手。
それは二本が捩れて一本となっている。まるで遺伝子――二本鎖DNAの二重螺旋構造を巨大スケールで再現しているようだ。
眼球を貫いた二本鎖触手は既に講義棟を凌駕する高さまで天を駆け抜け、先端は大きくほつれている。それはまるで二本鎖DNAが複製される前、酵素の作用によりほつれて一本鎖になる光景に似ている。複製に必要な他の酵素たちの到来を今か今かと恋焦がれているのだろうか。花が開くようにも見えたが、これは恐らくムーン・ビーストの舌や鼻を思い出したからだ。
互いに何かを求め合った末の結論なのかもしれない。
いずれにせよ、矮小なヒトの姿など眼中にない。
「【死霊秘法】……秘術……蛇人間……そして、二次元への帰還……」
生ぬるい風が新たな邪神の誕生を称えるように吹き荒れる。
アザトース・ハスター――【名状しがたき原初の魔王】誕生の瞬間である。
その時だった。
黒々とした十字架が眩い光に包まれ始めたのだ。
前内に聞くと、うんうんと何度も頷く。
「先生たちが発動させたんだ。【死霊秘法】の断片に書き記された秘術をね」
恐るべき邪神の脅威に苛まれたヒトの最後の抵抗。その断片の力が今、二人の蛇人間により解放されたらしかった。
数多に存在する暗黒神話の眷属たちを、本来あるべき世界に導くために。
語られるべき場所に帰るため。
数多の探究者の旅を再開させるため。
ページを開く喜びを損なわないため。
クトゥルフ神話をヒトの手に収めるため。
偉大なるラヴクラフトやその友人たちの功績を、未来永劫語り継ぐため。
それらは本来の世界へ帰るべきなのだ!
天から降り注ぐ光があった。
アザトース・ハスターを優しく包み込む光。暗雲から差し込む天使の梯子。遠くからラッパの音色が聞こえてきそうだ。一層輝きを増していき、朝焼けのように空が燃える。
遠くの空がキラリと光った。
「どんどん集まってくるよ!」
月山さんと青地さんが指差す方角から、大小様々な光の粒が飛んできた。
それは四方八方から飛んできて、天使の梯子に照らされたアザトース・ハスターの下方へと収束していく。光粒たちは二本鎖触手を巡るように螺旋階段を上がっていき、やがて頂上に集う。まるでいち早く高台に上って景色を堪能したい幼子のように。
嬉々とした声が脳裏に響く。頂上ではすくすくと光の花が大きさを増している。
前内によると、光粒一つ一つが眷属たちなのだという。
「秘術によりアザトース・ハスターのもとへ集結しているんだ。アザトースは当然としてハスターだって旧支配者の二大巨塔の一柱だからね。結集させるに余りある力だ。今頃クトゥルフは悔しがっているだろうけど」
「世界中の神話生物たちが集まっているの?」
月山さんの質問に、「うーん」と唸ってから首を振る前内。
「なにせ断片だからね。完本ならまだしも、せいぜい日本全土が限界じゃないかな」
そうこうしている内に、大きな光の花が上空で咲き誇っていた。
幾重にも重なった花びらは優雅に四方へ広がり、燃える空をバックに刹那の時を味わうようにゆったりとしている。
そして、未練など感じさせない眩い光を放った。
目を瞑って開いた時、光の花は消えていた。アザトース・ハスターもいない。
「どこへいったんだ!?」
慌てて叫ぶと、前内が冷静に続ける。
「帰ったんだよ。本来の次元へ」
前内が指差した方角で、附属図書館が何事もなかったかのように静かに佇んでいた。
*
「広野先生! 民さん!」
急いで特別閲覧室に戻ると二人は倒れていた。
声をかけると小さく返答があった。どうやら無事みたいでホッとする。
中央の祭壇に【死霊秘法】の断片がいかついファイルのような入れ物に収まって鎮座していた。見開きタイプのそれは今、開かれたままだ。開かれたページに悍ましい生き物が描かれている。
「それを、はやく閉じて――」
前内がすぐにファイルに駆け寄り、直視しないように閉じた。
ファイルに触れてみると仄かに熱を帯びていた。まるでこの中で今もアザトース・ハスターが互いにもつれ合いながら肥大化しているように感じ、手を引っ込める。
「これで安心して神話世界を楽しむことが出来そうですね」
一息つく前内に、呼吸を整えた広野先生が答える。
「そうでなきゃ困るわ」
若干顔色が悪く、未だ立ち上がれず肩で大きく呼吸を繰り返している。
久しぶりの大仕事は堪えたとのこと。一方の民さんは全然平気そうだったので、あえて何も言わなかった。「皆様の一助になれて光栄ですわ」と頭を下げるほどだった。
「ただ、それなりの犠牲もあったけどね」
広野先生は掌を差し出した。室内灯を反射する二つの金属質なものがそこにあった。
それは蛇人間の証であるブレスレットだった。見事に真っ二つに割れている。民さんのも同様であった。
「こんな形で一族が離散するなんてね。本来の形ではあるのかもしれないけれど」
重苦しいムードを吹き消したのは民さんの開き直った声だった。
「そんなことございませんわ、春子」
民さんはそのまま続ける。
「こんな安っぽいブレスレット一つが壊れたくらいで何がバラバラになると? 一族の誇りと絆はいつでも春子の胸の中にございます。一足早く抜けた私がカルコサに身を隠し発狂せずに済んだのは、その繋がりが微かに残っていたからに他なりません」
仄かに広がる暖かいムードに混じり、衝撃的な事実がさも当然のように漂ってきた。
――民さん、正気であれを食ってたのかよ。
「戻って来られたこと大変感謝しております。この地が故郷であったと思い出しました」
「この子ったら。ありがとう七海。懐かしいわね。もうずっと前のことなのに」
優しく身を任せる広野先生の頬をキラリと光りながら涙が流れ落ちた。
蛇人間の一族に限らず、他の種族たちも同じ状況だろう。
細かい事情はあるだろうが、共通していることがある。
彼らはヒトとして生きていくのだ。
両者を隔てていた大きな違いが消えた今、些細な違いなど、ないに等しい。
彼らの船出に花を添えたつもりなのか、みゃおとフェリスが鳴いた。
「ん? フェリちゃんも嬉しいのかなぁ?」
青地さんに抱かれたフェリスは、トロンとした表情でぐうぐうと唸っている。
そういえばフェリスは故郷に帰れるのだろうか?
「前内くん残念だったね~。もう蛇人間になれないってよ!」
おどけた月山さんに、前内はキッパリと言い放つ。
「もうコリゴリだよ」
「それなら記念写真で我慢してもらえるかしら?」
涙を拭った広野先生が民さんに付き添われて立ち上がる。
「写真?」
広野先生によると、連絡を取り合ったときに前内のスマホを操作し自撮りしたという。勿論、シャッター音もしないように弄ったとのこと。
「なななっっ?!」
あまりの狼狽ぶりに、眼鏡を取りこぼしそうになる前内だった。
「既に私のスマホに転送済みよ」
自身のスマホを見せようとした広野先生の前に立ち塞がる前内。たちまち特別閲覧室に談笑の声が響く。
祭壇に安置される【死霊秘法】の断片は静かにその光景を見守っていた。




