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三洲華大学クトゥルフ神話探偵部  作者: 向陽日向
第一章 黄衣の王
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文武両道なつみん

 翌日の三コマ目が終わった後、学生ホールに向かう。スマホの時計は十三時五十三分を表示している。待ち合わせは十四時なのでちょうどいい。


 学生ホール――学生たちからは『学ホ』と呼ばれ、飲食物に加え、ルーズリーフやペンなど文具も扱う購買とカフェのような座席が並ぶ多目的ホールだ。


 テスト前ともなれば対策に追われる学生でごった返し、特にコピー機の取り合いが激しさを増す。今の時期は凪いでいるので、ゆったりと寛ぐグループの姿が目立つ。


 購買でコーヒー牛乳を買い、座席でスマホを弄っていると前内がやってくる。

 変わらずのジーパンとスニーカー、トップスには黄色と紺のチェックシャツを合わせている。ハンチング帽を机に置き、ボサボサの黒髪を弄る。

 座席につき、カバンから一冊の本を取り出す。青色の装丁の普通の本だった。


「返却期限今日までなんだ。ちょっと失礼するぞ」

 タイトルは《クトゥルフ神話入門㉗~夢の国への誘い~》とある。

「お前が入門書なんて珍しいな」

 てっきりマニアでも手を引っ込める代物しか読まない印象だったので、意外だ。


「一昨日の発表会で少し抜けている部分があることに気づいてね」

 補習だよと言って、前内は熱心に活字を追い始めた。


 一昨日の発表会では様々なテーマがあり、非常に興味深かった。

 特に一つ前の班が取り上げていた【夢の国(ドリームランド)】は遠い神話世界を間近に感じ、戦慄が走ると同時に高揚感が漲ったのを覚えている。


夢の国(ドリームランド)】とは文字通り、眠っているときにのみ訪れることができる世界のことだ。


 行き方には順番がある。

 ①【浅い眠りの中で地下世界へと続く階段を見つけて、降りていく】

 ②【その先の〈炎の神殿〉にいる神官たちに見送られる】

 ③【さらに下へ続く階段を降り、〈深き眠りの門〉をくぐる】

 以上の手順を踏んで、初めて訪れることが出来る世界なのだ。


 意識しながら眠りについたことがあるが、未だに階段を見つけるには至っていない。コツのようなものが存在するのだろうか。

「行き来を心得ている者は【夢見る人】と呼ばれる。ニジュウには縁がないかもね」


 言い返そうとしたときに、月山さんがやってきた。

「おまたせ。待った?」

「さっき来たとこ」

「良かったあ」


 彼女は被っていたシアトルマリナーズの帽子を机に置いて席につき、手鏡でヘアスタイルを整える。

 紫色のブラウスに、淡い青色のロングスカートがよく似合っている。スカートの裾からちょこんと紺色のスニーカーが顔を出している。

 月山さんが座席についたと同時に、前内は本を閉じた。


「さて、噂についての調査だったよね?」

「そのことで、まずは俺から」

 はじめに、昨日広野先生から聞いた話をする。案の定、頷く前内に対して月山さんは首を傾げている。広野先生とは何度か三人で研究室を訪ねたことがあるので、二人とも顔見知りの仲だ。


「【黄衣の王】? 初めて聞いたわ」

 軽く説明をしようとするも、前内に先を越された。

 おおむね、広野先生の話と大差ない内容だった。

 補足としたら、この本は全二章で構成されている。第一章は普通の内容なのだが、第二章から読者を狂気に誘い、読み終わると完全に発狂するというものらしい。著者や制作年は不明。


「この本、図書館にないのか?」

「面白いね」

 前内に笑われるが百も承知だ。もしあるのなら、今回の噂の本の正体が【黄衣の王】である可能性は高い。


「ここがミスカトニック大学なら附属図書館に断片の一つくらいあるかもしれないけど、さすがにないだろうなあ」

「サークルの友達に連絡とってみようか」

 月山さんが早速連絡をとると、幸運なことに今日は三コマで終了らしく、この後合流してくれるとのこと。

 待ち合わせ時間は十五時。現在十四時三十分。


「それまで図書館で調べてみるか?」

「いや、図書館はもっと時間あるときにしよう。研究会に行かない? 噂を知っているメンバーが他にもいるかもしれない」

 こちらが頷く前に、前内は立ち上がる。


  *


「その本って《沈む谷》だろ? 読んだ奴が昨日、部屋に戻っていないらしくてさ」

 サークル棟の研究会を訪れると、ヨレヨレのTシャツを着た先輩が眠たそうな目を向けた。目の下にはクマができ、照明の下でくっきりと影をつくっている。あまり見かけない先輩なので名前は知らない。


 講義終わりのメンバーたちが団欒する中、先輩はキョロキョロと視線を彷徨わせる。随分落ち着きがない様子だ。

 詳しく訊いてみると、先輩は声音を抑えて続けた。


「オレは見てないんだけどさ――」

 団欒する他のメンバーたちに背中を向け、髪を搔きむしる。

「そいつの部屋滅茶苦茶に荒れていて、その中に――あったんだって」

「その、何がですか?」


 つい急かすと、先輩は怯えたように委縮してしまった。慌てて月山さんが「落ち着いて下さい」と宥め、深呼吸する。

「――さっき言った本だよ。黄色いカバーの《沈む谷》が」

「なるほど。その本は今どこにあるか知っていますか?」

「は?」


 先輩の目つきが変わった。先ほどまでの小動物のような表情が、まるで獲物を睨む肉食動物のように変貌する。眉間に皺が寄り、今にも暴れ出しそうに握った両拳がブルブルと震えている。

「知るわけないだろ? なんでオレが読まなきゃいけないんだよ!」


 直後、カチカチと歯が鳴る音が響く。団欒していたメンバーたちの声が止み、こちらを見つめている。全員、怯えた様子なのは言うまでもない。

「あ、あの……気に障ったのならこれ以上――」


「やめろ、やめろおおお! くるなあああ!」


「きゃっ」

 気遣った月山さんの手を振り切り、先輩は部屋を脱兎の如く出て行ってしまった。

 狂気に駆られた先輩が去った部屋は、さながら嵐が過ぎ去ったような静寂に包まれる。部屋の隅に置かれた時計が時を刻む音が、しばらく耳にこびりついて離れなかった。


大川(おおかわ)先輩、昨日からあんな感じでした」

 団欒していたメンバーによると、先程の先輩――大川先輩の様子は昨日からおかしかったとのことだった。研究会に姿を見せるも誰とも話さず、ひたすら本を読んでいたという。本の表紙までは見ておらずタイトルは不明だが、今なら何となくわかる気がする。

 月山さんの友達との待ち合わせ時間が近くなり、お礼を言って部屋を後にする。


「《沈む谷》を読んでいたのかもしれないな」

 あの変容ぶりは異常だ。悍ましい神話世界ゆえ、研究会メンバーの中には底知れぬ恐怖に魅せられた者が多いが、みんな理知的で穏やかなはず。互いの解釈がぶつかり合い、しばしば論争が巻き起こることもあるが、最後には互いの手を握り双方の解釈を受け入れ合う。


 そんな者をあそこまで変えてしまう何かが存在しているのだ。


「【黄衣の王】って一冊しか存在しないのかな?」

 待ち合わせ場所は学ホだ。ちょうど三コマ目が終わった時間帯なので、人通りが先ほどよりも多い。活気に満ちたキャンパスを歩いていると、行き交う学生たちとの間に見えない壁を感じた。

「この本については詳細がわかっていないから、正確な部数は不明だよ」


 前を歩く前内から声がする。メモ帳も見ないでよくスラスラと出てくるもんだ。

「《沈む谷》と関連がありそうだよな」

 当然だけど【黄衣の王】はフィクション。実在するはずがない、と思う。


「ご名答。でも現に【黄衣の王】は存在している――《沈む谷》とタイトルを変えて。つまり?」

 俺と月山さんが黙っていると、不意に前内は立ち止まる。つられて立ち止まると、そこは学ホ入口前だ。四コマ目の講義室へ急ぐ学生たちが足早に駆けていく。


「簡単じゃないか――」

 さも当然とばかりに、前内は振り返った。

()()()んだよ。何者かが現代版【黄衣の王】をね」

 まもなく、四コマ目の講義開始を知らせるチャイムが邪な影が差し込むキャンパスに鳴り響いた。


  *


「紹介するね。青地夏美(あおちなつみ)ちゃん。理系の医学科二年生。うちらと同い年だよ」

「初めまして。青地です。ひかるん――あ、ひかるちゃんとは別のサークルで一緒なの。よろしくね」


 閑散とした学ホの座席についた青地さんは姿勢正しくお辞儀をする。

 別のサークルとは読書サークルのようで、好きな小説の話で月山さんと意気投合したらしい。しかも柔道に汗を流している文武両道を絵に描いたような才女だ。


 月山さんより少し長いセミロングの黒髪をおろしていて、時折耳にかかった黒髪をかき上げる仕草が可愛らしい。手首に紺色のヘアゴムが巻かれている。一本に結った姿を一瞬想像しドキリとする。紺色のポロシャツに淡い緑色のロングスカートという恰好で、靴はスニーカーを履いている。


「わざわざ時間空けてもらってありがとうね」

「ううん! 気にしないで。部活まで暇だったから、むしろサンキュー!」

 早速、前内が根掘り葉掘り質問するかと思いきや、先程から気配を感じない。


「…………」

 前内は腕を組んで何故か黙り込んでいる。ハンチング帽を目深に被り、青地さんと目を合わせようとしない。

「前内? いいのか、色々聞かなくて」

 すると、自信に満ちた声音はなりを潜め、ボソボソと小さい声で続ける。


「あ、ああ。うん。とりあえずニジュウ、先にどうぞ」

 どうやら初対面の女の子に照れているだけらしい。クトゥルフ探偵にも人間らしいところがあって安心する。

「君が前内さんかあ。噂はひかるんから聞いているよ。クトゥルフ神話界のホームズだって」

「ちょっ! なつみん!」

 恥ずかしそうに月山さんが口元を隠す。

「なななっ!」


 それ以上に赤面しているのは他でもない、本人のクトゥルフ探偵である。驚いた拍子にハンチング帽が落下し、視線を右往左往させている。

「い、いや……それほどでも、な、なあニジュウ?」

 好みの子に煽てられ、まんざらでもないご様子。


 このままでは話が進まないので、ここはワトソンが一肌脱ぐとしよう。

 慎重に言葉を選びながら、キャンパス内で囁かれている噂について話す。

 青地さんは真剣な表情で耳を傾けていた。何故か月山さんも一緒になって初耳かのように頷いている。

 二人の美少女に見つめられ、終盤に差し掛かる頃には胸が火照っていた。


「その本、読書サークルでも話題になっててさ――」

 初対面だけど同学年ということもあって、青地さんは気さくに話し出した。

「噂を面白がったサークルリーダーが課題本に設定したんだよね」


 どうやら着実に噂は広がっているらしい。連絡が取れなくなっているメンバーもいるとのこと。研究会と状況は同じみたいだ。

「えっ、そうなの?」

「前回の読書会で決まったの。そっか、ひかるんは出てなかったもんね」

 その日は出席していなかった月山さんは、初耳だという。


「課題本?」

 ようやくクールダウンした前内がそう問うた。

 二人によると、読書サークルは定期的に課題本を設定し、その本についての感想や意見などを交わすらしい。一般的な読書会と同じスタイルだ。


「それって、まさか」

「うん――《沈む谷》って本。さっき丸瀬さんが説明してくれた本だよ。間一髪ね、今日会わなかったら今頃読んでたかも」

 凍り付いている前内を尻目に、青地さんはカバンから一冊の本を取り出す。


「これが、その本だよ」


 俺を含む全員が表紙に釘付けになる。

 タイトルは《沈む谷――The Sinking in Valley――》。


 表紙は黄色一色。何の変哲もない、普通の本だ。

 表紙上にタイトルが書かれ、中央から下にかけて独特のマークが描かれている。

 それはまるでクエスチョンマークを少し左側に傾けたような奇妙なものだ。


「……まさか、こんな本が……」

 前内は食い入るように表紙を見つめている。中央のマークは何を表しているのか……。

 どことなくヒトのようにも見えるが――。


「これ、預かってもいいかな?」

 噂の根源を目の当たりにしてさすがの前内も……と思った俺はまだまだこいつのワトソンとしては力不足だ。前内は笑っている。まるで大好きな玩具を買ってもらった五歳児のようだ。先程までのしどろもどろな視線はどこへやら、まっすぐ青地さんを見つめて離さない。そのギャップに圧倒された彼女は静かに二、三度頷いた。


「くれぐれも読まないでね」

 青地さんの忠告に頷き、恐る恐る受け取る前内。中編程度の厚さなので、こいつなら半日もかからないだろう。

「善処するよ」

「心配だなあ」


 そこで、俺に視線を向ける青地さん。化粧っ気がない両目と目が合い、再び胸に火照りを覚える。

「ま、ワトソンくんもいるみたいだし」

 安心した表情を浮かべる青地さんには悪いけど、好奇心に満ちたホームズ野郎を止められるほど器用じゃない。この本が持つ狂気を一番理解しているのは奴自身だから、大丈夫だとは思うけど――。

「あっ! そろそろ部活の時間近いから行くね」

 スマホを確認した青地さんがカバンを持ち、立ち上がる。


「今日はありがと。今度ゆっくり本の話でも」

 小さく手を振って青地さんは学ホ入口からキャンパスへ出て行った。彼女が去った後、改めて全員の視線が机の上の《沈む谷》に注がれる。


「んじゃニジュウ、君の見解を聞かせたまえ」

 突然教授のように厳かに話されても、返す言葉が浮かばない。

「この記号を見ても、なお沈黙を貫くのかい?」


 記号とは表紙に描かれた奇妙なマークのことだ。

 神話世界の書物に関連があるのだろうか。月山さんと一緒に黙っていると、ゆっくりと前内が種明かしを始める。


「このマーク、そっくりなんだよ。【黄衣の王】に」


 前内によると【黄衣の王】の表紙にもクエスチョンマークを象ったような奇妙なマークが描かれているという。それと酷似しているとあって、もはや関連があるのは間違いなさそうだ。

「恐らく【黄衣の王】をモデルに何者かがこの本を書いたんだ。状況を見る限り複数冊存在するのは間違いない」


 既に研究会と読書サークルでは存在が確認されている。それらがこのたった一冊の本によるものとは考えづらい。大川先輩の友人宅から発見された一冊が巡り巡ってここに着地したとは思えない。複数冊あるとみて間違いないだろう。


「何者かって……」

 言葉に詰まった月山さんの代わりに、乾いた唇を舐めてから口を開く。

「誰かがこれを書いて、故意に読者を狂気に陥れているっていうのか?」


「優秀なワトソンで助かるよ」

 前内は続ける。

「それしか考えられない。生憎、その目的までは断定しかねるけど」


 前内は感心とばかりに数回頷く。銀縁眼鏡のフレームが照明を反射し、一瞬だが奴の表情がわからなくなる。ほくそ笑んでいるように見えたのは気のせいだろうか。

「ただ、この本が本当に【黄衣の王】から誕生したのならば、犯人は――」


 その時、ちょうど学ホに入ってきた学生の集団が近くの座席について大きな声で団欒し始めたので、前内は言葉を切った。それが落ち着いたのを待って、続ける。


「恐らく【大いなるクトゥルフ】とは別勢力の者だ。反対――と言ってもいいかな」

「ねえ、それってどういうこと?」


【大いなるクトゥルフ】とは太古の昔に地球に飛来した旧支配者(グレートオールドワン)の名である。ドラゴンのような翼、鱗に覆われた体に二足二腕を持ち、蛸のような頭の悍ましい存在である。

 その反対とはどういう意味だろう……。


「じゃあ、これは宿題ということで」

 前内の見解により、三洲華大学にまとわりつく粘着質な霧が一層深まった気がした。

「宿題だらけだよお」

 頬を膨らませる月山さんの何気ない表情だけが、唯一の救いかもしれない。

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