神話探究者
「なあ? 読んではいけない本の噂、知ってるか?」
「なんじゃそりゃ? 新手の都市伝説?」
翌日の九月二十一日。
一コマ目の日本文学の講義室に座り眠気眼でスマートフォンを弄っていた時、前の座席の男子たちの意味深な会話が聞こえて、思わずタップする指を止めた。それとなく耳を傾けていると、どうやら大学内で《読んではいけない本》が存在するらしく――。
その時、講義開始を知らせる鐘が鳴り響く。
「では、始めるとしようか」
鐘の余韻漂う中、教卓で待機していた杜亜玄一教授がマイク片手にゆっくりとした動きで立ち上がった。
やや後退気味の黒髪は綺麗に七三分けで、白ワイシャツに黒ジャケット、黒と灰のチェックパンツに黒革靴という格好だ。教員にしてはやや堅い印象だ。ジャケット襟には蛍光灯をキラリと反射させるバッジがついているが、距離が遠いので細かいデザインまでは見えない。
「長い夏休みだったからね。少し復習からいこうか――」
前口上は控えめで、早速講義に突入したので男子たちの会話も途切れてしまった。致し方ないので目覚ましがてら、板書を写すことに集中する。
ようやく講義終了の鐘が鳴り、徐々に周囲がざわつき始める。
「あと一分――」
ざわめきを気にすることなく、杜亜教授は続ける。
「最近、学内に不審な本の噂がある。文学研究者の端くれとして、まことに遺憾なことだ。くれぐれも注意したまえ」
言い終えた直後、講義終了を伝え、喧騒が一気に押し寄せた。
杜亜教授が教卓にマイクを置いたときのゴトッという音が、普段よりも大きく響いた。
その後、教卓の前に長蛇の列が出来た。
出席を証明する出席印をもらうためである。
三洲華大学での講義の大半は教員の出席印で出席確認をする。単位取得の条件にはペーパーテストで一定点を取ること以外に、出席率を求める講義も少なくない。中には出席率百%を課すものもあり、そんな講義は毎回講義室が学生でごった返すことになる。
荷物を整理し列に並び、五分程度で出席印をもらった。ちなみに出席印は〇の中に杜と描かれたごく普通の印だ。
杜亜教授が注意を喚起するだけあって、その噂は学内に浸透しているのかもしれない。
クトゥルフ神話にもこのような邪な教典の数々が存在する。
既に発表会は終了したが次回以降で使えるネタになるだろうと思い、次の講義室の待ち時間で前内と月山さんにメッセージアプリでメッセージを送る。
『いいかもね。面白そうじゃないかニジュウ』
『うちもそれ気になってた! 読書サークルの友達の友達が読んだらしいの』
月山さんの返答に思わず声が出てしまった。すぐ横を歩いていた女子が一瞬怪訝な視線を向けるも、すぐに歩き去る。
すぐそこまで迫る黒々とした気配に身じろぎする。すぐに話を聞きたいと送るも、
『ゴメン。今日はバイトなの。明日の午後なら!』
残念ながら明日までお預けだ。
明日の予定を各自出し合った結果、三コマ目が終わって合流することになった。
時刻は十時四十分。二コマ目の開始を告げる鐘の音が鳴り、応用社会学の専任講師が駆け足で講義室に入ってきた。
「はい。では。講義。始めますよ。教科書。四十三ページから」
念仏のように始まった音読の声に、ラインマーカー片手に耳を傾けた。
*
二コマ目が終わり、凝り固まった筋肉を伸ばすと肩が大きく音を立てた。
今日は二コマで終了だ。
キャンパス内は食堂に向かう学生たちで賑わっている。このまま帰宅してもいいが、せっかくなので調査がてら研究棟Aに向かう。
三洲華大学には文系と理系、双方の研究棟が存在する。
研究室へはそれぞれ四年生で配属され、学生生活の集大成となる卒業研究を行う。研究棟Aは主に理系学生が配属される研究室が居を構え、指導する教授たちの専用デスクなどもある。ちなみにサークル棟の真裏に建っている。
昼時とあって、人気は疎らだ。
建物の外壁は所々黒ずみ、長い歴史を背負っていることが容易に窺い知れる。自動ドアをくぐり、嗅ぎ慣れた薬品のにおい漂う階段を上って二階へ向かう。
しんと静まり返った廊下を進み、目的の研究室前に立つ。
『細胞免疫学研究室 広野春子専任講師』
昼のチャイムが鳴ろうが仕事をしている先生なので、恐らく今もデスクかクリーンベンチに向かっているに違いない。
俺は文系なので、当然ながら理系の講義は必修科目リストにはない。しかし登録は可能で、さらに試験に合格すれば単位取得も出来るとあって試しに受けてみたのが広野先生の免疫学だった。ちなみに履修登録をしていない講義へのゲリラ参加も可能だが、試験は受けられない。
前内と月山さんを誘ってみたが、前内は『それなら図書館に籠ってるよ』と一言、月山さんは授業日程に余裕がないのとバイトのためNGとのことで、一人で聴講する形となったのだ。今年の四月から七月――前期期間のことだった。
これが実に面白い講義で、単位取得にも繋がった。
免疫学の歴史や分類、細胞レベルでの化学物質を介したやり取り、実際に風邪のウイルスが体内に入ったことを想定したシミュレーションなど、文系とはガラリと違った内容は興味深かった。余談として幹細胞を用いた再生医療についても広野先生は言及し、最新技術を調べるきっかけにもなった。
ある日、講義終わりに質問をしたのが交流の始まりだった。
広野先生は文系の生徒にもかかわらず、理系学生が去った無人の講義室で板書を追加して解説してくれた。
『君みたいな生徒、もっと増えればいいのだけれど』
解説後、口癖のように何度かそう零していた。
文系の授業について話しているうちに、俺が三洲華大学を志願した理由についてまで話が及んだ。
その時、思い切ってクトゥルフ神話のことを話した。
無難な相手には『本が好きだから』と濁していたが、広野先生なら正直に話したいと思ったのだ。
『あら? あなたも【ミスカトニック大学】に魅せられた、アーカムの住人だったのね』
クトゥルフ神話を語る上で欠かせないその学校名と都市名が飛び出したときの衝撃はまさに筆舌に尽くしがたい。先生もクトゥルフ神話の探求者だったのだ。
回想を終え、研究室のスライド式の扉をノックする。
*
「読んではいけない本? 読んでみたくなるタイトルね」
研究生の一人に案内され、広野春子先生のデスクを訪れた。ちなみにデスクは迷路と化した研究室の最奥に位置している。室内は外履き禁止なので入口で来客用のスリッパに履き替える必要がある。コンタミネーション――雑菌汚染――の原因となり実験結果に影響を及ぼしかねないので、理系の研究室では通例となっている。
入口近くにパソコンが二台置かれたデスクがあり、応対してくれた研究生らが数枚のシャーレを眺めながら意見を交わしていた。少し奥にはクリーンベンチが二台置かれ、一人の研究生が黙々と作業中だった。
さらに奥に行くと背の高い棚が並び、薬品や小型の装置、メスシリンダーなどの実験器具が置かれている。数台の顕微鏡が置かれ、サンプルらしきペトリディッシュがステージにセットされている。薬品棚の横に入口と同じスライド式の裏口がひっそりと設けられ、木製の下駄箱に緊急避難用のシューズが並んでいる。サイズは二十四センチが多い。
そしてようやく、部屋の主がいる最奥に到着する。
理系教員のデスクだから理路整然としていると思いきや、実態はその真逆だ。
パソコン周りには書類が溢れ、キーボードが半分埋もれている。椅子の裏には大きな本棚があり、ぎっしりと専門書が詰まっている。何冊かは床に平積みされ、付箋が何十枚と飛び出している。
返答しようとしたとき、電話が鳴った。音は聞こえるも肝心の本体が見当たらない。しかし広野先生はスッと立ち上がり、慣れた手つきで書類に埋もれた受話器を掴み上げた。
三十秒ほど話した後、受話器を戻す。何故か律儀に書類をその上に重ねて。
「おまたせ。で、何だったかしら?」
広野先生はドカッと椅子に座り直し、キーボードすれすれに置いてあったマグカップに口をつける。
広野先生の印象は少し年が離れた姉といったところだ。
黒髪ロングヘアをサイドで結っていて、白衣を着た左肩から下ろしている。左手首にした腕時計の横で、蛇を象ったブレスレットが蛍光灯を反射しキラリと光る。研究のためか薄化粧も相まって、学生と見間違うほどだ。窓際に置かれたハンガーには灰色のジャケットがかけられている。
読んではいけない本について再度話すと、広野先生は何度か頷く。
「クトゥルフ神話好きの丸雄君なら【黄衣の王】って知ってるわよね?」
「コウイのオウ?」
「その顔は知らない口ね」
「うぐっ」
この先生、心理学も皆伝かと思うほど鋭い。前内がいれば即答だったに違いないが、今頃図書館で活字から活字へ飛び回っているだろう。
「読んだものを発狂させるといわれている禁断の書よ」
生憎、神話中の書物に関する知識は一番有名な魔術書【死霊秘法】しかインプットされていない。前内が自慢の知識を『前内講義』と称していつも話しているが、大半はスルーしていた。その中に出てきたかもしれない。もっとよく聞いておけばよかった。
「その本が学内に蔓延っているのでしょうか?」
読んではいけない本と読んだら発狂する【黄衣の王】。両者の共通点は多い……。
「丸雄君、この本は神話中の架空の本よ。実在しないと思うけど」
それもその筈である。
クトゥルフ神話は架空の神話体系。探求しているとたまに現実との垣根がわからなくなり、その感覚もまた一興なのだが危うく本気で境界を見失うところだった。
「では単なる噂話なのでしょうか」
「どうかしら」
きっぱり言い放った広野先生はまっすぐ俺を見つめる。大きくて凛々しい視線が胸を突き抜ける。
「火のない所に煙は立たないともいうわよね。例えば【黄衣の王】に関連した書物が実際に存在するかも」
「関連した本って、そんなもの――」
試しにショッピングアプリを開いて調べてみるが、該当はない。当然だ。神話世界中の書物――フィクションに決まっている。
「それをモチーフにしたとしてタイトルまで真似るかはわからないし、出版されていない本も世の中にはたくさんあるわ。今では誰でも格安で本をつくれる時代よ」
アプリの広告欄に『格安! あなたの本つくります』とタイミングよく表示される。
「丸雄君、ここは三洲華大学――かの有名な教授たちが教鞭をとり、多くの禁断の魔術書を揃えたミスカトニック大学と同じ名を持つ学校よ」
広野先生は再びマグカップに口をつける。動作と相まって、ふんわりと香しいにおいが鼻腔を刺激し、官能的な空気に背筋がゾワゾワする。
「偶然にしては出来過ぎ――そう思うのはあなたも一緒のようね」
広野先生はまるで教え子をからかって楽しんでいるような、悪戯な笑みを浮かべた。
*
一時間ほど広野先生と話し、研究室を後にした。
帰りの電車内でイヤホンを嵌め、辞去の際に受け取ったものを眺める。
どれも先生が神話世界を探究する中で手に入れた物品だという。入手先について聞いてみるも『ヒミツよ』の一点張りだった。
一点目――蜂蜜酒入りの小瓶。
先生によると飲む者を時空の束縛から解き放ち、鋭敏な感覚を与える効能を秘めているらしい。小さな褐色瓶の中にはドロリとした液体が入っているのがわかる。
二点目――小さな石笛。
これは旧支配者の奉仕種族である有翼生物【ビヤーキー】を呼び出すのに必要なものらしい。呼び出したビヤーキーは任意の場所まで対象を運んでくれるとのこと。
『お守りよ。あなたに邪神の加護があらんことを』
邪神の加護――何だか不気味な響きだが、同志として安全を祈っているという意味だ。
その言葉が数回脳裏をよぎった時、最寄り駅到着を知らせるやや高音の特徴的な車内アナウンスがイヤホン越しに聞こえた。




