弟六章 作家
六、 作家
冬も終わり、少しだけ暖かくなってきた。
だがそれでもほっとできるものではない。やがて来る花粉の季節にまた困らされるのだから。
世の中の方は、景気が完全に悪化していた。
消費が落ち込み、価格が下がるデフレ状態が続き、利益が出ず、給料は上がることがなかった。
人は、冷静になった、というものでもなく、多くの人が俯いて、覇気を感じることがない。
まるで失敗を恐れるかのように、挑戦することに躊躇われ、雁字搦めになり、どことなく暗く沈んでいるようでもあった。
浩一郎は仕事を終え、帰宅した。
結婚して十年が過ぎたが浩一郎とルリ子の間には子供がいなかった。
だが二人は幸せに暮らしていた。
どんなことがあっても、
「ニッコリ」
とルリ子に言われ、その言葉で今までどれだけ励まされたことか。
言われた時はめんどくさいが、仕方なく微笑んでみると、これが意外と沈んでいた心が良くなっていくから不思議だ。
それに疲れきっていた身体も楽になるような気がする。
やはり笑顔は百薬の長というだけあり、大事なことだと思う。
それと、結婚をして何年かしてから煙草を辞めた。二回目の禁煙で辞めることができた。
きっかけは健康診断の結果だった。肺に黒い影が映ったからであり、それを知ったルリ子に心配され、そして辞めるよう頼まれた。
浩一郎は、ずっと彼女に監視され、それで辞めることができたのだ。
これが結婚して自分にとっての利益をもたらした一つでもある。
一人では禁煙など出来なかったはずだ。
ボクシングは完全に辞めており、又海外旅行へ行く資金もなく、諦めた。
それに多くの規制も敷かれた。それでも浩一郎には自由でいることへの消失感に駆られることなどなかった。
なぜなら浩一郎には、ルリ子がいること。
結婚とは相手があってのもので、その相手を養うという責任感はあるが、それよりも、自分の心が折れそうになった時、そっと励ましてくれるパートナーがいるのも事実だ。
それは社会での偽善者などではなく、本当に心配をし、励まし、時には背中を押してくれるパートナーだからだ。
それと小説家になる夢があったこと。
自分の人生の中、打ち込めるものがポンポンと二つも見つかるなんて、それだけでも幸せで、人生を経済的には別として、精神的に安定させることができる。
浩一郎はマンションに入り、その妻の待つ部屋の玄関を開けた。
靴を脱ぎ、鞄を置き、洗面所まで歩いていく。
「ただいま」
そこでふと足が止まった。それはいつもと違う風が我が家に漂っていたからだ。
マンションの部屋は三LDKで、そのどの部屋も明かりが点いておらず、暗かった。
音もなければシーンと静まり返っていた。
ルリ子がいないのか?
でも、玄関にはシューズがあったし、パンプスもあった。
「お~い、ルリ子」
しかし、返事はない。
浩一郎は慌ててリビングに向かった。
「じゃ~ん」
後ろから目隠しをされた。
「お帰り」
どうやら緑色で、二人掛けのソファの後ろに息を潜め、隠れていたようだ。
塞がれていた両目から手が離れたので、浩一郎は後ろを振り返った。
紺色のパンツスタイルに、ジャケットといった仕事着のままルミ子が立っていた。
「あれ、まだ着替えてなかったんだ」
「何言ってんの?」
ルミ子は言った。
「今日はルルドに行く予定だったでしょ。マスターには世話になったんだから、お礼に行くって言ってたじゃない」
「ああ、そうだった。もう用意はできてるの?」
「まだ。もうちょっと待ってて」
最近、物事が自分の知らないところでグルグルと目まぐるしく廻っているようで、ついていけない。
気持ちも何処か上の空だし・・。
あの結果発表から一週間が経つがいまだに信じられない。
マンションから車を飛ばし、二十分程のところに食事もできる喫茶店がある。
店名はルルドだ。外壁が薄いピンク色で、可愛らしいが、落ち着いた造りをしているため、年配の客も多い。
駐車場には植木鉢が沢山ある。
白色で、真ん中が黄色のマーガレット、薄い黄色のスイセン、白色のスズラン、そして、紫色のカトレア。
夫人が好きなようで、いつも丁寧に手入れしているのが分かる。
それにマスターの人柄、店内の落ち着き易さが好評で、地元でも人気の店だ。
日中はかなり混むが、今は夜の九時頃ということで、客もいなかった。
「いらっしゃい」
年は今年で六十三歳になり、肌の色が黒く、ガッチリとした体格で、年がら年中半袖の健康的なマスターが、今日は一段と素晴らしい笑顔で出迎えてくれた。
「おめでとう。新聞で見たよ。小文社新人賞受賞」
「有難うございます。」
浩一郎はハニカミながら言った。「これもマスターの助言の賜物です」
彼の名は高木陽一。
東京の元大手出版会社で編集長をしていた人物で、定年退職後、実家の豊田に戻り、喫茶店ルルドを経営するようになったのだ。
その店に浩一郎が通っていた。
そして、そこでルリ子と浩一郎は原稿を見、ああでもない、こうでもない、などとやっていると、料理を運ぶついでにマスターが世間話しから始まり、やがて原稿を見てくれるようになり、助言をしてくれたという訳だ。
「今日は、お祝いだ」
マスターは言った。
「驕りだよ。なんでもいいから注文しな」
「そんなの、いいんですか?」
ルリ子は訊いた。
「いいですよ」
「では、遠慮なく、味噌カツ定食と、」
浩一郎は、ルリ子の顔を見た。「何がいい?」
「じゃ、レディースセット」
その料理は女性用で、他の料理よりも若干カロリーが低めに設定されている。
ポテトサラダ、エビフライ、スパゲティーサラダ、お浸し、といった具合に。
「それだけでいいの?」
「充分です」
「じゃ、コーヒーは?」
「あ、お願いします」
「はい、かしこまりました」
マスターはメニューを取り、戻りかけたが、また振り返った。
「いつも仲がいいね」
「有難うございます」
ルリ子は嬉しそうに頷いた。
浩一郎は新聞を、ルリ子は女性誌を読んで待っていると、マスターが料理を運んできた。
このマスターは仕事が手早く、料理の味も確かだ。
「はい、お待ちどうさま」
マスターは料理をテーブルの上に並べた。
「コーヒーは後でいいよね?」
「はい」
浩一郎は答えた。
「ここ、座っていい?」
マスターは後ろからテーブルを持ってきて、訊いた。
「どうぞ」
「受賞式はいつ?」
マスターは腰を下ろし、早速訊いた。
「来週の金曜日です」
「そうか、じゃ会社を休んで、東京までいくんだね?」
マスターの目はとても生きていた。じっとこちらが話している時、ちゃんと目を反らさずに訊いてくれる。
「ええ。そうなります」
「楽しみだね。これからは取材とか、出版社とのやり取りで、仕事もちょくちょく休まないとならなくなるね」
まるで相手の心の中身までも、見渡すような目だ。
さすがは大手の出版社で編集長をしていただけのことはある。
何事にも自信を持ち、ビクともしない目。
今まで色々な目を見てきたが、ボクサーとは違った怖さを持っている。
「ええ。いよいよ作家として新しい日が始まるという気分で、ワクワクしています。
自分が書いた原稿が本になり、書店に並ふ。
自分の本を、お客さんが手に取る。それを考えると、もう毎日眠れませんよ」
「この人ったら、もう今でも舞い上がってるんですよ」
ルリ子が会話の中に入ってきた。「一週間前のことですが、出版社から電話で受賞の一方が入った時もそうでした。
その時、この人、携帯を落っこしちゃって・・。
その時の彼の慌てようったら、なかったわ。今思い出しても笑える」
「そりゃ、あれだけ苦労したんだから、嬉しさもひとしおでしょう」
「マスターには本当に感謝しています。だって最初の頃の私の文章なんてなってなかったですもんね、まったく」
マスターはちょっと笑いながら、控えめに一度頷いただけだが、ルリ子の方は何回も頷いていた。
「例えば、最初に殺人を持ってくると書きやすくなるよ、だとか、ちょっと説明が多いかな。
文章はね、てにをは、の使い方で変わってくるんだよ。
とにかく色々な本を読みなさい、そこから勉強するんだ。
そして、もっと細かなことを言えば、日本人の書いた本、最近流行った本、賞を受賞した本を読むことがいい。
といった助言、本当に感謝しています」
「それから、」
今度はルリ子が口を開いた。
「作品というのは、見る人によって違うからね。僕が駄目と言っても、他の人がいいというかもしれない。
そこがボクシングと違うところじゃないかな。
だってボクシングの試合は、きちっと白黒がでるからね。明白だよ。
でも本や絵画の世界はそうじゃないんだ、評価の基準がないんだ、と言っていたことも思い出したわ」
「随分と、えらそうなことを言っていたようですね、私は」
マスターはここで立ち上がった。「では、食後のコーヒーを持ってきます」
「お願いします」
浩一郎は言った。そして、彼の背中に向かって、
「そんなことないです。大変為になりました」
と言った。
「そう言ってもらえると、こちらとしても嬉しいです」
マスターは、浩一郎とルリ子にコーヒーを渡し、それから自分の分も持ってテーブルに座った。
「今日は本当に楽しい日だ」
マスターは言った。
「それにめでたい」
「よかったね」
ルリ子は浩一郎を見て言った。「マスターみたいな人がいて、あなたは本当に幸せ者だよ。感謝しなくちゃ」
「いいんですよ。私なんか、何にも。それに趣味で講釈を述べただけですから」
それからも二人は食事をしながら、話題を少し変えつつ、マスターとの会話を楽しんでいた。
「じゃ、そろそろ・・」
ルリ子は言った。
「もう閉店の時間もとっくに過ぎてしまったし」
「そうだね」
浩一郎は、入口に掛けられた丸い時計に目をやった。
森をイメージした時計で、先程その真ん中の穴から十一時を知らせる小鳥が飛び出してきたから、かなり遅い時間になっている。
「済みません。こんなに長居をしてしまって」
「いや、構いませんよ。今日はいい会話を楽しむことができました」
マスターがようやく姿勢を整えた。
「料理の方はどうでしたか?」
「美味しかったです」
「それはよかった。有難うございます」
「癒されるね。マスターの笑顔は。それにいい人」
ルリ子は精算を済ますと、浩一郎と共に外に出てから言った。
夜になるとまだ肌寒い。
雨の匂いを感じたが、まだ降ってはいなかった。
しかし、何処か遠くの方から、風に乗って下水溝のような匂いを感じた。明日は雨になるだろう、そう思った。
「そうだね、ほんといい人だ。でも、何でかって思うよ。
どうしてあそこまで親切にしてくれるんだってね。だって最初はあれ程下手糞な文章だったのに、原稿を読んでくれて、それに助言をしてくれた。今でも不思議だよ」
「きっと、あなたの人間性に興味を抱いたのよ。
だって、浩一郎、変だもん。かなり人と変わってるよ」
「違うよ。きっと一生懸命やっている人には、こういった人が陰ながら応援を、アドバイスをしてくれる人が必ず出てくるんだ。そのことを忘れてはいけない」
「はい、はい」
「聞いてないな。ま、いいか。それより、パートから帰ってきて、疲れているのに外出してくれて有り難う」
「いいよ。明日休みだし」
「ルリ子には感謝してるんだ。俺が執筆活動中で、一生懸命の時、コーヒーを淹れてくれたり、肩を揉んでくれたりして、応援してくれたよね」
「浩一郎の肩は硬いから、手が疲れるんだよ」
「有難う。又やってね」
「たまにね」
ルリ子は言った。
「でも、これから忙しくなるね」
「ああ」
「ね、」
「ん?」
「本の方で、これから忙しくなるかもしれないけど、こうやってこれからも二人で、外食や買い物、映画なんかを見たりして、そうだ、たまには旅行なんかにでも出かけようね。二人で仲良く」
「そうだな。他の誰よりも楽しまなくちゃな。せっかくこの世の中に生を受けたんだ」
「ええ」
ルリ子は頷いた。
「どうやって、謳歌しょう?
その二人の人生を。例えば人がやらないこだとか」
「ゆっくり考えればいいわ。時間はたっぷりあるんだから」
「そうだね」
「あ、そうそう。例えば私たちのマイホーム、浩一郎の給料では、子供がいたら買えなかったものね。
だからマンション、大事にしなきゃね。
先で、余裕ができたら、もっと部屋を改装して、立派にリィホームしてもいいじゃない。
そう思わない?
私、押し入れの中にロフト、造りたいな。
そして、その中で勉強したり、上には簡易ベッドを造って、そこで仮眠するんだ」
「いいね。それはそうと、ものは大切に扱うんだ。
だって、ものだって心は存在するし、きっと自分たちにいいことが返ってくる。
使いやすさだとか、いつまでも綺麗な家だとか、故障せずに、災害も起こらない、ってね」
「そうよ。それ、いつもの私のセリフよ。取らないでよ」
ルリ子は言った。
「それに海外旅行もしたいわ。イタリアやフランス、それにイギリスなどのヨーロッパ、それからアメリカにドバイなどなど。
どうせ一回切りの人生だもん、多くのものを見たいじゃない。そうでしょ。
あ、そうそう。この際、一年中温かい国、例えばマレーシアにでも永寿する、リタイアメントビザなんかを所得して・・。悪くないわね」
「そうだね。人生楽しいことはいくらでもある」
「それに、お洒落なカフェにも行きたい」
「今度は小さくきたな」
「いいじゃない。現実的にも」
ルリ子は目を輝かせていた。
「雑誌に出ているような、人里離れた隠れ家的な・・」
「いいね。ヨーロッパにあるような光と緑が戯れる湖のあるような庭、その綺麗な佇まいのカフェで、お菓子やケーキを食べてのティータイム。
そこはさ、湖水地方で、俺たち二人は、ボートを借りてクルーズに挑戦するんだ。そんなことができたら最高だね。そう思うだろ」
「それ、何処にあるの?」
「知らない」
「知らないって、フフッ。それって、あなたの妄想?」
浩一郎は笑っていた。
「私はのんびりとショップ巡りをしたいな。雑貨屋なんかを」
「まだまだやりたいこと、行きたいところが沢山ある」
浩一郎は言った。
「そうね」
ルリ子は丁寧にお辞儀をした。「これからも末永く、よろしくお願いします。二人仲良く生きていけば楽しいよね」
「ああ。こちらこそ」
「明日は何処に行こう?」
「明日にならなければ、分からないわよ」
ルリ子は微笑んだ。
「そんな予定に縛られるから疲れるの。明日起きれば、行きたい所が出てくるよ」
「じゃ、明日は何時に起きよう」
「だから・・ゆっくり寝てなさいよ。今日遅くなっちゃったんだから。
そして午後から行動すればいいの。そんな明日はどうしょう、何時に起きなければならない、なんて予定に縛られていると、癌になってすぐに死んじゃうよ。
それよりも時間にしばられることなく、臨機応変に、その都度楽しみましょうよ」
「おいおい、また目を瞑って瞑想だよ」
頭の中でカエサルのうんざりした声が聞こえてきた。
「まったく優柔不断な奴だ。学生時代、青年時代、そして結婚、それから本の出版と昔を振り返ってばかりで、今になっても、まだ決めかねていやがる。一体いつに戻るというんだ?」
「ま、本人にも難しい選択なんだよ」
キケロが、カエサルに言い聞かせるようにいった。
「人生にとって、大切なことは選択だよ。
彼にとっての最後のその大切な選択なんだ。迷うのも頷けるってものだ」
「昔から、お前に御託を言わせると、天下一品だったよな」
とカエサル。
「どういう意味だ?」
キケロは、ここで久しぶりにカエサルの顔を見た。
いつも横にいる彼の目を見た。
カエサルの目はこんなにも優しげなものだったであろうか。
もう少し、いかつい顔ではなかったか。それになんだ、このふっきれたような顔は。
「お前の人間性を述べると、官僚的現実把握力と解放策定能力は超一流だったが、自分の解決策が未来に何をもたらすかという観点に関しては、欠けた人物だったよな」
「はっきりとものを言ってくれるね」
キケロは、カエサルを睨みながら言った。
だがそれ程は怒ってはいない。いつ以来だろう、こんな風にカエサルを見るなんて。
そのうち自分の気持ちが、意思が、感じ方が変わっていくのを実感していくのが分かった。
「まあね、それがいいことに、俺との間に今後一切闘わないといった非武装中立を守るという紳士協定を結んだにも関わらずに、だ。
スペイン方面で俺が苦境に立たされると耳にしたお前は、掌を返したかのようにギリシャのボンベイウス陣営に付いて、参戦してきた。裏切りだよ。明らかな協定違反を犯したよな。
だが、間の悪いことにお前がギリシャの土を踏む前よりも先に、俺はスペイン方面の劣勢を覆し、ローマ西方世界を平定した。
お前の賭けは失敗に終わったというわけだ。ハッハッハハ」
カエサルは勝ち誇った顔で言った。
「そんな昔のことを持ち出してまで、俺のことを揶揄して楽しいか?」
キケロは機嫌悪そうに舌打ちした。だが本当のところは、悪い気持ちではなかった。
以前までの感情では有り得なかったことだ。
「まあな。でも、お前にもいいところはある。
俺はカティリーナの陰謀に加担した容疑者への温情裁判を求めた時だ。
元老院議員、所謂都市国家として誕生したローマの主権者は、有職者代表という感じの元老院と市民だが、その元老院議員たちにタコ殴りにあった時があったよ。
で、その時に俺のことを、お前は救ってくれた」
カエサルの目が今までと違い、少し変化してきたかに思う。
「ま、そんな時もあったな」
満更でもなさそうにキケロは言った。
「俺の最初の考えは、たとえ優秀な人材でも多民族出身者を登用すれば、本国出身者のローマ人の登用がそれだけ減ることになる。
このいってみれば鎖国路線の言論面でのリーダーが俺で、行動面でのリーダーがブルートウスだった。
一方、開国路線を強行したのがお前だ。お前は征服したガリアの有力部族長たちさえ元老院に入れてしまったよな。
昨日の敵が元老院の議席に坐っているのは、ローマの民衆も驚いたが、最高責任者のお前が断行した結果、誰も文句を言えなかった」
やがて、キケロの心の中に暖かい風が吹き、それで冷え切っていた体を温めていく。
自分の中で変化が訪れようとしているのが分かった。
「確かにその頃のキケロ、お前は、俺に反対していた。
でも共和制時代の攻勢一方であったローマからやがて帝政に移行して以後のローマは(パスク)所謂平和をモットーにするように変わっていった。
だって古代ローマは発生から終焉まで統括すると、千年という大変長い期間続くことができたんだ。
王政期から共和政期そして、我々が生きた内乱の一世紀を経て、紀元前七百五十三年にイタリア半島の中部に発生したこの都市が、その後、地球上で最も巨大なテリトリーを持つ最強国家になるまでにな」
「カエサル、お前は千年以上続いたローマ帝国にとっての功労者だ。
あのまま共和制が続いていたら、ローマ帝国はきっと衰退していったさ。
時代遅れの共和制を廃止すべく改革を断行することにより、紀元前四十四年、ブルートウスら保守派によってお前は暗殺されたが、カエサルの養子、オクタウイアヌスが元老院よりアウグストウス(荘厳者)の称号を受け、全権を掌握したため、これでお前の念願だった元首政を装った帝政を開始することが出来たじゃないか」
あれだけ視線を逸らし合っていた二人。
だが、今ではカエサルの目をしっかりと見ながら話すキケロの姿がここにはあった。
「だがお前の方は、保守派ブルートウスを擁護することにより、改革派により追われ、やがて自害した。
なぜお前は時代の流れに反し、改革に反対した?
なぜ判断を誤った?
ともかく、ローマ帝国は、帝政期に移り確固たる地盤を築くことができた。
この我々が生きた内乱の一世紀がなければ、きっとローマはこれ程長くは続かなかっただろう。
そうじゃないか。
それはそうと、後になって振り返ると、お前の気持ちも当時とは違い、天使となってからは、変わっていったよな。
そして気づいたはずだ。自分の思想が間違っていたことを」
「間違っていた?」
「だって、そうだろ」
「何が?」
「その後の文明の発展を、俺たちは天使の目として、ずっと見てきたじゃないか。
例えば、交通網を見てみろよ。分かるだろ。
舗装された道路は、ローマ人が登場する以前にも単線ならば存在した。
しかし、それをネットワーク化すれば効果が一層上がることに気づき、それを帝国全域に張り巡らせたのはローマ人。
それからアーチもヴォールト(曲面天井)も、発明したのはエトルリア民族だったが、それらの原理を発展させることで建築の様式を一変させたのもローマ人。
文化だってそうだ。エジプトやギリシャの学者たちが究めた天文学や数学の成果を活用して、人間の日常死活のリズムの一定に役立つ暦、つまりカレンダーを作成したのも我々ローマ人だ。
お前には分かっていたはずだ。社会が発展していくにはどうすればいいか、そして、何が必要なのかが」
カエサルもしっかりと、キケロの目を見て話をしていた。
カエサルは思った。今まではキケロの顔を見る度に、何か胡散臭い表情を見てとれたが、このようにじっくりと見てみると、そうでもないかな、と思い始めてきた。
もしかしたら、こいつは正直者なのかもしれないと。
「どうしたんだ?」
キケロは、嘲笑うかのように言った。
「何が?」
カエサルは首を傾げた。
「何かおかしいか?」
「いや、別に。ただ、いつもと違って、いやに弁舌じゃないか、と思ってね」
「俺だって弁舌になる時もあるんだ。悪いか」
「いや」
キケロは大きく伸びをした。
「そうか。そうだよな・・。分かっていたのかもしれない。いや、でも生きていた時には半信半疑な気持ちだったんだ」
「何を?」
「守らなければならないものや、変わりたくない、という思いが強く、実際、行動に移すことができなかった。
後悔しても遅い、というのはこのことなんだろうな」
キケロは静かに言った。
「だってそうだろ、確かに、基礎的な発見や発明ならば、ギリシャ民族によって成されたものの数は絶対的に多い。
だがそれらを、多くの人々が利益を享受できる[文明]にまで発展させたのは我々ローマ人だった。
あの時、なぜ変わることへの大切さが、分からなかったのだろう。
人間、生きている時にはそんなものなのかもしれないな」
キケロはカエサルを見ながら言った。人の目を見て話をするのが、こんなにも素晴らしいことだったなんて初めて知った。
相手との距離が確実に短縮していく。分かり合えるっていいものだな。
こうして語り合うことで、安心することもできるんだ。
「そうなのかもしれないな」
カエサルは、キケロの肩を叩きながら言った。
「まあな。俺たちの後の人間たちは、それだけじゃない。人間にとって、大切なことも学習したぞ。
それは国内で敵になりうる者、被支配者たちの行く末をちゃんと考えたことだ。
彼らを奴隷として扱うのではなく、人間生存の理由と喜びが必要なのだ、ということを教えてくれた。
それと、仕事はそれぞれの分野で得意な人に任せた。
所謂今でいうプロフェッショナルだ。そうすれば国のためにもなる」
「人間は憎しみ合うものではない。肌の色、地位、貧富、格差、男女それらの区別を完全に無くすことはできないので、それらを緩やかなものにし、何よりも個人の能力を認めなくては、人間にとって必要な人間生存の理由と喜びが失われ、人間は、やがて衰退していくことになる。
生まれた時には、皆同じハイハイ歩きの赤ん坊に違いはない。
だけど生まれたところ、環境などが自分の夢を諦めることに繋がることになれば、それがどれほど人間の生存を脅かすことになろうか、この世界を牛耳るほんの一部分の人間たちには知る由もない。
世界を救おう、人類を救おう、と声を高らかに唱える偽善者どもよ、もっと民衆に耳を傾けよ。
そうすればもう少しどうすればいいかを、少しは理解することができるはず」
最後にポツリとキケロは呟いた。
「人間は、皆同じなんだよ」
そして、
「カエサル、」
「何だ?」
「俺にも、そのあられを、くれないか?
一体、どんな味がするんだと思ってね」
「ごめん。もう食べて、なくなっちまったよ」
しばらくするとさっきまで頭の中でしていた誰かの話し声も消えてなくなっていた。
物音がなくなり、いきなり静かになった。
まるで時が止まったかのように。もしかしたら自分の命も消えたのではないかと思った。
浩一郎は不安になり、目を開いた。やはり物音は消えて、静かで、そればかりではなく周りも暗くなっていた。
風の音も、外の車の排気音も、道路を行き交う通行人の話し声も消え去り、この浩一郎の部屋だけが存在するかのようだった。
どこにいったのか近くにいたはずのあの怪しげな天使たちの姿もない。
「あなた・・」
ふと耳元で女の声がしたように思う。なんだろう、懐かしいようで、それは存在しない声のようだった。
「あなた」
もう一度声がした。嘘のようだが実在している。確かに。
浩一郎は扉の方へ視線をやった。それは、ゆっくりと浩一郎が寝ているベッドの方へと歩み寄って来た。
とても優しい目だった。
歳と共に皺が寄り、目も優しく見えるようになったのだ。
それに頭も所々が白く、背中も少し丸まったが、それでも浩一郎には、彼女が可愛らしく見え、愛おしく思えた。
「ルリ子!」
自然に声が出ていた。
「ルリ子。こっちにきてくれ」
浩一郎は、なぜ、という疑問をぶつけるのではなく、こっちにきてくれ、と言った。それが自然であるかのように。
「あなたの今までの人生を見させてもらったわ」
ルリ子は静かに言った。
「私たちが出会う前のあなたの過去を、私は今初めて知ることができた」
彼女の満足そうな顔が印象的だった。
「そうか」
浩一郎は優しげで、それでいて本当に嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「あなたのそんなうれしそうな笑顔、初めて見た」
「そうか?」
「そうよ」
「そうかもしれないな。若い時は、何か、喜ぶことが怖かったな」
「なんで?」
「いや、幸せが、逃げていきそうで、そんな気がしていたんだ。
ひょっとしたら喜びと悲しみは隣り合わせで、喜びの後には悲しみがやってくる。
そう思い、怖かったんだ。おかしいよな、そんなの」
浩一郎は、そして少し暗い笑顔を浮かべた。
「でも、今となってはもう失うものはない」
「そんなの・・。淋しいこといって」
「でも、お前と出会ってからは、よく笑うようになったんだぜ」
「そうだね。私がいつもニッコリって、半ば強制的に笑わせてたもんね」
「ああ。でも、それも悪くなかった」
「そうでしょ」
しばらくは沈黙が落ちた。
「もうすぐお前の所に行くよ」
浩一郎はポツリと言った。
「どうだった、俺の人生は?」
「ええ」
「俺の近くで見ていたんだろ、分かっていたんだ、途中から。今思えば、あの天使が俺の所にやってきてから、ずっといたんだろ。近くに」
「分かってたんだ?」
「うん。気配を感じたんだよ、ルミ子の」
「そう」
ルリ子は言った。
「いい人生ね。あなたの人生は」
「ああ、そう自分でも思うよ。悔いはない」
「実は、ね」
ルリ子は勿体ぶって言った。
「私のところにも、あの天使たちがきたのよ」
「そうか」
浩一郎は嬉しそうな笑顔で言った。まるで大仏のような。
「それで、君はどの一日を選んだんだい?」
ルリ子はしばらく黙り込んだ。
「選べなかった」
ようやく重い口を開いた。
「だって今までの人生の中で一日だけ選べ、っていうことでしょ。そんなことできないよ」
「そうだよな。裏返せば、残りの日は一体何だったんだ、ってことだろ。
人生はそんなものじゃない、そう思える。
人生には選択が重要だということは分かる。
でも、それまでの過程も重要だ。結果良ければそれでよし、ではない。楽しいことの前には苦もあるんだから。その苦も重要なんだ」
「うん。だから私、天使たちに、せっかくだけど選べない、って断ったの」
そして、ルリ子は言った。
「その変わり、新たな要望を伝えたの」
「どんな?」
「私はその一日を選ばなくていいから、その代わり、川村が死ぬ時に、私も、彼の枕元に来ていいか?
そして、私の知らない彼の人生を見たい、と言ったのよ」
「ルリ子らしい提案だね。相変わらず只じゃ転ばない性格だ。天使たちも困っていただろ?」
「ええ。まあね。でも叶えてくれた」
「流石ルリ子だ」
「そうよ。自分の意見は、こんな風にはっきりと伝えなきゃ」
「そうだよな。そう思う。
ところで、今までの人生の中で、その一日だけを選べば、
それで他の日々が嘘になってしまうような気がしたんだ。
そう思わないか?
だから選ばなかった」
ルリ子は頷いた。
浩一郎は意を決したように、
「どうやら長いこと考えてきたが、俺も今までの人生の中で、最高の一日がどれかなんてことは、決断は出来そうにない。
だって、人生は振り返ってもいいが、戻るものではない、そんな気がするんだ」
「うん」
ルリ子は優しい目で、浩一郎を見た。そして、浩一郎も優しい目で、何かを悟ったような目をした。
「そろそろ行きますか?」
「もういいの?」
「ああ」
「未練はないの?この世の中に」
「そりゃ、いっぱいあるさ。まだまだやりたいことがわんさかと」
「あなたって欲張りだから」
「ああ、許されるなら、もっと生きたいよね。
でも、人間には寿命というものがある。俺が何で死ななきゃならないのかも分からないのに。
だって突然だからな。さっきまでピンピンしてたんだぜ。
人生は、一寸先は闇だからな。でも俺にとって幸せだったことは、こうしてお前とまた会えたことさ。そして、また一緒になれること」
「行きますか」
「行きましょう」
二人は立ち上がり、手を取り合った。生きていた時はあんなに恥ずかしそうに、少し距離を置いて歩いていたのに、今はちゃんと手を繋ぎ、肩を並べ合い、二人で向かうべきところに足を踏み入れた。




