1. 三秒で終わった
「ごめん。あんたは弟みたいなものだから」
十年分の勇気を出した告白は、三秒で終わった。
高校二年の秋。放課後の体育館の裏に、西日が差す。中から響くボールの音が、やけに遠い。俺、梶浦柊吾は、隣に住む幼馴染、三ツ橋日鞠に、好きだと言った。
揺れていた栗色のポニーテールが止まる。日焼けした細い腕でラケットを抱え、小柄な日鞠は俺を見上げる。
琥珀色の目が、俺の顔と地面を行き来していた。丸い頬に、いつものえくぼはない。
知っていた。日鞠が目で追うのは、サッカー部の三年、蜂谷先輩だ。それでも昨日の晩、言おうと決めた。焦げると分かっている鍋に、火を入れたのは俺だ。
「……別に。知ってた」
「え、知ってたって……。ごめんね、ほんとに! しゅうがそんなふうに考えてるなんて、あたし、全然気づかなくて!」
「謝るな! 余計きつい!」
ラケットの柄を握ったまま、日鞠の手が俺の肩へ来かける。触れる前に止まった。
「だって、しゅうは、ほら、弟みたいなもんで……。一緒にごはん食べてるし、今さら急に、そういうふうには見られないよ」
「二回言うな。ちゃんと聞こえてる。慰めるつもりで同じとこに塩を振るな」
日鞠の口が開き、すぐ閉じる。コートのほうから呼ぶ声がした。ラケットを抱え直し、日鞠は俺を見上げる。
「部活、行かなきゃ。……しゅうと話せなくなるのは、あたしも嫌だもん。明日は普通にしててね?」
「普通って、今日のこれをなかったことにするってこと?」
「そこまで言ってないじゃん! 避けたりしないでって言ってるの!」
「……努力はする。でも、俺が黙ってても怒るなよ。明日から普通って、きついんだよ」
ポニーテールが西日の中を遠ざかる。追いかける用事は、もうない。握っていた手を開いた。手のひらに爪の跡が四つ並ぶ。
その夜、部屋の窓は真っ黒だ。十年前、七歳で越してきた日に、隣のおばさんが夕飯はうちでと決めた。両親は共働きで、どちらも帰りは毎晩十時過ぎになる。
中一からは、作るのも俺だ。おばさんは料理ができない。
携帯に〈今日は腹いっぱいなんで〉と打った。おばさんへ送る。隣の夕飯を断るのは、十年で初めてだ。
窓に映る黒い前髪が目にかかる。指でよけると、焦げ茶の目が見えた。丸い頬は七歳のころと大して変わらない。
この一年で、背は日鞠を追い越した。細い指には、揚げ油でできた小さな火傷の痕が残る。それでも弟か。
十年、隣の食卓の端に座ってきた。今日は椅子を引く音さえ、塀越しに聞きたくない。弟のままなら、今夜もあそこに座れた。腹が鳴る。腹いっぱいと打った指で、腹を押さえる。
◇
翌日の夕方、玄関を開けると、おばさんの短い黒髪が目の前で跳ねる。白髪がまじる。小柄なのにがっしりした肩で、俺の腕を引いた。
「昨日のぶんも食べなさい! 空のお腹で部屋にいたって、ろくなこと考えないわよ!」
「おばさん、靴、まだ片方です。腕、そんなに引っ張らないでください」
「片方で十分! 十二歩なんだから! ほら、足を動かしなさい!」
引きずられながら、もう片方のかかとを靴へねじ込む。おばさんが振り向いて、声を落とさずに言う。
「昨日、日鞠から全部聞いたわよ。弟みたいなもの、ですって?」
耳の奥が熱くなる。家族の夕飯の席で、俺の告白は話の種になったらしい。
「食べますけど、作るのは俺ですよね? コロッケの種なら、昨日のうちに仕込んであります。おばさん、揚げてくれるんですか?」
「じゃあ揚げなさい! おばさんがやったら衣がなくなるわよ。昨日は冷蔵庫のおかずで済ませたんだから!」
俺の揚げたコロッケが、三ツ橋家の食卓に並ぶ。日鞠の母、三ツ橋夏江。おばさんは、今日も見事に食べる役だ。味噌汁の湯気で、向かいの席がかすんだ。ソースと出汁の匂いは十年嗅いできたのに、今日は鼻の奥に引っかかる。
向かいにいるのは、日鞠の姉、三ツ橋茅乃さん。大学三年で、腰までの長い黒髪には寝癖の一房。椀を口元へ運んだ拍子に、そこだけぴょんと跳ねる。
すらりと高い背を少し丸めて、茅乃さんは味噌汁をすすっていた。顔を上げると、色白の頬と左目の下の泣きぼくろが見える。俺の隣では、日鞠が箸を振る。
「聞いて! 先輩と付き合うことになったの! 今日、一緒に帰ってきたんだ。まだちょっと変な感じ!」
おばさんが箸を置き、身を乗り出した。
「あらまあ! それで帰りが遅かったのね。お母さんにも顔くらい見せてもらわなきゃ!」
日鞠は俺の皿をのぞき、いつもの調子で続ける。
「それでね、先輩が、しゅうのお弁当食べてみたいって。明日から二つ、お願い」
俺の箸が止まった。コロッケはまだ熱い。指だけが冷えていく。日鞠が笑うと、頬にえくぼができる。昨日、俺に向けた顔にはなかったくぼみだ。向かいで茅乃さんが椀を置く。眠たげな黒い垂れ目が、俺に向いた。
「ふーん。じゃあ私の彼氏ね」
俺は箸を握り直す。
「……は?」
隣で、日鞠の声が跳ねる。
「お姉ちゃん!?」
茅乃さんの箸が伸びる。俺の皿からコロッケが消えた。
「明日から、お弁当と大学の迎え、よろしく。弟じゃないなら、できるでしょ?」
俺は皿と茅乃さんの顔を見比べる。
「できるかで言えば、できますけど。人のコロッケを食べながら人生を決めないでください。何を引き受けることになってるんですか?」
茅乃さんはコロッケを持ったまま、首をかしげる。
「私の彼氏。お弁当は私の分でいいよ。迎えの場所は、あとで書いとくね」
「書くって、どこにですか?」
「冷蔵庫」
日鞠の箸が、俺と茅乃さんの間を指す。
「しゅうに頼んでるのはあたしじゃん! なんでお姉ちゃんが出てくるの?」
茅乃さんは、コロッケの衣を見たまま言う。
「弟じゃないんでしょ? 日鞠が言ったじゃん」
おばさんが手を叩く。よく動く黒い目が俺たちを順に見た。大きな口で笑うと、茅乃さんと同じ場所の泣きぼくろまで動く。
「あら、うちの息子が決まったわね! 面白いから許す!」
日鞠は箸を握りしめる。
「決まってない!! お母さんまで喜ばないで! しゅうも黙ってないで、嫌だって言ってよ!」
皿の縁を指で押さえる。日鞠を見れば、うなずいてしまいそうだった。俺は茅乃さんに、弁当の味を聞く。
「茅乃さん、明日から作るなら味くらいは聞かせてください。卵焼きはどうします?」
「甘いの。私に合わせてくれるんだね。ふふ、じゃあ明日の朝、楽しみにしてるね」
「甘いのは、作ったことないです。……うまくできるか、まだ分からないですからね」
日鞠が椅子の上で身を乗り出す。俺の袖に伸びかけた手が、食卓をつかんだ。
「あたしのと違うじゃん! ねえ、しゅう、先輩の分は? さっきお願いって言ったよね?」
おばさんが横から割り込む。
「柊吾くんが決めることよ! 頼んだら返事を待ちなさい! それより柊吾くん、おばさんのお皿、空いてるんだけど!」
おばさんの箸が俺の皿へ来る。日鞠はそれを見ず、首を横に振った。
「違うの! おかわりの話じゃなくて、しゅうが、お姉ちゃんのって……そんなの!」
茅乃さんは眠そうな顔で衣をかじる。椀を持ち直す指が、かすかに震えた。
日鞠の手から箸が一本こぼれ、床で鳴る。日鞠は拾わず、俺から目を離さない。
「だめ! しゅうは、そういうのじゃないから!」
落ちた箸へ、いつもならすぐ手を伸ばす。今日は、皿から指を離した。食卓の端で、うつむかずに日鞠を見る。十年、日鞠としか呼ばなかった口で、俺は言い返す。
「弟みたい、って言ったの、お前だろ」




