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――side フィオナ。


 足元で鈍い崩落音が響いた。


「なっ――」


 踏みしめていた土がまとめて抜け落ち、身体が斜面へ投げ出される。

 咄嗟に飛び上がろうとしたものの、右足が動かない。

 先ほど斬り伏せた赤い蟻型の魔物。

 その長い脚が足首へ絡みついており、重みで思うように身動きが取れなかった。


「フィオナ殿下!」


 崩れた穴の向こうから、受験者たちの声が飛んでくる。

 彼らまで下りてくれば、全員が戻れなくなるかもしれない。


「私を追ってはいけません! すぐに試験官へ知らせなさい!」


 返事を確かめる余裕はなかった。

 背中や肩が固い土へ何度もぶつかり、視界が激しく揺れる。

 靴底へ魔力を集めても、斜面を僅かに削るばかりで勢いは弱まらない。


 やがて斜面が途切れ、身体が宙へ投げ出された。

 すぐさま剣を抜き、刀身へ白金色の魔力を流すと、淡い光が周囲を照らした。


 下には大きな空洞が広がっている。

 このままでは、魔物の死骸を巻き込んだまま地面へ叩きつけられる。


「邪魔ですわ!」


 足へ絡んでいた脚を一息に斬り払った。

 そのまま空中で身を捻り、背中と両足へ魔力を広げた。

 着地の寸前にそれを弾けさせ、落下の勢いを分散させる。


 靴底が土を削り、身体が大きく沈み込んだ。

 完全には殺しきれなかった衝撃が膝から腰へ抜けていく。

 それでも、骨折するほどの怪我は避けられたらしい。


「……ギデオン先生に助けられましたわね」


 訓練で教わった受け身だ。

 あの方に地面へ転がされた回数を思えば、今さら不格好な着地くらいで音を上げるわけにはいかない。


 王宮の剣術指南役たちは、私を地面へ倒すことすら避けていた。

 剣を打ち込めば受け流し、足元が崩れても腕を取って支える。

 模擬戦に勝つたび、決まって返ってくるのは称賛の言葉だった。


 幼い頃は、それを自分の力だと疑わなかった。

 けれど、鍛錬を重ねるほど分かってしまう。

 彼らが見ていたのは、一人の剣士ではない。

 傷を負わせてはならない第三王女だ。


 そんな中で出会ったのが、ギデオン先生だった。


 言葉遣いにこそ王族への配慮はあったが、訓練では一切容赦がない。

 最初の手合わせでは剣を弾かれ、そのまま足を払われて背中から地面へ倒された。

 痛みより先に驚いた私へ、先生は豪快に笑って手を差し伸べたものだ。


 そして、私の未熟さを指摘したうえで――才能も、積み重ねてきた努力も認めてくださった。

 第三王女という立場ではなく、一人の剣士として私と向き合ってくれた。

 先生の一番弟子を名乗ることは、生まれではなく、自分の努力で築いた最初の誇りなのだ。


 だから、簡単に譲るわけにはいかなかった。


 先生に「頭一つ抜けている」とまで言わせた男、ノエル・クラヴィエ。

 会ったばかりの辺境貴族に、自分の積み重ねたものを追い越されたなど認められるはずがない。


 試験で勝ち、先生の評価が間違っていたと証明する。

 そのためにも――。


「こんなところで、死ぬわけにはいきませんわ」


 硬いものが地面を引っ掻く音に、思考を切り替える。


 改めて照明魔法を浮かべると、そこは剥き出しの土に囲まれた空間だった。

 壁の数か所には人が通れるほどの穴があり、奥から赤い甲殻が姿を現す。


 先ほど戦ったものと同じ蟻型の魔物。

 人間と変わらないほどの体格を持ち、顎を鳴らしながらこちらへ近づいてきた。


 現れたのは、全部で三体。

 逃げ道を探すより、先に数を減らした方が早い。


 私は剣を正面へ構え、足へ魔力を集める。

 中央の一体が顎を開いた瞬間、地面を蹴った。


「【十字閃】!」


 白金の軌跡を残し、縦と横に剣を振り抜く。

 二つの斬撃が甲殻の同じ位置で重なり、硬い胴体を十字に切り裂いた。


 左右にいた魔物が、倒れた仲間を回り込むように迫ってくる。

 一体の顎を身を反らして避けたが、続けて振るわれた前脚が左腕を掠めた。


「っ……!」


 熱を持った痛みが走るが、幸いにも傷は浅い。

 まだ剣は振るえる。

 私は踏み込んできた二体の間へ身体を滑り込ませ、その場で強く軸足を捻った。


「【光輪斬】!」


 回転に合わせて、魔力を纏った刃が円を描く。

 右から迫っていた個体の首を断ち、その勢いのまま背後の一体へ斬り込んだ。

 赤い甲殻が割れ、二つの巨体がほとんど同時に地面へ崩れ落ちた。


 息をつく間もなく、壁の穴から新たな物音が響く。

 一つではない。

 硬い脚が土を掻き、幾重もの影が暗がりの奥で重なっていた。


「……くっ、ここにはいられませんわね」


 強がって正面から挑む場面ではない。

 私は剣を握り直し、魔物の現れていない通路へ駆け込んだ。


 ♦


 壁の裂け目へ身体を押し込み、呼吸を抑える。


 すぐ外では、蟻型の魔物たちが行き来していた。

 甲殻が擦れる音が遠ざかっては、別の足音が近づいてくる。

 この巣の中に、どれほどの数がいるのか見当もつかない。


 左腕の傷に布を巻き、剣を持つ手を開閉する。

 ここまでの戦いで、魔力もかなり消耗していた。


 私と共に戦っていた三人は、無事に入口へ戻れただろうか。


 あの者たちを見捨てていれば、ここへ落ちることもなかったかもしれない。

 魔物に囲まれた彼らを横目に、魔核集めを優先していたなら、今頃は合格に必要な量を確保していたはずだ。


 それでも、選択を誤ったとは思わない。


 私が騎士を目指したきっかけは、初代国王アッシュの物語だった。


 幼い頃、王城の書庫で何度も読み返した一冊がある。

 王座についた後も、自ら聖剣を手に取り、攻め寄せる敵の前へ立ったアッシュ。

 危険だからと止める臣下たちへ、守るべき民を置いて自分だけ安全な場所にはいられないと告げたという。


 その一節が、ずっと忘れられなかった。


 第三王女として生まれた私には、いずれ王族として果たすべき役割が与えられるのだろう。

 けれど、騎士になる道は自分で選んだ。

 アッシュのように剣を取り、この国で暮らす者たちを守る。

 それが、私の望んだ生き方だ。


 あの三人も、アシュラント王国の民に違いない。


「王族として、そして騎士を目指す者として、民を守るのは私の務めです。後悔など……するものですか」


 小さく言葉にすると、乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。

 助けが来るまで身を隠し、機会を見て元の場所へ戻ればいい。


 そう考えた時だった。


 裂け目の外で、足音が止まる。

 赤い頭部がゆっくりと覗き込み、黒い複眼が私の姿を捉えた。


「気づかれましたわ……!」


 大顎が閉じるより早く、狭い隙間から飛び出す。

 左右の通路からも別の魔物が迫り、退路を塞ごうとしていた。


 残された道は、巣の奥へ続く一本だけ。


 私は魔力で作った光源を頼りに、通路を駆け抜ける。

 背後では無数の足音が鳴り響き、振り返るたびに赤い甲殻が近づいていた。


 曲がり角を抜け、傾斜を下る。

 道を選ぶ余裕はなく、分岐に差しかかるたび、魔物のいない方角へ進むしかない。


 そうして通路を進んだ先で、視界が大きく開けた。


 たどり着いたのは、これまでとは比較にならないほど広い地底空間だ。

 天井から垂れ下がる土の柱。

 その間には白い卵のような塊が並び、壁際では幼体らしき小さな影が蠢いている。


 そして、最奥。


 巨大な魔物が、地面を覆うように身体を横たえていた。


 赤黒い甲殻に包まれた上半身だけでも、通常の個体を遥かに上回る大きさだ。

 後方へ伸びた腹部は異様に膨れ、広間の奥を埋め尽くすほど長い。

 頭部には王冠を思わせる突起が並び、その下で大顎がゆっくりと開閉していた。


 あれが、この群れを従える主。


 そう理解した瞬間、全身を押さえつけられたような感覚に襲われる。

 存在しているだけで空気を重くする、桁違いの魔力。

 正面から戦ったところで、勝てる相手ではない。


 背後を確認する。

 追ってきた蟻型の魔物たちが、通路を埋めるように並んでいた。


 前にも後ろにも、逃げ道はない。


 剣を握る手が震える。

 足にも力が入らず、呼吸だけが浅く速くなっていく。


 ……初めてだった。

 怖い。

 私は、ここで死ぬのだろうか。


 第三王女として生まれ、王族の一員として振る舞うことを求められてきた。

 その中で、ようやく見つけた自分自身の道。


 あと少しで、騎士になれるはずだった。

 これから剣を振るい、多くの者を守っていくはずだったのに。


 何も成さないまま、こんな地の底で終わるなんて。


「……嫌、ですわ」


 喉から、かすれた声が漏れる。


 誰にも弱音など見せまいとしてきた。

 王女としても、ギデオン先生の弟子としても、常に堂々としていたかった。


 けれど今は、そんな意地さえ保てない。


「誰か……助けて……」


 巨大な主の前に控えていた一体が動く。


 周囲の個体より一回り大きく、甲殻は赤というより黒に近い。

 前脚は鎌のように長く伸び、縁には細かな刃が並んでいた。


 護衛役なのだろう。


 魔物は低く身を沈めると、地面を抉って跳び出した。

 振り上げられた鎌状の前脚が、光を反射する。


 避けなければ。


 頭では分かっているのに、足が動かない。

 迫る刃が視界を埋め尽くす。


「【双極剣】」


 聞き覚えのある声と共に、白く輝く刃が横切った。


 鎌状の前脚が消える。

 続けて胸部に白い線が走り、護衛の巨体は勢いを残したまま左右へ崩れ落ちた。


 私と魔物の間に、黒い上衣を纏った少年が降り立つ。


「……遅いですわ、ノエル・クラヴィエ」

「助けに来た相手言う台詞ですか、それ」


 呆れたような声は、いつもと変わらない。


 認めたくはない。

 それでも、その背中を目にした瞬間。

 消えかけていた希望が、胸の内へ確かに戻ってきた。

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