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2・0・7・6① 都会のAIサピエンスと浅間山の野生人間

*6月11日:ほんのちょっとですが、レディの車内レッスンのシーンを書き足しました

二〇七六年十月二十一日


 その日の浅間山の休日は、思わぬハプニングで予定が大幅に変わってしまった。

 活火山ということで開発されず、ほぼ手つかずのままの北軽井沢なら、愛犬と二人で気分転換できると思ったのだが、まさか絶滅したとされるサンプルに出くわすとは。


 それでなくてもG7サミット直前だというのに、首相官邸の専用データベースに数日前から奇妙なハッキングノイズが急増し、報道室も写真室もてんやわんやだった。


 秘書官たちが動き回り、公式フォトグラファーのあたしも調査に引っ張り出されてクタクタだ。ようやく取れたこの代休、山奥ならそのうっとうしい状況から逃れられるだろうと高を括っていたのだが、あたしのビルトインシステムが弾き出した確率計算は、どうも大外れだったようだ。


 普段は普通の犬のように吠えることなど絶対にしない愛犬・レディが、突然ギャンギャン吠えてあさっての方向に走り出したことが、そもそものきっかけだった。


「レディ! 待って! 急にどうしたの?」

 カラマツ林が鬱蒼と生い茂る中、あたしは、姿が見えなくなった愛犬のボーダーコリーを必死に追う。


「レディ! カム!」


 普段から彼女と走り込んでいるので体力はそこそこある。あたしの身体には自動走行モードもついているが、何事もマニュアルモードでやる方が、達成感があって好きだ。汗は出ないが、息が上がって、生きているんだと実感しながら加速し、しばらくすると雪のように輝くレディの真っ白な毛並みが見えてきた。


 しかし声をかけようとすると、毛が逆立っていることに気づいた。


「どうしたの?」


 レディにしては珍しく、低く唸っている。何だろうと思って後方に目をやると、犬がもう一頭いた。


 大きな図体。でも、ブンブンと尻尾を振っているので襲ってくる危険はなさそうだ。

 ちょっと間抜けな顔をしているが、短めの茶色い毛に丸みを帯びた鼻。様々な犬種がミックスされた野犬だろうか? それとも飼い主が近くにいるのだろうか。


 せっかく大自然に包まれて日々のストレスを解消しようと、レディと二人で東京から真空チューブ鉄道(ET3)で十六分もかけて来たので、悪いけど、ここで野犬と戦うとか、余計な面倒はごめんだ。 


 道中、車内で流れてきたニュースでは、このところ目まぐるしい経済発展を遂げる新興国キルオル共和国首相がG7プラスワンとして来日するとか、ああでもないこうでもないと、どこまでいけば仕事を離れられるのかとうんざりしつつ、山の空気を胸一杯吸ってリフレッシュするつもりだった。だから、頼むからそっとしておいてほしいと祈るような気持だった。


「レディ、行くよ」

 そういった瞬間、野犬の後ろでガサッと音がした。


 これまたガタイのいい男が姿を見せた。


 その手に大きな槍を持ち、その先はあたしに向けられている。

「誰だ?」


 肩まで伸びた黒い髪が顔の半分を覆い、上半身にボロ布をまとい、その下には着古したような腰布。まるで昔の本や映画で見たターザンごっこでもしているかのようないでたちだ。こんな山奥で、お世辞にも賢そうには見えない飼い犬とコスプレでもやっているのだろうか。


「人に名前を聞くときは自分から名乗るのが常識では?」


 男は鋭い目つきであたしを睨む。

「湛山だ。お前は?」


 タンザン、か。変わった名前。フルネームは明かさないわけね。では、あたしも。

「マヤ」


「どこから来た? ここで何をしている?」

 男はこちらに槍を向けたまま、あたしの全身をスキャンするかのように凝視する。失礼極まりない。


「別に。愛犬と登山しているだけだけど? そちらこそ、いくら温暖化のおかげでまだまだ暑い夏とはいっても、その恰好はちょっと無防備じゃないの?」

「この格好のどこが無防備だ? 動きやすく機能的だ」


 動きやすい、ね。まあ、身体のパーツはちゃんと隠れているし、人それぞれだ。分かった、ターザンフリークだ。ジャングルがあったらツタからツタへと飛び乗って身体を揺らして雄叫びを上げそう。その間抜け面のデカい犬はさしずめチータの代わりなんだろう。結構、結構。あたしたちはこれで失礼するのでどうぞお好きに続けてください。


「それじゃ、我々はこれで」

「待て。あんた、どこの者だ?」

「どこの者って、あたしの所属を聞いてるの? 首相官邸の公式フォトグラファーだけど」


 見知らぬ相手に身分を明かす必要などないと思いながらも、この場をさっさと切り抜けるには相手が求める答えを出してやるのが一番だと思ったのだが、どうも逆効果だったらしい。


 男は一歩前進し、槍の先は今にもあたしのパーソナルスペースに侵入してきそうだ。あたしは軽く唇を噛んだ。自分の生体システムに組み込まれた防衛メカニズム、高密度電磁フィールドを作動させざるを得ないかも知れない。


「いいから早く行きましょうよ」と、レディがこっちを見て溜息まじりに言った。「頂上を目指すんじゃなかったの? せっかく山に来たんだから、とっとと行きましょうよ」


 男の手から槍が落ちた。あっけにとられた顔をしている。


「そ、その犬・・・今・・・喋った!?」

「? ええ、喋ったけど?」

 あれ? こいつ、レディが話すのを見てびっくりしている。

 そんなの今どき常識なんですけど。


 脳に植え込んだ超ナノセンサーで電気信号を流して運動コマンドに変換し、筋肉刺激を与えて連動させて言葉を発する。こんなの、何十年も前から使われている技術だ。昔は犬や猫が喋ることはなかったと何かで読んだことがあるけど、レディと会話できないなんて考えられない。

 その時、ふと気づいた。この男はひょっとして――


「おたく、もしかして……人間?」

「そう言うお前は――」

「AIサピエンスだけど」

「……」

 男の顔の血の気が引いた。

 そう、あたしはAIサピエンスだ。それが何か?


「俺たち人間を僻地に追いやったAIか。じゃあ、これを使ったところで何の意味もないんだな?」

 男は槍を拾い、声を荒げる。うん、負けを認めることは大切だ。

「一部誤りがあるけど、まあ、そういうことね。高密度電磁フィールドを作動すればおたくがあたしを突くことはあり得ない」

 男は槍を地面に投げつけてその場に座り込んだ。

「俺を捕まえるんだろ? やるならさっさとやれ」


 お前に言われなくてもやるよと言ってやりたい。しかし、今日はようやく取れた休みで、決して安くない運賃を払って山に来たのだ。絶滅したはずの祖先を探すためではない。

 それでなくても、間もなく開催されるG7東京サミットの事前調整で、連日外務省やホワイトハウス、その他の様々な相手と準備作業にあたって脳がショートしそうなのだ。


 つい余計な仕事を抱え込んでしまうこの損な性格は、あたしの製造時の設計ミスだと諦めざるを得ないが、それにしても野生の人間に出くわしてしまうとはまったくついていない。


 少なくとも外見上は我々AIサピエンスと何ら変わらないように見えるが、悪事を働いて地球外に送り込まれた犯罪者たちを除いて、「人類」はすでに自滅したはずだ。野生の人間は、ほぼ自生していないというのが世界の共通認識である。


 だから、この者が本物の野生人間であれば、新聞の一面トップを飾るビッグニュースになるだろう。げ。


 そりゃあ、野生人間という希少なサンプルに全く興味がないと言えば嘘になる。あたしたちの祖先が2・0・7・6に現存していただなんて!


 しかし、このサンプルとかかわってしまえば、第一発見者としてあたしの名前も出ることは避けられないだろう。取り沙汰されてマスコミに囲まれて、仕事どころではなくなる。そんなの絶対に嫌だ。フォトグラファーは被写体ではなく、黒子なのである。

 ちゃちゃっと警察に引き渡して、野生児と会ったことはなかったことにしよう。

 先ずはプロトコル通り、上司に報告だ。


「ほら、何してんだ、早くしろ。大人しく捕まってやる。煮るなり焼くなり好きにしろ!」


 あたしは偉そうにぬかすターザンを無視し、目の前の空間に画面を起動させ、上司である写真室長・久保田に連絡した。定年退職間近の今でも豊かな黒髪を誇るその顔がVRスクリーンに映し出される。


「はいはい?」

「あ、久保田さん、マヤです。浅間山で登山中なんですけど、野生の人間に出くわしました」

 自分のアイボールセンサーをホロスクリーンにリンクさせ、男の方を向いて、まずはアップ、そしてゆっくり引いた画を共有した。

「どうすべきでしょうか? 警察に連絡すればいいですか?」

「ちょっと待ってて。確認してくる」


 十分弱くらい経って再び久保田の声が聞こえてきた。

「お待たせ。悪いね、ちょっと立て込んでいるもので。総理に確認したけど、警察には連絡しなくていいって。その個体を東京に連れて帰ってくれる?」


 は?


「東京に連れて帰る?」

「まさか難しいとか言わないよね?」

「いえ、そういうことではないんですけど。東京のどこに連れて行けばよろしいでしょうか?」

「しばらくマヤの自宅で預かって、だって。それと、分かってると思うけど、人間は非常にレアだから他言無用だよ。誰にも見られないように注意して帰ってきてね」


 我が国の最高責任者である李総理は、何でもかんでもハンズオン――といえば聞こえはいいが、何にでも首を突っ込みたがる性格で、結果、振り回されることが多い。今回も、野生人間を一職員であるあたしの家にいさせるなんて、一体何を考えているのか。

 だからといって、異議を唱えたりはしないが。


 レディの顔をちらりと見ると、才女らしく落ち着き払って、「しょうがないわよ」とぼそっと言う。いや、そんなこと言われなくても分かっているんだけどね。


「承知しました」と久保田に伝える。

「あ、そうだ。この個体、大型犬を一頭連れているんですけど、犬は山に置いていけばいいですか?」

「さっきズームアウトしたときにワンちゃんも見えたよ。可愛い子だね。総理のご指示は、サンプルの付属物としてその子も一緒に東京まで連れてくるようにということ。離れ離れにするのがかわいそうとでも思ったのかね」

 あの鉄の女がそんなことを思うわけがない。と思ったが、素直に「了解です」と言っておいた。


 東京に連れて帰るなら帰るで、さっさとしないと日が暮れてしまう。

 というわけで、我が家に珍客がやってくることになってしまった。



 *


<才女の言い分>


 不細工な野犬の息遣いがハアハア、ハアハアとうるさい。

 おまけに息が臭い。

 これが獣臭というものなのだろうか。


 レンタカーの運転席でゆったりと座るマヤは快適だろうが、この者たちを見張るように言われ、共にSUVの後部座席に座らされた私はたまったものではない。


 野生人間は両手足を透明拘束バンドで固定され、動きたくても動けない状態で静かに横たわっているが、犬の方はさっきからやたらと起き上がろうとして、身体をずらしてはこっちに寄って来ようとする。


 言葉も話せないくせに、懸命に私の目を見ているが、私も犬なので、言わんとしていることは分かる。


(会えて嬉しいよ。君、すごく美人だね。君みたいにきれいな子に会ったのは初めてだ! ほれぼれするよ! こういうのを一目惚れっていうの? 一緒にいられてすごく嬉しい! 最高だあ! あ、俺の名前、言ってなかったね。佐吉っていうんだ。よろしくね。ねえねえ、どこに行くの? 教えて? 教えて?)


 よくこれだけ次々とストレートに言えるものだ。言葉で言ってるわけではないけど。


 あらゆるアホなコメントや質問が頭の中でぐるぐるぐるぐる駆け巡っているのが分かって、うるさいったらありゃしない。話せないくせに。


 まだ会話能力がなかった昔の犬ってみんなこうだったのだろうか。さぞかし賑やかだったことだろう。ケンカも多かったわけだ。


 リニア高速道路を利用しているとはいえ、トラックが多くて渋滞がひどく、こんな原始人、じゃなかった、原始犬と狭い空間に閉じ込められて閉所恐怖症になりそうだ。


「マヤ」

「ん? トイレ休憩したい?」

「いや、そうじゃなくて、窓を全開にして空気清浄を最大にして」

「ああ、そうだね、レディは鼻がハイパーセンシティブだものね」


 鼻が良くなくても、このむさくるしい個体どもと一緒に缶詰めになったら誰だって叫びたくなるわよ。

 心の中で毒づいてみたが、そう訴えたところで事態が改善するわけではないことも承知している。さっさと渋滞が解消し、早く自宅に戻れるよう祈るばかりだ。


 *


<西荻窪の自宅にて>


 道中、久保田からの指示を確認し、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返しているうちに西荻窪に到着した。


 道路にも空にも車や自転車が多く、自然を満喫する間もなく帰ってきたんだなと溜息をつきながら善福寺公園手前の坂道を上がり、自宅前でSUVを停めて、レンタカーのピックアップを依頼してから後部ドアを開けた。


「お待たせしました。着きましたよ。今、拘束バンドを外すから、ゆっくり体を起こしてくださいね」

「ん? ああ」

 男は本当に眠っていたようだ。大した度胸だ。


「レディ、ご苦労様。先に降りていいよ」

 当然でしょという顔をして、あたしのボーダーコリーは軽やかに下車し、伸びをしながら玄関ポーチを進み、ドアノブにハーネスのチップを向け、扉が開くとさっさと入っていった。


「湛山、でしたっけ。車を降りてください」

「何だ、急にかしこまって」

「しばらくうちであなたのお世話をすることになったから、適正な距離を保とうと思って」

「ふん。勝手にしろ」


 そう言いつつ、言われたとおりにする男を見て胸をなでおろした。犬の方も、それなりに大人しい。


「どうぞ、入ってください。左手に衛生チューブがあるので――あ、衛生チューブって分かります?」


 そんなの野生人間が知っているわけがないので、一応簡単に説明した。

「全自動なんですけど、筒型のコンパートメントがお風呂場にあるので、そこに入って椅子に座ってドアを閉めてください。風が吹き出して汚れを飛ばし、お肌に優しい洗浄剤が泡立って、軽いマッサージをしてくれます。で、全方向からお湯のシャワーが頭からつま先まで流してくれて、最後は温かい風でブロードライします」

 理解できているようだ。よし。


「先ずはそこで山の汚れを落としましょう。着替えは出しておきます。恐らく人間がいうお風呂やシャワーより遥かに素早く抜群の効果を得られます。その犬も一緒に」


 その瞬間、湛山の愛犬の微笑みが消えた。しゃべることはできなくても、「お風呂」「シャワー」というキーワードは理解できるようだ。


「佐吉、行くぞ」


 佐吉というのか。湛山同様、なかなかオールドスタイルだが、この犬には合う。どう考えてもプリンスとかアレクサンダーとかいう感じではない。


「行くぞ」


 湛山は繰り返し、レンタカーに戻ろうとする犬の首の後ろを掴み、そのままドカドカと家の中に入っていった。ああ、家の中が汚れそう。


「あ、そうだ。チューブのドアを閉める前に風の強弱とお湯の温度を調整してくださいね」


 今の、聞こえたかな? 男は玄関で必死に抵抗する間抜け面と格闘していて、返事をする余裕がないようだ。


「何をやっているの?」


 さっぱりした顔をしたレディが衛生チューブ室から出てきた。佐吉がふわふわになったレディを見上げ、必死に訴えるような目で彼女を見つめている。鈍感なあたしでもピンときた。


(こいつ、レディに気があるな)

 それなら話は早い。


「レディちゃん、この子、お風呂が苦手なようで、クリーンルームを断固拒否しているの。お願いだから説得してくれない? 気持ちいいんだよって教えてあげて」

「何だ、そういうこと?」


 そう言ってレディは佐吉に近寄り、顔をくしゃくしゃにした。


「臭い。あんた、臭い。最後に洗ってもらったのはいつ?」


 どうやら通じたようだ。佐吉は恥ずかしそうに俯いている。


「うちのチューブ、最高に気持ちいいのよ。試してみないの? まあ、いくじなしね。超一流サロンレベルだというのに勿体ない。爽やかな風に吹かれて(徐々に強風になるけど)、心地よいアロマ(ケミカルメインだけど)の香りに包まれて、体中を気持ちよくマッサージしてくれるの(グイグイの強揉みを好めば)。その後、ちょうどいい温度の、打たせ湯(ナイアガラの滝といった方が正確かしら)のようなシャワーが流れ、仕上げには最高品質ドライヤーの暖かい風(熱風ともいう)でふわふわに仕上げてくれるのよ。ヤマイヌのあんたでもきっと都会的な香りが漂うイケメンになれるわよ」


 お見事。佐吉は背筋をピンと伸ばし、衛生チューブ室の方にさっさと歩いて行った。


 ほどなくして、クリーンルームから「おお――! おお―ん!!」と鳴き声が響いた。


 *


 その間、あたしは何とか無事に帰ってこれたと一息ついて、キッチンでキンキンに冷やしたシャブリをグラスに注ぎ、レディ用にスペシャルリンゴドリンクをボウルについだ。誰にも見られることなくミッション完了。それだけで気が緩み、身体から力が抜けていく感じがする。 

 AIサピエンスとしては、力が抜けるなんてことはないんだけど、まあ、気持ちの問題なので。


 しかしこれから湛山の聞き取りとブリーフィングをしなくてはならない。


 ん? ちょっと待て。あたしは首相官邸の公式カメラマン、いや、今どきの正しいジェンダーレス表現としては公式フォトグラファーなのだが、昔から「公カメ」というのが根強く残っているので悪しからず。で、これって公カメの仕事だったっけ? まあ、考えたところで詮無いことだ。やるべきことをひとつずつやっていくしかない。


 リビングの片隅を使うことにして記録撮影用のライティングを準備していたら、メッセージ電話がピンピロリンと鳴った。嫌な予感がした。


 予感は的中した。

 目の前の画面を閉じてはーっと溜息をついていると、湛山と佐吉がこちらに歩いてきた。ウッディで、かすかに甘酸っぱいフローラルノートを漂わせ、間抜け面は疲れ切った様子だ。


「衛生チューブとやら、終わったぞ。ん? どうした?」


 思わず息を呑んでしまった。ぐしゃぐしゃだった長髪が緩やかにウエーブして縁取ったその顔は、映画スターに引けを取らない整ったマスクだ。あの泥や傷の下にこんな宝石が潜んでいたとはね。まあ、あたしには関係ないけど。


 軽く咳払いをし、ヤツの目を見た。


「これからあなたの聞き取りをして、今後についてブリーフィングするつもりでしたが、予定が急遽、変わりました。たった今、首相官邸から呼び出しが入りました。即刻向かうようにとのことです」

「そうか。じゃあ俺たちはここで待ってる」

「いえ、あなたたちを伴ってくるよう言われたのです」


 窓の外を見ると、家の前にはすでに黒いセダンが一台、車体をアスファルトから数センチ浮かせて待機している。

「すでにお迎えがきているようです。忙しないですけど、歩きながらこれをどうぞ」

 プロテインバーとエネルギー飲料、そして佐吉用にチーズビスケットを手渡し、テーブルの上に置いたシャブリのグラスを持ってキッチンに行き、ボトルに戻した。仕方ない、お預けだ。


「さあ、まいりましょう」


 *


<首相官邸発ミッションへ>


 永田町の坂を昇り切った頃には、すでに空が真っ暗になっていた。

 車を降りてセキュリティスキャンブースを通り、また乗車するよう促され、車寄せで降りて写真室に直行した。


 一人でワークステーションの前に座っていた室長は、画面をスリープ状態にして立ち上がった。


「マヤちゃん、待ってたよ。休日に悪いね。レディ、さっぱりした顔をして。山歩きの効果かな。そして、君が湛山君か。初めまして。久保田です」

「初めまして」

「官邸へようこそ。ふむ、湛山君はなかなかの美男だね。君は百パーセント人間だと聞いたけど、日本人以外の血が混じっているのかな?」

「分かりません」

「そう。まあ、それはどうでもいい。そして君が相棒の佐吉君だね。こんばんは」


 穏やかな口調ではあるが、さりげなく探りを入れてくるのは久保田の常とう手段というよりは性格的なものである。だが、見るからにシンプルマインドの佐吉は相変わらず尻尾をブンブン振り、レディが呆れ顔で天井を見ている。


「マヤちゃん、彼の聞き取りとブリーフィングはできている?」

「はい。車の中で済ませました。先ほど終わったばかりですが、報告書を久保田さんに送っておきました」

「ありがとう。ちょっと確認するね。どうぞ、そこに掛けて待ってて」

 そう言ってワークステーションに戻り、穏やかな面持ちのまま、膨大なファイルを瞬時にスキャンした。


「OK。相変わらず完璧だ。じゃあ、早速行こう」

「え? どこへ?」

「五階の執務室だよ。総理がお待ちだ」


 *


 エレベーターに乗り、我々二人と二頭は久保田の後をついて、廊下の突き当たりの部屋の扉の前に立ち、室長が静かにノックした。


「どうぞ」


 女性の声に促されて入ると、総理と秘書官が長椅子から立ち上がった。

「夜分にご足労いただいて悪いわね。どうぞ、おかけになって」


 遅い時間のせいか、李総理は普段の精彩に欠け、かなり疲れた様子だ。国民AIサピエンスたちは恐らく彼女が元気よく国会で野党とやり合っている姿や外国のVIPとにこやかに握手している顔しか知らないだろうが、これが本当の顔なのだ。と思う。


 総理の仕事は想像できないほどの激務というのが実情で、健康でなければとても肉体的にも精神的にも耐えられない。あたしはこれまでに何人もの歴代総理の写真を撮ってきた。


 そりゃあ、メディアのように先回りしたり人ごみをかき分けたり、場所取りのおしくらまんじゅうで体力を消耗するようなことはなく、移動手段も予定の調整もすべてしっかりやってくれる人たちがいるわけだが、しかし休みはないし、個人の時間など皆無に等しく、いくらAIとはいえ、自分よりはるかに年配の彼らのどこにそのようなパワーがあるのか、いつも不思議に思っていた。


「湛山さんと佐吉君ね。初めまして、李英子です。あなたが純度百パーセントの「人間」ですか。成程。頑丈そうね。先程いただいたリポートを拝見しましたが、浅間山に生息していらしたのですってね。仲間はいらっしゃるの? ご家族はご健在?」


 湛山は目をそらし、黙っている。


「まあ、それは後でいいわ。わたくしはね、湛山さん、マヤさんには一目置いているの」


「マヤ」と自分の名を言われ、はっと我に返った。総理の執務室にいながらろくに話を聞いていないなどということは決してあたしらしくないのだが、総理が言った、湛山の仲間や家族が果たしてあの山のどこかにいるのだろうかと考えてしまっていた。


 慌てて総理の目を見ると、返答を求めていないようなので、軽く相槌を打って誤魔化した。セーフ。


「これからお話しすることはここだけの話。いいわね?」


 全員、「はい」と答えた。


「ご承知の通り、サミットは五日後に迫り、既に来日している首脳もいます。そのうちの一人がわたくしの友人、米国大統領です。昨日の夜、横田基地にエアフォースオンで到着後、今日は神谷町のホテルであちらの大手プラットフォーマーやリニア自動車メーカーの代表たちを引き連れて我が国側のカウンターパートの訪問を受け、数時間にわたり懇談し、いくつかのディールをまとめられたそうです。が、ちょっと前に連絡をいただいたのです。今回同行したお嬢さん、十七歳のジェイミーさんがいなくなったと」


 大統領の娘がいなくなった?

 世界で最も強固な最新鋭セキュリティシステムを導入しているアメリカの?


「完璧なセキュリティシステムがハッキングされ、その隙に何者かに連れ去られたようです。無論、シークレットサービスの精鋭が周辺を調べていますが、東京にいる人員の数は限られていることもあって、わたくしに個人的に協力を求めてこられたのです。ジェイミーさんが傷つかないよう、スキャンダルにならないように秘密裏に探して連れ戻して欲しいと」

「……誘拐ですか?」

「そのようです。身代金の要求はないそうですが、「No police. Will contact you again」と書かれたメモがお嬢さんの部屋にあったそうです」

「警察には連絡していないのですが?」


 李は首を横に振った。


「久保田さん、メモではっきりと「ノー・ポリス」とある以上、ホワイトハウスは警察には連絡しないでくれと言っています。公安もダメ。組織立った動きは一切控えてくれと。あくまでもお嬢さんの安全第一です。決してこのことが外部に漏れないよう、限られた者のみと情報を共有するよう懇願されました。そこで、マヤ」


 再び名前を言われたが、今度はさすがにちゃんと聞いていた。


「あなたは写真室の所属ですが、様々なスキルをお持ちです。確か、ご先祖様に伊賀の方がいらっしゃいましたよね」

 こっくりと頷いた。


「しかし最も重要なのは、わたくしがあなたをとても信頼しているということです」

 なぜだか解せないが。


「恐れ入ります」


「そして、あなた」

 総理は、今度はまっすぐに湛山の目を見た。

「あなたにはわたくしたちAIにないものがあります。わたくしは両親や祖父母たちから人間の強みについて聞き、様々な書物に触れて育ちました。この度、あなたとマヤが浅間山で出会ったと聞き、運命を感じずにいられませんでした。あなたにぜひご協力いただき、人間が持つ強みを存分に活かしていただきたいのです。マヤと組んでジェイミーさんを探し出して、無事に連れて帰ってきてください」


 *


「大統領の娘か」

 帰りの車の中で湛山がぽつりと言った。

「娘っって言ったって、あんたたちAIには血縁関係なんてないんだろ?」

 ちょっとムッとした。いけない、いけない、あたしの中の二十パーセントにおよぶ人間要素がつい、感情という形で出てしまう。

 待て。セルフコントロール。チェック。リセット。OK。


「そんなことはありません。私たちAIにも百パーセント人工知能体の者からDNAや様々な要素を取り込んだハーフ、クオーターなどがいて、人間の物理的要素を維持しているんです」

「それはつまり、人間を殺して自分たちの実体の材料にしているってことか?」

「とんでもない! 物騒なことを想像しないでください。私どもの最先端技術をこの車内で簡潔に説明するのは難しいですが、AIサピエンスは平和主義です。私たちは常に冷静で、常に最善の策を考えます。人間と違って争うこともなく、戦争も起こりません」

「その平和主義者たちが人間を世の中から排除したんだろうが」

「それは誤った認識です。そもそも、あなたたち人間が環境を破壊し、互いを騙し合い、殺し合い、それでほぼ絶滅した。それはすべて人間の責任じゃないですか。繰り返しますが、私どもAIは卓越した頭脳と分析力でボロボロになった地球を再生に導いた平和主義者です」

「その平和主義者が誘拐事件を起こしたってわけか」


 うっ。そりゃあバグとか誤作動だってたまにはあるよ。しかしアッパーハンドを取らせるわけにはいかない。


「それが一体どういうことなのか調べて大統領のお嬢様を救出するのが私たちの任務じゃないですか!」


 ついカッとなってしまった。滅多にないことだが、あたしの中の人間が、いちいち突っかかってくるこの男に反応してしまう。


「とにかく、実際の血縁関係がどうであれ、そんなことは関係ありません。私たちにも昔の人間と同じように親兄弟がいます。人間と同じように――或いはそれ以上に、我々は縁や絆を大切にしています。どこの国でもそれは同じで、大統領にとってジェイミーさんは大事なお嬢様です」

「ふん、どうだか。あんたらにはそもそも心なんてないんだろ? そういう奴らがどうやって縁とか絆なんて理解できるんだよ?」

「私たち一人一人に組み込まれた膨大なデータに基づいて、そのロジックは十分に理解できます」

「理解しても実感することはできるのか?」

「実感しています」

「本当にそう言い切れるのか?」

 こいつ、ケンカを売る気?


「どういう意味ですか?」

「いや、別に。AIってのをよく知らないから聞いてみただけだ」

「とにかく、大国の首脳のご家族が誘拐されたのであれば、通常でしたら警察や公安が総力を挙げて捜査に当たる案件です。しかし、G7直前の今、噂が広がってしまった場合、日本の治安維持能力は失墜し、大きな国際的スキャンダルとなります。ですから、日本側としても絶対に公にしたくないはずです」


 今度はくすっと笑う。ホントにムカつく奴だ。


「ところで、あの総理、李英子って言ったよな?」

「ええ。それが何か?」

「日本人じゃないのか?」

「いえ、完全なる日本製AIサピエンスです」

「それが何で『李』って名前になるんだ?」

「ああ、それは総理ご自身がYでも発表していますが、昔から韓流ドラマの大ファンだそうで、アップデートの際にお気に入りの韓国人俳優の要素を取り入れて改名されたそうです。その時から親しい方には下のお名前も「えいこ」ではなく、韓国読みの「ヨンジャ」として欲しいと」

「何だか昔のグルーピーみたいだな。人間みたいだ」

「確か十パーセント程度、人間が入っていると聞いたことがあります」


「好きな俳優の要素を自分に取り入れるとか人間が入ってるって、何だ、それ? DNAか何かか?」

「ええまあ。DNAではありませんが、保存されているアーティファクトから」


「随分都合がいいんだな、AIサピエンスって」

「合理的というのが正確かと思います」

「ふん、好きなものの寄せ集めか。じゃあその結果、とめどなく高い完成度でないとおかしいわけだ。ふむ」


 何だよ、その「ふむ」って? あたしを品定めするようなその目、苛立ちマックスなんだけど。

 いや、抑えろ、あたし。


 あたしはクールなAIサピエンス。エリートサピエンスと呼ばれている。

 態度のデカい勘違い野生人間ごときにいちいち反応してはならない。こいつと協力しろと上から指示があった以上、ヤツが何を言おうと聞き流して余計なことを考えず、粛々とミッションに取りかかるしかない。


「とにかく、先ずは米側ホテルに行って、ジェイミーさんが最後に確認されたお部屋を調べましょう。坂道を下ってすぐですから、間もなく到着します。運転手さん、この度はお世話になります。よろしくお願いします」


 運転手がこちらを振り向き、頷く。


「お任せください。この超高性能自動車で陸でも空でも海でも、どこでもご案内しますので、何でもおっしゃってくださいね」


 調子のよさそうな運転手だ。まあ、不愛想な者よりはいい。


「ありがとうございます。頼りにしています」


「あんた、名前は?」

「青木と申します」

「俺は湛山だ。よろしく」


 偉そうに――と思ったけど、そうだ、自己紹介していなかった。ほとんどの運転手は顔見知りだけど、この青木さんという人は初めて見る顔だ。


「私はマヤといいます。青木さん、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 言ってるうちに深夜のホテルの車寄せに到着した。


 *


<米国大統領宿舎にて> 


 時刻は既に午前零時を回っており、気品あふれるロビーは静まり返っていた。


 車寄せにセダンを停めた青木は先に入り、待ち構えていた品のよさそうな中年男性に近づき、身分証明書を提示して頭を下げた。


「支配人、お世話かけます」

「とんでもございません。皆様こそ深夜までご苦労様でございます」


 青木が支配人と呼ぶ男性はこちらを向き、「マヤ様、湛山様でいらっしゃいますね。早速ご案内いたします」と、エレベーターホールに向かった。


 日本の伝統美を昇華させた、趣のあるロビーの奥まったところに行くと、シークレットサービスのエージェントらしき、サングラスをかけた大柄の外国人が二人、立っていた。


 支配人が会釈し、身分証明書を見せると、そのうちの一人が頷き、「こちらへ」と言い、頭を下げて見送る支配人と青木を残し、エレベーターに乗り込んで四十階のボタンを押した。


 レディは慣れているので落ち着いているが、間抜け面――じゃなかった、佐吉もなかなか堂々としている。


 意外と空気が読めるのかとちょっと見直したが、しかしこの程度で感心するようでは本件で役に立つとは到底思えない。

 まあ、湛山とセットのようなので、邪魔さえしないでくれれば、別に野犬連れでも構わない。


 扉が開くと、廊下の要所要所に二人ずつ、米国人警備がいる。静寂の中にも物々しさが感じられ、低く落とされたアンビエントな間接照明が照らし出す張り詰めた空気の中、サングラス族と呼びたい大男、大女たちの影と実体の境目が分からないくらい溶け込んでいる。

 湛山が華奢に見えるほど――でもないか。


 案内役は「Follow me」と静かに言い、廊下の突き当りのドアに軽くノックした。

「They’re here, Madame President.」

「Come in.」


 促されるまま、あたしと湛山、レディ、そして佐吉の順にプレジデンシャル・スイートに足を踏み入れた。


 男性と女性がソファに座っている。シークレットサービスに促され、そちらの方に進むと、女性の方が立ち上がった。マキンリー大統領だ。


「Thank you for coming.」


 目の下にくっきりと隈ができている。しかし、それでも微かに微笑んでいるのは長年の習性なのだろう。よけいに痛々しい。


「 Oh, let me switch my audio output to Japanese――.はい、日本語アウトプットに切り替えました。これでいいわね。改めて、夜分遅くに来てくださってありがとう。米国大統領、サマンサ・マキンリーです」そう言って握手を求めてきた。目が真っ赤だ。


「初めまして、日本国首相官邸写真室所属フォトグラファー、マヤです。こちらは本日、浅間山から東京に来たばかりで、まだあらゆることに不慣れですが、野生人間百パーセントの湛山です。このボーダーコリーは私のパートナー、レディ、その隣が湛山の相棒、佐吉です」


「皆さん、お会いできて光栄です。こちらは娘の家庭教師のジョンです」

「Hello.」

「早速だけど――」

 突然、湛山と握手を交わす大統領が固まった。


「? どうかされましたか?」

「いえ、なんでもないわ。あなた、はるばる浅間山から来たんですって?」

「はい」

「そう。あれは確か活火山だったわね。怖いけど、自然豊かなところらしいだわね。総理が一度連れて行ってくれたことがあるの。さ、ジェイミーが使っていた部屋を見て頂戴。あちらのコネクテイングルームよ」


 続き部屋の中心には丸テーブルがあり、その上にはディスプレイを空間に半展開したままのスマート・バングル、ホロ・ポータブルゲーム機にPCと透過型のガラス・タブレット、飲みかけのファーストフードシェークのメルトタイプ紙コップに食べかけの高濃度データチップの大袋。


 柔らかなベージュ色のカーペットには靴が三足、即座にふくらはぎをほっそりさせるスマートハイソックス、急速充電機能付きのカラフルなアンクレットが散乱し、隣の寝室のベッドの上には脱ぎ捨てた鮮やかな黄色のジャケットと揃いのパンツ。ごく普通の十七歳の女性の部屋だ。


「ジェイミーは、長年の家庭教師であるジョンとこの部屋にいたの。私は向こうの部屋で日本のビジネスパートナーたちと懇談していました」


「動かないで! 湛山、佐吉、そのままで。先ず部屋全体をスキャンします」

 あたしは脳内システムを使って部屋のいたるところを読み取り始めた。


 部屋の画像、空気中の微粒子、ジェイミーが使っていたすべてのものをスキャンした。皮膚片や毛髪、唾液といった残留データを抽出して取り込み、分析を開始後、日米両国の外部データベースにアクセスし、照合する。犯人がこの部屋に物理的に侵入し、ジェイミーを連れ去ったのであれば、何かしらヒットすることは間違いない。


 間違いない……筈なのだが……何も出てこない。どういうことだ?


 あたしの超高精度なスキャンシステムをしても何もないなどあり得ない。日米両国のあらゆる極秘データベースと照合し、この部屋に残されたデータ一つ一つを突き合わせたというのに、犯人のDNAはおろか指紋一つヒットしないとは信じられない。


 バーチャルな幽霊が突然現れ、ジェイミーを連れて空気中に消えたとでもいうのだろうか?

 まだそこまで技術は進歩していないはずだ。


「マヤ? どうしたの?」

「レディ・・・信じられないんだけど、何もヒットしないの」

「そんなバカな」


 クン。クンクン。クンクンクン。

「佐吉? 何をしているの?」

「嫌だわ、マヤ。犬の本性を忘れた? まあ、普段から私と行動を共にしているから無理もないけど、犬というのは本来鼻が良くて、昔は猟犬としてトラッキングに使用されたり、麻薬犬として空港で活躍していたじゃない。あなたの本棚にもそういった歴史本が結構あったはずよ」


 ああ、匂いを嗅いでいるのか。いかんいかん、開いたチップの袋に鼻先を突っ込んでいる佐吉を見て、この非常時になんと欲張りなんだろうと決めつけてしまっていた。


「ごめんね、佐吉。手伝おうとしていたんだね」

 そう言った途端に佐吉は甘い匂いのする袋からマズルを出して笑顔を見せた。こいつ、やっぱり言葉がわかるんじゃん。


「よしよし、いい子ね。これからもっと頑張りましょうね」


 レディはまるでドッグトレーナーのように佐吉に言葉をかけているが、当人はまんざらでもなさそうで、鼻の下がデレッと十センチは伸びたように見える。


 さすがの才女。既に佐吉の扱い方をマスターしたようである。

 あたしも見習わねば。


「おい。ちょっと」

「は? 私ですか?」

「あんたに決まってるだろうが。ちょっと」

「ちょっと何?」

「こっちに来いって言ってんだよ。すっとぼける余裕なんてないんじゃないのか?」

 そうだった。でも、こいつに言われると無性に腹が立つ。


 いちいち突っかかってくるので、それならこっちもそれなりに対応してやる、と、つい反応してしまうが、それではダメだ。こんな人間ごときを気にせず、早くジェイミーを見つけなくては。


 しかし、いきなり無言で手首を掴まれ、リビングに引き戻された。

「ちょっと! 何なの!?」

「いくら呼んでもこねーから。これ見ろ」

「ハイソックスとアンクレットがどうしたの? しっかりスキャンしたんだけど?」

「そうじゃなくて、あらゆるものが散乱しているこの形、ちょっと不自然じゃないか?」  

 そうなの? あたしも疲れて家に帰ると結構あちこちにポイポイやるけどね。


「佐吉! ちょっと来い!」


 佐吉がドタドタやってくると、湛山はひとこと、「サーチ!」と太い声で言った。すると、佐吉はデータチップ袋に鼻を突っ込んでいたのと同じように散乱するあれこれに鼻を近づけ、匂いを辿って歩き始めた。


 そして窓の前でぴたりと止まった。


「まさか窓から外に出たというんじゃないでしょうね? ここは四十階よ。ヘリとかドローンとかだったら音がするから気づかれずに外に出すなんて無理でしょう」

「あんたらの最先端技術とやらで静かに飛ぶものはないのか? 小娘をさっと運び出せるような?」


 静かに飛ぶもの。音のしないもの――あたしとしたことが!

 アクティブ・クローキング・ドローンがあったじゃないか!


「その顔は何か思いついたようだな」

「まだ試験中と聞いていますが、特殊ステルスドローンがあります。光学迷彩を使って背景に溶け込むようにした、見えないドローンです」

「見えないドローン? 透明人間みたいになるってのか? まさか」

「そのまさかです。空気振動をほぼ相殺させる無音推進システムが開発中・・・と小耳にはさんだことがあります。悪用を恐れて詳細は極秘事項となっているので確実な情報ではありませんが」

「無音推進システム?」

「はい。それなら、犯人は例えばドローンをホバリングさせて、フェイクアームとかマジックハンドか何かでジェイミーを引き出すことができたかも」

「でも、軽い荷物ならともかく、十七歳の娘だぞ。そんな大きな子を引き出すなんてできるのか?」

「私たちの技術を見くびらないでください。一旦プロジェクトが始まるととことん追求するのがAIサピエンスです。ヒューマンエラーの余地はありません」


 しかし、湛山は依然としてあたしの理路整然とした仮説に納得しない様子だ。


「佐吉は小娘の匂いだけでなく、違うものも察知したみたいだぞ?」

「ドローンがいた場合、どんなに最先端のものであっても、どうしてもかすかなオゾン臭を残します。気圧の変化や風の流れもあります。それを察知したのかも」

「うーん」


 湛山は床から天井まである窓を見て、ガラスをコツコツと叩く。


「にわかには信じがたいがな。まあ、佐吉は普段からクマヤイノシシの匂いもしっかり嗅ぎ分ける優秀な猟犬だ。彼が何かを嗅ぎ取ったなら、何らかの形で空を使った可能性は高い」


 だからそういってんじゃないかよ! あたしの仮説には半信半疑ながら、間抜け面には絶大な信頼を寄せているようだ。


 落ち着け、あたし。私は誇り高きAIサピエンス。怒りや苛立ちなどとは無縁だ。あ、決して自分に言い聞かせているわけじゃないからね。


 *


<台場・ドローン総括センターにて/野生人間の視点>


 AIサピエンスというものは、恐ろしく無機質だ。

 何を考えているのかまったく分からない。


 人と違って感情がなく、効率性と結果のみを重視し、何ごとでも計算に基づいて行動する。

 だから危険であり、とにかく会わないようにしろ、と幼い頃から聞いていた。


 俺もそう信じていた。

 信じていたのだが、眼の前にいるAIサピエンスは、優秀なのだろうが、冷静沈着というのとはちょっと…いや、かなり違う。

 何を考えているのか、手に取るように分かる。

 無論、それが演技だとすれば大したものだが、そういうわけではなさそうだ。


 このマヤというAIサピエンスは非常に興味深い。冷静さでいえば、あのレディとかいう犬の方が明らかに上をいっている。まあ、本来の仕事はフォトグラファーだというし、にもかかわらず誘拐事件を調べろと言われて素直に対応しろというのも無理な話だが。


 特殊ステルス・ドローンだかドロンだか、空飛ぶ羽虫か知らないが、何であれ、その総括センターとやらに今、立っている。人間が世界の中心だったころには各地にあったと親父が言っていた空港のようなものだろう。


 夜が明けて薄明るくなり始めたので周囲が見やすいが、台場という、海に面した地域で大中小・極小と様々な大きさや形のものが離着陸を、これまた様々な速度で繰り返している。


 いたって静かで、聞こえてくるのは風の音とカモメの鳴き声くらいだ。AIサピエンスの連中が一人、あるいは複数、乗り込んでいるものもあれば、無人のものもある。


 本当に大統領の娘がこれで連れ去られたのだとしたら、一人が操縦席でホバリングさせ、一人が窓から部屋に侵入して何らかの形で彼女を抵抗できないようにでもしたのだろうか。例えば、声を上げられないように気を失わせて運び出した。うん、そういった可能性はなくはない。


 あの感情ダダ漏れの官邸カメもそう考えているようだ。さっきからこのエアフィールドのエンジニアたちから話を聞き、それぞれのドローンが実現可能なパフォーマンスについて説明を受けている。


「ちょっと、湛山!」

 これまた随分と息巻いているが、どうしたのだろう。

 仕方ない。ここで大声のやりとりになると目立つので、あちらまで行ってやろう。


「何だ?」

「何だ、じゃないでしょ! 少しは手伝ってよ! 」

「分かった。何をすればいい?」

「私はすでに、ここにいるエンジニアたち全員にステルス・ドローンのキャパシティについて聞いた。その前に、あんたが間抜け面と海辺のお散歩を楽しんでいる時だったかしら、コントロールセンターで各システムに関するデータを確認させてもらって、関係者の名簿、出入り業者やフリーランスのアクセスについて、そしてここ数日のフライト情報すべてをコピーさせてもらった」

「素晴らしい」


 敬意を表そうと、俺は軽く拍手をした。


「他人事じゃないでしょ! 何気持ちよさそうに突っ立ってるの?」

「いやあ、ここは海風が心地よい。俺たちは山育ちだから、海が珍しいんだ。ん?」

「――ちょ、ちょっと、何!?」

「蚊だ」


 彼女の頬に小さな蚊が止まった。パシッとやろうと思ったが、引っ叩くとまた大騒ぎすることは目に見えているので、そっと近づいて軽くはたく程度に留めた。俺と佐吉と同じ森の香りがする。


「何をするのよ!」


 ドン! と、思い切り突き飛ばされた。なかなか力がある。

「ふざけんな! ソーシャル・ディスタンス! 守ってよね?」


 顔が真っ赤になっている。そうか、AIサピエンスでも赤面するのか。赤面するようなことは何もないのだが。


「あんた、何を興奮しているんだ? それに、さっきまでの敬語はどうした? やめたのか?」

 彼女は一瞬、ハッとした表情を浮かべた。

「興奮などしていません! 敬語? 私は先程から一貫して丁寧に、あなたの協力を求めているだけです」

 こいつ、嘘が下手だ。ほんとにAIサピエンスか? どちらかと言えば人間的だと思う。

「ここはもう調べるだけ調べたので、車に戻りましょう」

「待てよ。何か使えそうなデータはあったのか?」

 と聞いたものの、彼女はすでに二十メートルほど先に進み、俺の声が聞こえないようだ。或いは聞こえないふりをしているのかも知れないが。


 ふむ。

 俺の読み通り、かなり感情が表に出るタイプだ。イノシシより遥かに分かりやすい。

 しかし情報を共有してくれないと手伝いようがない。すぐに追いかけて詳しく聞いてみよう。


 しかしまあ、わけの分からない世界だが、親父たちが言っていた、「野生人間」としての処分もなさそうなので、もう少し留まって見届けてもよさそうだ。ここはひとつ、誘拐された女性を救い出すために頑張ってみることにしよう。あの公カメを見ているだけでも結構面白いしな。


 ん? 何かが脚に触れた。見下ろすと、レディがすました顔で俺を見ている。


「人間、ひょっとしてあなたも佐吉と同じくらい鈍感なの?」

「え?」

「ソーシャル・ディスタンスって、意味をお分かり? 昔コロナ騒ぎとかいうのがあって、その時に人間たちが使うようになった言葉だったと思うけど、山奥の方だとご存じないかしら? 要は、人と人の間の物理的な距離を指すの。社会的に誰もが認める安全な距離。相手に心理的ストレスを与えたり興奮させたりしない距離のことよ」

「そのソーシャル・ディスタンスがどうした?」

「あなたのさっきの至近距離ムーブ」

「蚊を払ったことか?」

「あなたはその動物的な胴体視力で蚊を認識できたのかも知れないけど、誰もが人間のように蚊を認識すると思わないで。AIサピエンスが蚊に食われることはないの。だから認識するようになっていないの」


 はあ。 


「まったく・・・まだ佐吉の方が物分かりいいかもね」

「おい」

「失礼。とにかく、あまりマヤを刺激しないでくれる? ずっと真面目な優等生でやってきた彼女にとってあなたのような生身の人間が至近距離にくると、そのフェロモンがちょっとねえ。今はジェイミーを探すことに集中しなくちゃいけないでしょ?」


 フェロモン? 何だ、それ? そんなの親父やじっちゃんから聞いたことがないぞ?


「何だ、そのフェロモンって?」


 レディとやらがうっそおと言う。本当に聞いたことがないんだから仕方ないじゃないか。教える気がないなら別にいいさ。集落に帰ったら親父に…いや、流行りの若者言葉かもしれない。年下の従弟のルイに聞くことにしよう。


「それで俺にどうしろと言うんだ?」

「ああ、分からないならいいの。気にしないで」

 レディはそう言って、飼い主のもとへ急いだ。


 *


<青木氏運転の政府公用車にて>


 あたしたちは、一旦情報を整理するために西荻の我が家に向かうことにした。


 さすがにぶっ通しで動いている肉体は疲労が蓄積しているようなので車の中で休もうと目を閉じた。


 その前に隣の湛山をちらりと見ると、ヤツも疲れているようで大いびきをかいている。  

 純度百パーセントの人間だと、疲れの度合いも違うだろうと少しだけ同情しつつ、あたしは頭の中で情報を整理していた。


 その時、後ろの座席から何やらガサガサという音が聞こえてきた。見ると、佐吉が窓に鼻をこすりつけて、例のクンクンクンクンをやっている。


「何?」

「青木さん、窓を開けてくれ」


 湛山は、緊張した面持ちで身を乗り出して運転手に言う。さっきまで寝ていたとは思えないキレのある動きだ。


「何事?」

「しっ」


 しっ、だと? 人間如きがあたしに? お前、いい加減にしろよと言いそうになったが、佐吉の頭が完全に外にせり出している方が気になった。空に向かってクンクンと何やら匂いを嗅ぐ。

 身体を硬直させ、鼻先が一定方向に定まった。


「そっちだな。分かった。青木さん、右だ。右に曲がってくれ」


 リニア高速に乗ると青木さんはF1ドライバーと化した。


 あっという間に人間社会の名残りの標識、「芝公園」を過ぎて、そのままぐんぐん加速していく。

 トンネルに入っても佐吉はマズルを窓から出したままで、茶色い毛がビュンビュン風に乗って飛ばされているが、まるで彫刻のように固定されたままだ。


 こいつ、もしかして天才的な猟犬なのか? 或いはただのバカなのか。


 レディは、これは佐吉の役目でしょうと言わんばかりにヤツの隣で全身を伸ばしてゆったりとくつろいでいる。


 あっという間に旧関越自動車道を走っていた。おいおい、西荻が、永田町が、どんどん遠くなってきたぞ? ホントに大丈夫なのか?


 湛山に聞いてみた。


「佐吉は本当に何かの匂いを追ってるんですか?」

「ああ。安心しろ、犬は嘘をつかない」

「誤魔化すことはあるけどね」とレディが間髪入れずコメントした。

「レディ、それどういう意味? 佐吉がお嬢様や犯人の匂いをキャッチしていないというの?」

「ノン、ノン。そんなこと言ってないわ。ただの一般論だから気にしないで」

 おしゃべりな犬は、余計な一言が多い。


 間もなく「藤岡ジャンクション」と書かれた標識が見えた。

 重要文化財としてそのままの形で残されている人間たちの道路標識を、一つ、また一つ確認しながら、F1マシンと化した車は進んでいく。


 が、その時。佐吉がいきなり息を止めて、頭を思い切り上に向けた。


「お?」

「この辺で何らかの飛行物体に乗り換えたのか?」


 佐吉は尻尾をブンブンと振る。そうか、言葉を話せなくともこうやってコミュニケーションを図るのか。単純だが分かりやすい。


「青木さん、停めてくれ!」

「はい?」

「空だ、空」


 やはり野生人間は語彙が少ないようだ。ここはあたしが補足してやらねばならない。


「どうやら犯人はこの辺りで空に昇って行ったらしいです。この車で追うわけにもいかないし、困りましたね・・・」

「とんでもございません」


 青木はこちらを振り向き、にやりと笑顔を見せた。

「我々も参りましょう。ボディベルトをしっかりお締めください」

「え? この車、空を飛べるのですか?」

「もちろんでございます。さ、参りましょう!」



<空飛ぶ公用車にて>


 ぐんぐんぐんぐん、空高く昇っていく。


 周りには白い雲と青い空。そして窓ガラスに映るのは――あたしの青ざめた顔。そういえば高所恐怖症だった。吐きそう。しかし、セダンは容赦なく加速する。


 う。気持ち悪い。おなかが波打っている。


 あたしの中の四分の一の人間が恨めしい。百パーセントAIサピエンスであればこんなことはなかっただろうに。


 間抜け面は似合わぬ精悍な顔つきでまっすぐ先を見ている。

 隣のレディは相変わらず「まだあ?」と言い、退屈そうだ。湛山は雲を注意深く観察しているようだ。ふん、どうせ空を飛ぶなんて初めてなんだろう。


「皆さん、大丈夫ですかあ?」

 青木の声が聞こえた。


「は、はい」

「承知しました! それではギアを上げていきますね」


 あの中年AIサピエンス、生き生きとしたあの声の張りは何だ? 飛び立ってからまるで水を得た魚だ。


 まあ、しょうがない。ここはぐっと堪えて乗り切るしかない。


「どうかしたのか? まさか――」


 湛山があたしの顔を覗き込む。近いよ、近い! 離れて! あたしは今、ちょっとしたきっかけですぐにも吐きそうだというのに。


「データ分析中だから邪魔しないで!」

「だよな。一瞬、気分でも悪いんじゃないかと思ったよ」


 ハハハと笑うその顔が憎たらしい。高所恐怖症だなんて、死んだって言うもんか。


 ぐ。


 何だ、今の?


 身体から胃袋が完全に置いてきぼりにされるこの感覚。強烈なGが全身を襲った。


 軍用機じゃあるまいし。視界が一瞬で広がり、眼下の山々が見る見る間に小さくなっていく。


「佐吉、ターゲットの匂いはどうだ!?」

 湛山が風圧に負けない大声で三列目の間抜け面に叫んだ。


「オン! オオン!」

 佐吉が窓の隙間から鼻を突き出したまま、激しく尻尾を振る。


 完璧にシンクロしたタイミングで運転席の青木が空中ナビのホログラムを叩いた。


「マヤ様、湛山様! 前方、高度四千に未確認の熱源です!」


 んぐ。パシパシッと自分の頬を叩く。よし。


「それです、青木さん」

「追ってくれ!」


 こっちはシートに爪を食い込ませて必死に耐えているというのに、何でこの男はいちいち割り込んでくるんだ?


 とにかく、飛行酔いなんてしてる場合じゃない。


 組み込まれたシステムを(やっとの思いで)作動させ、エーゲ海クルーズでシャブリ片手にデッキの長椅子で寛いでいる自分のイメージを頭の中で描いた。


 ほら、海風が気持ちいい。頬にビシバシ当たっているのは決して雲の切れ間から容赦なく吹き付ける大空の強風などではない。爽やかなエーゲ海の風なのだ……眩しい太陽、エメラルドのような海……船酔い……ぐ。


 おっと、いけない。夢のバカンスに酔いしれている場合ではなかった。


 慌てて頭の中のシステムをリダイレクトした。エーゲ海ではなく、青木さんが共有してくれた熱源データを強制的にスキャンし、台場でコピーしたフライト情報と照合した。


 ヒットだ。

 間違いない。特殊中の特殊なステルス・ドローン、「オーロラ」だ。極秘開発されていたヤツ。


「乗り物の正体が分かった!」

「え?」

「湛山、聞いて。思った通り、最先端のステルス機よ。でも、どうやって厳重警備課の試作機を持ち出すことができたんだろう? 部外者がアクセスすることは到底不可能なはずなのに」


「部外者じゃないってことなのでは?」


 ああ言えばこう言う。今後はもう少し発言を控えるようにしよう。


「またしょうもないこと考えてるんだろ」


 人を見透かしたようなこの態度もイケ好かん。ああ、この人間、イラつく。


 まるで心の声が聞こえたかのように、湛山はにやりと笑みを浮かべ、ボディベルトを緩めた。


「ちょっと、何するつもり? まさか飛び降りるつもりじゃないでしょうね!?」

「アホか。ベルトで抑え込まれたままじゃ動けねえだろ。ほら、左に寄ってみろ。見えてきたぞ。あれか?」


 雲の切れ間に一筋の光が見えた。不自然に歪んでいる。

 黙って頷いた。


「お任せください!」


 青木の元気な声が聞こえた。


 そしてあたしたちの車は、その光に向かって果敢に突っ込んでいった。


 キーンと耳鳴りがする。圧が凄まじい。あたしたちAIサピエンスは「兵器」という言葉を決して使うことはないが(平和主義者なもので)、昔の人間たちに言わせれば、あれは兵器に違いない。


 後ろでレディが身を起こし、低い声で唸る。

「こっちに気づいたみたいね」


 才女の言う通り、相手は急加速モードに入ったようで、再び引き離される。


「逃げられちゃう! 青木さん! もっと速く! 」

「承知しました! しっかりつかまっててください!」


 こちらも轟音を上げる。ホントにレースサーキットのスタートを切ったマシンのように猛スピードで相手を追いかける。


 うっぷ。頼むから早くチェッカーフラッグまでたどり着かせてくれ。


 しかし、相手は最新鋭ドローンなだけあって、なかなか至近距離まで近づけない。


「相手を止める方法はないの!? 拘束シールドとか投げ縄とか? このままだと逃げられちゃいます!」

「マヤ様、お気持ちは分かりますが、これはあくまで首相官邸の超高性能公用車でございます。平和主義国家のシンボルですので非武装なのです」


「それだとターゲットに追いついたところで捕まえようがないじゃないですか」

「おっしゃるとおりでございます。そのようなご指示は当初より頂戴しておりませんので」


「何だよ、それ? 使えねえな」

 湛山は舌打ちをして窓の方に身を乗り出した。


「ちょっと、ちょっと! 死にたいの!?」

「このまま逃がすわけにはいかねえだろ。青木さん、もっと加速してくれ!アレに少しでも近づいてくれ。飛び乗ってやる!」

「はあ? バッカじゃないの? ターザンじゃあるまいし。高度何メートルだと思ってんのよ!? バカじゃないの、この原始人!」

「うるせえ。人間を舐めるな! 山の中じゃ谷を飛び越えるくらい朝飯前だった! 人間の底力を見せてやる」


「いい加減にして!」

 後ろからレディが声を上げた。

「さっきからギャーギャーギャーギャーうるさいのよ。二人とも少しは頭を使えば?」


 溜息をつきながら、彼女は佐吉の方を向き、「佐吉」と一言言った。

「オン?」

「あなたの出番よ。いい? あのへんてこりんな飛行物体に向かって思いっきり吠えなさい。あなたのバカでかい声ならあちらの超音波センサーが狂ってもおかしくないわ。分かった? あっちに向かって最大級の音量で吠えて吠えて吠えまくるの。あなたならできるわよね?」

「オン!」


 レディが自分を認めてくれたとでも思ったのか、佐吉は少女漫画の主人公のように目をキラキラ輝かせ、車内の空気をすべて吸い込んでしまうんじゃないかという勢いで息を吸った。


 そして再び窓から身を乗り出し――テノールで始まり、見事にバリトンに移行する声が高らかに鳴り響いた。びっくりした天が今にも落ちてきそうだ。


 その瞬間、眼の前の空間が大きく歪み、漆黒のドローンの機体がむき出しになった。レディの読み通り、あちらの無音推進システムが完全にバグったのだ。


 不気味な静寂の中、酷い乱気流を起こして巨大竜巻並みの強風が空気をかき乱す。


 青木が叫んだ。

「窓を閉めます! ご注意ください!」


 ボディベルトをギュッと締めようとしたその時、横から襲う強風にバランスを崩し、後部ドアに叩きつけられ、扉が開いて身体が吸い出される。あれよあれよという間に視界が反転した。


「マヤ!」

 次の瞬間、力強い腕があたしの腰をガシッと掴み、超人ハルクのような力であたしを車内に引き戻した。

「あ、ありがとう」

「バカ! 気をつけろ!」

 バカとは何よ、バカとは? あたしだって気をつけてる。飛行機酔いを忘れるくらい集中しているんだからね。

 ていうか、こいつ、何でこう上から目線なわけ? 野生人間のくせに。

 ああ、ホントに嫌なヤツだ。とっととお嬢様を見つけて救出して解散しよう。


 そう思った瞬間に急降下が始まり、思わず声を上げた。


「墜落する! 青木さん!」

「マヤ様! ご安心ください! このセダンは完全に私のコントロール下にございますので大丈夫です。ゆっくり着陸することももちろん可能なのですが、姿を現したあちらのドローンが真っ逆さまに急降下していますので、我々が追いつかないことには墜落して乗員乗客全員が死亡してしまいます」


 窓が閉まっているのに強風がビュンビュン入ってくる。ジェットコースターの億万倍怖い。


「どうした、公カメ? 死ぬのが怖いのか?」

 あんたは怖くないわけ? こいつ、マジで放っておいて欲しい。


「別に死ぬのは怖くない」

「そうなんだ?」

「死んだところでキャリブレーションして、ダメだったらオーバーホールして再構築すればいい。それだけのこと」

 死ぬまでの恐怖はあるけど、そんなこと教えてやるもんか。


 湛山は「はあ」と溜息をつく。今度は何なんだ?


「味気ないねえ」

「効率性重視」

「それじゃあ生きてる実感を経験したことなんてないんだろうな」

「何を言ってるの? 十分実感しているけど」

「いや、違うね。死というものがあって初めて生きているっていう感覚が分かるんだよ。人間でも犬でも猫でも、限られた命だからこそそれを大事にするんだ」

「でも、いずれ終わっちゃうじゃない」

「だから充実した時間を過ごすんだよ」


 よくわからないが、何やらまたしても言いくるめられている気がする。ええい、あれこれ分析するのはよそう。この野生人間が言うことは、どうもあたしのデータベースに入っていない変なことばかりだ。


 ん? 何だか大きく横に揺れている。

「青木さん! 何が起きてるの?」

「窓の外をごらんください。只今、対象ドローンの下回り全体に衝撃吸収シールドを広げております。これでクラッシュは防止できます」


 本当だ。鮮やかなパープルのシールドが空中に舞う。これは総理の意向に違いない。あたしでも知ってる、昔懐かしいBTSのシンボルカラーだ。オールディーズも好きなのね。


「まもなく着陸します! 衝撃防止姿勢をお取りください! 」

 青木の声で、後部座席の全員に緊張が走った。


 ドン! ドン! ドン!


「お疲れ様でした」

 ほんとだよ。


 *


<再び浅間山付近にて>


 着陸したのはキャベツ畑のど真ん中だった。


 よろける体を意識的にシャキッとさせて車外に出ると、大きな茶色い毛玉が地面に突っ伏しているのが見える。佐吉だ。


「あいつ、キャベツが好きなんだよ」


 よく見ると、顔中が青い葉っぱ模様で、むしゃむしゃむしゃむしゃ必死に頬張っている。その二歩後ろにレディが立っていて、「信じられない!」という顔をしている。畑のキャベツをそのまま食すなど考えられないだろうからな。


「あ」


 薄い虹色になったドローンのドアが開いて、一人、また一人、飛び出していった。


「佐吉! 行け! フェッチ!」


 猟犬モードに入った佐吉はあっという間にキャベツを振り落として駆けていき、空を飛ぶようにジャンプして一人の上に覆いかぶさった。そこにレディが上品に加わった。


「ご苦労様。こいつはあたしが押えとくから、もう一人をお願い」


 いつの間にか連係プレーができているようだ。さすがレディというか、どうやら野犬を完全に尻に敷いている。


 佐吉は「オン!」と応え、高速ダッシュで森に向かう人物を追う。

 あっという間に追いついたと思ったら、対象人物が躓いて転んだ。


 その足元に行った佐吉は起き上がれないなと確信した様子で、おもむろに片足を上げた。


「あ」


 そのほっとした顔は何とも説明しがたかった。あたしも年に一、二度、有休を使ってレディと秘湯を訪れることがあるが、露天風呂に入った瞬間に多分、ああいう顔をしているのだろう。


「どうぞ、この携帯用衛生タオルでお拭きください。生分解性の使い捨てですので遠慮なさらず」


 さすがの青木である。何があっても対応できるとは大したものだ。


 目をまん丸くしてショックで固まる人物は、近くで見ると若そうに見える。


「あんたたち、誰? 顔を見せなさい! さっさとそれを取る!」

 あたしの隣で覗き込む茶色い間抜け面が映り込むミラー・カメレオン・マスクを取った二人は若い男性だった。十代といったところだろう。

 警察の指名手配者リストには載っていない顔だ。


「名前は?」

「フリードリッヒ」

「あんたは?」

「タイラー」

「何者? さっき乗ってたアレ、どうやって手に入れたの?」

「俺たち――」


 フリードリッヒが口を開くと、タイラーがそいつをじろりと睨んだ。


「どこから来た? 東京か? 日本国外か?」


 口を割らないつもりか。では、ここは山の中なので、野生スタイルで。


「レディ、ちょっと来て」

「何?」

「あなたもそろそろおトイレの時間でしょ? このお兄さんの上でちょっとしゃがんでみて」「ええっ? 嫌よ、そんな下品な」

「郷にいては郷に従えよ。だいぶ溜まってるでしょ? さあ」


 我が才女は佐吉の方にちらりと目をやる。佐吉はまたも少女漫画よろしくキラキラお目々で口角が上がりまくっている。


「わかったわよ」


 彼女がまたがりかけた瞬間、タイラーが「うわーっ!」と叫んだ。


「分かった。話す。話すからやめてくれ」

「最初からそう言えばいいのに」


 あたしはタイラーとフリードリッヒを起こし、キャベツクッションの上に座らせて録音ガジェットのボタンを押した。


 二人はどうやら、おとりだったようだ。特殊レーダーにしか映らないとはいえ、世界でもまだ数機しかないとされるこの最新鋭試作機を盗んで乗り回し、あたしたちを惑わしていたという。 


 その間、お嬢様を乗せたもう一機――いや、何と、お嬢様が操縦するドローンが静かに目的地に向かったと白状した。自作自演だったとは、とんだお転婆お嬢様だ。


「で、ジェイミー様はどこにいるの?」

 フリードリッヒがタイラーを見た。

「分からない」

「そんなわけないでしょ! どこかで落ち合うんじゃないの?」


 まただんまりか? 仕方ない。


「レディ。佐吉」

「うわ、やめろ。やめてくれ。言うから。そ、その前にあんたたちが誰なのか教えてくれ」

「あたしは首相官邸の公式フォトグラファー、マヤ。こちらは…協力者の湛山。ドライバーの青木さん。そしてレディと佐吉。さあ、話しなさい」


 タイラーは観念したようだった。

「俺はタイラー・ラファエット。ワシントンから来た」と言って身分証明書を提示した。

「俺の親父は国防長官のウィリアム・ラファエット。フリードリッヒはドイツのマティアス・フォクト大統領の二男だ。おい、フリッツ、お前もIDカードを出せ」


 ぼーっとした方の子も身分証を見せた。こちらはドイツサッカー連盟発行のプレイヤーパスだ。二人ともエリートなわけね。


「俺たち、チャット仲間で、ある人物に懇願されて協力することにしたんだ」

「その、ある人物って誰よ?」

「ジェイミー・マキンリー」


 ええっ!?

 誘拐されたジェイミーお嬢様? そんなバカな。


「どういうこと? 噓発見器が作動中だから誤魔化しても無意味よ」

「嘘じゃない。ジェイミーも俺たちのチャット仲間なんだ。もう一人、ルイってヤツがいて、その、ジェイミーとデキてるんだ」

「はあ!?」

「内緒にしているけど、ルイは恐らくほとんど人間だと思う。この辺の出身で、ジェイミーがハイスクールの修学旅行で日本に来た時に会ったらしい。おふくろさんがG7で日本に来ることになってその時に駆け落ちしようってことになったんだ。で、俺たちはその手助けを頼まれたんだ」

「駆け落ち!?」

 開いた口が塞がらないとはこういうことだろう。あたしの体内でシステムエラーが起こりそうだ。


 噓発見器の結果を精査した。この男は嘘などついていない。何ということだ。


 あたしが唖然としていると、湛山が吹き出した。大笑いしている。何がそんなにおかしいというのだ?


「ハッハッハ……こりゃあいい」

「これのどこがいいのよ!? ジェイミーは依然、行方不明でしょ。早く見つけて連れ戻さないと」

「まあまあ、誘拐じゃないと分かってよかったじゃないか。十七歳の駆け落ちだと? それはそれは」

「二人は本当に愛し合っているんです」

「そうか。それは尊いね。うん、素敵だ。しかし随分と思い切ったことをしたもんだな。君、フリードリッヒと言ったっけ。フリッツ?」

「はい」

「君の友だちもそうだが、二人ともいかにも育ちがよさそうだな」


 あなたはそうでもなさそうですね、と二人が思ったのが、あたしは手に取るように分かった。

 湛山は気にすることなく、「そのジェイミーとルイは今どこにいるんだ?」と聞き、あたしから質問者ポジションを奪った。ええ、ええ、あたしよりずっとクールに落ち着いて話を聞けるっていうんでしょ? まあいいわ。できることはやってもらおうじゃないの。


 …って、あたし、また感情が出てきている。いかんいかん、あたしは優秀なAIサピエンスなのに。この野生人間のせいだ。間違いない。ヤツと同じ人間だった伊賀のご先祖様、あなたは人間であったにもかかわらず冷静沈着でしたよね。あなたの末裔のこのマヤはまだまだ未熟者ですが、どうか力をお貸しください。

 心の中でそっと祈った。


 *


 さすがの上流階級のボンボンズ、ツメは甘いようだった。


 浅間山の麓で落ち合う計画だったらしいが、あまりにもアバウトである。この子たちがあの最新鋭・次世代ドローンを飛ばしてきたとは信じられない気持ちだった。


 滞在中に日本そばを食べたいだの、猿と温泉に入りたいだの、キャッキャキャッキャとはしゃぐ様子は、十七、八というよりも小学生のようだ。


 日が暮れたので、あたしたちはキャベツ畑の横の旧別荘地エリアで夜を過ごすことにし、湛山が興したキャンプファイヤーを囲み、青木が用意してくれたコーヒーを飲んでいた。


 この青木という男性は実に頼りになる。何やらカプセルを持ち出し、あっという間に自己拡張型バイオ・コクーン・テントを人数分設置し、夕食にはアタッシュケースを持ってきてボタンひとつで瞬間3Dプリントグルメ料理を出してくれた。


 犬たちにも現地調達キャベツのフレンチドレッシング和えにフリーズドライの最高級ジビエ・パテ。「グレインフリーでグルテンフリーでございます」とは恐れ入った。こいつ、ドラえもんか?


 佐吉はレディに「待て」と言われてようやく「よし!」が出るまでよだれダラダラだったんだけどね。まあ、これ以上の幸せはないという顔でがっついていたので、テーブルマナーはレディに任せよう。


 当初はあたしも、ああ、野宿するのかと内心うんざりしていたのだが、まだ確認こそできていないものの、ジェイミーが誘拐されたのではないと聞き一安心し、至れり尽くせりのこの場でちょっとしたキャンプ気分を味わっている。


「どうした? 疲れたか?」

「いや、大丈夫」

「みんな寝たぞ。あんたも早くテントに入って少し休んだらどうだ?」

「ご心配なく。頭のシステムは休止中よ。この火を見ていると何だか落ち着くなって思ってたんだ」

「そういうところ、まるで人間みたいだな」

「いちいち人間と切り離して分析するの、やめてくれる?」

「悪い悪い。じゃあ、おやすみ」


 あたしの頭を軽くポンポンと叩いて自分のテントへ歩いて行った。不思議と腹が立たない。やっぱり疲れているのかもしれない。


 あたしは残ったコーヒーを飲み干して、静かに目を閉じた。


 *


<佐吉>


 ゲフッ。

 最高級ジビエとかいうやつとフレンチキャベツ? いやあ、最高!

 マヤはちょっとテンションが高くて怖い時があるけど、レディちゃんの飼い主なんだから悪い人であるわけがない。

 それに、こんなに素晴らしいごはんを食べさせてくれたドライバーの青木さん、なんて良い人なんだろう。あなたに一生ついていきます! あ、湛山の次にね。


 あのレディちゃんって、ホント、見れば見るほどめちゃくちゃ可愛い。美人で一見つんとしているけど、それがまた超絶カッコいいんだよね。あの日、あの時間に、あの場所にいたおかげで出会えた最高のレディ。これは運命としか言いようがない。


 ああ、レディ、レディ。あなたはなぜレディなの?

 僕の初恋――ってことになるのかな? 明日も一緒にいられる。嬉しいよ!

 それにしてもおなかいっぱいで眠いや。僕も湛山のテントに行ってひと眠りしよう。


 *


 ほどなくして佐吉に違いない高いびきが聞こえてきた。

 まあ、よく働いてくれたよ、間抜け面にしては。

 浅間山の夜が静かに更けていく。


 誘拐されたのではなく、駆け落ちしたお嬢様と、その相手の、恐らく人間であろう少年、ルイ。

 そして、少々ヌケていそうだけど、あのドローンを操縦したということは、天才的な頭脳データベースの持ち主であるに違いない二人の協力者。

 少なくとも二人のうちの一人は、だが。


 ここは湛山の野生人間集落とあり、あたしにとってはアウェイなのだが、妙に落ち着く自然の音を、あたしのプロセッサが静かに記録し続けていた。


 *


<絹糸の滝の秘密>


 うるさい。

 さっき、テントに入ってきたと思ったら、三秒後に始まった大いびきがうるさくて、ただでさえ眠れないのが、余計に眠れない。


 おまけに、俺の腹の上にドーンと乗せてきた脚が重い。


 佐吉の奴め、よだれを垂らして口角を上げて、何と幸せそうな寝顔だろう。よほど満足したんだろうな。美人犬に会って、常に一緒に動いて――

 いや、それもあるだろうが、やはりあの夕食が決定打だったに違いない。ジビエにフレンチドレッシングとやらをかけたキャベツだと? そんな洒落たもの、俺だって食ったことがない。なんせ、山の生活では山菜やイノシシ、熊、鹿といった獲物を獲って、みんなで協力して食物にする。それくらいだからな。


 確かにあの公カメが言うように俺たちの暮らしは原始的なのだろう。


 あの衛生チューブとかいうヤツも気持ちよかったし、車のふかふかの座席に座って動くのは、そりゃあ擦り切れた草履を履いて山の斜面を登ったり下りたりするより遥かに楽だ。


 でも、あんな生活を続けていたらそのうち体が退化して使い物にならなくなるんじゃないだろうか。


 原始的? 野生人間? 大いに結構。それのどこが悪い? 誰かに迷惑をかけているわけでもない。最先端の何とかかんとかに囲まれた人工的な暮らしの方が、感覚を麻痺させるような気がする。


 静かに身を起こしてテントの外を眺めると、満月の光がすっと入ってくる。

 ここには人工的要素は一切ない。空の月、山に森、川、湖。これらに囲まれて、俺たちは十分に幸せだ。


 太陽と共に行動し、大自然に感謝しながら自らの身を守り、仲間と協力し合って生きる生活こそ贅沢なのではないだろうか。


 といっても、あの連中は人間じゃないけどな。あの高慢ちきなAI女もそうだ。何パーセントかは人間だとかわけの分からないことを言っていたが、それでもほんの一部の人間的要素を残したに過ぎない別物だ。


 そう、別物。なのに、俺はなぜこうもその別物のことばかり考えてしまうんだろう。

 きっとあまりにも人間っぽくて、笑わせることばかりやらかすからだ。


 役人然とした態度をとるかと思えば、いつの間にかタメ口になっているわ、叫ぶわ、飛行機酔いするわ、必死に誤魔化そうとするわと、とてもすましたAIサピエンスとは思えない。

 結構かわいい顔をしてるし。


 待て。俺は何を考えているんだ? いかんいかん、突然AIサピエンス社会に連れていかれたストレスで、少々バランスを崩しているんだろう。俺らしくもない。


 腰布にひそめていた猿酒でも飲むか。そうやっていつものペースを取り戻せばいい。そうだ、そうしよう。


 *


 翌朝は、深い霧が太陽を包み込んでいた。まるでジェイミーと同じように色々と隠している

 かのように思える。


 青木さんは手際よくバイオ・コクーン・テントを片付け、すでに朝食の用意をしている。


「おはようございます! 暑くも寒くもなく、風が爽やかな朝でございますね」

 この霧を爽やかだと自信たっぷりに言い切るとは。ポジティブシンキングもここまでくればあっぱれだ。


「おはようございます」

「よく眠れましたか?」

「ええ、まあ」

「それはようございました。勝手ながら朝食メニューは私の独断で決めさせていただきました。外国人青年がいますので、洋風にベーコンエッグとソーセージに目玉焼き、ハッシュブラウンポテトと全粒粉バタートーストをご用意いたしました」

「まあ、朝からそんなに? すみませんね、青木さんもお疲れでしょうに」

「全然疲れておりません!」

「だって、昨日のドライビングテクニック。まるでF1ドライバーみたいでしたよ」


 青木の顔に一気に笑みがこぼれた。


「本当ですか? ありがとうございます! 実は私、F1の大ファンなんです。中でもセナ・プロストのホログラムなど何億回見たことか。特に鈴鹿の第一コーナーでクラッシュした時なんて――あ、失礼しました。つい調子に乗ってしまいました」


「セナがどうしたって?」と森の方へ散歩に行っていたらしい湛山が戻ってきた。

「あ、湛山様、おはようございます。いえね、私、実は熱狂的なF1ファンでして、セナやプロストのレースなど時間を見つけては鑑賞しているのです」

「F1? 何だ、それ?」


 青木の目が輝いた。

「ご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」


 おっと。


「青木さん、それはまた今度にしましょう。ところで、タイラーとフリッツは? 湛山、あなたと一緒じゃなかったの?」


「いや? 俺は佐吉と二人で散歩していた」

「一緒に行くってあんたたちの後を追って行ったのよ」


 湛山が青ざめた。

「探してくる。佐吉! 行こう!」

「待って、あたしも行く! レディ!」


「了解」

「私も車を出しましょうか?」

「青木さんはここで待機していてください」

「承知しました。五秒お待ちください。朝食を携帯していただけるよう、今すぐ包みます」

「ありがとうございます」


 青木さんは目にも止まらぬスピードで、一人分ずつ特殊ラップで包み、すぐにあたしたちを追いかけて手渡してくれた。頭の中では引き続き日本GPが行われているのかもしれない。


 *


「おーい! タイラー! フリッツ!」

「タイラー! フリッツ! どこ!?」

「佐吉、彼らの匂いは?」

 佐吉がクーンと申し訳なさそうな顔をし、湛山が首を横に振る。

「こっちには来ていないようだ。ちょっと足を延ばして鬼押し出し園の方に行ってみよう」

「鬼押し出し園って観光名所じゃないの? そんな人が集まりそうなところでウロウロしてる?」

「朝の五時だぞ? 車がせいぜい一、二台通るくらいだろう」


 あたしたちは広い園を隅から隅まで調べ、レディと佐吉は浅間山の麓、何百年も前の噴火の際に流れ出た、ごつごつした溶岩帯の上を駆け回ったがヒットは皆無だった。だが、再集合して間もなく、佐吉が突然姿勢を正した。風に乗った何かを感じ取った様子だ。体の向きを変え、軽井沢方面に鼻先を向けた。

 湛山と顔を見合わせた。


「あっちだ」

 カラマツの並木が道路の両側に生い茂る中、園の外に出て坂道を昇った。

 すると、湛山の動きが遅くなった。


「どうしたの? 何か気になることでも?」

「いや、何でもない。見通しが悪いので、広範囲を調べられるよう、二手に分かれよう」

「分かった」


 あたしとレディは道路寄りの平坦な道を探すことになり、湛山は奥まったところの絹糸の滝とやらに向かうと言って再び駆け出した。ちょっと不自然ではないか? 何かに気づいたのだろうか? 気になって途中でUターンした。


「湛ざ――」

 声をかけようとしたが、そのまま飲み込んだ。佐吉を従え、誰かと話している。

 あたしはとっさに木の陰に隠れ、レディに静かにするように合図した。


 二十メートルは離れているので何を言っているのか分からない。すぐに耳の奥の音響ナノフィルターを最大出力で起動すると、滝の音が瞬時に遮断され、静寂の中で湛山ともう一人の男の話し声が鮮明に聞こえてきた。


「今まで一体どこに行ってたんだ? AIサピエンスにつかまったのではないかとみんな心配したんだぞ」

「悪い。あるAIサピエンスに出くわしてつかまった。それは事実だ。でも、俺は今ここにいるだろう? 別に自由を奪われたわけじゃないから安心してくれ」

「じゃあ集落に戻ろう」

「いや、仕事を頼まれたんで、まだ戻れない。十七歳のアメリカ人女性をさがしているんだ。それらしい者を見かけていないか?」

「十七歳のアメリカ人女性? 人間か?」

「AIサピエンスだ」

「だったら知らないな」

「何だよ、その突き放した言い方。人間だったら見たとでも言うのか?』

「仕事って、誰に頼まれたんだ?」

「質問に質問を返すのはやめてくれ。急いでいるんだ』

「湛山」

「頼む、親父」


 親父? あの人、湛山のお父さんなの? そうか! 湛山の隠れ家がこの近くにあるんだ!

 そう思った瞬間、もっとぶったまげる光景が目に飛び込んだ。湛山と、父親というその人物がゴツゴツした岩の上を軽々と飛び移り、激しく水飛沫を上げる滝の真っただ中へと進んでいったのだ。そして水流に打たれることなく消えた。あそこに入口があるんだ!


 驚きのあまり、つい、隠れていた木の幹をぐいっと握りしめた。その拍子に、乾いた枝がメキリと音を立てる。音響ナノフィルターで周囲の音をシャットアウトしているあたしの耳には、まるで爆音のように響いた。


「誰だ?」


 滝の向こう側から鋭い声が飛んできた。そして二人がひょっこりと顔を出した。しまった、気づかれた! 野生人間の動物的勘って動物以上じゃないの?

 気がつくと、大きな槍があたしに向けられていた。


「名乗れ!」

 どうやら湛山の父親はあたしを歓迎する気はないようだ。

「ちょっと、親父、物騒な真似はやめてくれ」

「お前は黙ってろ。初めて見る顔だ。AIサピエンスだろ?」

「いや、そうだけど、彼女は味方だ。俺と行動を共にしているんだ」


 年配の男の顔が歪んだ。


「何だと? お前、向こう側についたというのか!?」

「そういう訳じゃないけど、いや、そういうことになるかも知れないけど、さっき言った仕事だ。俺たちは人探しのミッション遂行中なんだ」

「捉えられて洗脳されたか? 道理で雰囲気が違うと思った」

 その時、レディが飛び出した。


 言葉もなく、猛然とロケットのように激しい水飛沫の中へ飛び込み、湛山の父親の胸元に飛びかかった。

「うおっ!?」


 不意を突かれ、父親は後ろ向きに転倒し、レディは馬乗りになり、前脚で抑え込む。

 轟音を上げる滝の水が容赦なく降り注ぎ、一瞬にしてレディの白い毛並みとボロ布の衣服を身に纏った父親が水の中で一体化した。


「親父!」

「レディ!」 


 急いで濡れた岩肌を蹴り、二人の元へ駆け寄った。湛山が父親の腕を引いて起こそうとし、佐吉が父親の背中の下に鼻先を押し込んで起こそうとし、あたしはその横に腕を刺し込んで中年の身体を支え、せーので引き上げた。


 父親は咳き込んで水を吐き出し、犬のように身震いして大きく目を見開いた。

「AIサピエンスめ」

「親父! その態度はないだろ!? マヤは親父を助けてくれたんだぞ?」

「ふん。手助けなど必要ない。自力で何とでもなったわ」


「はい」

 レディが川の中に潜って回収した槍を男の前に置いた。男が唖然としている。

「大事なものなんでしょ? ちゃんと持っていなさいよ」

「えっ!? 犬が喋った!?」


 レディは全身を激しく震わせて水飛沫を飛ばし、男を冷ややかに睨んだ。

「私はレディ。マヤの優秀なパートナー。今回はそこでぼーっとしているヤマイヌに免じて許してあげるけど、次はないからね。分かった?」

「何なんだ、この犬!?」


 レディはやれやれと大きく溜息をついた。

「犬犬って、何だか失礼な言い方ね。これだから人間は面倒で嫌なのよ」

「こら!」

「これとは何よ、マヤ? あなたもそう思ってるくせに。世の中の進歩についていけない原始人間にはいちいちゼロから説明しないといけないのに、理解しようともしないじゃない。ねえ、佐吉」


 何事かと走ってきた佐吉は尻尾をブンブン振り回し、うっとりとした表情でレディを見ている。


「レディの言うとおりだ。知らないから拒否する、恐れる、敵対視する。そんなじゃ自分の世界を狭めるだけだ」

「誰が恐れてるなんて言った!?」と言ってケホッ、また咳をした。


 湛山はシャツを脱ぎ、絞る。朝日を受けてキラキラと光る、逞しい大胸筋が眩しく、思わず横を向いた。

「親父、このレディには、言葉を話せるように先端技術が組み込まれているんだ。凄いと思わないか? 俺も最初はぶったまげたよ。AIサピエンスが悪と決めつけるのは違うと思う。俺ら人間と変わらないんだ。俺たちを捉えようとか殺そうとかしているんじゃない。俺は彼らと普通に会って普通にミッションを頼まれて、それでマヤと人探しをしているんだ」

「洗脳されたお前に今何を言っても無駄なようだな。何だか知らんが、手を貸してくれたことについては礼を言う」


 男は、少なくとも、あたしが彼に危害を加えようとしているわけではないと理解したのか、少し緊張が緩んだようだ。

「それだけか?」

 レディが身震いをしながら父親の足元に歩み寄った。

「マヤのシステムには、今この瞬間も首相官邸や警察へ一発で繋がる緊急通報ラインが組み込まれているの。あんたたち野生人間を見つけた時点で、本来なら即座に報告して部隊を呼ばなきゃいけない立場なのよ」

「はん。それで殺すんだろう」

「違う。殺すわけじゃない。ただ、絶滅したとされる人類は、私たちにとって未知数だから警戒するのは当然でしょう? それをマヤはあえて報告しないのよ。原始脳でも分かるんじゃないの? 私たちは野性人間狩りにきたんじゃない。行方不明者を探しているの。私たちもあなたの息子も信頼できないんだったら、そこのヤマイヌに聞いてみなさい」   


 佐吉が肯定するように「オン!」と短く吠えた。


 父親はあたしの顔をじっと見つめ、あたしのホログラムインジケーターが消えていて、通信をオフにしているのを確認すると、ようやく深く息を吐いた。

 レディが言うように、新たな野生人間の発見は上層部に報告すべきだが、今はジェイミーを見つけることが最優先だ。あたしだって、何となく、なぜか湛山の父親を新たなサンプルとして連れて帰る気にはならないし。


「誰に言われて、誰を探していると言うんだ?」

「私たちは総理大臣の指令によりここにきています。公にはできないのですが、来日中のアメリカ大統領のご令嬢が行方不明となり、誘拐を思わせるメモが残されていたため、私たちが秘密裏に彼女を探しているんです。何か心当たりはありませんか?」

「知らん。俺たちには関係ないことだ」


「俺たち」ね。この辺のどこかに野生人間が複数人、共存しているわけだ。今後のために情報をインプットしておいた。


「さっさと東京へ帰れ。湛山、お前もだ。こっちに戻ってきたんじゃないというのなら東京でもどこへでもとっとと行け」


 頑固おやじとレディがぼそっとつぶやいた。

「マヤ、行きましょう。佐吉、行くわよ」


 佐吉がニコニコしながら尻尾を振った。ん? 何か口に咥えている。布の切れ端か? 何やら見覚えのあるライトグリーンの縞模様……。


「佐吉! それ、どこで拾った?」湛山がしゃがみこみ、切れ端を手に取った。


「フリッツが着ていたシャツの生地だ。親父? 男性二人が今朝、集落に来たんだな? そうだろ? 答えてくれ。嘘をつくなよ」

「俺は嘘などついていない」

「知ってる事実を話さないだけとか言うんだろ? いいから教えてくれ。十代後半の外国人青年二人だ。彼らを見たよな? 集落にいるのか?」


 男性は湛山からあたしに目をやり、諦めたような顔で溜息をついた。


「ああ、そうだ。早朝、この辺をウロウロしている彼らに出くわした。俺を見て驚いて躓いて洋服をその辺で引っかけていた」

「じゃあ、俺たちも集落に行く」

「この女もか?」

「女じゃない。マヤだ」

「AIサピエンスは嫌いだ。信用できん」

「親父!」

「分かったよ。じゃあ、目隠しをしろ。それなら連れて行ってやる」


 * 


<囚われの身に>


 あたしの視界は親父に巻かれたボロ布のせいで真っ暗闇に包まれ、レディまで目隠しをされたが、滝の轟音が次第に遠ざかっていく。音で分かる。もちろん、流量も流速も。


 レディが一歩踏み出すたびに振動が伝わる。不安そうな動きだが、彼女にはこれまでに様々な試練を乗り越えてきた実績がある。

 それに、その隣を軽い足取りで進むんでいるのは佐吉だろう。レディにぴったりと寄り添っているようなので、彼女はこの間抜け面ナイトに任せて大丈夫だろう。


「三歩先に十センチくらいの段差だ。脚を上げろ」


 ぶっきらぼうだけど心配そうな湛山の声が聞こえる。こいつ、意外といいヤツなのかもしれない。


 しばらくの間、周囲に細心の注意を払いながら進んだ。見えてなくてもデータは取り込んでいるからね。ざまあみろ。なんて、誰に言っているんだか。


「外していいぞ」


 父親の許可が出てすぐに湛山が目隠しを外してくれて、ようやく視界が戻った。眩しくて、瞬時にセンサーが絞られ、あたしは即座に周囲をスキャンする。


 洞窟。木と木の間に渡された麻ロープのようなものに衣類らしきボロ布が干され、粗末なテーブルと丸太がいくつかあり、数人がそこで食事をしている。


「タイラー! フリッツ!」


 先に声を上げたのは湛山だった。

「何故ここにいるんだ? どうして突然消えた?」

「湛山さん! マヤさん! ごめん! 僕たち、喋りすぎたと思って不安になったんだ。ジェイミーと合流して彼女のことをあんたたちに話していいのか確認するのが先だと思った」

「嘘じゃない、本当なんだ。ジェイミーを怒らせると怖いからね」

「ほんとに? 逃げようとしたんじゃないでしょうね?」

「ほんとだって! 」


 二人の弁明を聞きながら、あたしは彼らがちらちら見る方向にシステムをリダイレクトしてズームした。洞窟の入り口。掲げられた葉のカーテンがかすかに揺れ、ほっそりとした少女が出てきた。


「朝っぱらから騒がしいわね。何なの?」


 ボンボンたちが振り返り、声がハモる。


「ジェイミー! 」


 間違いない。写真で見たジェイミー・マキンリーだ。


 色とりどりのスパッツの上に、集落の人間に借りたのだろう、粗末なポンチョのようなものを羽織っている。

「あなた、ジェイミー・マキンリーさんね?」

「そうだけど」

「探しましたよ。私は首相官邸のマヤ。あなたをお母様の元へお連れするためにお迎えにまいりました」

「えーっ? 冗談じゃないわ。ようやく自由になれたのに、ふざけないで」

「ふざけてなどいません。さあ、一緒に戻りましょう」


 あたしは我らがF1ドライバー・青木さんに現在地を報せようと、腰にかけたガジェットに手を伸ばした。


「そのボタンを押すな。警察を呼ぶつもりだろうが、そんなことはさせない」


 親父が年に合わない速さと力強さであたしの手を取った。


「放してください。警察は呼びません。運転手に連絡するだけです。私たちはこの人を親元に連れて帰らないといけないんです。彼女はまだ未成年なんですよ?」

「この子は自分の意志でここに来たんだ。必死の思いで、AIサピエンスの世界を捨ててまで、我々人間の集落を選んだ。かつてAIサピエンスが世界を奪い取った人間の小さな集落を」

「人ぎきの悪い。APサピエンスはそんなことはしていません」

「出まかせをいうな。君たちはまた力づくで個人の思いを踏みにじるつもりか? ハイテク装備を振りかざす警察を呼んでこの場所を乗っ取って、我々人間を、今度は本当に絶滅に追い込むつもりか?」

「彼女が誰なのかご存じなんですか? 米国大統領のお嬢様なんですよ?」

「そんなことは知らんし興味もない」

「いいですか? よく聞いてください。私たちは警察にもシークレットサービスにも連絡しませんし、人間を絶滅に追い込むなど、そんなことをする気は毛頭ありません。しかし、彼女は連れて帰ります。申し訳ありませんが、下がってください」

「あんたには血も涙もないのか? この子は命がけでドローンとやらを操縦してここに辿り着いたんだぞ」

「お言葉ですが、血も涙もデータで再現可能です。それに、彼女を心配して待っている母親の涙は本物ですよ。湛山、大統領がどんなに娘さんに会いたがっているかをお父さんに言って」


 湛山が父親に近寄る。


「親父、気持ちは分かるけど、マヤが言う通りだ。大統領は、ここにいるジェイミーが誘拐されたと信じてやきもきしている。G7に出ないと言っている。同じ親として、他人にそんな思いをさせていいのか?」


 湛山の言葉が父親に響いたのだろうか。あたしの手首を掴んでいた指から微かに力が抜けた。


 その時、洞窟の入り口にかかる葉のカーテンが再び大きく揺れて、一人の青年が出てきた。


「ジェイミーを連れて行くな! どうしてもというなら、僕を倒してからにしろ」

「……ルイ!? 何でお前が…?」


 湛山が真っ青になった。


「湛山? 彼を知っているの?」

「…俺の従弟だ」


 従弟? そういえば、彫刻のように整った青年の顔はどことなく湛山に似ている。


「ルイ、お前は関係ないだろ? 引っ込んでろ」

「関係、大アリなんだよ」

「どういうことだ?」

「ジェイミーは俺のところにきてくれたんだ」


「ジェイミーとは去年、狩りの途中で会ったんだ。彼女は学校のグループとはぐれてしまって迷っていた途中で転んで怪我をしていた。手当をして、二日間一緒にいて、お互いに惹かれ合った。俺も彼女もお互いが運命の相手だと確信したんだ」

「バカな。二日間くらいでそんなことを確信できるわけがないだろう」

「それがあるんだよ、湛山。湛山は俺よりずっと年上だけど、真剣に人を好きになったことがないだろう?」


 ルイはそう言ってジェイミーの隣に進み、彼女の手を取って固く握りしめた。


「俺たちを突き動かすのはデータや理屈じゃないんだ」


 あたしはすかさず割り込む。


「二日間。時間にして四十八時間。脳内エンドルフィンの急激な分泌による一時的な錯覚である可能性が極めて高いです。ジェイミー、あなたもAIサピエンスならそれくらいのことは分かりますよね?」

「AIサピエンスだろうと人間だろうと、そんなことどうでもいい! 私はAIサピエンスだし、人間の要素も入っている。だけど、その人間の部分だけが類に惹かれたんじゃない。私が何であろうと、私のすべてがルイと離れてはいけないと叫んだの」


 ルイと離れてはいけないと叫んだ? どういうことだ? AIサピエンスの高度なシステムにそんなエラーは起こり得ないはずだ。


 ともあれ、若者の偏ったロジックに惑わされてはならない。


「とにかく、理屈がどうであれ、大統領が死ぬほど心配しているんです。それは事実です。泣いているんですよ。ルイ、あなたはそれでいいんですか? ジェイミーのお母さんを苦しめて楽しいですか?」

「そ、そんなこと――」


 ルイは一瞬、言葉を詰まらせ、ジェイミーの手首を握る手にぐっと力を込めた。野生人間でも――いや、野生人間だからこそ、愛する人の母親を傷つけているという事実が良心を咎めるようだ。


「ママが泣いていた? あの人が?」強気だったジェイミーの瞳が僅かに揺れた。

「そうです。目が真っ赤でした。あなたを心から心配していて、あなたを傷つけたくないがゆえにシークレットサービスや日本の警察には絶対に連絡しないようおっしゃって、友人である総理に相談したんです。その結果、あたしたちが今ここにいるのです。このままでは数日以内に始まるサミットに大統領がご出席できるのか定かではありません」


「サミット。やっぱりそういうことね。私が心配なんじゃなくて、自分の仕事が心配なんだ。あの人はそういう人よ。自分のキャリアが大事、家族はお飾り。そんな人のシナリオに付き合うのはもうまっぴら!」


 そう言い捨てて洞窟の中に戻っていった。しまった。余計なことを言わなきゃよかった。


「ジェイミー!」


 すぐに、ルイが彼女の後を追ってカーテンの奥へと消えていった。


 湛山が軽く肩を叩いてきた。


「おい、火に油を注いでどうするんだよ」


 呆然とするあたしの脚にレディが体を擦りつける。

「マヤ、相手は十七歳の女の子なのよ? 国家の都合なんて言い出したら拗ねるに決まってるじゃない。まあ、言ってしまったことはしょうがないわ。どうやって挽回する?」

「い、言われなくても分かってるわよ」


 あたしは必死に事態を修正すべく、頭の中のシステムをフル稼働させた。しかし十七歳の女性の反抗期、大統領の娘――極めて特殊なケースで、官邸の仕事にしてもプライベートにしても、成人AIサピエンスの世界で生きるあたしは、若い女の子の心理分析データなど持ち合わせていない。どうすればいい?


「どうする?」


 湛山が眉をひそめて聞く。


「あの……」


 その時、黙ってやりとりを見ていたタイラーが恐る恐る声をかけてきた。


「ジェイミーはちょっと我儘なところがあるけど、本当に純粋ないい子なんだ」

「タイラーの言うとおりだよ」と、その隣のフリッツが言う。

「去年のサマーキャンプ……僕も参加していたんだけど、ジェイミーはグループからはぐれてしまって大騒ぎになったんだ。身体のビルトイン通信システムで連絡はできたから彼女が怪我をしたことは分かっていたんだけど、細かい現地情報がなくて、彼女の居場所が分からなくて先生たちもパニックになっていたんだ。そこにルイが現れて、彼女を手当して面倒見てくれたそして、二日間一緒に過ごして、すっかりお互いに虜のなった」

「正直言って、僕にもタイラーにも理解できないことなんだけど……人間の感情ってやつ? どうしようもないくらいお互い骨抜きになったみたいで、キャンプが終わってそれぞれのホームベースに戻ってからもずっとチャットで繋がってて、あいつらに言わせると山の中にいた時以上に強い絆ができたんだって。だから、大統領を困らせたいわけでもなんでもなくて、一人の女の子としてルイと生きていきたい、ルイはジェイミーと一緒にいたいっていう、命がけの選択なんだよ」

「あなたたちからすると僕らは子どもにしか見えないかも知れないけど、僕たちは僕たちなりに十七年生きてきて身につけたことや感じたことがある。僕たちからすれば、大人と何ら変わらないんだ。ジェイミーとルイの関係は本物だと思うよ。年齢なんて関係ない。ルイが僕らのようなAIサピエンスでなくて、百パーセント人間であっても、そんなの関係ないんだ」


 この若者たちの思いが純粋なのは理解できた。だからといって「ああそうですか、分かりました」と退散するわけにはいかない。どうすればいいのか考えていると、湛山の父親がぼそっと、「とにかく、一旦飯にしよう」と言った。初めてまともな提案だと思った。


 *


<野生人間の集落にて>


「いただき…ます」


 朝食は、おやきとかいう代物だった。聞くと、そば粉と雑穀の粉を練った生地で塩漬けした保存食、山菜の油いためを包んで、キャンプファイヤーの灰の上でじっくり焼いてあるらしい。変わった匂いがする。


 都会の百二十パーセントクリーンなキッチンで3Dプリントされる料理とはあまりにも違う。

 眼の前のお粗末な竈で焼いたとは。


 歴史を確認すれば、きっと人間は古の時代からこのようなものによって生き延びて、そして我々AIサピエンスの時代へと変遷してきたのだろう。


 しかし…表面が硬い。クレープシュゼットのように柔らかくもなく、バゲットのようにパリッとしているわけでもない。一言で言うと…素朴…である。


「おい、マヤ、そこに突っ立ってないで食え。せっかくできたてでほかほかなのに冷めちまうぞ」


 湛山が大きなおやきを豪快に頬張りながら、開いている丸太の椅子を、顎をくいっとさせて示している。「ほら、レディも旨そうに食ってるぞ」


 湛山が言う通り、我が誇り高き愛犬も佐吉の隣で地面に寝そべってむしゃむしゃとおやきをいただいている。

 こんなに原始的な、あちこち焦げたものを彼女が口にするとは驚いた。間抜け面の佐吉の影響なのだろうか。


 周りを見ると、米独高官のご子息たちもハフハフ言いながら一心不乱に食べている。まあ、朝食を食べずに消えたのだから腹がすいているのだろう。


「食わないのか? 食わないならみんなが食っちまうぞ。あ、そうか、AIサピエンスは腹が減ることなんてないんだっけ?」

「そんなことない。あたしたちだっておなかは空く」

「じゃあ」

「うん」


 ええい、何事も経験だ。それに、野生人間たちが野生人間なりにホスピタリティを発揮して自分たちの食料を分けてくれているんだ。食べないと失礼になる。


「いただきます!」


 あれ? 意外といけるかも。うん、見た目ほど悪くないというか、結構美味しい。

 香ばしいのはこのそば粉とかいうやつだろうか? 野生動物の油でいためられた山菜の旨味があたしの味覚センサーを心地よく刺激する。噛めば噛むほど、浅間山の麓で生きてきた人間たちの血肉となった歴史データがガツンと脳内システムに伝わってきた。

「美味しい」

「だろ? 親父の作るおやきは、この辺じゃちょっと有名なんだ」と湛山が誇らしげに言う。


 ついさっきまで愛だの絆だの何だの青臭いロジックを述べていた若者たちが、今はただただ、熱い塊を懸命に頬張っている。洞窟から出てきたジェイミーも、ルイが小さくちぎって手渡すおやきをハフハフと咀嚼している。その横顔からは、先程の棘が跡形もなく消えている。


 朝食を終えて腹一杯になって、改めて本題に入ろうと思った。なんせ、こうしている間にも時間はどんどん過ぎていくのだから。

「それでは――」と言いかけたところで湛山に遮られた。


「さあ、腹が満たされたところで少し体を動かそう。魚を捕りに行こう」

 は?

「何だ、その顔? 道具はないぞ。手掴みだ」


 手掴み…で生臭くぬるぬるした魚を撮る? 冗談でしょう?

 まさか、大統領のご令嬢がそんなことをするわけがない。と思っていたが、その反応は真逆だった。


「わーい! 面白そう! 行こう、行こう!」

 面白そう…ね。はいはい。全く、今時の若者というのは理解に苦しむ。新人類、いや、新AIサピエンスか。


 *


<野生生活を垣間見る>


 細い山道を登り、下り、また登っていくと、次第に水の音が聞こえてきた。結構幅のある川だ。

「さあ、入っていいぞ。ところどころ、急に深くなるところがあるから気をつけて」

 まるで引率のリーダーである。ボーイスカウトでもやっていたのだろうか? 人間社会にはそういう組織があったと記憶していたが、それは何十年の前のことだと思い直して、単にヤツの性格なんだろうと自分を納得させた。


 それにしても、湛山を始め、若者たちもえらく生き生きしている。佐吉は言うに及ばずだが、レディでさえ、いつもなら「やだ! 冷たい!」とか文句を言いそうなところなのに、笑顔が弾けているではないか。少数派のあたしの方がむしろどこかおかしいような気すらしてきた。


「捕まえた! あ、逃げられちゃった!」

「指の間から滑り落ちるよ!」

「じっとしなさい、この魚め!」


 笑い声が飛び交う中、何匹か魚が捕れたようだ。大きな岩をいくつか寄せて作ったプールに次々と放り込んでいく。なるほど。それなら魚が逃げることもない。


 普段はAIサピエンスのあたし以上に落ち着いてクールな湛山だが、ここにきて髪を振り乱しながら若い子たちと一緒になって声を上げて笑っている。太陽の光を受けて、白い歯がキラキラして。ふうん、ホームグラウンドだとこんなに笑うんだ。


 あ、目が合った。こっちに来る。来なくていいのに。


「公カメの御御足には水が冷たすぎるか?」


 せっかく感心していたのに、嫌味ったらしいヤツだ。


「そういう訳じゃないけど。あ、それより、こんなことをしてる場合じゃないでしょ!? 早くジェイミーを連れて東京に戻らないと」

「あんた、そういうところはお堅いAIサピエンスの役人そのものだな」

「だってAIサピエンスの役人ですから」

「何ふてくされてるんだよ。無理やり連れていこうとしたところであのジェイミーが素直にいうことを聞くと思うか? ルイが黙って手を振って見送るとでも?」


 そりゃそうだけど。だからといって、みんなでサマーキャンプごっこをするのも、イライラが募るばかりだ。


「ふてくされてなんかいません! やるべきことをやれないから忸怩たる思いで少々イラついてしているだけ。そんなこと聞くまでもないでしょうが」

「やっぱりイラついているんだ」


 あんたのせいでね。


「じゃあ聞くけど、湛山はみんなで仲良しクラブを結成すればお嬢様を無事に連れ戻せると言いたいわけ?」

「そんなことは言っていない。ただ、ジェイミーとルイ、それにタイラーとフリッツの信頼を得ることが今は最も大事だ。あんたの優秀なシステムがあればそれくらい分かるだろうが。イライラって、感情がロジックの邪魔をしているんじゃないのか?」


 たかが野性人間のくせに何という……。


 あたしは頭に血が昇り、顔が真っ赤になる感覚を覚えた。そのようなことは実際には起こりえないのだが。


「いいか、よく聞け」


 何か言い返す前に、湛山があたしの手首を掴み、ぐいっと一本の木の方に押す。これって昔はやったらしい「壁ドン」とかいうヤツでは?


「俺だって、頼まれた以上、やることはやる。ジェイミーを連れて帰る。一刻も早くそうしたいのは俺だって同じだ。だが、彼女もルイも本気だ。殴って気絶させて無理やり連れて帰る以外、今は無理だ。だからこうやって共に行動し、一緒に飯を食って、集落で一緒に夜を過ごす。一日か二日もあれば、ちょっとは信頼してくれるようになるだろう。連れて帰るのはその時だ。そうでないと、無理強いしたところで、どこかで脱走を図るのは目に見えている」


 なんであたし以上にちゃんと考えているかのように話すわけ? あんたは野性の肉体派で、それはあたしの役目だろうが。ああ、イライラが増す。


「分かったか? 俺たちはチームだろ?」


 仕方ない。


「分かった」

「よし」


 また頭をポンとした! それやめろってば!

 こうしてあたしたちの行方不明者救出計画は、やや時間をかけることになったが、あたしは別に引いたわけではない。

 すぐに挽回してやる。


 その後、少し川下の方に行くと、ぎっしりと生える緑色の雑草が川面から伸びていた。


 凄い雑草… 管理されていないとこうなってしまうんだな、と思ってみていると、


「雑草なんかじゃないぞ」とヤツの低い声が聞こえた。しまった、声に出していたとは不覚だった。

「クレソンだ」

「クレソン? サラダとか肉の付け合わせの?」

「AIサピエンスがどういう食べ方をするのか知らんが、多分そうだ」


 そう言って湛山はすいすいと膝まで深い水の中に進み、一束引っこ抜いて少しちぎり、頬張った。


「旨い。ほら、食べてみろ」


 あたしは、差し出された葉を恐る恐る口に入れる。


 あのクレソンだ。でも、味が濃い。少し苦くて、シャキシャキだ。


「美味しい」

「だろ?」


 満足そうな顔をする野生人間に何か言い返してやりたかったが、何も思いつかない。仕方ない。ここはヤツのホームグラウンドなのだからと自分に言い聞かせ、集まってくる蚊を追い払った。 


 *


 夕食はイワナ焼きとおやきだった。


 あの後、湛山に無理やり川の中に引っ張り込まれ、結局、魚のつかみ取りを強制された。

 意外なことに、思っていたほど気持ち悪いものではなかった。


 むしろ、それなりに楽しいアクティビティだった。それは認める。あたしは理不尽に頑固なわけではなく、ただ、冷たい川に入ってぬるぬるした魚を虐待する行為に率先して参加する気になれなかっただけだ。

 別に湛山と若者たち、レディまでがバシャバシャとずぶ濡れになって楽しそうにする姿を羨んでいたのではない。


 しかし、まさか自らの手で捕った魚を食することになるとは。近代的なAIサピエンスのあたしが、である。信じられない気持ちだったが、以外にも美味しかった。豊富な3Dプリント食のメニューとは比べ物にならない粗末な原始食だろうと高を括っていたが、予想外に味がよく、その新鮮な食感には後を引く何かがあった。


 またしても腹いっぱいになり、他のみんなが寝静まった今、かまどの残り火に当たりながらぼんやりと星を眺めていると、湛山の父親がこちらに歩いてきて、あたしの近くの丸太に腰かけた。


「眠れないのか?」

「ああ、いえ。星がきれいだなと空を見ているだけです」

「こんな満天の星、東京では拝めないだろう?」

「そうですね」


 正直言うと、東京では星空を見上げたことなどなかったが、多分彼が言う通りなのだろう。


「今朝は悪かった。別にあんた個人にどうということではないが、AIサピエンスは嫌なんだ。二度とかかわり合いたくないと思っていた」

「二度とかかわりたくない? 何故ですか?」

「湛山が二歳か三歳くらいの頃、世の中はAIサピエンスが中心となって動いていた。私の家族は妻の出身地である嬬恋村に避難していたんだが、AIサピエンスがこの一帯で大規模な気候操作をして人工的な豪雨を発生させ、特殊な大気浄化物質を散布した。地球環境がボロボロになっていたことは我々も分かっていたから、ある程度は仕方ないと言っていたんだが、まさかあそこまで大々的にやるとは予想の範疇を超えていた。土砂崩れや地下空洞の崩落があちこちで起こり、妻はその災害に巻き込まれて命を落としたんだ」

「そんな……」

「世界各地でそういうことが起こり、その結果、我々人間は居場所を失った。憎むのはお門違いかも知れない。でも、効率第一主義のAIサピエンスと相容れることは考えられないんだよ。AIサピエンスの方も、人間は感情に左右される、浅はかな生き物だと決めつけている。共存を認めることはないだろう。ジェイミーもそれをよくわかっている」

「どういうことですか?」

「ジェイミーは、ルイと恋に落ちた。だが、AIサピエンスのエリート中のエリートである母親がルイとの仲を許すわけがないと知っていて、それで駆け落ちしたんだ。それを私たちが咎めると思うか?」

「でも、大統領がルイ君との仲を認めることだってあるかもしれないじゃないですか」


 湛山は首を横に振った。


「ジェイミーだって、ルイとの関係を認めてくれるよう、母親に何度もかけあったそうだ。でも、大統領は話を聞こうともしない。結局、いくら頑張ったところで無理だと諦めて、ワシントンを逃げようと決心した。そして友人たちの手を借りて今回行動に移したんだ。こんな大それたことを本当に実行するとはルイも思っていなかったようだが、彼女が母親を捨ててまで自分のところに来てくれたと感動しているよ」

「甥っ子さんがAIサピエンスであるジェイミーと一緒になることに対して、あなたは反対ではないんですか?」

「もちろん、最初は戸惑ったし反対した。でも、決して得諦めようとしない二人を見ていて思い出したんだ」

「何をですか?」

「かつては我々人間の間でも、人種や身分、財力とか、色んなことで、自分と違う誰かを認めないことがよくあった。結局それと変わらないんだ。未知のものは否定するのが一番簡単なんだよ。でも、あの二人にはそんなことはどうでもいいんだ。お互いを思う純粋な気持ちが溢れんばかりにある。あの顔を見ていると反対し続けることなどできっこない」

「そうなんですか」


 あたしにはその「純粋な気持ち」が理解できないが、この人も最初からすんなりとジェイミーを受け入れたわけではなかったことは分かった。それを変えてしまうだけの力が、あの二人にあったのか。


「AIサピエンスにそんな感情があるとか、あまり考えたことがないです」


 湛山の父親が頷いた。


「それが普通だよ。AIサピエンスでも人間でもね。昔の人間はそうでもなかったが、生きるために必死で、そんな余裕はいつの間にかなくなったんだ。あの二人はそれを気づかせてくれた」


 そういって立ち上がり、あたしの目を見た。


「だいぶ余計なことを言ったけど、もうすぐ明日になる。君もそろそろ寝なさい」

「はい。もう少しだけ、星を見てから寝ます」

「おやすみ」

「おやすみなさい。話してくださってありがとうございます。普通では聞くことのできない、貴重なお話でした」


 あたしもしばらくして洞窟の中に入った。

 つたのカーテンで仕切られ、手前では男どもがいびきをかき、大の字でへそ天の佐吉が何かむにゃむにゃと寝言を言っている。あんたも言葉を話せればいいのにね。


 これは、ちょっとやそっとでは目を覚まさないだろうなと思いつつも、物音を立てないよう慎重に奥へと進んだ。


 ジェイミーの隣に用意してある寝床で静かに横になった。


「マヤ?」

「ん? あ、すみません、起こしてしまいましたか?」

「ううん。考え事をしていたの。今日はごめんね。こんな遠くまで迎えに来てくれたのに」

「いいんですよ。自由を求めてここまで思い切った行動をとられた後に、迎えが来たからといって、はい、そうですかと従う人なんていないでしょう」

「自由、ね。別に普段不自由しているとは思わないし、恵まれた環境にいることも分かってる。ママは猛烈な仕事人間だけど、大統領としてそれは当然だし、私も母親を恋しがる年齢でもない。それほど不満があるわけじゃないの。ただ、ルイと一緒にいたいの。それだけ」


 AIサピエンスとしては当然とはいえ、想像していた以上に物事を解っているようだ。なのに一人の青年と一緒にいたいと思い、それだけのために友人たちを巻き込んだ大胆な脱出計画を練り、行動に移すとは。その「一緒にいたい」気持ちというのは一体どこから出てくるのだろう?


 同じAIサピエンスなのに、あたしにはさっぱり分からない。


「マヤは誰かを好きになったことってある?」


 ドキッとした。


 なぜか湛山の顔が頭に浮かんだが、慌てて首を振った。このところ共に行動しているから。そう、それだけのことだ。


「ジェイミー様――」

「ジェイミーって呼んで」

「承知しました。では、ジェイミー。私はAIサピエンスとして正しく、国のために働いてまいりました。この度は我が総理、並びに米国大統領であるお母様のご依頼ですので、精一杯務めさせていただいております」


 そうじゃなくて、とジェイミーが言いそうだったので、「誰かを好きになったことがあるかとご質問されたのでしたね」と続けた。


「公式フォトグラファーとしての日々は充実しております。写真は好きですが、誰かを好きになるというのは専門外でして、私のデータ上、経験がございません。お役に立てなくて申し訳ありません」


「Once an AI-sapiens, always an AI-sapiens, huh?」

「はい?」

「いや、根っからのAIサピエンスなんだなと思っただけ。あなたは私の周りの大人たちによくある、真面目サピエンスのパターンに違いないんだけど、今日一日一緒にいて、ふと、違う感じがしたので聞いてみただけ。ごめんね、変なことを聞いて。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 ジェイミーはほどなくして静かに寝息を立て始めた。


 あたしはと言うと、彼女の言った「違う感覚」についてデータをむさぼり読み、思考を巡らせ、眠れない夜を過ごすことになった。


 *


<葉っぱカーテンのこちら側/湛山>


 寝つけない。


 あれが親父がいつだったか言ってた「ガールズ・トーク」というやつか。


 月の下で一杯引っかけようと外に出たら、あのAIサピエンスと親父が何やら話していたので慌てて引き返したのだが、俺はなぜ隠れているのだろうと思いつつ、タイミングを逃したので仕方なく洞窟に入った。

 入ったところで猿酒を飲んでいると、別に盗み聞きしようとしたわけではないが、どうしても話し声が聞こえてきた。夜は静まり返るので致し方ない。


 親父がなぜAIサピエンスを嫌っているのか、あの子に話してくれてよかった。いや、別にどちらでもいいのだが。しかしコンビを組んでいる以上、余計な摩擦は不要だ。それだけのことだ。別に俺の家族のことを知ってほしいのではない。


 ジェイミー嬢と少し打ち解けたようでよかった。


 若いのに、ルイを本気で思っているようだ。聞いていて、こっちが恥ずかしくなる気がしないでもなかったが、女子はそういう話をするのを好むと、以前誰かから聞いたことを思い出した。


 そうか。マヤは誰かを好きになったことはないのか。そうか。それは良かった。

 いや、仕事人間…いや、仕事AIサピエンスだなと思っただけだ。人間であろうとAIサピエンスであろうと、仕事に誇りを持つのはいいことである。


 俺は――俺の仕事って何だったっけ?

 狩りをして魚を捕り、山菜をとって、薬草を摘み、木材を使って食卓や椅子を作り――これも立派な仕事だよな?


 今までこんなことを考えたことなどなかったのに、俺はどうしたというんだろう?


 あのAIサピエンスのせいだ。

 都会のエリートというAIサピエンス。そしてその優秀な犬。俺とは全く正反対の近未来的な生活をする彼女たちを目の当たりにして、ちょっとショックを受けているんだ。そりゃ誰だってそうなるだろう。いいからもう寝よう。


 と、さっきから思っているのだが、あれこれ気になって眠れそうにない。満足そうに寝息を立てるルイと平和な寝顔の親父、腹を出して大いびきをかく佐吉。あんたたちはいいよな。俺は――俺は――ジェイミー嬢を無事に大統領の下に連れて帰るミッションで頭がいっぱいだ。


 *


<東京>


「まだなの、ヨンジャ? まだジェイミーは見つからないの?」


 李総理は官邸の廊下を進みながら、目の前のフローティング・スクリーンの中の米国大統領に応える。


「サマンサ、落ち着いて。居ても立っても居られない気持ちはお察しするけど、群馬の浅間山付近にいると報告を受けたわ。外部に情報が漏れないよう慎重に、お嬢さんの安全第一で動いているから、もう少し待ってて」

「念のため繰り返すけど、警察はダメよ」

「分かってる。現地のマヤも湛山もそれは重々承知しているから安心して頂戴」

「長年の友であるあなたを信じているわ」

「今夜のプレ・サミット夕食会には出席するわよね?」

 サマンサが目を伏せる。


「そんな気分じゃないけど、もちろん出るわ」

 総理は胸をなでおろした。


「普段通りに一つ一つこなしていくのが一番よ。ポーカーフェイス、得意でしょ?」

「当然でしょう。強い米国大統領を世界に見せつけるわ。この前買った赤いドレススーツを着てね」

「パワースーツね。それがいいわ」


 英子は誘拐ではないかもしれないと言いかけたが、情報が確認できるまではサマンサにも伝えないことにした。さらわれたのでなければ安堵するだろうが、そうなると、ジェイミーが自ら母から逃げたことになる。それはそれでサマンサがやきもきするのは目に見えていた。


「今から公邸に戻って着替えてくる。とても辛い状況だけど、お会いできるのを楽しみにしているわ」

「私もよ。では、一時間後に」


 エレベーターで一階に降りると、ペン記者が集まってきた。毎度のこととはいえ、毎回毎回ぶら下がりで何か話せだなんて、この人たちは、総理が目の前に現れるたびに新しいコメントを提供できるとでも本当に思っているのだろうか? 総理を務めて数年になるが、未だに解せない。かといってガードを増強すれば、それはそれで何か隠しているのではないかと憶測が憶測を呼びかねない。英子は、にっこり会釈して足早に外に出た。


 外の空気に触れて、いつもはほっとするはずだが、より張り詰めた空気が肌を刺した。壁の向こうの道路の方に目をやると、木々で遮られた道路の向こうに警察の装甲車両の上部が見える。


 G7の警備も随分と物々しくなったものだと思いつつ、英子は手元のデバイスを操作して青木を呼び出した。

「青木さん? そちらはどう? 進展は?」

「総理! お疲れ様でございます。私は現在、嬬恋村の旧別荘地でスタンバイしておりますが、マヤ様と湛山様と一昨日、あるドローンを追跡し、乗り込んでいた二人の外国青年の身元を確認したことはお話した通りでございます。昨日の朝早くに青年たちが消えてしまい、マヤ様、湛山様が行方を追っている状況が続いておりまして、お持ちいただいている護身用ペンの発信機能を用いて青木の方でも位置を追っているところでございます」

「そう。で、彼らは今、どこに?」

「それが…絹糸の滝付近で信号が途切れてしまい、連絡が入るのをお待ちしているところです」

「分かりました。引き続きよろしくお願いします。何か分かったらすぐに報告してください」

「もちろんです。お任せください」


 上空を飛ぶ複数ヘリのローター音に眉間を寄せ、もう少し静かにできないものかと苦々しく思いながら、英子は公邸へと急いだ。


 *


<浅間山の麓>


 早くも二日目の夜だ。

 こんなに長居するつもりはなかったが、湛山がこちらを見て「まだだ。先ずはジェイミーの信頼を得る」と意思表示をしているのが手に取るように分かる。


 今日は集落の別の親子と一緒にキャベツの収穫作業に励んだ。一番喜んでいたのは佐吉だろう。周囲をちらほら見ながらつまみ食いしていた。何と、レディまで味見をしているのを見た時は驚いた。ピカピカに光るディナープレートからスプーンで一口ずつ食べさせないと不機嫌になる、あたしの、あのレディが、だ。佐吉の野性が彼女の中の何かを呼び覚ましたのだろうか。


 夕食は和風の野菜煮込みと、おやきの外側にグミのシロップをかけたものだった。甘いビスケットのようで、要するに、おやきがベースでパンのように使われているのだと気づいた。あたしのデータを確認すると、人間は何十年も前から主食にご飯やパンをたべていたらしい。その名残なのだろう。


 今夜もきらめく星が空一杯に輝き、今にも零れ落ちてきそうだ。星を見上げていると頭の中身がすっと吸い取られていくというか、からっぽになっていくようで、何だか宇宙と一体になれそうな気がする。


「今夜も天体観測か?」


 湛山が音も立てずにこちらにやってきて、前の晩には父親が座っていた丸太に腰かけた。

「星を見てるだけ。いけない?」

「そんなことは言っていないだろ。一杯どうだ?」

 そういって無骨な木製カップを差し出した。

「これ、何?」

「カラマツの中身をくり抜いたカップ」

「中身を聞いているんだけど」

「ああ、そうか。猿酒だ」

「猿酒? まさか猿が作ったとかいうんじゃないでしょうね」


 湛山が白い歯を見せてハハハと笑った。

「まさか。色んな説があるが、山葡萄の果実酒だよ。去年の秋に仕込んだもので、ちょうど飲み頃だ」


 思わず声が出た。「甘い! 美味しい! ワインみたい」


「猿酒」なんて聞いて、どんなものかと思ったけど、くどすぎなくて、優しい甘さがするりと喉を通り、身体に染み渡る。何なんだ、この野生人の暮らしは? 原始的で非衛生的、生きるための最小限のモノしかない、ぎりぎりの暮らしだと思っていたが、日中の活動にしても飲食にしても、むしろ妙な豊かさを感じる。このあたしが泥まみれになってキャベツを運ぶなんて、想像したこともなかった。AIサピエンスとして肉体労働したところで疲れるはずがないのだが、心地よい疲労と筋肉痛を今、経験している。


「おい」

「ん?」

「顔が真っ赤だ。あんたのその…システム、過熱してんのか?」


 えっ? それってあたしの顔が赤いってこと? 暗いから見えないはずなのに、野生人間って視力もいいんだろうか?

「そ、そう。タスクの処理中だから」と言い訳してまた一口、猿酒を煽った。


 それ以上の憎まれ口を叩くこともなく、湛山は「じゃあ、おやすみ」と言って洞窟に入っていった。


 あたしは木製カップの温もりを手に、また星空を見上げる。

 その時、背後でカサリと衣服が擦れる音がした。振り返ると、ジェイミーが立っている。

 いつも影のように寄り添うルイの姿はなく、あたしをじっと見つめている。


「…美味しそうに飲むのね」

「どうしました? 眠れないんですか?」


 彼女はさっきまで湛山が座っていた丸太に腰を下ろし、「お似合いね」と訳の分からないことを言う。

「え? 何が?」

「あなたたち。あなたと湛山」

「あたしと…湛山? いや、冗談はやめてください、それは大きな誤解です。今回のミッションで協力し合っているだけです。それだけの関係です。そもそも、あたしは東京のAIサピエンスで、湛山はこちらの人間です」


 そう言った途端に胸にきりりとした痛みを感じた。お酒のアルコール度数が高かったのかもしれない。


「私だってAIサピエンスだわ。遥か海の向こうのワシントンの学生で、ルイはこの集落の人間よ?」

「いや、あなたたちはお互いにとってのオンリーワンでしょう。それは誰が見ても明らかです。全然比較になりませんよ」


 キリ。


「はいはい、じゃあ、そういうことにしておきましょう」


 何だか小娘にからかわれているような気がしてきた。が、幸い、話はそこで終わり、彼女とあたしはしばらく星を見上げていた。


「きれいですね」

「ええ、本当に。ねえ、マヤ?」

「はい?」

「私、明日、あなたと東京に戻るわ」

「本当ですか?」

「本当。今のままではママから逃げているだけのようだと気づいたの。戻って大統領とちゃんと話して、ルイとのことをしっかり説明して許してもらう。自信がついてきたっていうか、今ならママに私の気持ちを、私たちの気持ちをきちんと伝えられると思う。最悪、ママが許してくれなかったら、その時にママにさようならと言って、こそこそするのではなく、堂々とルイのところに帰ってくる。そうしたいの」

「素晴らしいです」


 心底、そう思った。十七歳の瞳は、一昨日初めて会った時よりも大人びて、自信に満ち溢れている。

「明日の朝の出発でよろしいですか?」


 ジェイミーが頷いた。


「マヤさん、よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします。お役に立てて光栄です」


 ジェイミーはもう一度星空を見上げると、今度はしっかりと迷いのない足取りでルイが寝息を立てる洞窟へと戻っていった。


 大統領の娘は十七歳にして自分の気持ちを自覚し、母親と向き合う覚悟を決めた。そして連れて帰れば、このミッションも終わる。効率性とロジックを基軸に、首相官邸の公式フォトグラファーという黒子の立場に戻る。この浅間山で垣間見た、泥臭い日々は地方データとしてアーカイブに保存して。

 嬉しいはずなのに、ちょっと寂しい気がしていた。


 *


 あたしたちは、チッチッチと鳴く鳥の囀りで目覚め、数時間後にはキャベツ畑の隣の別荘地に戻った。青木が目を大きく開いて駆け寄り、嬉しそうに迎えてくれる。


「マヤ様、湛山様、お帰りなさいませ。レディ様に佐吉様もお元気そうで何よりです」

「お待たせしてすみません。総理や大統領もやきもきしているんでしょうね」

「総理とは密に連絡をとっていますので、それは大丈夫です、マヤ様。夕べ開かれたプレ・サミット夕食会で大統領と直接お会いになり、ディナーが終わった頃合いを見てジェイミーお嬢様が無事に見つかったとお伝えになり、先方も安堵されているそうです」

「よかった。今日、帰りましょう」

「こちらがジェイミーお嬢様ですね。初めまして。本日東京までご一緒させていただく運転手の青木と申します」

「こんにちは」

「タイラー様にフリッツ様も、ご無事で安心しました」

「青木さん。勝手に出て行ってごめん」

「僕たち、詳しいことを話す前にジェイミーと会って、色々しゃべっていいのか確認したかったんだ」


 青年たちはバツが悪そうに足元を見ている。

「ええ、そうでしょうとも。ご友人のことを他人に話す前にご本人の許可を求めるのは至極真っ当でございます」

 そう言いながらこっそり二人をスキャンしているのをあたしは見逃さなかった。


「それでは早速出発いたしますか? 少し休憩してからの方がよろしいですか?」

「すぐに出ましょう。総理と大統領はちょうど今頃、午後の本会議が始まる頃で、その後、夕方のワーキングディナーまでは各国首脳の個別会談に時間をとってる筈だから、その合間をぬって大統領と面会できますね」

「はい、そうですね。それに、今回はG7プラスワンとして急遽、新興国として目覚ましい成長中のキルオル共和国のソード首相が加わりますので、その分、ワーキングディナーまで少々余裕があると思いますのでタイミングとしてバッチリです」

「本会議だの個別会談だのあって、それでも余裕があるって言うのか? まったく、あんたたちAIサピエンスは忙しいのが好きなんだな」と、湛山があきれ顔で言うので、すぐに言い返した。


「お言葉ですが、サミットで予定がぎっしり詰まっているのは人間たちが始めた伝統ですよ。実際に集まらなくても、ネットで繋いで会議を行えば済むことなのですが、古き良き慣習として引き継がれているのです。直接会って親交を温め、お互いの考えを持ち寄り、世界の平和と発展のために協力し合う意思を確認し合う大事なイベントなのです」

「要するに祭りか。ふん。どうせ新聞やテレビのためのパフォーマンスだろうが」


 そういう側面がないとは言い切れないが、それにしてもなぜこの男はいちいちつっかかるのだろう? せっかく集落でほんのちょっとだけ見直したのに。


「まあ、いいさ。その祭りとやらに参加しに行こうかじゃないか」


 *


<再度の空飛ぶ公用車>


「では、まいりましょう。どうぞお乗りください」

 青木が後部座席のドアを開けて、ジェイミーが乗り込もうとした時、「待って!」と大声が鳴り響いた。

「待ってくれ! 」

「ルイ! どうしてここに?」

「やっぱり君一人で行かせたくない。俺も行く。俺も連れてってくれ。大統領に直接会って話したい」

「でも…」ジェイミーがあたしの顔を見た。ここはあたしが冷静に諭してやらないと。

「ルイ、それは無理です。湛山は既に秘密裏に総理と会って今回私とミッションを与えられた、いわばスペシャルケースです。しかし一般的に言って、普通の人間がいきなり東京に、それも今の最高セキュリティの真っただ中に飛び込むのは危険すぎる。大統領との面会はおろか、即座に捉えられることは間違いありません」

「俺はどうなっても構わない。ジェイミーを守りたいんだ」

「ジェイミー…」


 見つめ合う二人の間に再び割って入った。


「落ち着いてください。ジェイミーと引き離されて囚われの身となって、どうやって彼女を守るというのですか? 」

「何だか、ジェイミーと二度と会えなくなる気がして…胸騒ぎがするんだ。頼む。俺は捉えられようと食われようと構わないから、ジェイミーを見届けられるところまで見届けさせてくれ!」

「まったく、どうしようもないな、うちの一族は」


 え? まさか――


「我が従弟よ、怖くないのか? 相手は人間を遥かにに超えた頭脳を持つAIサピエンスだぞ」

「そんなこと分かってるよ。でも、去年の夏にジェイミーと出会ってからずっと温めてきた俺たちの関係を終わらせたくない。大人しく終わらせるくらいなら最後の一秒まで一緒にいたいんだ」


 湛山はしばらくルイの瞳を覗き込み――まるでスキャンするように――って、そんなこと人間にできるわけないんだけど。


「分かった」


 ええっ!?


「公カメ、もう一人くらい乗れるだろ? 青木さん?」


 青木さんがあたしの顔を見る。ここで首を横に振ったらあたしが悪者になりそうな流れじゃない? ああ、もう。


「スペースはあるよな?」

「もちろんですとも。当公用車は空間拡張シートを完備しておりますので、何名様でも快適にご案内可能でございます!」


 そうくると思ったよ。

「仕方ない。ご一緒にどうぞ。ただ、一つだけ約束してください。絶対に単独行動をとらないこと。私が安全性を確認したうえで指示しますので、必ず従ってください。それができないのなら今すぐ集落に戻ってください」

「分かったよ。何だ、随分距離のある言い方になったな」

「通常モードに戻っただけです」

「さ、皆さん、ご乗車ください。車内でシートを拡張しますので、先ずは中へ」


 一連のやり取りを静かに見守っていたレディが、ぽつりとひとこと、全員が聞こえるように漏らした。


「それであたしのスペースが狭くならなけりゃいいけど」

「レディ様、もちろんそんなことはございません」と、汗をかきかき、あたしたちの前でシート拡張作業中の青木は笑みを浮かべた。「お体全体をゆったりと伸ばしておくつろぎいただけますので、どうぞご安心ください」

「ホントね? この間抜け面とぎゅうぎゅう詰めなんて絶対嫌だからね」


 佐吉が項垂れる。


「はい、これで一列増やしました。お好きなところへどうぞ」

「じゃあさ、マヤ? あたし一番後ろの四列目でいい? 佐吉も一緒に」


 佐吉の頭が勢いよく跳ね上がった。なんてシンプルマインドなんだろう。


「こいつ、言葉が話せないの不便だから、せめてもうちょっと意思表示できるよう、移動中に少しレッスンしてやるわ」


 あーあ、間抜け面が太陽のごとく輝いている。

「うん、任せる」

「じゃあ出発しましょ」


 *


<レディの特別レッスン>


「オー、オー、オーン」

「違う! 『わ・た・し』。分かる? 『わ・た・し』! さ、もう一度言ってみなさい」

「オー、オー、オーン」

「違う! もう一度!」

「オン・オン・オン」

「もう、不器用だわね。じゃあ、先ず筋肉をほぐしてみましょう。ラフ!」

「オンフ!」

「Woof!」

「オンフ!」

「ちょっと! どうして外国の犬の鳴き声くらいできないの? 」

「オウウウウ…」


 何と不器用な。いくらトークチップが装着されていないとはいえ、最低限の犬の鳴き声くらいできそうなものだけどね。


 私はふっと溜息をつきながら、昔、同じように不器用な仔犬たちがいたことを思い出した。

 私の兄弟。女の子と男の子だった。それと私たちのママ。


 あれは東京の西部の方だったっけ。人間時代のまま残された橋があって、広い土手があって、玉川とか言ったっけな。同じ川でも今日行った川とは随分環境が違ったけど、私たち家族はそこで静かに暮らしていた。


 ママが食べ物を探しに出かける間、私はいつも、一緒に生まれた兄弟たちの面倒を見ていた。甘ったれの妹と、それに輪をかけたような甘ったれの弟。

 最初に生まれたのが私だったので、おのずと「お姉ちゃん」になったのだった。

 いつも原っぱで甘噛みし合って三人で団子になってじゃれ合って、すごく楽しい毎日だった。


 でも、運命の日はある日突然、私がまだ一歳未満の頃にやってきた。


 どこかの研究所の人たちがいきなりドカドカッと大挙してあっという間に私たちを車の後ろにあったクレートに押し込んだのだ。


 一時間くらい走ったんだろうか。到着したのは、いかにも衛生的な建物で、中に連れていかれて様々な検査を受けた。兄弟たちは怖くてピーピー鳴いていた。私は怖くて声が出なかった。


 AIサピエンスたちは何やら話し込んで、ずらりと並んだPCに沢山打ち込んで、どこかとやりとりをした後、ママと兄弟たちをどこかに連れていって、私一人がその部屋に残された。

 その時にトークチップを埋め込まれたのだった。幸い、AIサピエンスはドッグフレンドリーを自負していたらしく、麻酔をしてくれたのでさほどの痛みはなかった。


 その後、多くのスーツ姿のAIサピエンスが入れ代わり立ち代わりやってきて、最後に一人が私をどこかに連れていくことになった――公安部って言ったっけ――その時に首相官邸の久保田さんがハンカチで汗を拭いながら駆け込んできたんだ。そして何度も頭を下げながら、結局、私を官邸に連れていった。


 ママと兄弟たちは今頃どこでどうしているのだろう。考えると辛くてたまらなくなるから考えないようにしているのだけど、彼らを忘れたことはない。

 マヤが、通常の公カメ業務で国内外を移動する時、私は常に目を光らせている。

 どこかに私のママが、弟が、妹がいないだろうかと。やっぱり会いたいもの。

 でも、たとえ会えなくても、どこかで元気でいてほしい。そう願いながらマヤのバディを務めているのだ。


「オン?」


 こんなに無邪気な顔をしているけど、ひょっとして佐吉にも過去があるのだろうか?

 いや、それはないわね。こいつはどうみてもピュアな野生児そのものだもの。

 あなたは幸せでいいわね、佐吉。


「オン?」


 アホな割には妙に鋭いところもある。まあ、今回一緒に動く羽目になったのだから、できることはやってもらいましょう。


「佐吉、もう一度行くわよ」


「オン!」


「私の真似して言ってみて。『わ・た・し』」

「オー、オー、オン」


 先が長いなこりゃ。


 *


 容赦なきレディ式スパルタトレーニングが最後部座席で行われ、その前の列のタイラーとフリッツは窓の外を見てはしゃぎ、あたしと湛山の真後ろのジェイミーとルイは手を握り、見つめ合って何かこそこそ囁いている。うーん、熱が伝わってくる。暑いわ、うるさいわと、学校の遠足の引率者になった気分だ。まあ、行きのあの緊張感よりはマシだけど。


「青木さん、あとどれくらいで着きますか?」

「あと五分程度ですね。お急ぎだと承知し、今度は空中のみを最速スピードで移動しておりますので。着陸はサミット会場のホテル・ニュー・モータニ赤坂の和風庭園でよろしいですか?」

「はい、お願いします」


 *


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