第56話:終わり方
朝は、静かだった。
特別なことは、何もない。
結城透は、いつも通り訓練室に立っている。
違うのは、今日が最後だということだけだ。
説明はない。
確認もない。
それでいい。
もう、やることは決まっている。
透は、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸を整える。
深く吸って、吐く。
それを数回繰り返す。
余計な思考を落とす。
焦りも、不安も、すべて外す。
残すのは、ただ一つ。
——在る。
それだけ。
意識を沈める。
内側へ。
すぐに見つかる。
あの“何か”。
もう探す必要はない。
そこにある。
変わらない。
動かない。
透は、何もしない。
触れようとしない。
合わせようともしない。
ただ、そのまま認識する。
同じ状態になる。
動かないものに対して。
自分も、動かない。
変わらないものに対して。
自分も、変わらない。
その状態を、保つ。
空気が歪む。
発動。
自然に起きる。
拒否しない。
操作しない。
そのまま受け入れる。
歪みは、安定している。
暴れない。
広がらない。
ただ、そこにある。
透は、何もしない。
止めようとしない。
壊そうとしない。
そのまま、維持する。
時間が流れる。
一秒。
三秒。
五秒。
それ以上。
今までで一番、長い。
だが。
感覚は、軽い。
無理に保っている感じがない。
ただ、在る。
その状態が続く。
透の意識は、動かない。
何も考えない。
ただ、そのまま。
その中で。
わずかな変化が起きる。
歪みが、ほんの少しだけ薄くなる。
昨日と同じ現象。
だが、今回は違う。
透は、何もしない。
観測するだけ。
変化を追わない。
意味も考えない。
ただ、そこにあるものを、そのまま受け入れる。
歪みは、さらに薄くなる。
ゆっくりと。
確実に。
だが、完全には消えない。
途中で止まる。
均衡が、別の形に移る。
ここまでは、昨日と同じ。
だが。
今日は、違う。
透の意識は、動かない。
“終わらせる”という意識すら、持たない。
ただ、在る。
その状態を、保ち続ける。
時間が、さらに伸びる。
数秒。
十秒。
それ以上。
限界に近い。
だが、崩れない。
その中で。
——変化が、続く。
止まらない。
薄くなった歪みが、さらに消えていく。
ゆっくりと。
だが、確実に。
透の呼吸が、わずかに揺れる。
だが、意識は動かない。
ここで何かをすれば、終わる。
それがわかっている。
だから、何もしない。
ただ、そのまま。
歪みが、さらに薄くなる。
ほとんど見えない。
存在しているのかどうか、曖昧になる。
その瞬間。
——消えた。
音もなく。
反動もなく。
崩壊もなく。
ただ、自然に。
そこにあったものが、なくなる。
静寂。
何も残らない。
空気は、変わらない。
圧力も、違和感もない。
完全な、無。
透は、目を閉じたまま動かない。
呼吸だけが、ゆっくりと続いている。
今のは。
何だったのか。
成功か。
そう判断するには、まだ早い。
偶然の可能性もある。
再現できなければ、意味がない。
だが。
一つだけ、確かなことがある。
——壊していない。
干渉もしていない。
ただ、終わった。
その事実だけが、残る。
透は、ゆっくりと目を開ける。
視界は、いつもと同じ。
何も変わっていない。
だが。
中身は、確実に違う。
立ったまま、動かない。
次にやるべきことは、わかっている。
もう一度、やる。
再現できるかどうか。
それが、すべてだ。
透は、何も言わずに、もう一度目を閉じた。
本作は毎週水曜・土曜の21時に、2話ずつ更新予定です。




