第32話:見えてしまったもの
本作は毎週水曜・土曜の21時に、2話ずつ更新予定です。
放課後の空は、曇っていた。
夕立が来そうで来ない、
湿った風が肌にまとわりつく。
透は校門を出て、いつもより少しだけ遠回りをした。
理由は特にない。
――強いて言うなら、
まっすぐ帰る気分じゃなかっただけだ。
*
路地裏に入った瞬間、
違和感があった。
音が、ない。
車の音も、
人の声も、
風のざわめきすら、遠い。
「……?」
足を止めた、その先で――
誰かが、壁にもたれていた。
「あ」
相馬恒一だった。
制服の上着は着ていない。
シャツの袖が捲られ、
右手には、あの包帯。
「相馬、先輩?」
声をかけた瞬間、
相馬の肩が、わずかに跳ねた。
「……透か」
振り返った顔は、
昨日と同じ笑顔のはずなのに。
どこか、違う。
「どうしたんですか、こんなところで」
「ん? 散歩」
即答だった。
軽い声。
でも――
壁のコンクリートに、細かいヒビが走っている。
さっきは、なかったはずだ。
透は、視線を外せなかった。
「……それ」
相馬の右手。
包帯の下で、
指が、微かに震えている。
「気にすんな」
相馬は、壁から身体を離そうとして――
「っ……」
一瞬、表情が歪んだ。
その瞬間だった。
――バチ、と。
空気が弾けたような音。
透の視界が、揺れる。
コンクリートの地面が、
蜘蛛の巣状にひび割れた。
ほんの一瞬。
ほんの、指先が動いただけ。
それなのに。
「……今の」
透の声は、震えていた。
相馬は、すぐに包帯の上から手を押さえ込む。
「見るな」
強い声。
でも、その声自体が、
必死に“止めている”音だった。
「違う、今のは――」
言いかけて、相馬は黙った。
言い訳が、
もう意味を持たないと分かっている顔。
透は、動けなかった。
――出せたけど、止められない。
昨夜、師匠に言われた言葉が、
そのまま形になって、目の前にあった。
「……先輩」
透は、ゆっくりと口を開く。
「それ、危ないですよ」
相馬は、笑った。
乾いた、軽い笑い。
「だろ?」
「……」
「でもさ」
相馬は、空を見上げる。
「止められないんだよ。
出す気なくても、出る」
一歩、透に近づく。
「なあ透」
距離が、近い。
近すぎる。
「もし、お前がさ。
守りたいと思った瞬間に、
勝手に力が出る側だったら」
透の喉が鳴る。
「それでも、使う?」
答えは、出ていた。
でも、言葉にしたら――
何かが壊れる気がした。
「……俺は」
透が口を開いた、その瞬間。
相馬のスマホが震えた。
短い通知。
相馬は、画面を見て、
一瞬だけ目を伏せる。
「……悪い」
「先輩?」
「今日は、ここまで」
相馬は、背を向けた。
「忘れろ。
今見たのも、聞いたのも」
忘れられるわけがない。
そう言う前に、
相馬は歩き出していた。
少しだけ、
足取りが重い。
*
相馬の背中が見えなくなっても、
透はその場から動けなかった。
割れた地面。
歪んだ空気。
そして――
自分の胸の奥で、ざわめく“何か”。
(あれは……)
偶然じゃない。
勘違いでもない。
そして。
(俺も、同じだ)
気づいてしまった。
自分が、
あの線の“こちら側”に立っていることに。
*
その夜。
師匠は、透の顔を見るなり言った。
「何を見た」
透は、少しだけ迷ってから、答える。
「……止められない人を」
師匠は、何も言わなかった。
その沈黙が、
答えだった。




