ブリスコーの最初の日
アイルは痛みと高揚感が混在した意識の中で目を覚ました。
彼の神経はまだ興奮状態にあった。憤激と血の逆流する感覚が後頭部の隅に残っていた。
彼の精神はまだ臨戦態勢にあった。彼は腹の傷を指で恐る恐る触った……しかしそこにあったのは、はだけた肌と裂けた服だけだった。
未だ焦点の定まらない眼に太陽の光が眩しかった。ぼやけた頭に人々の雑踏の騒音が響いてきた。
彼はどこかの噴水の縁に寝かされていた。日なたに寝かされたアイルの顔に噴水の飛沫がかかり、それは爽やかで気持ちが良かった。おそらく地下水から直接汲み上げられたであろう新鮮な水の香りは狩人の鼻にも嫌な匂いと感じなかった。
アイルは頭の下の柔らかさに心地よさを感じた。ようやく視界がはっきりした時、アイルは自分のそばにある影が女性の躰だと気づいた。彼は女の膝枕に寝かされていた。
女は修道士の格好をした美しい女性だった。金髪の長い髪の端っこがアイルの顔をくすぐった。
「起きましたあ?」彼女はくすくすと笑いながら言った。
アイルは頭を起こして周囲を見た。広場はけが人でごった返していた。修道士らしき人々が列に並んだ怪我人達を魔法で治療していた。
彼らの多くは笑顔だった。楽観的な雰囲気がこの広場に漂っていた。屋台が鳥の串焼きを大量に焼いて兵達に配っていた。鶏皮の焼ける小おば恣意臭がアイルの鼻をくすぐった。
するとアイルのお腹がなった。この三日間は湿気った干し肉しか食べていなかった。
女がクスクスとまた笑った。
「勝ったんだよな」アイルがしゃがれ声で聞いた。
「勝ちましたよっ」修道女が答えた。
彼女はアイルの服をめくり上げ下腹部の傷口に触っていた。聖医術の放つ淡い光がその傷を覆っていた。彼女の産毛を撫でるような淡い手付きにアイルは心地よさを感じた。それは性的に気持ちが良かった。
アイルは目を閉じた。やがて疲労と睡魔がアイルの頭を靄で覆い、彼は再び眠りに落ちていった。
次に目覚めたときはまた別のどこかの広場だった。
彼は敷物を敷いた石畳の上に寝かされていた。頭はまた誰かの膝の上だった。ネネに介抱されていた。彼女の長い茶髪がアイルの鼻梁をくすぐった。彼女はアイルの顔を見つめながら頬をなでていた。彼女の肢体は背中に触るゴツゴツした石畳とは対象的に柔らかかった。四日間湯浴みもしていない彼女の躰から饐えた垢の匂いと女の体の匂いが漂い、それはアイルの鼻腔で混ざりあった。
彼は周囲を眺めた。トリコロ村の住人たちが地面にへたりこんで互いに話をしていた。近くにはエルフ達も腰を下ろし休んでいた。長老格のようなエルフが櫓の上にいたモノクルの役人と話し込んでいた。
「いまみんなの住居が割り当てられてるの」ネネが言った。「ここはもともと遺跡があって空いてる家がたくさん余ってるんだって」
彼周囲を眺め、ゴードンに目を留めた。彼は殿をともに務めていたエルフの長と話し込んでいた。
「ゴードンは無事だったのか」アイル言った。「……ここに来るまでに誰が死んだ?」
「ハンスさん、ユーゲル、フランツ」ネネが答えた。
アイルは押し黙った。村に残った連中はどうなったろうか。もしラインベルクを今だにオーク共が支配しているなら村との連絡線は遮断されているだろう。あれほどの戦力で包囲されれば村長とて一日も村を守ることはできない。ならばゲイルもすでに……。
アイルがぼんやりしているとエルフと役人の話し声が聞こえてきた。
「……クルツ様については私から説得しましょう。そちらからは正規兵を二十名ほど募ることになるでしょう。装備はこちらで手配します。あとこんなこといってはなんですが」役人が目配せをしていった。「はやく住居を定めて既成事実を作ったほうが良いかと。あとは私の力でなんとかしましょう」
「なぜ私達を助けるのですか?」老エルフが聞いた。
「あなた方は決死隊を作って我が民を守ってくれました。当然かと思います」
「感謝する」老エルフは頭をさげた。
アイルはエルザたちの姿を探した。しかしそれはどこにもなかった。アイルは再び睡魔に襲われ、うとうとと眠りに落ちていった。
夕方になり、アイルは三たび起こされた。どうやら仮の住まいが決まったらしい。
アイル達は斜面をのぼり山の中腹までたどり着いた。
このブリスコーは2つの山の峰の合間の谷に作られた自然の砦だった。街の中央には小さな川が流れており、地下水も豊富で水の心配はなかった。この自然の要塞には太古の昔に街が開かれた。しかし千年前にアナトマ山脈に火竜が住み着いた。街は幾度か火竜の襲撃を受け、多くの人間がこの街を去った。今は兵士、義勇兵そして冒険者が住み着く無骨な前線基地となっていた。山の斜面にはかつて栄えた時代の石造りの町並みが残っていた。しかし時を経て多くの家々が崩れ去っていた。
彼らに割り当てられ家々も、壁に崩れた場所があり、寝るには危険だった。今からそれを補修をするには日が陰りすぎた。彼らは積荷を広げ、テントの設営を始めた。
アイルはテントの木枠を組みながらエルフ達の方を見ていた。彼らはアイル達のすぐ奥の遺跡を割り当てられていた。遺跡の中を調べているようだが、今夜は中に泊まる気だろうか。彼らの積荷は少なかった。今夜寝るための寝具は毛布ぐらいしかないだろう。なんとなくだが彼らからは生活力が低そうな印象を受けた。
女衆は焚き木を集め火を起こし、どこからか持ってきた大鍋を用意した。そしていつもの手順で粥を煮炊き出した。男衆が井戸から湧き水を運んできた。アイル達若者は直ぐ側の斜面の森できのこや山菜などを集めた。村から持ってきた干し肉が刻まれ入れられた。あり合わせの即席の粥だったが、彼もルイも昨日から何も食べていなかったので、勢いよく腹一杯に粥をかきこんだ。
「うおーいナマズとってきたぞうい」斜面の下から声が聞こえた。見ると漁師のゲルとその息子のシバが魚かごを下げて道を上ってきた。
「もう釣りにいってきたの?」アイルが聞いた。
「おうよ、城門では色々文句垂れられちまったがな。まだ外は危険だから出るなってな。」
ナマズはぶつ切りにして煮炊きにされた。薄い塩味の煮汁はナマズの脂がぽつぽつと浮いていて、香ばしい出汁が効いてうまかった。ナマズのやわらかい脂身は男の胃袋に染み渡った。
ふと気づくと一人のエルフの小さな少年が指を咥えてこちらを見ていた。年の頃は5歳ほどだろうか、赤ん坊のような細い産毛がそよ風に浮かんで浮かび上がっていた。咥えた指からよだれが垂れていた。彼らエルフは故郷を追われて準備する間もなく出発したらしい。生活具をあまり持っていないし食料も少ないようだった。
「おーいこっちおいで」村の婆や連が手招きした。少年は皆の輪に加わって粥を食べ始めた。彼は箸がうまく使えないようだった。柔らかい粥を掬えず悪戦苦闘するさまに皆が笑った。彼らは他の子供も呼び、そのうちに他のエルフたちも輪に加わり、一緒に大鍋を囲んで粥を食べた。
「あんたらあの家で寝るのはまだ危ないからよ、今夜はわいらのテントで寝よしよ」村長の奥方がそういった。彼らは男女に別れ四つのテントにすし詰めになって眠った。




