第38話 「ラルエシミラと戸賀勇希」
「どういうことだ、アロウザール」
俺は張り詰めた空気に割って入るようにいった。
心拍が急上昇し、頸動脈が痙攣を起こす。
手に汗が滲むと、スコップの切っ先が下方向へ徐々に傾きはじめる。
俺は落とさないように柄を握り直し、ラルエシミラの翔んだような瞳に焦点を合わせた。
『人を殺す』なんて出来やしない。
たとえそれが魂のない、抜け殻だったとしても。
ましてや、ラルエシミラは自身を犠牲にしてまで俺の命を助けてくれた恩人だ。
まあ、あいつの第一印象は最悪だったし、とんでもなく痛い思いもしたし、
理不尽で殺伐とした世界へ強制的に引きずり込まれて、勇者に弄ばれたり、自分の非力さを思い知らされてさ。
クソ迷惑にもほどがあるわ。
けど、あいつがこの世界に俺を連れてこなければ、俺は何も考えず、目標も将来やりたいこともなく、ただひたすらゲームや漫画ばっかして、朝昼晩の自慰行為三昧とかいう頽廃的な日々を送り続けていたんだろうなあ。
おかげで大切な仲間ができて、マーレやボルドーさん、アロウザールさんと巡り会えて、現実世界でニートしてた頃と比べて、考え方もいろいろ変わった。
その点は本当に感謝してる。
こんなことを考えるのは早計かもしれないけれど、ラルエシミラは俺自身を変えるきっかけをつくってくれた大事な女なんだ。そんな女を、俺は殺せない——
「殺せるわけ......ねえだろ......」
水に落ちたように、視界はゆらゆらと揺れて、虫眼鏡をたくさん貼り付けられたように景色は歪み、混濁としている。
瞬きをすると元の景色に戻ったが、また、すぐに歪な景色へ変わった。
俺がだんだんと腕を下ろしていくのがわかる。かろうじてスコップは握っていたが、いつこぼれ落ちるかわからない。
風はより強く吹いていた。
(殺すのだ、戸賀勇希)
少し間を挟んで、アロウザールは空の向こうからいう。
冷たく、刺すような言葉だったが、どこかしら熱を帯びた声音だった。
「......俯瞰でものをいってんじゃねえよ......。あんたにとっても大事な女だろうが! 違うのか!」
(落ち着け)
「会って一言、礼をいいたかったんだろ? 殺してしまえば、二度と伝えらんねえだろ!」
(落ち着け。そやつは『主なき肉体』だ)
「そんなことはわかってんだ! でも、ラルエシミラに違いはねえだろうが!」
風がさらに強くなり、とうとう湖の水面は漣を立てはじめた。
(気を静めろ。このままでは空間を保てなくなり、崩れたが最後、お前は二度と目を覚ますことはないぞ)
「......それでいい。ラルエシミラを殺すくらいなら、俺は、それでいい」
不明瞭な視界を通して、歪な山の頂が崩れはじめたのが見える。
紅葉を押しつぶしながら、巨大な岩が轟音を立てて転がっていく。
そこには、肌色の轍ができていた。
(......戸賀勇希よ)
アロウザールはそういって、一拍置くと、
(お主は、何のために今、この場所に立っておる。お主は、我輩に何といった?)
泣き垂れる幼子をあやす好好爺もかくやという穏やかな声音でいった。
俺は思い出す。覚悟の言葉を思い出す。
すると、新たに転がりはじめた岩は、山の中腹で動きを止めた。
「俺は、仲間の叶えられなかった夢を叶えてやる。そして、そいつをクソ女王の処から助け出す——でも、それでラルエシミラを殺していい理由にはならない!」
(そうだの。しかし、殺さなければ、先には進むことはできぬ)
「どうして......そんな、簡単にいえるんだよ」
(我輩も軽薄に『殺せ』というておるわけではない)
「だったら!」
(——お主は、恐れているのではないか?)
「恐れる?」
(ラルエシミラと戦うことを、恐れているのではないか? 本気の殺意を以って、お主に容赦なく襲いかかるであろう、彼女を)
俺はアロウザールの問いかけに対し、震えた声で答える。
「——恐いよ、めちゃくちゃ......。殺すのも恐いし、殺されるのも恐い」
(嫌か?)
「嫌さ」
(辛いか?)
「辛いよ」
(苦しいか?)
「苦しいよ」
(では、死ぬか?)
その言葉に、俺は黙った。
俺が死ねば、パンパカーナを助けられない。しかし、助けるためにはラルエシミラを殺さなければならない。
苦渋の選択である。
無論、どちらかを取捨することなど、できるはずがなかった。
しかし——
(問おう、これが最後だ。戸賀勇希よ、お主はラルエシミラ・ラミシエルラを殺せるか)
俺は染めたような青空で眼を洗うと、もう一度ラルエシミラの顔と向き合い、両腕を持ち上げ、スコップの先端を手のひらに当てて、
「俺は殺さない。勝つんだ」
といい、
柔い肉壁に湾曲した刀身を、根元まで一気に差し込んだ。
痛みはなく、違和感なしにそれは刺し貫く。
手首が固定され、腕の中に『入っている』感覚がする。
「来い! ラルエシミラ!」
ラルエシミラはスリットの中に片手を滑り込ませると、そこから白銀の鞘に入った刀らしきものを取り出した。
ゆっくりと蒼い柄に手をかける。
「——っ!」
その瞬間、ラルエシミラのしなやかな体躯は縦方向に回転し、抜刀したと思うや否や、斬撃が地面を抉り、俺のはるか後方にある針葉樹を切り倒した。
バキバキと音をたて、少しして軽い地響きが起こる。
俺はとっさに右に跳び、避けたので、斬撃の直撃を免れた。
芝生には海溝のように深く、底が見えない亀裂が後方の針葉樹林まで伸びている。
斬撃を喰らった幹は一刀両断され、左右に分かれて倒されていた。
裂けた所から木の繊維が枝をつくり、それらがいくつも飛び出している。
「あぶねえな、ラルエシミラ」
俺は肝を冷やした。
本当に死ぬかと思った。
俺はうつ伏せの状態から起き上がり、体制を整え、スコップを構える。
手加減すること一切なしのラルエシミラの攻撃。
まさか、これほどとは。
俺は葉のついたスーツのパンツを手で払い、
「どうした、終わりか」
とラルエシミラを唆るようにいった。
ラルエシミラは鞘に白銀に輝く刀身を納め、今度は腰の横に鞘をピタリとくっつけ、腰を少し落とす。
『閃光・改の剣——第三の刃・馬簾』
そう呟くと、ラルエシミラは目下にある大地を斬りつけた。
すると、俺の足元からガスが漏れるような音がする。
「やばいっ!」
後方に飛び退くと、俺が立っていた場所から、銀糸のような斬撃がいくつか現れ、空間を切り裂いた。
衝撃で舞い上がった草草は切り刻まれ、塵と化す。
もはや、一瞬の油断もできない。
気を緩めれば、その瞬間、首を持って行かれるだろう。
瞬きを最小限にして、ラルエシミラの動向を探る。
「俺もやられてばっかじゃあないぜ、こっからが本番だ!」
俺はスコップを地面に突き刺し、ラルエシミラの本を読んだことを思い出す。
コルクを外し、蓄えた知識の奔流が、海馬という名のワインボトルから迸発する。




