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第二話 惇平くん鵙松寮管理人体験始まる

翌週、月曜日。惇平は放課後、自宅へ一旦帰ったあと、自転車を利用して夕方六時頃に鵙松寮の玄関前へやって来た。鈴高の制服ではなく普段着で。

上手くやっていけるかなぁ?

 惇平はわくわくしながらも恐る恐る、玄関入口横のチャイムボタンを押した。惇平の心拍数は高まる。

 数秒後、住民の誰かによって扉がガラガラッと開かれた。

「!!」

惇平の心拍数はさらに高まる。 

「おう、惇平ちゃん、いらっしゃい」

 出て来たのは、光子さんであった。

「いらっしゃーい、惇平くん。私、首を長ぁーくして待ってたよ」

「いらっしゃいませ、惇平お兄さん」

「……いらっしゃい」

 寮生の三人もすぐ後ろ側にいた。惇平を温かく迎え入れる。

 ミャァ~ン♪ 三毛猫の文治郎も、歓迎の言葉を述べてくれたような気がした。

「あっ、きょっ、今日から、お世話になります、野条惇平です。皆さん、よろしく、お願い致します」

 惇平がかなり緊張気味に挨拶すると、

「惇平ちゃん、そんなに畏まらなくても」

「惇平くん、もっとリラックス、リラックス」

「こちらこそよろしくお願いしますね、惇平お兄さん」

 光子さん、愛紗実、ファンニは優しく微笑んだ。

「惇平ちゃんが実家から送った荷物はもう届いてるよ。そのままの状態で惇平ちゃんのお部屋で運んでおいたから」

「お気遣い、ありがとうございます」

「惇平ちゃん、今から玄関前で鵙松寮をバックに記念撮影するよ」

 光子さんはそう告げて、デジカメを惇平の前にかざす。

「俺、写真はあまり……」

「まあまあ惇平ちゃん、そう言わんと」

「惇平くん、真ん中に並んでーっ」

「わわわ」

 戸惑う惇平は愛紗実に腕を引っ張られ、玄関出て少し進んだ所に並ばされた。

光子さんは鵙松寮の全景が写る位置まで移動し、デジカメを構える。光子さんから見て惇平の右隣に愛紗実、左隣にファンニ。ファンニの左隣に陽佳。愛紗実は文治郎を抱きかかえている構図だ。

「そんじゃ、撮るよ。はいチーズ」

 光子さんはそう伝えてから約三秒後にシャッターを押した。これにて撮影完了。

「すごくきれいに撮れてるね。さすがお婆ちゃん」

 愛紗実は光子さんの側へ駆け寄り、保存された画像を見て感心する。

愛紗実と文治郎は爽やかな笑顔。他の三人は普段通りの素の表情だった。

「おら、最新式の機材も難なくこなせるからね。さて、もうすぐ夕飯時だ。惇平ちゃんのために、出前を取っておいたよ。近くの〝ウリ坊寿司〟っていうお店で」

「ありがとうございます。俺のために」

 光子さんの計らいに、惇平は深く感謝した。

 すでにダイニングテーブルの上に夕食が並べられてあった。

大きな舟形のお皿に乗せられた鯛やマグロ、イカ、ウニ、伊勢海老などの刺身盛り合わせ。他に大皿に盛られた中華料理、ハンガリーの郷土料理で牛肉とタマネギ、パプリカなどを煮込んだシチュー【グヤーシュ】。デザートの金平糖やクレムシュニテなんかも用意されていた。

「グヤーシュと、わたしの故郷ではクレメーシュと呼ばれている、バニラとカスタードクリームをパイ生地で挟んだケーキはわたしの手作りです」

 ファンニはちょっぴり照れくさそうに伝えた。

「そうなんだ。めっちゃ美味そうだ」

時計回りに惇平、愛紗実、ファンニ、陽佳、光子さんという座席配置で、惇平と陽佳が向かい合う形となった。文治郎は床に並べられた鯖缶と市販のキャットフードの前に座る。

「ほな手を合わせて」

 光子さんがそう告げると、寮生の三人はすぐに両手を合わせた。

「あっ……」

 惇平はワンテンポ遅れてしまった。

「惇平ちゃん、そう慌てんでもええんよ」

 光子さんは優しく微笑む。

「ではおあがり」

「「「いただきます」」」

 こう告げると寮生三人、

「いっ、いただき、ます」

 ミャーォン。

そして惇平と文治郎、光子さんも食事に手をつけ始める。

「惇平ちゃん、遠慮せずにどんどん食べな」

「はっ、はい」

 俺、女の子達に囲まれて食事をするのは人生初体験だよ。

そんな理由からか惇平はけっこう緊張していた。

「惇平お兄さん、これどうぞ」 

 ファンニは、惇平の前に並べられていた小皿に餃子とシューマイをよそってくれた。

「あっ、どうも」

 惇平は軽く会釈する。

「惇平くん、大トロだよ。すごく美味しいよ」

 愛紗実も同じお皿によそってくれた。

「あっ、ありがとう」

えっと、刺身醤油。あっ、すぐ前にあった。

 惇平は左手を伸ばし、刺身醤油の瓶を取ろうとした。

「あっ、ごめんね」

 そのさい、同じく取ろうとしていた陽佳の手の甲に触れてしまい慌てて謝る。

「!!」

 陽佳はびくっとなって、反射的に手を引っ込めた。さらにその子は俯いてしまった。

どうしよう、嫌われちゃったかな?

 惇平はとても気まずい気分に陥った。

「惇平ちゃん、飲み物どれでも好きなのを選んで飲みな」

「はい」

 ダイニングテーブルの上には烏龍茶、オレンジジュース、メロンソーダ、レモンサイダー、コカコーラのペットボトルも置かれてあった。

 惇平は慎重な動作で烏龍茶のペットボトルを手に取り、コップに注ぎ入れる。

「ねえ惇平くん、今彼女はいるの?」

「いや、いないよ」

 愛紗実からの突然の問いかけに、惇平はびくりと反応し慌てて答える。思わず烏龍茶をこぼしそうになった。

「意外だね。惇平くん格好いいのに」

「いや、そんなことないと思う」

 これは愛紗実ちゃんからの私と付き合って下さい告白フラグか? いや困るよ。俺、女の子とどう付き合っていいか分からないし。

 惇平は戸惑い、意識を移そうとウニの刺身に手をつけた。

「惇平お兄さんは、大学は東大か京大狙いですか?」

 今度はファンニが質問してくる。

「いや、俺そこまで狙えるほど成績良くないよ。この間の中間も三百人ちょっとのうち五〇位台だったし。阪大、神大はじゅうぶん狙って行けるって担任からは言われたけど」

「それでも素晴らしいと思います。なんといっても鈴高でも上位層ですし」

「そっ、そうかな?」

 尊敬されたようで、惇平は少し照れてしまった。

「やっぱり惇平くんは鈴高の中でも賢い人だったね。私の目に狂いはなかったよ」

 愛紗実もかなり嬉しがっているようだった。

「惇平ちゃんの通ってる鈴高、確か明日は創立記念日で休みだったね」

「はい、よく御存知ですね」

「おら、この近辺の学校のことにはけっこう詳しいよ」

惇平はこのあとも緊張気味に、光子さん、愛紗実、ファンニと会話しながら食事を進めていった。

 光子さんはよく噛んで食べていたためか、みんなの中で一番後に食べ終えた。食後の煎茶を啜って一息ついて、

「では手を合わせて」

この合図。寮生の三人はすぐに手を合わせる。

「あっと……」

 惇平はまたもワンテンポ遅れてしまった。

「惇平ちゃん、慌てんでもええよ。ごちそうさま」

 光子さんはにこやかに微笑みかける。

「「「ごちそうさまでした」」」

寮生三人、

「ごちそうさま、でした」

惇平もワンテンポ遅れて食後の挨拶。文治郎はすでにどこかへ消えていた。

「じゃあ、お皿持っていくね」

 愛紗実は使った食器類を何枚か重ねて両手で持ち、台所の流し台へ運んでいく。ファンニと陽佳も同じようにした。夕飯後の食器洗いは、いつも寮生の三人が担当しているそうだ。毎日美味しい料理を作ってくれる光子さんに感謝の意を込めて、という理由らしい。

「俺も、後片付けを手伝います」

「おう、気が利くね、惇平ちゃん」

 惇平は今回、出たゴミをポリ袋に捨てる作業を担当した。

「あっ、あのう、俺、見取図を確認して疑問に思ったのですが、ここには、男湯は、ないのでしょうか?」

 それを終えた後、惇平は恐る恐る光子さんに尋ねてみた。

「おう、今は女湯オンリーさ。旅館だった頃は、男湯もあったんだけどね。寮にするさい女湯にまとめて広くしたのさ。ついでにトイレもね。だから惇平ちゃんも気兼ねせずに堂々と女湯を使いな」

 光子さんは大きく笑う。

「……」

 惇平はこの寮が女性専用に改築されている点を、当然のように不安に思った。

「惇平くん、お風呂先にどうぞ。廊下突き進んで一番奥の別館だよ」

 愛紗実はロビー奥を手で指し示す。

「寝巻きも用意してあるよ。脱衣場にタオルとセットで置いてあるから」

 光子さんは伝える。

「ありがとう、ございます。俺、寝巻き、持って来ているのですが」 

「まあ、今日はあれを着な。荷解きはあとにして」

「はい」

 惇平はやや重い足取りで廊下を突き進み、別館の大浴場へと向かっていった。

おう、蛍だ! 山が近いだけはあるな。

途中、中庭の前を通りかかった所で何匹か光っているのを見つけ、ちょっぴり感激。

別館の出入口を通り抜けたあと、

本当に、入って、いいんだよな?

 女湯と書かれた暖簾の前で一旦立ち止まり、ゆっくりとした動作で恐る恐る脱衣場に足を踏み入れる。脱衣場には全自動洗濯機も設置されており、洗面台も三つ並んでいた。脱いだ服は、洗濯機横に置かれてある籠に入れるようにと張り紙に書かれてある。

惇平は脱ぎ終えると手ぬぐいで大事な部分を隠し、ガラガラッと扉を引いて浴室に入り、シャワー手前の風呂イスに腰掛けた。休まずシャンプーを押し出し、頭を擦る。

その最中、

「惇平くん、お背中流してあげるよ」

 入口扉がガラガラと開かれた。

「うわっ! あっ、あの……」

 愛紗実が浴室に入って来たのだ。彼女は服を着たままだったものの、惇平は当然のように慌てる。

「私、実家でもお父さんによくやってたよ」

 愛紗実は手に持っていたハンドタオルにみかんの香りのボディーソープを染み込ませると、惇平の背中に押し当てごしごし擦っていく。真剣な表情だった。

「……」

 惇平の頬はだんだん赤みを増していき、心拍数は急上昇する。

早く出て行って欲しいな。と心の中で思っていた。

「惇平くん、気持ちいい?」

「うっ、うん」

「ここのお湯は温泉成分も入ってるから打ち身、切り傷、捻挫などにもよく効くよ。じゃぁ惇平くん、ごゆっくりくつろいでね」

 愛紗実は惇平の背中にお湯をかけると、こう伝えて嬉しそうに浴室から出て行った。

やっ、やっと出て行ってくれた。

 惇平はホッと一安心する。その後も、また戻ってくるかもしれない。と警戒し、大事な部分は手ぬぐいで隠したまま髪の毛を洗い、愛紗実の残していったハンドタオルで体を擦り洗い流していき湯船には五分ほど浸かった。

浴室をあとにすると、そそくさ体を拭きトランクスを穿いてTシャツを着た。休まず光子さんが用意してくれていた藍染め浴衣の寝巻きを着込み、ロビーへと戻っていく。

「惇平ちゃん、サイズもピッタリだね。とってもよく似合ってるよ」

 光子さんに微笑み顔でじーっと見つめられ、

「そっ、そうでしょうか?」

 惇平は少し照れてしまう。

「惇平お兄さん、お風呂上りの一杯どうぞ」

 ファンニは冷たい麦茶を用意してくれていた。

「ありがとう」

 惇平は軽くお辞儀する。

「惇平くん、湯加減どうだった?」

 愛紗実からの質問に、

「最高だったよ」

 惇平は満足げな表情を浮かべて答えた。

「それはよかったよ。じゃ私達も入ってくるね」

「では惇平お兄さん、またのちほど」

 自室にいる陽佳を呼びに行き、寮生三人は大浴場へ。いつもいっしょに入っているのだ。

「惇平ちゃん、覗きに行かないのかい? 絶好のチャンスだよ」

 光子さんはにこにこ顔で問い詰めて来た。

「すっ、するわけありませんよ」

 惇平は慌て気味にやや強く主張する。

「おう、おらの思った通りの紳士だねえ」

 光子さんはハハハッと笑う。

「俺、荷物の荷解きをして来ます」

惇平は居た堪れなくなったのか、早足に彼に割り当てられた204号室へ向かっていった。机、布団、収納ケースといった必需品は元から用意されてあったため、彼が持って来た荷物は中くらいの段ボール三箱分だけで済んだ。そのため引越し業者に頼まず、宅配便で済ますことが出来たのだ。主に衣服と書籍、学用品が詰められてある。その他の小さな荷物は通学鞄に詰めて惇平が自分で運んだ。

五分ほどで荷解きを済ませたあと、イスに腰掛け一息つこうとしたら、

「惇平ちゃん、ちょいとお盆片付けるのを手伝ってくれないかい?」

 階段下から光子さんの叫び声が聞こえて来た。

「分かりました」

 惇平はすぐに返事をし、ロビーへと向かう。そのあと光子さんに台所へ案内された。

「惇平ちゃんは背ぇ高いし、これをあそこに置いてくれないかね。おらじゃ、手が届かないんでね」

 光子さんは食器棚を見上げながらお願いする。彼女の背丈は一四五センチほどだった。

「俺、小柄な方ですよ」

 惇平は照れくさそうに言いながらお盆を受け取り、床からの高さが一八〇センチほどの所にある収納スペースにしまってあげた。

「さっぱりしたー、アイス、アイスーッ」

 ちょうどその時、風呂から上がった愛紗実がここへ駆け寄ってくる。

「うわぁっ!」

惇平は思わず目を背けた。 

「こりゃこりゃ愛紗実ちゃん、バスタオル一枚で歩いちゃいけないよ」

 光子さんはにこにこ微笑みながら優しく注意した。

「あっ! いっけなーい。今日からは惇平くんがいるんだった」

 愛紗実はてへりと笑い、くるりと踵を変えて脱衣場の方へ戻っていく。

「うわっ!」

 惇平はとっさに視線を床に向ける。愛紗実の桃のようなぷりんっとしたお尻が丸見えになっていたのだ。

       ☆

「さっきはごめんね、惇平くん」

 二分ほどのち、パジャマに着替えた愛紗実は再び戻ってくる。

「惇平さん、愛紗実さんがご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ないです」

「……」

 ファンニと陽佳もそれからすぐに台所にやって来た。この二人は最初からパジャマを着込んでいた。

なんか、女の子特有のいい匂いが……。

寮生三人の体から漂ってくる、ラベンダーやミントのシャンプーや石鹸の香りが、惇平の鼻腔をくすぐっていた。

「惇平くん、ここの寮には、とっておきの場所があるの。私について来て」

「べつに、いいけど……」

惇平は愛紗実に招かれるままに大浴場へと足を進める。大浴場の浴室には、惇平はさっき入浴したさいは特に気にならなかったが裏庭へ通じる横開きの扉があったのだ。

惇平と愛紗実は出てすぐの所に並べられてあった草履を履いた。

「裏庭もけっこう広いんだね」

「旅館時代はここに露天風呂があったらしいよ」

「どうりで」

「惇平くん、前方に石段があるでしょ。あそこを上っていけば、神戸の夜景が見られる絶景スポットに辿り着くの。近所の人の散策コースにもなってるよ」

 愛紗実は手で指し示す。浴室を出てさらに二〇メートルほど北へ進んだ所にそれはあった。

愛紗実を先頭に一段ずつ登っていく。数メートル置きにある外灯が足元を照らしてくれているおかげで、二人は夜道を難なく歩くことが出来た。

「ハァハァ……なんか、登山、してるみたい。勾配がきつい」

 二百五十段くらい登った頃には、惇平はかなり息が切れていた。

「六甲山の中だからね。もうあと少しだよ。頑張って惇平くん」

 愛紗実はまだ余裕の表情だった。体力はけっこうあるらしい。


「さあ着いたよ、惇平くん」 

三百段ちょっと上がった所に、休憩所兼展望台があった。

そこに建つ和風な造りのあずまやに辿り着くと、二人は南方向を向いて立ち止まる。

「……すごい。神戸の夜景、写真では何度か見たことあるけど、本物は違うなぁ」

 惇平はハッと息を呑んだ。眼下に広がる宝石のように煌く街並み。右手には赤色に光り輝くポートタワー。正面遠くには人工島群が見え、その一つ、神戸空港に飛行機が着陸していく様子も確認することが出来た。東遠方には大阪方面の夜景も窺えた。

「ここは私のお気に入りスポットなんです。寮のお部屋からも一応見えるけど、ここの方がずっと見晴らしが良いので」 

 愛紗実はとても嬉しそうにそう言うや、惇平の手をぎゅっと握り締めた。

「あっ、あのう……」

 惇平はびくりと反応した。彼の頬は瞬く間に赤みを増し心拍数もどんどん上がっていく。

「風がすごく気持ちいいね」

「そっ、そうだね」

「惇平くん、この素晴らしい夜景を眺めると、疲れも吹き飛んだでしょ?」

「まっ、まあ、確かに……」

「夜景もいいけど、昼間の景観もすごく良いよ」

「そっ、そう?」

「それじゃ、そろそろ寮へ戻ろう」

「うっ、うん」

 惇平と愛紗実は手を繋いで並ぶようにして歩き、石段をゆっくりと降りていく。

 俺にこんなにも快く接してくれた女の子は、初めてだよ。

 惇平は嬉しさ七割、照れくささ三割といった気分だった。

       *

鵙松寮ロビーに帰り着くと、

「惇平ちゃん、神戸の夜景は美しかろう?」

 光子さんからさっそく感想を訊かれる。

「はい。写真で見るのとはまた違って、絶景でした」

 惇平は満足そうな表情で答えた。

「私は惇平くんとデート出来てすごく楽しかったぁっ♪」

 愛紗実は満面の笑みで嬉しそうに光子さんに伝える。

「デッ、デートって……」

 惇平の表情はやや引き攣った。

「そうかい、そうかい。ところで愛紗実ちゃん、キスはしてあげたのかい?」

 光子さんは囁くような声で愛紗実に耳打ちする。

「あっ、忘れてたよ。ごめんね惇平くん。私とデートしてくれたお礼だよ」

 愛紗実はそう言うと惇平の側へずいっと寄り、何の躊躇いも無く惇平のほっぺたに、チュッとキスをした。

 柔らかい感触が一瞬、惇平の頬に伝わる。

「…………あっ、あの、いっ、一幡さん……」

 惇平の頬は瞬く間に熟れたいちごのごとく真っ赤になり、併せて心拍数も急上昇する。あまりに突然のことで放心状態になってしまったようだ。

「この様子じゃ惇平ちゃん、女の子にキスされたのは初めてだったようだね」

 光子さんはにんまり微笑む。

「私も、男の子にしたのは、惇平くんが初めてかな。ファンニちゃんや陽佳ちゃんには何回かしたことがあるけど」

 愛紗実はてへりと笑う。

「おーい、惇平ちゃーん」

「……えっ、あっ、なっ、何でしょうか?」 

 光子さんに大声で呼ばれ、惇平はようやく我に帰った。

「惇平ちゃんに鵙松寮管理人としての適性能力を測るために、一つ重大な任務を与えるよ」

 光子さんから突如告げられる。

「どういった、任務なのでしょうか?」

 惇平の心拍数は依然高いままだった。

「そうだねえ……これは、愛紗実ちゃんから発表した方がいいかな?」

 光子さんがそう言うと、

「惇平くん、お勉強お助けしてね。私、勉強大の苦手なの。高校入ってからはますます成績下がっちゃって。私、この間の中間テスト数学と化学で赤点採っちゃったの」

愛紗実は照れくさそうに打ち明けた。そのあと、一学期中間テストの個人成績表を自分のお部屋から持って来て惇平に手渡す。そのプリントには各科目の平均点と個人の得点と偏差値、学年順位が記載されていた。

「化学が平均56点の27点。数Ⅱが59の28点、Bが63の24点か。もう数ⅡB習ってるんだね」

「橙摂では、数学と英語については中学三年生から高校課程に入るんです。わたし達の学年で数学ⅠAを習ってますよ」

 つい先ほどトイレから出て来たファンニが伝える。

「やっぱ中高一貫だから進度が速いんだね」

「そうなんだよ。私、授業速過ぎてついていけないよう」

愛紗実は悲しげな表情で嘆く。他の科目についても世界史Aと現国以外は平均点を下回っていた。

「大学受験のことを考えると、早めに全過程を済ませるに越したことは無いと思うけど。俺も高校の数学は中学卒業する頃には独学である程度マスターしたよ」

 惇平が爽やか笑顔でこう伝えると、

「それはますます頼もしいよ。さすが鈴高生だね」 

 愛紗実の顔にホッとした笑みがこぼれた。

「というわけで惇平ちゃん、愛紗実ちゃんが期末テストで赤点を回避させることが出来るように、勉強の手助けをしてやってくれないかね」

「はい、分かりました。俺もすでに数ⅡB、よほどの難問でもない限り解けるので」

 惇平は快く引き受けるも、

俺に、一幡さんに勉強教えることなんて出来るのかな? 今まで人に勉強教えた経験なんてないし。

脳裏に一抹の不安がよぎった。

「ファンニちゃんは、苗字のオコシュが日本語で頭の良いって意味だけにものすごーく頭良いんだよ。これ見て」

 愛紗実は、ファンニの先日行われた中間テスト個人成績表も見せてくる。

「あっ、こら、愛紗実さん。勝手に持ち出したらダメでしょ」

 ファンニは優しく注意する。彼女の中間テスト総合得点は五〇〇点満点中四九五点。学年トップだ。国語九七点、社会九八点で、他の三教科は全て満点だった。

「すご過ぎる……」

 それを見て、惇平は驚愕した。彼も学年トップというのは、公立中学時代にある一教科だけでしか取れなかったのだ。

「ファンニちゃんは私が中学の頃、九〇〇点満点の期末で取ってた点数よりも高い点中間テストで取ってくるんだよ。私もファンニちゃんの天才的頭脳が欲しいよぅ」

 悔しそうに嘆き、愛紗実はファンニの頭をなでる。

「わたしはちゃんと真面目に勉強してるもん。愛紗実さんは、勉強量が全然足りてないと思うの」

「そうかなあ? 私、一日三〇分は机に向かってるよ」

 疑問を浮かべる愛紗実に、

「少な過ぎ。高校生の自宅での勉強量は学年プラス三時間が基本よ」

 ファンニは呆れ顔で再度指摘する。

「そんなに出来ないよぅ。あっ、もう十時過ぎてるのかぁ。今日は眠いからもう寝よ。惇平くん、いっしょに寝よう。私、いつもファンニちゃんと陽佳ちゃんといっしょに同じ部屋で寝てるんだ。毎日が修学旅行気分ですごく楽しいよ」

「俺、それは、無理だな」

 愛紗実の要求を、惇平は即、かたくなに拒んだ。

「お願い、お願い、惇平くん」

「でっ、でもね……」

「惇平ちゃん、いっしょに寝てあげな」

 光子さんは惇平の肩をポンッと叩き、笑顔で説得する。

「いや、でも……」

「惇平お兄さん、親睦を深めるためにも私達といっしょに寝ましょう!」

 ファンニも強く要求してくる。

「陽佳ちゃん、惇平くんいっしょに寝てくれる方がいいよね?」

「……」

 愛紗実からの問いかけに、陽佳はこくりと頷いた。

 ミャーォン。

文治郎もなぜか鳴き声を上げた。

「ほらね、惇平くん。ファンニちゃんも陽佳ちゃんもいっしょに寝たいって言ってるよ」

「…………分かった」

 愛紗実ににこにこ顔で言われ、惇平はとうとう引き受けてしまった。

「やったぁ!」

 愛紗実は大喜びで惇平のお部屋へ駆け込み、押し入れに仕舞われてあったお布団を取り出し自分のお部屋へ運び入れる。

 お布団は出入口付近から一番奥の窓際に向かって一列に四枚並べて敷いた。昨日までは川の字に敷いて陽佳を真ん中、その両隣に愛紗実とファンニが挟む配置にしていたらしい。

「俺は、一番端っこで」

「ダメだよ、惇平くん。惇平くんはここっ!」

 愛紗実は強制的に、窓際から二番目の布団を指定する。

「愛紗実お姉ちゃん、あたし、ここ」

「惇平くんのお隣がいいんだね?」

 愛紗実が確認すると、陽佳はこくりと頷いた。陽佳は、廊下に近い方の布団を指差したのだ。

「……」

 惇平はどう反応すればいいのか分からなかった。

「わたし、窓際ね」

「あーん、私も窓際で惇平くんのお隣がいいっ!」

 ファンニの希望に、愛紗実も譲らず。

「惇平お兄さん、わたしと愛紗実さん、どちらにお隣になって欲しいですか?」

「……えっ、えっと……」

 惇平は返答に窮する。

「惇平くん、私だよね?」

「わたしですよね?」

 愛紗実とファンニに腕を引っ張られる。惇平は今、両手に花の状態だ。

「あの、布団を、一列に並べるんじゃなく、山の字に敷けば、いいんじゃないかな? それで、俺が下側の一の字の部分に寝れば、みんな平等に俺の隣になるかと……」

「それは良いアイディアですね」

「惇平くん、天才! さすが鈴高生だね」

 惇平のとっさの思いつきにファンニと愛紗実は大賛成した。愛紗実が布団を並べ替え、事態はあっさり収まる。昨日までの配置の枕元に惇平の布団を横向きにして敷くという配置だ。

一幡さんのお部屋、やっぱ女の子らしいな。甘いお菓子の香りもぷんぷんするし。

この部屋をよく見渡してみて、惇平はそんな第一印象を抱いた。

ピンク地白の水玉カーテン、本棚には少女マンガなどが合わせて百冊くらい並べられてある。学習机の周りにはオルゴールやビーズアクセサリー、ゆるキャラ系の可愛らしいぬいぐるみなどがたくさん飾られてあり、女子高生のお部屋にしては幼い雰囲気だった。

「おやすみーっ、惇平くん」

「おやすみなさい、惇平お兄さん」

「……」

寮生三人がお布団に潜ったあとに、

「おっ、おやすみ」

 惇平は長い紐を引いて電気を消してあげ、自身もお布団に潜り込んだ。

 それから三〇分ほどして、

「……眠れない」

 惇平は天井を見つめながら硬い表情で呟く。

寮生三人はもう、すやすや寝息を吐きながらぐっすりと眠っていた。

惇平が眠り付けたのは、布団に入ってから一時間半以上が経ってからだった。

ともあれ、惇平の鵙松寮管理人体験初日の夜は静かに平和に更けていく。

        ☆

翌朝、午前六時半頃に自然に目を覚ました惇平は、まず自分のお部屋に向かい、実家から持って来た私服に着替えた。続いて脱衣場へ向かい、顔を洗ってから台所へ。

「おはよう、ございます。おばあちゃん」

 先に起きて朝食の準備をしていた白割烹着姿の光子さんに、緊張気味に挨拶する。

光子さんは、いつも五時頃には起きるそうだ。

「おはよう惇平ちゃん、昨夜はよく眠れたかい?」

「いやぁ、それほどは。朝起きたら、オコシュさんが俺の布団に潜り込んでいて、かなり焦りました」

 惇平は一度あくびをしてから打ち明けた。

「ハッハッハ、あの子、一番しっかり者だけど、案外甘えん坊さんだからね。今でも一人じゃ寝られないんだよ。まだ陽ちゃんが来てない頃、愛紗実ちゃんが野外活動へ行っていない時なんか、おらと文治郎といっしょに寝てたんよ。まあ、これからもあるだろうけど、そのうち慣れてくるさ」

 光子さんは大きく笑いながら言う。

「そうでしょうか? 俺は不安です。あの、おばあちゃん。俺も何かお手伝いしましょうか?」

「おう、やってくれるのかい。本当に惇平ちゃんはいい子だねえ」

「いえいえ」

 惇平は謙遜した。

「そんじゃあ、これをつけてくれないかい」

光子さんは黒の割烹着を手渡す。

「分かりました」

 惇平はすぐに装着した。

「よう似合ってるよ」

 光子さんは優しく微笑みかける。

「そうで、しょうか?」

「惇平ちゃん、卵焼きは作れるかい?」

「まあ、一応は……」

 惇平はそう言うと、調理台に出されてあった卵をボールに割り入れ、塩、コショウをまぶし菜箸でかき混ぜる。続いてガスコンロに火を付けて四角いフライパンにサラダ油を引き、溶き卵も垂らしていく。

「なかなかいい筋をしてるね、惇平ちゃん」

 光子さんは並行して他のメニューも作りながら、楽しそうに観察していた。

「いえいえ。俺、家庭科かなり苦手でしたから。調理実習の時も女子に任せきりで」 

 惇平はまたも謙遜する。

卵焼きは六人分完成させた。愛紗実のお弁当の分も作っているからだ。中学部では給食があるため、作る必要は無いと光子さんは説明する。

二人で協力して、出来上がったメニューの数々をお皿やお茶碗、お椀に盛り付け、ロビーにあるダイニングテーブルへと運んでいった。

 光子さんは文治郎の朝食メニュー、鯖の缶詰も蓋を開けて床に並べた。

ミャーォ。

すると蓋を開ける音に反応したのか、すぐさま文治郎が管理人室から飛び出して来て駆け寄って来た。文治郎が夜寝る時は、光子さんと同じ管理人室にいるらしい。

食事と、お箸とスプーンも並び終えほどなくして午前七時、鵙松寮での起床時刻となった。愛紗実のお部屋からヒンカラカラカラ♪ ヒンカラカラカラ♪ と駒鳥の鳴き声な目覚まし時計の鳴り響く音が聞こえてくる。

「愛紗実さん、起きてーっ!」

 その音が止むと、すぐさまファンニの声がこだました。

「まだ眠いよぅ。あと一分だけでもぉー」

「ダメ、ダメ。陽佳さんはもう起き上がってるよ。ほらっ!」

「あーん」

 愛紗実がぐずっている様子が、ロビーからも分かった。

「確かにオコシュさん、しっかりしていますね」

 惇平は感心する。

それから数分のち、

「おっはよう、惇平くん、お婆ちゃん」

「おはようございます。惇平お兄さん、光子お婆さん」

「おはよー」

三人とも身支度を済ませてロビーにやって来た。

「おう、おはよう」

「おはよう、ございます」

 光子さんと惇平は挨拶を返す。みんなは昨日と同じ配置で椅子に座った。

「あっ、あの、黒岡さんは、今日は、学校お休みなのかな?」

 気になったことがあり、惇平は陽佳に、少し緊張しながら初めて話しかけてみた。

「!! うっ、うん。中学部の二年生は、今日はお休みなんだ」

 陽佳はびくっと反応した。制服姿の愛紗実とファンニに対し、陽佳は私服姿だったのだ。

「違うでしょ、陽佳さん。惇平お兄さん、この子は今、不登校になっちゃってるの。一年生の二学期頃からほとんど教室へ行ってないのよ。二年生になってからは始業式の日に行ったきりで」

 ファンニは困り顔で伝える。

「そうなんですか……」

 訊いちゃいけないこと訊いちゃったかな?

惇平は罪悪感に駆られた。

「まあまあ、ファンニちゃん。陽ちゃんも時たまは保健室登校してるんだし。では、おあがり」

 昨日の夕食時と同じく光子さんからの食前の挨拶があり、朝食タイムが始まる。

「陽佳ちゃんも何とか教室まで行けるようになれるよう努力してるよ。そういや今日の卵焼き、いつもと少し味が違うような。お婆ちゃん、お塩多めに入れた?」

 愛紗実はきょとんとした表情で突っ込んだ。

「今日の卵焼きは、惇平ちゃんが作ってくれたのさ」

 光子さんは伝える。

「まあ、ほんの、少しだけだけど……」

 惇平は照れてしまったのか下を俯く。

「そうなんだ! 惇平くん、お婆ちゃんに匹敵するくらいすごく美味しかったよ。また作ってね」

「惇平お兄さん、ぜひともお願いします」

「うっ、うんっ」

 愛紗実とファンニに褒められ、惇平の頬の赤みはより一層増した。

「それじゃ、お婆ちゃん、惇平くん、陽佳ちゃん、文ちゃん、行って来まーすっ!」

「行って来ます」

 愛紗実とファンニは午前八時頃に鵙松寮を出た。ここから学校へは約一キロ、徒歩十五分ほどらしい。

「ほな食器洗いを始めるかね。惇平ちゃんは、脱衣場に置いてある洗濯物を洗濯機に入れて回してくれないかい?」

「はい」

 惇平は返事をすると、足早に脱衣場へ向かっていった。

「あっ、あのう、おばあちゃん。ちょっと、困ったことが……」

 しかし数十秒後、すぐに戻って来た。台所でお皿洗い真最中の光子さんに伝える。

「陽ちゃん、あとはやってくれないかい?」

「はーい」

 陽佳は笑顔で対応した。

 こうして光子さんも脱衣場へ。

「あれ、なのですが……」

 惇平は洗濯籠を指し示す。

籠の中には、動物の絵柄がプリントされたものと、水玉模様のショーツが入れられてあったのだ。そして真っ白なブラジャーが二枚。さらに汗がいっぱいしみ込んだ夏用体操服上下も一着あった。それはファンニのものであることがゼッケンから分かった。

 昨晩最初に風呂に入った惇平の洗濯物は、一番下に埋もれてしまっていた。

「ハッハッハ、惇平ちゃんも男の子だねえ。さすがに女の子の洗濯物はまずいかね」

光子さんはそう言うと寮生三人の他、惇平の分も合わせて洗濯物を両手で抱え込み、洗濯機の中へ入れた。そしてテキパキとした動作で洗剤を入れ蛇口を回し、スタートボタンを押す。

「ありがとう、ございました」

 惇平はその手際の良さに舌を巻きながら、お礼を言った。

「こりゃ悪かったね。でもあの子達、きっと惇平ちゃんに触られること全然気にしてないだろうから、惇平ちゃんも堂々と触ればいいさ」

 光子さんは笑顔で言い張る。

「いえいえ、そのようなことは絶対出来ません」

 惇平は照れくさそうに宣言した。

「紳士だねえ」

 光子さんは再び笑う。

 同じ頃。

「おはようございまーすっ、一幡先輩、ファンちゃん」

 通学路を進んでいた愛紗実とファンニは、柚希に挨拶された。面長でおでこが広く、ポニーテールに束ねたしなやかな黒髪が特徴的な子だ。

「おっはよー、柚希ちゃん」

「おはよう、柚希さん」

 愛紗実とファンニは爽やかな声で返す。柚希と通学途中で会うことはわりとよくあることなのだ。

「ねえ、昨日新しい管理人さん来たんやろ。一幡先輩とファンちゃんとハルちゃんのとこって、すごくこぢんまりとした寮やから賑やかになったんじゃない?」

「いや、ほとんど変わってないわ。野条惇平さんっていうお方なんだけど、おしゃべりな感じでもなかったので」

「そっか。身長はどれくらい?」

「一六〇センチ台半ばくらいかな」

「ワタシ一六四やからいっしょくらいかぁ。お歳は?」

「十五歳で高校一年生よ」

「そうなんや。一幡先輩と同学年なんやね。肉食系か草食系かでいったら、やっぱ草食系になるんかな?」

「まあ草食系ね」

 好奇心旺盛に尋ねてくる柚希の質問に、ファンニは淡々と答えていく。

「なんか純粋な人っぽい」

 柚希は目をきらきら輝かせた。

「当たってるよ。惇平くんはとても純粋な人だよ」

 愛紗実はにこにこ顔で言う。

「お会いしたいなぁ」

 柚希は二人のお顔を交互に見つめ要求してくる。

「もちろんいいよ。ぜひ会いに来てね」

「わたしはべつにいいんだけど、惇平お兄さんがどう思われるかな?」

 快く承諾した愛紗実に対し、ファンニは少し躊躇いがあった。

「やったあっ! おめかししていこっかなぁ」

 それをよそに柚希は大喜びする。行く気満々な様子だ。

    ☆

 八時五〇分頃、鵙松寮。

 脱衣場の洗濯機からピー、ピー、ピーと、終了を知らせるアラームが鳴り響く。

「惇平ちゃん、これをハンガーにかけてくれないかい?」

 光子さんは蓋を開けると寮生三人の下着類を中から取り出し、惇平の目の前にかざす。

「おっ、おばあちゃん、それは、ですね……」

 惇平はとっさにそれから目を背けた。

「本当に純粋な子だねぇ。でも惇平ちゃん、これが触れないようじゃ、ここの寮の管理人は務まらないよ。気にせず触ってごらんよ」

 光子さんは惇平の目の前に近づけ、笑顔で勧めてくる。

「わっ、分かり、ました」

惇平は強い罪悪感に駆られながらも、恐々と手に掴んだ。

「――っ!」

瞬間、彼の心拍数は急激に上がった。ここの管理人候補になるまでずっと女の子とは無縁の人生を歩んで来た惇平にとって、刺激がかなり強過ぎたようだ。

「顔、赤くなってるね」

 光子さんは笑顔のまま指摘する。

「そりゃ、なりますって」

惇平は機敏な動作でそれらをハンガーに吊るしていった。その間に光子さんは寮生三人の靴下など他の洗濯物、自分の分と惇平の分をテキパキと吊るし終えていた。

このあと裏庭の物干し竿に掛けていく。もちろん陽佳と光子さんも手伝ってくれた。

「今日はいい天気だねぇ」

 光子さんは澄み切った青空を見上げながら柔和な表情で呟く。

「そうですね。それに、けっこう、暑いですね」

 惇平はやや緊張気味に反応した。

「あっ! そろそろ始まる時間だ」

 陽佳はスカートポケットから携帯電話を取り出すや否やそう呟いて、裏庭からロビーへ駆け寄る。ソファーに座り込むと、ローテーブル上に置かれてあったリモコンを手に取りテレビのスイッチを入れ、チャンネルを合わせた。

テレビ画面左上には、8:59という表示。何かの番組のEDが流れている最中だった。それが終わり九時ちょうどになると、今度は乳幼児向けの教育系テレビ番組が始まった。

 陽佳は瞬きもほとんどせず、熱心に見入る。

「あのう、黒岡さんは、こういう番組が好きなのかな?」

「うん! 大好き♪」

 ロビーへ戻って来た惇平が話しかけると、陽佳はえくぼまじりの笑みを浮かべ、嬉しそうに答えてくれた。

「そっか。俺はこういう系の番組見たの、十年振りくらいかも」

 惇平もソファーに腰掛け、視聴してみることにした。

           *

たまには、こういうアニメもいいな。最近は深夜アニメばっかり見てて、こういう幼い子ども向けの絵柄のやつは見なくなってたし。

 十五分の番組を見終えて、惇平はそんな心境に陥る。先ほどやっていた番組は、擬人化された果物や野菜やお菓子などが登場するクレイアニメだった。

「ねーえ、惇平お兄ちゃん」

「!! なっ、何かな?」

 いきなり陽佳に甘えるような声で話しかけられ、惇平は少し動揺した。

「あたしのお部屋に来て」

 陽佳は服をぐいっと引っ張ってお願いしてくる。惇平は招かれるままに陽佳のお部屋へ足を踏み入れた。

出入口引き扉側から見て一番奥、窓際に設置されてある学習机の上はきちんと整理されていて教科書やプリント類、ノートはきれいに並べられていた。サンタクロースのお人形さんやビーズアクセサリー、クマやウサギ、コアラ、リスといった可愛らしい動物のぬいぐるみもたくさん飾られてあり、カーテンはピンク系の水玉模様。女の子のお部屋らしさが愛紗実のお部屋以上に感じられた。幅七〇センチ奥行き三〇センチ、高さ一.五メートルほどある本棚には幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本、アニメ雑誌、ラノベなどが合わせて二百冊以上は並べられてある。普通の女子中学生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらなかった。

「黒岡さんは、読書が好きなんだね?」

 惇平はお部屋を見渡しながら尋ねてみた。

「うん。読むのも大好きだけど……じつはあたし、趣味で小説を書いてるんだ。あたし、ちっちゃい頃から物語を作るのが大好きで」

 陽佳は俯き加減で、照れくさそうに打ち明けた。

「そっ、そうだったんだ」

 惇平は意外に思ったようだ。

「おかしいかな?」

「いやいや、そんなことないよ。じつは、俺も……」

「えっ!? 惇平お兄ちゃんも小説書いてるの?」

 陽佳は目を大きく見開いた。

「うん、時々気が向いたら書いてる。ラノベの新人賞にも中学の頃一度だけ応募したことがあるよ。一次であっさり落選したけどね」

 惇平が苦笑いして打ち明けると、

「そうなんだ。あたしの書いた小説、ちょっとだけ見せてあげるね」

 陽佳は満面の笑みを浮かべて、マイノートパソコンを立ち上げた。

「これ、先月の童話賞に投稿したやつ。エビさんと、天敵のタコさんが、仲良くなっていくお話なんだけど……」

 マイドキュメントに保存されていたテキストデータを開き、照れくさそうに伝える。

「素敵なお話だね。とても面白いよ」

 惇平は全ページ目を通してみて、率直な感想を述べた。

「ほっ、本当? お世辞じゃない?」

 陽佳は上目遣いで尋ねてくる。

「うん、俺にはこんなに良い作品は書けないから。黒岡さんはすごい文才があるよ」

「ありがとう、惇平お兄ちゃん。あたしが小説書いてること、褒めてくれて嬉しい。学校ではバカにしてくる子も多かったから。惇平お兄ちゃんは、あたしの書いた小説を褒めてくれた小学校の時の先生に似てるの」

 陽佳はそう打ち明け、惇平の背中に抱きついた。

「そっ、そうなんだ」

 惇平はちょっぴり焦る。

「あたし、お絵描きも大好きだよ」

 陽佳は続いて学習机の本棚からB4サイズのスケッチブックを取り出し中身を見せてくれた。ライオン、ゾウ、キリン、ウサギ、リスといった動物さんの絵を中心に、メルヘンチックに描かれていた。

「とっても上手だよ。俺よりも上手だよ」

 惇平はじっくり見て褒めてあげる。

「ありがとう、惇平お兄ちゃん」

 陽佳は急に照れくさくなったのか、スケッチブックをパタリと閉じた。

「惇平お兄ちゃんも絵、描くの好き?」

 そのあと照れ笑い顔で質問してくる。

「うん、めっちゃ好きだよ」

 惇平は爽やか笑顔で答えた。

「ますます嬉しいな♪ あたし、今度はラノベの新人賞に初めて応募するつもりなんだ。長編小説に初挑戦するの。まだ四百字詰め原稿用紙換算で、三百枚以上も書ける自信は無いけど。惇平お兄ちゃん、何かいいアイディアない?」

 陽佳は興奮気味に問いかける。 

「うーん、ラノベにおいて学園物やファンタジーバトル物、退魔物、VRMMO物、異世界転移転生チーレム物はありふれ過ぎてるし、吸血鬼、ゾンビ、ドラゴン、ゴーレム、妖精、勇者、魔王魔女、亜人獣人、神様、生徒会、執事、探偵、メイド、アンドロイド、異星人美少女キャラなんかが登場するってのもまた使い古されてると思うし、主人公の設定も俺TUEEEな男子中高生で、ツンデレ風の幼馴染ヒロインと、やたらからんでくる男友達がいるっていうのは、定番過ぎると思う」

「確かにそうだよね。そういう設定は使わない方が無難だよね」

「いやぁ、そういうのがダメってことはないけど、似たタイプの作品が多いってことだから受賞するにはかなりハイレベルなクオリティが求められると思うなぁ。俺は独自性を強く出すことが重要だと思う。今までのラノベには見られなかったような、新しいタイプの作品を生み出すことが新人賞では有利になるんじゃないかな。主人公に関しても中高生向けだからといって中高生を主人公にしなきゃいけないって決まりはないと思うよ。まあ、その場合も読者が感情移入しやすい、共感を持てる、憧れを抱けるキャラクター像であることが大切だろうけど」  

 惇平は生き生きとした表情で楽しそうに長々とアドバイスしてあげた。 

「つまり、斬新なアイディアを出して、今までに無いようなタイプの作品を書くことが、受賞への近道なんだね。九月末締切りのやつを目指して頑張るぞぉーっ!」

 陽佳は投稿用次回作に向けて考えを廻らせる。

「じゃ、邪魔にならないように、俺はこれで……」

「見ててもいいんだけど、気を遣ってくれてありがとう」

「いやいや、どういたしまして。頑張ってね」

 惇平はエールを送って静かに陽佳のお部屋から出て行き、自分のお部屋へ。

 黒岡さん、こういう一面もあるんだな。俺のこと嫌ってなくてよかったよ。俺と趣味も合うし、今後も嫌われないように気を付けなきゃな。

ホッとした気分で机に向かい、英語の課題プリントを片付け始める。

数分のち、彼のスマホ着信音が鳴り響いた。

「母さんからか」

 惇平は三回目で通話ボタンを押す。

『惇ちゃん、管理人のボランティアは楽しくやれとう?』

「うん、管理人さんはとても良い人だし、寮生もみんなすごく良い子達ばかりだったから、めっちゃ楽めてるよ」

『この弾んだ声の調子だと、本当に楽しめとうようね』

 母はホッと一安心して喜んでいるようだった。

       ☆

正午過ぎ。

「陽ちゃん、惇平ちゃん。お昼ご飯出来たよ。食べに来なー」

 一階から光子さんの声がかかると、自室にいた惇平と陽佳は同じようなタイミングでロビーへ降りていく。ダイニングテーブルに、親子丼が三皿並べられていた。

 向かい合って座った惇平と陽佳は、

「ではおあがり」

「いただきまーすっ!」

「いただきます」

 光子さんからの合図で箸を手に取り、食事を進める。

「あっ、黒岡さん。ほっぺたにご飯粒が」

「あっ、いっけない」

 惇平に指摘されると陽佳は照れくさそうに呟き、自分の手で取った。

「陽ちゃん、いつも以上にいい笑顔だね。惇平ちゃんのこと、好きかい?」

「うん! 大好きぃーっ!」

 光子さんの問いかけに、陽佳は満面の笑みでとても嬉しそうに答えた。

「うぐっ……ケホッ、ケホッ」

 惇平はむせてしまったようだ。

「惇平お兄ちゃん、大丈夫?」

 陽佳は惇平のお顔を覗き込んで、心配そうに尋ねる。

「だっ、大丈夫です」

 惇平は苦しそうに答える。

「ハッハッハ」

 光子さんは微笑ましく惇平を眺めた。

 ちょうどその時。ピロピロピロリン♪ ピロピロピロリン♪ と、陽佳の携帯の着信音が鳴り響いた。

「莉桜菜からメールだ!」

 件名を見て、陽佳は嬉しそうに呟く。

「お友達?」

 惇平は尋ねてみる。

「うん!」

「陽ちゃんと、中学入った頃から仲の良い子だよ」

 光子さんは加えて説明してくれた。

 陽佳はわくわくしながらメールの中身を開く。

《やっほーハルカちゃん (^_^) 元気? 今日、調理実習でカスタードプリン作ったよ♪》

 画像も添付されていた。

《元気だよ、リオナ(*^_^*)》

 陽佳はすぐに返信した。

 莉桜菜は毎日のように、陽佳に学校であった出来事とかを伝えてくれるらしい。

《プリントけっこう溜まってるよ。渡したいから、今日遊びに行っていい? 新管理人さんにもお会いしたいし》

 十数秒後、その子からまたメールが届く。

《もちろんオッケー(*^。^*)》

 またすぐに返信した。

 それからさらに数分後、

 ルルルルルルルルゥ♪ ルルルルルルルルゥ♪

今度はロビー壁際設置の固定電話の着信音が鳴り響く。

「陽ちゃん、先生からだよ」

 ディスプレイに表示された電話番号を見て、光子さんは伝える。

「はーい」

陽佳は嬉しそうに駆け寄り、受話器を手に取った。

「もしもし」

『あっ、黒岡さん。先生よ、元気にしてる?』

「はい。とっても元気です」

『なんだかいつもよりいいお声してるね。そういえば確か昨日、新しい管理人さんが来たんでしょ?』

「はい。すごくいい人でした」

『それはよかったわね。先生もそのお方にご挨拶したいから、今日お伺いしてもいいかな?』

「はい。もちろんいいですよ」

『楽しみにしてるわ。じゃあね、黒岡さん』

 電話の相手は陽佳の担任、上之園先生だった。

「惇平お兄ちゃん、今日の夕方、莉桜菜と担任の上之園先生が来るって」

 受話器を置いたあと、陽佳は惇平に向かってこう伝えた。

「なんか気まずいなあ。制服に着替えた方が良さそうだ」

「学校内じゃないんだから、そんな堅苦しい格好する必要は無いさ」

 光子さんはにこにこしながらアドバイスした。

「普段着のままの惇平お兄ちゃんでもじゅうぶん格好いいよ」

「そっ、そうかなぁ」

 陽佳に称えられ、惇平は照れくさそうな表情を浮かべた。

「惇平ちゃん、お昼が済んだらトイレ掃除と裏庭の草むしりをしてくれないかね?」

「はい、分かりました」

光子さんから次の作業を頼まれると、惇平は快く引き受けた。

       *

昼食後、惇平は彼が入居したことで男女共用となったトイレに入ると、ウォシュレット機能付き洋式便器後ろの棚に置かれたウェットティッシュを手に取る。

「そんなに汚れてないな。俺もきれいに使わないとな」

便器周りを拭いていると、

「……これは、触らない方が絶対いいよな?」

 扉側隅に置かれた白色のサニタリーボックスが否応なく視界に入ってしまう。

 それは無視しておいて、引き続き便器周りの清掃作業を進めていく。便器の中へ洗剤スプレーをシュッシュとふりかけ、ブラシで黄ばみを擦って水を流した。

そのあとは台所の戸棚から軍手とゴミ袋を取り出し、裏庭へ。

「ん?」

 雑草を抜いている最中、惇平はぴくりと反応した。木の陰からガサゴソガサゴソと物音がして来たのだ。

どっ、泥棒?

 惇平はびくびくしながら、林へと恐る恐る歩み寄る。そこにいたのは、全身がブラウンヘヤーに覆われ、四本足、扁平なお鼻をしていた野生動物。

「イッ、イノシシ!?」

 正体が分かると惇平は仰天した。

イノシシは惇平の声に反応したのか、ピクッと反応し惇平の方を向いた。

そしてトコトコ追いかけて来たのだ。

「うわぁっ!」

 惇平は時折後ろを振り返りながら、必死に逃げ惑う。

イノシシはフゥフゥ鼻息を荒げながら、惇平を追いかける。

 惇平は大浴場を通り抜け、廊下を駆け抜けロビーの方へ。イノシシもあとに続く。

「おや、惇平ちゃん」

 ロビーの掃き掃除をしていた光子さんは、惇平の方を振り向いた。

「おばあちゃん、イッ、イノシシが……」

 惇平は逃げ惑いながらすぐ後ろにいるイノシシを手で指し示す。

「おやまぁ、また遊びに来たのかい」

 光子さんは爽やかな笑顔だった。

「あっ、あの、おばあちゃん。なんとかして、いただけないでしょうか?」

 惇平とイノシシはダイニングテーブルの周りを何週も走る。

「おらに任せな」

 光子さんは冷静に、竹箒をイノシシのお鼻目掛けて突きつけた。

 イノシシはビクッと反応し、ピタッと動きを止めた。

「山へ帰りな」

 光子さんがそう命令すると、イノシシは理解出来たのかくるりとターンし、大人しくロビーから出て行き裏庭の方へ向かっていった。

「ハァハァハァ……あっ、ありがとう、ござい、ました。まさかイノシシが、出るとは」

 惇平は息を切らす。彼の目は点になっていた。

「ここではイノシシなんて日常茶飯事さ」

 光子さんは豪快に笑いながら言う。

「イノシシにはエサをあげちゃダメみたいだよ。あたし、あげたくなっちゃうけどな」

 陽佳は残念そうに呟く。

 六甲山地の麓にあるこの場所では、イノシシの出没は珍しくないらしい。

 惇平は、次に任された花の水遣りと風呂掃除も快くこなしていく。

 全ての作業を終えた頃には午後四時を少し回っていた。

「惇平ちゃん、すまなかったねぇ。重労働させ過ぎてしまって」

「いえいえ、とても充実した作業でした。楽しかったです」

 申し訳なさそうにしていた光子さんに、惇平は満足げな表情で伝えてソファーに腰掛ける。その時、陽佳もソファーに腰掛けていて、教育系の子ども向けテレビ番組を楽しそうに眺めていた。

光子さんからおやつに振る舞ってもらった高級芋羊羹を、惇平は陽佳といっしょに味わいながらしばしくつろいでいると、ピンポーン♪ と玄関チャイムが鳴らされた。

「はいはい」

 光子さんが玄関扉を開け、対応する。

「こんばんは」

「黒岡さん、来たわよ」

二人の来客に、

「おやおや、いらっしゃい」

 光子さんは笑顔で出迎えぺこりとお辞儀した。

「いらっしゃーい!」

 陽佳はすぐさま立ち上がり、嬉しそうに玄関へ駆け寄る。来客は、上之園先生と莉桜菜だった。

「惇平ちゃん、こちらが上之園先生だ。もう一人がお友達の莉桜菜ちゃん」

「ワタクシ、二年三組担任の上之園加奈子と申します。はじめまして」

「はじめまして、アタシ、衣笠莉桜菜です」

 上之園先生と莉桜菜は惇平の方を向いて自己紹介し、ぺこりとお辞儀した。

「はじめ、まして。俺、この度、この鵙松寮の、新しい管理人を短期のボランティアで勤めさせていただくことに、なりました。野条惇平と、申します」

 惇平は舌を噛みそうになりながら挨拶し、深々と頭を下げた。

「かなり若いお方で、とても誠実そうなお方ですね」

 上之園先生は惇平のことを褒めてくれる。四〇歳くらいの女性。小顔でぱっちりした瞳、濡れ羽色に美しく輝く髪をフリルボブにし、とてもお淑やかそうな感じのお方だった。

「いえいえ、そんなことは……」

惇平はいつもの癖で謙遜してしまう。

「このお方が新しい管理人さんかぁ」

 莉桜菜は惇平のお顔をまじまじと見つめる。莉桜菜は陽佳より五センチほど背が高く、丸っこいお顔をしていて、後ろ髪は水色地白の水玉ダブルリボンでお団子風にまとめられていた。

「あっ、どうも」

 惇平は軽く一礼する。

「クリエイターさんっぽさを感じます!」

 莉桜菜は興奮気味に彼の第一印象を伝えた。

「そっ、そうかな?」

「そう思うでしょ? 惇平お兄ちゃんはあたしや莉桜菜と同じで小説や絵、描いてるもん」

 陽佳は嬉しそうに伝える。

「そうなんですか! 趣味が合いますね」

「そっ、そうだね」

 屈託ない笑顔でしゃべる莉桜菜を眺め、めちゃくちゃかわいいな。と惇平は思った。莉桜菜から感じられる初々しさに惚れてしまったのだ。

「小説や絵の創作は先生もとても素晴らしい趣味だと思うわ。先生も何か書いてみようかしら。ところで黒岡さん、課題はちゃんと仕上げてるかな?」

「はい。当然出来てます」

 上之園先生からの質問に、陽佳は笑顔でそう答えると一旦自分のお部屋へ向かい、言われた物を取りに行った。

「宿題を提出させてるんですね」

 惇平はちょっぴり感心していた。

「はい。公立校とは違い、中学でも退学処分となってしまいますので」

上之園先生は不登校の陽佳のために、各教科の問題集や課題プリントを提出させているとのこと。そのため陽佳の学力は特に問題ないらしい。技術・家庭科、美術、音楽といった副教科の課題もさせており、定期テストは保健室で受けさせているとのことだった。

「はい、先生。どうぞ」

陽佳は戻ってくると、上之園先生に言われた提出物を手渡す。

「ありがとう。黒岡さん、一時限だけでもいいから、出席してくれたら嬉しいな」

「教室内には、入りたくないです」

 上之園先生がそう伝えると、陽佳は暗い表情を浮かべてしまった。

「そっか。ごめんね。それじゃ、先生はそろそろお暇致するね」

 上之園先生はちょっぴり寂しそうに挨拶して帰っていく。

莉桜菜はこのあと二十分ほど、ロビーで陽佳といろいろおしゃべりしてから帰った。

それからさらに一時間ほどして、

「惇平お兄さん、ただいま」

「惇平兄さん、はじめましてーっ。ワタシ、ファンちゃんの親友の、南中柚希でーす」

 ファンニが、柚希を連れて帰って来た。

「あっ、どっ、どうも」

 にっこり笑顔で元気よく挨拶され、惇平はまたも緊張気味になった。

「おう! 惇平兄さん、さほどイケメンじゃないところがまた親しみやすいわ~」

 柚希は目をきらきら輝かせながら惇平のお顔を見つめる。

「そうか?」

 惇平は思わず視線を床に逸らした。

「柚希、失礼なことは言っちゃダメよ」

 ファンニは軽く注意する。

「分かってまーす♪ 一幡先輩やファンちゃんの言ってた通り、すごく誠実でいい人そうやね。あのう、惇平兄さん、似顔絵描いてもよろしいですか?」

 柚希は通学鞄からB4サイズのスケッチブックを取り出し、お願いする。

「べつに、かまわないけど……」

「よっしゃっ!」

 惇平がちょっぴり戸惑いつつも承諾すると柚希は大喜びし、4B鉛筆も取り出した。スケッチブックを開き、4B鉛筆を走らせる。

 三〇秒ほどのち、

「はい、完成しました。どうぞ」

 柚希は描いていたページをビリッと千切り、惇平に手渡した。

「えっ、もう出来たの!? しかもかなり上手い」

 惇平は自分そっくりな似顔絵を見て、驚き顔になった。

「柚希さんは美術部に入ってるの」

「あっ、どうりで。あの、お礼に、南中さんの似顔絵、描いて、あげよっか?」

「描いてくれるんっすか! ぜひお願いします」

 柚希は嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

 こんなに喜んでくれるとは。とってもいい子だな。中学の頃、休み時間に美少女キャラのイラスト描いてたらキモがって来た教養低そうなビッチ臭の漂う女共とは大違いだよ。さすがオコシュさんのお友達なだけはあるね。

 惇平は楽しげな気分で柚希のスケッチブックと4B鉛筆を借り、ササッと描いてあげた。

「ワタシそっくりや。惇平兄さんも絵ぇめっちゃ上手いっすね」

「まあ、俺、将来漫画家になりたいなぁっともなんとなく思ってて。新人漫画賞に投稿出来るようなレベルの作品を仕上げれたことは一度もないけど。絵の練習だけしてる感じで」

「ワタシと同じやね。めっちゃ親近感が湧くわ~。漫研か美術部入ってます?」

「俺、部活は入ってないよ。中学の頃もね。みんなでわいわいやるの苦手だし」

「そうなんすか。まあ気持ちは分かるなぁ。惇平兄さん、ありがとうございました。ほなまたお会いしましょう」

 柚希は満面の笑みでお礼を言って、ここをあとにした。

「明るい子だね」

 惇平は綻んだ表情でコメントする。

「休み時間中はけっこううるさいよ、あの子」

 ファンニは苦笑いしながら伝えた。

 それから少し時間が流れ、午後六時ちょっと過ぎ。

「ただいまぁー。南京町でゴマ団子とシューマイ買って来たよー」

 愛紗実が帰ってくる。部活動には入っていないが帰りに三宮や元町へ寄ってお買い物をしてくることもたまにあり、その時はいつもこのくらいの時間に帰ってくるらしい。

寮生の三人が帰宅したところで、光子さんは夕飯を作り始める。

 愛紗実が買って帰った食材もダイニングテーブルに並べられた。

 こうして今日も鵙松寮の夕食の団欒が始まる。

        ☆

夜九時頃。

「惇平くぅん、明日までに提出しなきゃいけない宿題がいっぱいあるの。手伝ってぇー」

 愛紗実がげんなりとした表情を浮かべながら惇平のお部屋へ押し入って来て、こんな要求をしてくると、

「それは、かまわないけど」

 惇平は快く引き受けた。

「私、数学の問題全然分からなくて。27ページの問い六から問い八までが宿題なの」

 愛紗実は数学ⅡBの問題集の該当箇所付近を指で押さえる。

それほど難しい問題ではないな。

惇平はそこを眺めてみて出来ると直感した。図形と方程式に関する問題だった。

惇平はシャーペンを手に取ると、愛紗実の数学用ノートに問題をすらすらと解いていく。基礎から標準レベルの問題を解くことはた易いことだった。

「すごーい。惇平くんは〝数学の達人さん〟だね」

「いやぁ、そんなことはないよ。俺以上に数学出来るやつ同じ学年でも二十人以上はいるし」

「次はこれ、数Bの小テスト、間違えた問題を全部直して提出になってるの。惇平くん、私二問しか合ってないから大変だよぅ」

 続いて愛紗実はそのプリントと数B用ノートを取り出し、惇平に手渡す。

 小テストは一問一点の十点満点だった。分野は数列に関するものだ。

愛紗実の取得した点数は、わずか二点。

これは、さっきよりも基礎的で簡単だな。

 惇平は、愛紗実の使っている数B用ノートにすらすらと解答を記述していく。

「あのう、惇平お兄さん、あまり愛紗実さんを甘やかさない方が……」

 ファンニもお部屋に入って来て口を挟んだ。

「それも、そうだね」

 惇平はハッと気付き、手の動きがぴたりと止まる。

「あぁーん、ファンニちゃん、余計なこと言わないでぇ~。惇平くぅん、お願ぁーい」

「分かった」

 愛紗実にせがまれると、心優しき惇平は断り切れず問題の続きを解いてしまう。

「もう、惇平お兄さんったら」

 その様子を目にしたファンニは困惑顔だ。

「ありがとう惇平くん。助かったよ」

 数学の宿題を完成させたのを確認すると愛紗実は礼を言って、惇平の手をぎゅっと握り締める。

「いやぁ、これくらいは……」

 惇平の頬は少し赤く染まった。

「愛紗実さん、数学が出来ないと後々本当に困るよ」

 ファンニは忠告する。

「大丈夫だよ。私、二年生から文系クラスに進むし、大学は受験で数学使わない私立の文系学部行くもん」

 愛紗実はのほほんとした表情で主張した。

「それでも、数ⅡBまではしっかりと学んどいた方が絶対いいと俺は思うよ。急に進路変更したくなった時にも対応しやすいだろうし」

「惇平くんがそう言うなら……私、数学も頑張る!」

「惇平お兄さんのご意見は説得力がありますね」

 ファンニから褒められ、 

「いや、俺、ごく普通のことを言っただけと思うけど……」

 惇平は照れくささからか少し俯き加減になった。

「ねえ、惇平くん、次は古文の宿題やって。徒然草を現代語訳にするの」

 愛紗実は国語総合の教科書と、古文用のノートをそんな惇平の目の前にかざした。

「こらこら愛紗実さん」

 ファンニはニカッと笑って注意する。

「古文は、ちょっと……俺、国語は苦手科目だし」

 愛紗実のこの要求には、惇平は表情を曇らせた。

「あーん、困ったよぉー」

「ごめんね。役に立て無くて」

「惇平お兄さん、謝る必要は全く無いですよ。愛紗実さんがご迷惑お掛けしてすみません。わたしがちゃんとやらせますから」

「わぁーん、惇平くぅーん」

 愛紗実はファンニに腕を引っ張られ、ファンニのお部屋へと連れて行かれた。

     ☆

それから一時間ほどが経った頃、

「やっと解放されたよう。なんとか出来てよかった。惇平くん、いっしょに寝よう」

 愛紗実はくたびれた様子でファンニのお部屋から出て来て、ファンニといっしょに自分のお部屋へ。昨日と同じ配置で四枚のお布団を敷いた。

「眠い、眠い」

 ほどなくして陽佳がやって来て、お布団に潜り込んだ。

「ファンニちゃんは、まだ寝ないの?」

「わたしはまだ、やることがあるので」

「じゃ、先におやすみファンニちゃん」

「おやすみー、ファンニお姉ちゃん」

「おやすみなさーい」

 ファンニは笑顔でそう言って、自分のお部屋へ戻る前に、

「惇平お兄さん、ちょっとだけわたしとお付き合いしてくれませんか?」

 惇平のお部屋へ立ち寄った。

「いいけど」

 惇平は快く引き受けてあげる。彼がファンニのお部屋へ足を踏み入れたのは今回が初めてだ。学習机の上はきちんと片付いていて、備えの本立てには動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物などの図鑑や学習参考書、教養系の読み物が多数並べられてある。ファンニが学業優秀な理由が頷けた。黒竹や浜木綿などの和風な観葉植物も窓際にいくつか飾られていて、中央付近に置かれた漆塗りローテーブル上にはテレビゲーム機も。二四インチ液晶テレビもそれと向かい合わせに配置されていた。

ファンニはテレビ下にある収納ケースを引き出す。中にはゲームソフトが五〇本くらい詰められていた。テレビゲーム機用と携帯型ゲーム機用両方あり、RPG、アクション、音ゲー、学習用、パズルなどなど様々なジャンルが揃えられてあった。

「こちらへどうぞ」

 ファンニに招かれ、惇平はテーブル横に敷かれてある座布団に腰掛ける。

「オコシュさんはゲームが好きなんだね」

「はい。日本のゲーム、特にアクションとRPGが大好きです。光子お婆さんも時たまテレビゲームをプレイされますよ」

「へぇ。意外だ。あのお齢で」

 惇平は少し驚いたようだ。

「ボケ防止に最適だからだっておっしゃられてたよ。惇平お兄さん、これ、いっしょにやりましょう。先週発売されたばかりのやつなんです」

 ファンニが取り出したゲームソフトのジャンルはアクションだった。テレビゲーム機にセットし、電源を入れる。

「いいけど」

 俺こういうファミリー層向けのゲームやるの、小学校の時以来だな。

 惇平は快く引き受けてあげ、コントローラを握る。

「難しいな」

 5‐4面の半分くらい進んだ所で落とし穴に落ち、ミスしてしまった。

「わたしもこの面、全然クリア出来ないんですよ。でもそれが魅力的です」

 このゲームを三〇分ほど楽しんだあと、ファンニは別のソフトに取り替えた。

 セーブデータを選択すると、和菓子店内の画面が表示された。

「これは、RPGかな?」

「はい」

「なんか、変わってるね。和風だ」

「普通RPGって架空の世界を舞台にするものですけど、このRPGは現代日本が舞台で、町の名前や山とか川とか駅とかの名前なんかも実在のと同じですよ。敵キャラもご当地に関連したのが登場してて、わたし今、名古屋市内を旅してるんですけど、ういろうとかエビフライとかひつまぶしとかがモンスター化されてたわ。手に入る回復アイテムも八丁味噌プリッツとかきよめ餅とかカエルまんじゅうとか、ご当地ならではの実在するものになってます。魔王とかドラゴンとか、エルフとか騎士とか亜人獣人とかゴーレムとか定番のものも出て来ないですよ。魔法も召喚獣も一切使えません」 

 ファンニは生き生きした表情で楽しそうに伝えてくる。

「それは斬新だね。面白そうだ。俺、地理けっこう好きだし」

「わたし、剣と魔法がメインでファンタジー色の強い架空の世界が舞台な、ありきたり過ぎるRPGはあまり好きではないんです」

「そうなんだ。あの、オコシュさんが鵙松寮に入った理由って、やっぱ和風な造りに惹かれてなのかな?」

「はい、それが一番の理由です♪ それと、光子お婆さんの人柄にもとても惹かれました。ところで、惇平お兄さんは、体育は、苦手ですか?」

「うん、かなり苦手だな。この間のスポーツテストの結果、全部平均以下だったし。通知表も中学時代は5段階の2しか取ったことがないよ」

「そうでしたか。わたしも体育大の苦手なんです。期末の保体のペーパーテストではいつも満点近く取ってますけど、実技はどうしてもダメなんです。気が合いますね」

 ファンニは嬉しそうににっこり微笑む。

「そっ、そうだね」 

 惇平は少しだけ照れてしまった。

「愛紗実さんと陽佳さんも体育苦手みたいですよ。その陽佳さんのことなんだけど、わたし、学校行ってないこと、すごく心配で。小学校の時にいじめられて、みんなと同じ中学に行きたくないから、私立の橙摂を受験したってわたしや愛紗実さん、光子お婆さんに泣きながら話してくれたの。けど陽佳さん、そこでもやっぱりクラスに馴染めなかったみたいで、不登校になってしまって」

 ファンニは困惑顔で話題を切り替えた。

「中学生くらいの年頃の人間関係は複雑だからね。まあ、行きたくなければ、無理して学行く必要は、ないんじゃ、ないかな。勉強は独学でも出来るし」

 惇平は若干緊張しているのか時々言葉を詰まらせながら意見を述べる。

「でも、やっぱり行かないよりは、行った方が絶対いいと思うの。わたしも小四の時に日本の学校に転校した時は、やんちゃな男の子に同郷のピーター・フランクルさんの物まね無理やりさせられたりしてからかわれて、学校行きたくないなって思ってた時期があったから、陽佳さんの気持ちはよく分かるんだけど……月に一、二回程度、二、三時限目の時間帯に保健室に登校して、ちょっとだけ過ごしてるみたいだけど、やっぱり教室でみんなといっしょに授業を受けて、学校行事に参加してもらいたいなって思うの」

「確かに。学校行事はその時しか体験出来ないからね。まあ、でも、衣笠莉桜菜ちゃんっていう、仲の良いお友達もいるようだし、あまり心配することは無いと思うよ。学校の課題もきちんと仕上げているみたいだし。俺なんかプライベートでしょっちゅう付き合うような親友なんて一人もいないよ。学校にいる時だけちょっと会話する程度のものだよ。黒岡さんのことだけど、保健室登校の回数を少しずつ増やしていくとかして、やがて教室へ入れるようになれればいいんじゃないかなっと、俺は思う」

「確かにいきなり教室へ入れというのは、陽佳さんには酷ですね。でも、二学期までにはちゃんと教室へ入れるようになって欲しいなって、わたしは思うよ」

二人はそんな会話を交わしたあと、このゲームを一時間ほどプレイしたのであった。

「あっ、もう0時半過ぎてますね。惇平お兄さん、夜分遅くまでお付き合いして下さり、誠にありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

二人はゲームとお部屋の電源を切って愛紗実のお部屋へ向かい、静かに布団に潜る。

それから三分ほどのち、

「あの、惇平お兄さん。起きてますかー?」

 ファンニがまた、話しかけて来た。

「うん。何かな?」

 惇平はすぐに応答する。

「一つ大事なことを言い忘れてました。光子お婆さん、惇平お兄さんがここに来てくれたこと、すごく嬉しがってたよ」

「そうか。それは、光栄だな」

「光子お婆さんにとって、惇平お兄さんは宝物のような存在だとおっしゃってましたから」

「俺なんかが!?」

「はい。それには、ある理由があるからなんだそうです」

「どういった、理由なんだろ?」

「ごめんなさい、わたしも分からないです。でも、今年ももうすぐやって来る、あの日に教えてくれるそうです。では、惇平お兄さん、おやすみなさい」

「おっ、おやすみ」

 ファンニから暗に伝えられた事、惇平は当然のように気がかりになった。


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