2話目・その1
人間の暮らす世界とは異なる世界の、人間と似た外見をした者達。
魔界という世界の住人である彼らは、自らを魔人と称し、人間と然程変わりない生活を送っていた。
一つ違う点を挙げるなら、魔人は魔法という超能力的な力を行使することが出来た。
それ故、魔人は電気もガスも使わない。魔法が生活の中心となっている。
人間からすれば魔法というのは空想の産物であり、もしそれを実際に操る魔人の存在を知ってしまえば、人間界の秩序は簡単に崩壊してしまうだろう。
そうなれば、魔人が自分達の世界を侵略しに来るかもしれない…と恐怖し、人間達が平和で安寧な生活を送ることは難しいだろう。
だから、違う世界に暮らす人間と魔人は、互いに干渉し合うべきではないのだ。
そう考える魔人達の王───魔王は、「魔法を人間に知られてはならない」という盟約を魔人達に遵守させることにより、彼らの存在が決して人間に認知されぬよう努めていた。
その盟約を進んで犯そうとする魔人はいない。
ルールに縛られてしまえば、魔人にとって人間界は、単に魔法を自由に使うことが許されない、暮らし難い世界でしかない。
よって、魔界の生活に満足している魔人達に、そもそも人間界へ興味を示す者は少ない。
ただ、中には例外も発生する。
自ら人間界へ行きたいという、言ってしまえば変わり者達の為に、盟約が在るとも言える。
彼も、その変わり者の一人であった。
魔王の息子、エル・ヘッシェルヴェン・ロアキーヌ・ド・サタン。彼は人間界の学校へ通いたいと、魔王に告げた。
エルが人間界の学校に興味を持ったのは、魔王の妻からの発案でもあった為、魔王は渋々承諾したのだった。
人間界へ行くことを許されたエルは、人間界を知る魔人達…大半は執事と呼ぶべき存在である老齢の男グラゼル・アルエインから、半年間みっちりと人間界について学んだ。
文字、言語、文化、その他生活に必要であろう知識諸々。エルは全てを半年という短い期間で身に着けていた。
それらは人間界と関わりの薄い魔人の知識であり、先入観や誤った知識であるものも中にはある。
不確かな情報であることを念頭に置いたとしても、予め人間を知ることにより、エルの人間界での生活に対する不安は薄まり、興味は高まる一方だった。
現在は、エルが人間界で生活を始めてから、約1週間が経過しようとしている。
それと時を同じくして、魔王の暮らす城の内部では、魔王のそ知らぬところで、一人の魔人の計画が、今まさに動き始めようとしているところだった。
エルが人間界に降り立ってから7日目の朝。曜日で言えば、月曜である。
いつもの様に、初老の執事グラゼルは、エルを起こしにやってきた。
「エル様、おはようございます。」
「うむ…おはようだ、グラゼル。」
エルはぼんやりする頭で、形式的な挨拶を交わす。
「本日から毎週、5日間学校へ通い、2日の休日を挟んで、また5日間、学校へ通う…それの繰り返しとなるのですぞ。」
「大変なのだな、学校というのも。」
入学式が水曜日だった為、先週学校へ足を運んだのは3日間だけだった。なので、5日連続で行くのは、初めてとなる。
「えぇ、慣れるまではさぞ大変でしょう。しかし、3年間通うことになるのですから、頑張って慣れて頂かなければなりません。」
「うむ…。」
慣れない人間界での生活で知らず知らずの内に疲れてしまっていた為か、早くも乗り気ではないように見えるエルだが、グラゼルは甘やかすつもりは到底ない、といった風だ。
グラゼルは、すっかり気力を失ってしまったエルに内心で溜め息を吐くと、「それに…。」と、言葉を続けた。
「昨日一昨日と会うことの出来なかった茉莉殿に会える、と楽しみにしていたではありませんか。」
「べ、別に楽しみになど。」
「茉莉殿に会えないと分かったら、エル様は折角の休日にお出掛けされることもなく、二日間を室内で無為に過ごされていたのに…でございますか?」
否定するエルだが、グラゼルは皮肉で対応する。彼は未だに茉莉に気を許してはいないのだった。
グラゼルが茉莉を快く思わないのは、その場の思い付きで恋人宣言をしてしまったエルにも非はある為、皮肉は甘んじて受け入れる。
受け入れはするが、エル自身は言われた内容を認める訳にはいかなかった。
故に、
「グラゼルよ、我にだって気が向かぬ日はあるのだ。先日はたまたまそういう日であったのだ。」
と、言い訳のように、自分に言い聞かせるように、発した。
「左様でございますか。…っと、無駄話をしている時間はありませんでしたな。ゆっくりと朝食を摂られる時間がなくなってしまいます。」
グラゼルは、エルの返答に納得していない様子だった。
しかし、それより今は優先順位の高い事柄にこそ、目を向けなければならない。
エルからすれば、それ以上追及されることがなくなった訳で、内心ホッとしていた。
態度ではそれを悟らせることのないように、
「分かっておる。」
と無感情に一言だけ告げると、そのまま洗面所へと向かった。
洗面所で素早く顔を洗うと、少し頭の中を整理する為に、先程のグラゼルの言葉を心の中で反芻する。
エルには、夏川 茉莉という、人間界に来て出会った、友と呼べる人間がいた。
グラゼルの認識では、エルと茉莉は恋人同士である。
つまり彼の執事は、エルは休日に恋人と会えなかった為、無気力になり、無駄に休日を過ごしたのではないか、と推察したのだ。
確かにエルは、昨日一昨日の2日間の休日を、ずっと室内で過ごすことを選んだ。
当然、その選択は茉莉とは無関係であるはずだ。
単に外出する気分ではなかった。それだけのこと。それが茉莉と何の関係があるのだ。
グラゼルの発言は、単に遠まわしに茉莉を貶めたいだけなのではないか、とさえ邪推してしまう。
やる気を失くしてしまった事実は認めても、原因は直ぐには思い当たらない。
しかし、原因が分からないままというのは許されない。分からなければ、グラゼルの言ったことが真実であると認めることになってしまう。
だから考える。他に原因があるはずだ、と。
人間界に来るまで、否、来てからも持ち合わせていた意欲を突然失った要因が、茉莉とは無関係である、と納得する為に。
そして、一つの可能性に思い至るのだ。
もしかして、自分は人間界に慣れてしまい、人間界に新鮮味を感じなくなってしまったのではないか?
もっと言うと、人間界に興味を失いつつあるのではないか?
そう思うと合点がいった。
エルは今現在、人間界に降り立った時のような、この世界をもっと知りたい、という湧き上がる衝動を、自分の中に感じてはいなかった。
人間界に来てから3日間は、3日とは思えないほど濃密な時間を過ごした。
エルは生まれながらに天才であり、魔界でも様々な事態にすぐ順応してきた。
人間界に来てからもそれは変わらず、エルは様々なことを学び、その度に順応していった。
その順応性の高さ故に、次第に興味の色が消えていったのではないか。
学校という義務的な務めから解放された休日が、無意識に自分の心を反映させた結果、惰性で過ごすという選択肢を取らせたのではないか。
エルにしてみてば、茉莉に会えないから、という理由だけで、やる気をなくしてしまった…などと考えるよりは、極々自然に受け入れられる結論だ。
しかし、この問題はエルにとって簡単に片付くようなものではない。
人間界に興味を失い、人間達から何かを学ぶことに対する意欲が、消えてしまった。
そうなると、人間界に居続ける理由も、意義も、同時に喪失してしまう。
何とかしてこの問題を解決する方法はないだろうか…と、彼は更に思考を深めようとしたが、
「エル様ー!お顔を洗うのにどれだけ時間をかけていらっしゃるのですかー!」
というグラゼルの声にハッとし、現在の状況を思い出す。
ともかく、今は学校へ行かなければならなかったのだ。
いくら興味を失ったかもしれないとはいえ、人間界へは自分の意思でやって来た。途中で放り出すような真似はしたくない。
だから学校へは行かなければいけないのだ。
それに、自分の心の問題をちゃんと整理したことにより、多少なりとも気分は上向きになりかけていた。
興味を取り戻した、とまでは言えないが、学校へ行くのが億劫な訳でもない。
そうして再び考えに没頭しそうになっているのに気付くと、エルは思考を完全に中断して、早足でリビングへと向かった。
エルは心の整理に、思いの他、時間を費やしてしまっていた。
故に、朝食を片付けた後、学校までの道程を走る必要に迫られた。
走りながら集中して物を考えるのは簡単ではない。学校までに解決策を捻出する余裕はなかった。
教室に辿り着いたのは、ホームルームに間に合うかどうかというギリギリの時間だった。
エルが教室の後ろのドア(そちらの方がエルの席からは近い為)から中へ入ると、茉莉もちょうど今来たところのようで、後ろからやって来たエルに振り返り声をかけた。
「おはよう、エルくん。」
「…ああ。お、おはよう、茉莉。」
息を整えながら、エルは挨拶を返す。
そんなエルの姿を見て、茉莉は率直な疑問を口にする。
「大丈夫?走ってきたの?寝坊でもした?」
「まあ、そんなところだ。」
今朝の出来事を説明する訳にもいかず、エルは茉莉に話を合わせる形でお茶を濁す。
学校の中では、人目を気にしてか、茉莉はエルに話しかけることは殆どなかった。
互いに秘密がバレてしまうかもしれないリスクを考えると、当然の判断だろう。
二人は数日前、互いに秘密を共有し、それを守ることを約束した。
茉莉の秘密に関しては、一緒にいることでバレてしまいそうだという懸念もあり、エルの心中は穏やかではない。
茉莉の秘密…それは彼に女装趣味があるということだ。
別にそれだけなら問題はないのだが、クラスの数名の男子は、女装姿の茉莉とエルが一緒に居たことを知っている。
勿論、クラスの男子達は、その時エルと一緒にいたのは、自分達が全く知らない女性だ、と思っているのだが。
教室内で二人が仲良く話していると、その女性が茉莉だ、と誰かに勘付かれてしまう可能性が僅かでも生まれてしまう。
エルの秘密に関しても、話している中でうっかり口を滑らせないとも限らない。
そういった理由から、二人は学校の中では微妙な距離を置いた。
普通なら挨拶もそこそこに、互いに自分の席へと向かうのだが、茉莉は続けて口を開いた。
「エルくん、お昼はどうするの?」
先週は授業が午前中だけだったので、昼食は家に帰ってからだった。
今週からは午後まで授業があり、各自お昼ご飯を用意してくるか、お金を払って食堂を利用するか選ばなければならないのだ。
「ああ、グラゼルが弁当を作ってくれた。」
茉莉の質問に、エルは、家を出る際に執事に持たされていたお弁当の存在を告げる。
それを聞いて、茉莉は、こんなことを提案した。
「ボクもお弁当だから、お昼一緒に食べない?どこか人目に付かない場所でも探して…さ。」
「人目に付かない…か。難しいのではないか?」
「うーん、使ってなさそうな空き教室とか。ほら、校舎が三つもあるんだし、多分どこか一箇所くらい空いてるよ、きっと。」
茉莉の言うことは、学校の規模から考えると、ほとんど願望に近かったが、
「まあ、探してみても良いかもしれぬな。」
と、エルは応えた。
学校内では距離を置いたはずの茉莉が、積極的にした提案だ、無下に断る訳にもいかない。
「うん、じゃあまたお昼にね。」
茉莉はそう言うと、急いで自分の席に戻っていった。
チャイムが鳴り、同時にクラス担任の長谷川 義が、前側のドアから入って来た為だ。
「席に着けー、朝のホームルームはじめっぞー。」
長谷川の砕けた台詞と共に、二日ぶりの学校生活が始まったのだった。