1話目・その7
リビングには、頭をリセットした様子の、エルのよく知る落ち着き払った老執事が待っていた。
その執事はエルと茉莉が入って来るや否や、申し訳なさそうに、二人へと謝意を述べた。
「先程はお見苦しいところをお見せしてしまいまして、大変失礼を致しました。」
それに進んで応えたのは、茉莉の方だった。
「いえ…こちらこそ、いきなり押しかけてしまったみたいになって、ごめんなさい。」
茉莉は、先程のグラゼルの驚きを、急な来客に慌てふためいた為と解釈したが、グラゼルは茉莉が来ることを、エルを通して予め知っていた。
ただ、グラゼルがエルから聞いていたのは、魔法を見られた可能性のある人間、ということだけ。
名前も性別もエルからは伝えられていなかったので、エルが連れてくると言っていたのが女性だとは思ってもみなかったのだ。
そういう事情があった為に、茉莉の言わんとする事はグラゼルの心情とは異なるものであったが、グラゼルは敢えてそれを口に出すことはせず、むしろ客人である茉莉の顔を立てる意味でも、肯定の意を示す。
「とんでもございません。エル様のご友人であれば、いつでも歓迎致します。先程は本当に急でしたので取り乱してしまいました次第です。重ねてお詫び申し上げます。」
「いえいえ、そんな。悪いのはこっちですから。」
「いえいえ、悪いのは私でございます。」
と、二人の会話はよく分からない感じに進んでいったが、エルはというと、会話に入るタイミングを逃していた。
グラゼルはそのことにハッと気付くと、
「今お茶をご用意致します。そちらのソファーに掛けてお待ち下さいませ。」
と、気を利かせた風に、場を離れて行った。
その姿を見て、茉莉は少しホッとしたように、エルに話し掛ける。
「最初があんなだったからちょっと緊張しちゃったけど、案外普通の執事さんなんだね。…って、ボク普通の執事さんを見たことある訳じゃないけど。」
「そうだな。」
エルは一言だけ返すと、机を挟んで対になっているソファーの片方に腰を下ろす。
「茉莉はそちらに座ると良い。」
というエルの言葉に促されるまま、茉莉はエルの正面に向かい合う形でソファーに座った。
それを確認した後、エルは茉莉に問い掛ける。
「そういえば先程、何を言おうとしておったのだ?」
玄関での騒ぎで忘れそうになっていたが、エレベーターを出る際に茉莉が何を言おうとしたのか、今聞いておいても良いかもしれない、と思ったのだ。
「先程?えーと…いつのこと?」
しかし茉莉には『先程』という言い方では通じなかったようだ。
「エレベーターを出るタイミングで、何か言いかけたであろう?」
「うん…えーと…あ、あー、何だったっけ…?」
エルが懇切丁寧に説明するが、直ぐに思い当たらないのか、茉莉は首を捻る。
状況を思い出そうと脳内で苦戦する茉莉の前に、紅茶の注がれたティーカップが差し出されたことで、茉莉の思考は中断された。
言わずもがな、それを差し出したのはグラゼルだった。
エルは、直ぐに思い出す内容でないのなら、些細なことなのだろうな、と思っていた。
茉莉とエルの前に紅茶を配り終えたグラゼルは、程なくして、エルの座すソファーの後ろへ立ち、姿勢を正した。
「では、お話を始めさせて頂いても宜しいでしょうか?」
グラゼルの荘厳たる言い様に、その場の空気は緊張感に包まれる。
…はずだったが、茉莉は違う意味での緊張を強いられていた。
そして場の空気を意に介さぬように、エルにだけ聞き取れるくらいの小声で話し掛けた。
「……って、まお…え、エルくん…!な、なんかその、すごく、落ち着かないんだけど…!!」
シンと静まり返った部屋の中では、もしかしたらグラゼルにも聞こえてしまうかもしれない…という懸念から“魔王くん”と言いかけて、咄嗟に“エルくん”と言い直す。
全力で小声を出す、という謎の矛盾を抱えながら、茉莉はエルに自分の意見を主張していた。
「案ずるな、直ぐ終わる。」
「うぅ…それなら我慢するぅ…。」
茉莉の小心ぶりに内心苦笑しながら、エルは短く告げる。
内容まで聞こえていたかは定かではないが、グラゼルはそんな二人のやり取りを、無表情のまま見下ろしていた。
茉莉が諦めた様子を見せたのでグラゼルは、改めて、といった風に口を開く。
「よろしいでしょうかな?まずはエル様のご友人殿、お名前をお聞かせ願えますか?」
「あ、はい。夏川 茉莉です。」
「では茉莉殿。話しをして頂きたい、とは従者たる分を弁えぬことと重々承知してはおりますが、どうかご容赦下さいませ。」
「は、はぁ…。」
老執事の仰々しい言い回しに、茉莉は曖昧に頷く。
「本題に入る前に、どうしても聞いておかなければならないことが御座います。心してお答え頂きたいと存じます。」
と、勿体ぶるように咳払いをすると、グラゼルはとんでもないことを、質問として投げ掛けた。
「茉莉殿は、エル様のことを、愛しておられるのですかな?」
エルは思わぬ執事の勘違いに、盛大に吹き出しそうになった。逆に、茉莉は至って冷静だった。
「愛してる、というのとは違います。少なくとも、グラゼルさん?が心配されるような間柄ではありませんし、いずれそうなる…っていうことも、絶対ありません。」
物理的に、と心の中で付け加える。
気の置けないやり取りをする男女(少なくとも茉莉が男性であることを知らないグラゼルからすればそう見えるだろう)を、恋仲と疑うのも無理はないかもしれない。
多分、茉莉はこういう質問をされるのも想定内だったのだろう。
だから、女性の格好をしたまま、エルの家の者と会うのを渋ったのだろう。
エルは今更ながらに、待ち合わせた時の茉莉の言動と照らし合わせ、一人で納得した。
「左様でございますか。しかし、絶対というのはありえません。その気がなくとも、互いに愛が芽生えてしまうことも、無いとは言い切れないのではございませんか?」
「ぜ、絶対ありえないんです。だからほんとに、心配されることはないです。」
「あり得ない、というのは…もしやエル様に魅力がないから、とでも仰りたいのでしょうかな?」
「そ、そういうことを言ってるんじゃなくて…!」
グラゼルの意図は掴めず、話も前に進みそうにない。
茉莉は視線だけでエルに助けを求める。
エルは察して、どうすればグラゼルが納得するか、と考え、そして突如、妙案を思い付く。
その妙案とは…、
「なあ茉莉。別に隠すことはないのではないか?」
「ま…え、エルくん?何を?」
茉莉は戸惑う。一体エルがこれから、何を言おうとしているのか、と。
困惑した茉莉をよそに、エルは不敵に笑い、声を大にする。
「教えてやれば良かろう。我も茉莉も、互いのことを深く思い合っているのだと!」
「「え、えぇええええ!?」」
茉莉とグラゼル、二人の絶叫が重なった。
「ちょ、ちょちょっと!ど、どういうつもりなの、魔王くん!…あ、エルくん!」
「どうもこうも、あのままでは埒が明かぬであろうと思ったからだが。」
「だからって、その場凌ぎの為だけにそんな嘘吐くって、ダメなんじゃないかな…!?魔王くんだって後で絶対困るよ!?」
「茉莉は話を合わせてくれれば良い。…というか、グラゼルに聞こえる、嘘などと口にするでない。」
「で、でも…!」
勿論、エルの重大発言に放心したままのグラゼルの耳に、今の二人の会話が届いていないことは明白だった。
いつその状態から復帰するかも分からない、という懸念も同時にあったが。
そして、意外に早く復活した。
「な、なるほど。やはりそういう関係でございましたか。しかしこのグラゼルの目が黒い内は、お二人の交際を認める訳にはいきませんな!」
「どういうこと!?」
進んだようで、特に進んでいなかった。
エルはやれやれ、といった風に肩を竦め、そして、業を煮やしたように、ぶっちゃけた。
「早く本題に入れ。」
「は、はっ…そ、それでは、交際の件は後でゆっくりと話し合うとして、本題に入らせて頂きます。」
引き摺ってはいるものの、何とか話は前に進んだ。
エルはそれ以上突っ込むことはせず、後は成り行きを見守ることにした。
最初からエルがそう言ってくれれば、簡単に話が進んだんじゃないのかな…と茉莉はエルを恨みがましい目で見ることにはなったが、今更冗談とは言い出せない空気である。
「茉莉殿。先に断っておきますが、これは重要なことですので、嘘偽りなくお答え頂けることを、お約束下さい。」
「は、はい。」
真剣な表情に戻ったグラゼルに気圧されるように、茉莉は竦み上がったが、
「では…茉莉殿は魔法という存在を、知っておられますかな?」
「はい。………はい?」
突拍子もない質問に、茉莉は目を丸くする。
「どうなのですかな?」
「え、えーと…。」
言い淀む…というか、それは茉莉でなくてもそうだろう。いきなりこんなことを聞かれ、戸惑わない人間の方が珍しい。
「…まぁその、漫画とかアニメの中では、そういうのはいっぱい見かけます、よね。」
可もなく不可もない答え。
だが、相対するグラゼルが聞きたいのは、そういうことではない、とは彼の目が語っている。
「ええ。今聞きたいのは、茉莉殿が実際に魔法を見たことがあるのではないか、ということでございます。」
「いやー、ないですね。」
きっぱりと、茉莉は言い切る。
エルには、茉莉が自分が魔法を使うところを見ていないことは、分かりきっていた。
分かった時点でグラゼルに結論を話すという手もあったが、エルが魔法を見られたことを隠す為、茉莉に知らない振りをさせているのだろう、と邪推されないように、何も言ってはいなかったのだ。
それに、グラゼルも茉莉を見れば、単に魔法を現実のものとして捉えている様子がないことには気付くだろう、と思ったのも事実だった。
だからそのグラゼルが、次にとった行動に、エルは目を疑った。
「では、それが本当かどうか、確かめさせて頂きます。」
そう言うと、茉莉の見ている前で、魔法の単語を紡ぎ始めたのだ。
「グラゼル!!」
瞬間、エルは叫んでいた。
『誰が、人間の前で魔法を使う許可をした?』
地の底から響くような強圧的な声が、エルの口から発せられていた。
茉莉には言葉の意味は理解出来なかった。
それは人間界に於ける、どの言語とも違っていたのだから。
しかし、エルがグラゼルに対して、尋常でない怒りを向けていることだけは明白だった。
『グラゼル、貴様は…茉莉を侮辱する気か。』
『い、いえ…そのようなつもりは…決して…。』
グラゼルですら、これ程の怒りを露にするエルを見たことがなかった。
『ではどういうつもりで、茉莉の前で魔法を使おうなどと思ったのだ、申してみよ。』
『それは…エル様と茉莉殿が、予め口裏を合わせて、魔法を見られた事実を隠蔽している可能性があったからに、他なりません…。』
結局、茉莉のことを話す、話さないに関わらず、それは想定されていたのだな、とエルは嘆息する。
『それが盟約違反であることを、貴様ともあろう者が知らぬ訳はなかろう?歴代魔王達が築き上げてきた盟約…それは我が父たる魔王から課せられた約束事と同意である、と。それに反するような真似を、貴様は行おうというのか?』
エルはグラゼルに答える暇を与えず、己の言葉を続ける。
『確かめる方法にしても、魔法以外の選択肢を用意すべきであろう。魔法の存在を知る者か否か、それを確認する為に魔法を行使するなど、それこそ愚行だ。魔法で茉莉の記憶を覗き、茉莉の言うことが正しかった場合はどうするつもりだったのだ?当然、貴様は自分が魔法を使ったことを、茉莉の記憶から消すつもりだったのであろう?貴様はそれを、我ら魔人の盟約から逸脱するものではないと申すか?』
グラゼルにしても、エルの言葉の意味を理解出来ない訳はない。
黙ってはいたが、愚行と罵られた行為を選んでしまった自分を恥じていた。
『そもそも貴様は、我がそのような小細工をしてまで人間界に留まると、本気で思ったか?貴様の行為は茉莉を、我を、かつての魔王達を、等しく侮辱しているものだと気付け。』
『返す言葉も…御座いません…。』
搾り出す様にそう言ったグラゼルの心は、後悔の念に染まった。
だからそれ以上、エルは何も言わなかった。
「あ、あのー…」
と、口を挟んだのは、状況が分かっていない茉莉だった。
「ああ、すまぬな茉莉。お前のことを蔑ろにして、話をしてしまっていたな。」
エルの表情と声色は、普段のものに戻っていた。
「それは別にいいんだけど…な、なんか、すごい怒ってなかった?」
「気のせいであろう。」
「いやー、気のせいじゃないと思うんだけどなぁ…。」
何だかやり切れない、という風に、茉莉は困ったような表情を浮かべた。
「で、結局さっきのグラゼルさんの質問は、何だったの?それに、確かめるって言ってたけど…ボク、何かした方がいい?」
茉莉は一人現状が分からないままに、首を傾げるのだった。