8話目・その3
四人掛けのテーブル席に案内された後のエルとリアは、茉莉が早々に立ち去ってしまったことに、残念な気持ちを拭えずにいた。
特に、日本語を話せない為に一言も会話を交わす機会がなかったリアには、相当な落胆ぶりである。
『茉莉姉ぇ行っちゃったね…。』
机に体重を預けて、授業中に居眠りする学生の如く、ぐったりと脱力したリアは、言いながら正面に座るエルを見上げる。
『…茉莉は仕事中である故、ゆっくり話す暇は、ないのであろう。』
『そっかぁ…。』
彼らの話す言語は日本語ではなく、魔界に暮らす魔人達が使用する言語である為、もしも近くで誰かが聞いていたとしても、その内容を理解することは出来なかっただろう。
しかし、会話の内容は分からなかったとしても、目を向けさえすれば、その落ち込み様に関してだけは伝わったかもしれない。
エルにしても、殆ど相手にして貰えないという事態は、正直予想していなかった。
以前、執事グラゼル・アルエインに連れられてこの店に来た折には、茉莉は一時的に仕事を抜けて同席し、一緒に神無月 詩鶴と名乗った老婆の話を聞いた…という経験があったので、仕事中でも少しなら会話する時間ぐらい設けられるだろう、と楽観視していたのだ。
その件に関しては、詩鶴がこの店の店長と知り合いで、茉莉を少しの間借りる了承を得たという裏事情があったのだが、エルにはそんなこと知る由もないのであった。
エルとリアにとって、茉莉と話が出来ないのでは、こうして店に来た目的は半分方失われる。
とはいえ、もう半分を満たすことは出来る。
故にエルは、気を取り直して…といった風に、目の前で行儀悪くテーブルにへばり付く妹へと声をかける。
『リア、お前は何か食べたい物はあるか?』
そう言って、壁際に立てられていたメニュー表を手に取り、リアの顔の正面に広げて見せた。
目的の残り半分は、少し遅めの昼食を摂ることだった。
『えーと…。』
リアは食事のことなど、割とどうでもよくなっていたのだが、一応メニューの写真に目を走らせている内に、唐突に身体を起こして、
『あ、これ…!これ食べたい!』
と言いながら、続けてメニューの写真を指差した。
普通の喫茶店にあるような食事のメニューは大体揃っているが、リアが選んだのは、普通の食事メニューではなかった。
『………苺チョコケーキ?』
写真の下に書かれていた名前を読み上げたエルは、直後、軽い溜め息を漏らした。
妹の苺好きは既に知るところではあるので、その選択自体は、らしいとさえ思うのだが…昼食が甘味だけではダメだろう、と。
『…デザートを頼むのは構わぬが、先に普通のメニューを選べ。』
呆れ半分に言うエル。
リアは普通の食事には興味は惹かれなかったようで、
『字なんか読めないんだから、見ただけじゃ分かんないし…兄貴と同じので良いよ。』
若干面倒そうに答えるだけだった。
そう言われてしまうと文句を言う訳にもいかず、仕方なくエルは一人でメニュー表に向き合って、昼食を決めることにする。
三日前のボウリングの後遺症(ただの筋肉痛)で、右腕が未だ完治していないので、左手だけで問題なく食べられそうな料理が、エルとしては好ましい。
外出先…しかも茉莉の仕事先で無様を晒す愚は避けたいのである。
そうなると一番良いのは、スプーンやフォークを使わずに食べられる料理だ。
必然的にエルは、メニューの中からサンドイッチを選択する。
但し、サンドイッチと一言で言っても、種類はそれなりに豊富だった。
エルは多少悩みはしたものの、数ある中から一つに絞って、注文する品を決めた。
『決まったぞ、リア。』
『ん。』
注文が決まったのでかを掛けたが、リアは頬杖を付いた状態で生返事をするだけだった。
何を注文することになったかすら質問しないのは、兄の選択を信用しているから…ではなく、興味がない故だというのは明白である。
とはいえ、文句は言われなかったのだから、エルとしては一先ず良しとしておく。
普段ならとっくに昼食を終えている時間であり、身体は空腹感を訴えているのだ。
リアが無関心でいるなら、敢えて時間を使って問答するまでもない。
そう思ったエルは、妹の態度は気にしないことにして、店員を呼び出す為のボタンを押す。
すると、直ぐに従業員である猫耳ウェイトレスが席にやって来たが、兄妹にとっては残念なことに、応対に来たのは茉莉ではなかった。
そのことを残念には思っても、態度に出すエルではない。
呼び出しボタンが押されたタイミングは、茉莉がルナルナの提案を受け入れて休憩に入った後だったので、どちらにせよ茉莉が注文を聞きに来ることはなかったのだが。
注文を取りに来たのは、エルにはそれとなく見覚えがある、黒髪ロングヘアーのウェイトレス、ルナルナだった。
エルのことを“まーちゃん”の彼氏だと認識しているルナルナは、「失礼します。」の声を発してから、
「…まーちゃんじゃなくてごめんなさいね。まーちゃんは今さっき休憩に入りましたよ。」
気を利かせて、彼氏君が知りたいであろう『“まーちゃん”が来なかった理由』を説明した。
「ふむ…そうなのか。」
そう呟くエルの、残念だけど仕方がないか…とでも思っていそうな表情を、ルナルナは的確に読み取る。
ただ、それ以上は語らなかった。
万が一にも、茉莉が直前でヘタレる可能性もあったので、期待を持たせないように…というのは建前で、教えないでいた方が、喜びも倍増するのではないか、という思い付きの悪戯心によって口を噤んだのである。
「注文をお伺いします。」
伝票とボールペンを構えて注文を聞く姿勢になっているルナルナを確認すると、エルは早速注文を告げていく。
「ホットサンドのミックスというのを二つと、紅茶をストレートで二つ。それと、食後に苺チョコケーキを一つ、お願いしたい。」
「ホットサンドのミックスをお二つ。紅茶のストレートをお二つ。食後に苺チョコケーキをお一つ、ですね?…ご注文は以上で宜しいでしょうか?」
ルナルナは伝票にペンを走らせながら、言われた注文を復唱した後、注文に漏れがないか確認する。
「うむ。宜しく頼む。」
「はい。かしこまりました。少々お待ち下さいませ。」
注文を聞き終えるとルナルナは、一礼してから待機エリアの方へと歩いて行った。
急いで着替えを終えた茉莉が再び店内に姿を見せたのは、ルナルナが紅茶を提供し終わって、エル達の卓から引き返して来たタイミングだった。
そのまま客席に出ようとする茉莉を見て、一瞬目を丸くしたルナルナだったが、直ぐに引き止める為に声を掛ける。
「まーちゃん、耳!耳付けっ放し!」
ルナルナは片手で口元を隠して笑いながら、もう片手で自分の頭の上部を指差した。
どうやら、急いでいたので猫耳を外し忘れていたらしい。
「あっ…う、えぅ…。」
指摘を受けた茉莉は慌てて、頭に付いたままの猫耳ヘアバンドに両手を当て、謎の鳴き声を発する。
頭を抱えたようなポーズのまま、外しに戻ろうかどうしようかと考え込んでしまったのだ。
一分一秒が惜しい、と全身で表現している風であり、それを見たルナルナは吹き出しそうになるのを我慢した。
ルナルナとて、可愛い後輩を虐めたい訳ではないので、
「耳は、ここに置いてって良いから。」
と、狼狽える茉莉に対して、優しく諭すように言いながら、実状は頑張って笑いを堪えていた。
許しを得たことでホッと息を吐いた茉莉は、猫耳を頭から外して台の隅っこに置くと、改めてエル達のテーブルに向かおうとしたが…またもやルナルナから、待ったの声がかかる。
「待って待って、まーちゃん。客席で賄い食べるのは他のお客さんの手前、ダメなのは分かってると思うけど。何か注文するなら、ここでしていって。彼氏と早くお喋りしたいのは分かるんだけどね?」
「は、はい!じゃなくて、えーと………じゃあオレンジジュースと…あ、ホットケーキ、お願いします…!」
予備のメニュー表を取り出そうとしたルナルナだが、出すまでもなく茉莉は注文を決めた。
咄嗟に思い浮かんだメニューを口に出しただけである。
よっぽど時間が惜しいのだろう。
そんな初々しい、まるで恋する乙女のような茉莉を見て、ルナルナの頬は自然と緩んでしまう。
「はい。ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます!」
よく分からない遣り取りを交わした後、茉莉は今度こそ、引き止められることもなく客席へ向かうことが出来た。




