6話目・その6
エルが妹の部屋の前から立ち去って、はや3時間が経過していた。
既に22時半を回っているが、彼女は一向に出て来る気配はない。
今日はもう、部屋から出るつもりはないのかもしれない。
少し離れた場所から様子を窺っていたエルだが、流石に諦めようという思いが強くなる。
リアが機嫌を直してくれなければ、明日は早々に、朋希へ断りの電話を入れなければいけない。
また、機嫌を直してくれた場合にも、どうしても朋希の同行は嫌だと言われれば、同様だ。
怒らせてしまった理由が分からないのでは、どちらにせよ、明日は朋希へ電話を入れなければならなくなりそうだ。
原因は自分にあるとはいえ、正直頭が痛い。
リアを待つ3時間を、エルは無為に過ごした訳ではない。
幾つか考えなければならない事があったのだ。
先ず第一に、リアの機嫌を損ねたであろう他の理由を考えた。
人間の友達が欲しいなんて思ってない…と、リアは言った。
だが、人間を毛嫌いしている訳ではない、とは断言出来る。
もし人間が嫌いなら、人間界に興味を持ったり、茉莉と仲良くなる道を選んだりはしなかったはずだ。
彼女の口から吐き出された言葉の真意は、エルには計れない。
とはいえ、実際には何度も考えを巡らせ、恐らくこういう理由で怒ったのだろう…という所までは辿り着いていた。
しかし、それに自力で辿り着いたからといって、リアが許してくれる保証は無い。
何より、今の時点ではエルの勝手な想像・解釈であり、リアの口から告げられて初めて、答えが形に成るのだ。
そうでなければ、エル自身も納得出来ない。
決め付けて理解した振りをするのでは、逃げるのと同意だ。
エルは今まで、特にリアに対しては、理解した気になって、逃げていた事実に気付いたのだ。
依って、次に考えるのは、自分の反省点だった。
エルは普段から、結論を急ぎすぎてしまう所がある。
時折、必要な説明をすっ飛ばす傾向がある。
それは以前からの茉莉との遣り取りの中でも、稀に現れていた悪癖だ。
過程を説明せず、結論だけを述べる。
自分の中では既に答えが出た事…だから、説明を省いてしまう。
疑問点を我慢強く聞いてくれる相手なら良いが、残念ながらリアは、そうではない。
エルが勝手に考えを進め、結論だけを提示すれば、過程の想像は必然とリアに委ねられる。
自己解釈を進め、怒るに足る理由を想像したのだとすれば、それは当然、エルの落ち度であり、リアを責めるのは筋違いだ。
恐らく、そういった部分なのだろう、本当にリアを怒らせてしまったのは…と、エルは最終的に、そこに行き着いた。
気付けば3時間が経っていた。
そして、今日はもう諦めた方が良いだろう、明日また話をしてみよう…と、自分に言い聞かせた。
散々考えに考え、疲れ切った脳は休息を欲していたが、未だお風呂にも入っていないことを思い出したエルは、風呂場へ足を向けた。
脱衣所という名の、洗濯機が置いてあるだけの小ぢんまりとした空間で衣服を脱ぎ去り、洗濯機へ放り込んだ後は、脱衣所と風呂場とを繋ぐ曇りガラスのドアをスライドさせ浴場に入る。
人間界の…というより、マンションの風呂場は大きくない。
エルの暮らしていた魔界の王城は、少なく見積もっても、5倍は広かった。
多少窮屈な思いをするが、それでも狭いという程でもない。
何より、慣れてしまえば大きさなど気にならない。
エルはお湯で身体を流してから、表面が泡だらけの湯船に浸かる。
瞬間的に、程よい眠気が襲って来る。
エルはそのまま心地良い眠気に身を任せ、目を閉じ…十数秒の後、ガチャっという物音で目を見開いた。
ほんの十数秒だと思っていた時間は、温度調節器に表示されるデジタル時計によって、実際は15分が過ぎていたことが分かる。
先程の音は、脱衣所の扉が開いた音だろう…と理解出来るくらいには、エルの脳は正常に働いていた。
曇りガラスのドア越しにも、人影が入って来たのが覗える。
グラゼルが様子を見に来たのか?
疑問に思い、エルが声を掛けようとした瞬間、スライドドアは勢い良く開かれた。
立って居たのはリアだった。
寝癖の付いた髪で、寝ぼけ眼を擦りながら、大きな欠伸をして、今正に風呂場に侵入せんとする。
勿論、一糸纏わぬ姿で、だ。
エルは何と声を上げて良いか分からず固まり、それでも直ぐに、
『お、おい…。』
と、少なからず自分の存在を主張するのだが、
『ふぁ~…あ、居たの。』
リアは欠伸混じりの軽い返事を返し、気に留めた風もなく、浴室へと踏み込んで来る。
何をしに来た?否、風呂に入りに来たのは分かるが、何故、先客が居るのに入って来る?
エルは相当困惑した。
しかも、その先客というのは、リアが現在進行系で怒りを向けているはずのエルなのだから、本当に訳が分からない。
今度こそ本当に夢かもしれない…と考えたエルは、自分の頬を抓ってみるが、痛みを感じたので、これは現実と受け入れる他なかった。
であれば、リアが単に寝ぼけているだけ…というのが、極々自然な推察である。
ただ、リアがこんな状態では、話をする気になったのか、寝ぼけて風呂に入りに来てしまっただけなのかは、見当が付かない。
もし話す気になったのであれば、無下に追い返すのも躊躇われる。
だから、あくまでやんわりとした言い方で、エルは自発的に引き返させようと試みる。
『今、我が入ってるのが分かっておるのか?』
『私は今入りたいの。』
答えになっていない返しと同時に蛇口を捻って、お湯を桶に貯め始め、いっぱいになったところでリアは頭からお湯を被る。
リアは寝起きで頭が回っていないのだ…とは、誰が見ても思う事だろう。
先刻、風呂場が狭いという程ではない、と表現したが、それは一人であれば、という条件の下に成り立つ。
浴槽に関しても同様に、二人で入るのでは、かなり窮屈な思いを強いられるだろう。
それを分かっているのかいないのか、未だ寝ぼけたままのリアは、浴槽の淵に手を掛け、エルの僅かばかりの安楽の地に侵略を開始した。
結局リアの侵攻を阻止する術が無いと知って、エルは諦めの溜め息を吐き出す。
そして、足を踏まれては敵わない、と膝を折り、体育座りに近い姿勢まで縮こまる。
お湯の表面を泡が覆っている為、水面下でのエルの動きは、リアには視認出来ていなかったが、まるで事前に打ち合わせでもしていたかの様に、少女は的確に開かれた半分のスペースに滑り込んだ。
兄妹なのだから、お風呂に一緒に入るくらい、別段恥ずかしい気持ちも無い。
しかし、エルは視線を、あっちこっちに彷徨わせている。
その理由は、気まずさと、もしリアが目覚めた時に、自分は一体どんな罵声を浴びせられてしまうのか、という不安だ。
互いに無言のまま5分が経過しようとした時、リアが徐に口を開いた。
『………何してんの兄貴?』
たった今、エルの存在に気付いた風な反応だ。
怒りの感情は特に見受けらない。
目をぱちくりとさせて、純粋に疑問をぶつけて来ただけ。そんな印象だった。
『我が先に入っておったのに、お前が後から入ってきたのであろう…。』
『そうだったっけ?半分寝てたから覚えてないんだけど。』
エルが現状を説明するにも、リアは悪びれもせず頭を傾ける。
更には、
『ま、いっか。』
と開き直る始末。
エルは呆れて良いのか注意して良いのか、はたまた安堵して良いのかも分からず、軽い溜め息を吐くしか出来なかった。
だが、それも束の間。
再度口を開いたリアが、
『ねぇ兄貴、何で私が怒ってたか、本当に分かんないの?』
と、思いっきりご機嫌斜めな口調で放った為だ。
台詞から察するに、無視はしたが、ちゃんと話は聞いていたのだろう、とエルにも伝わった。
『…リア、話してくれる気になったのか?』
顔色を窺いながら、エルは確認の意味を込めて質問を飛ばが、
『いや全然。』
そんな気はない…と、ぴしゃりと言い切るリア。
『そうか…。』
エルは明らかな落胆を見せた。
故意でなかったにせよ、リアはこうして部屋から出て、既にエルと会話を交わしている。
それだけ見れば、話す気になったのだろう、と判断されてもおかしくない。
だが、エルは今回、段階を踏もうと試みた。
自分に都合の良い解釈をしてしまわない為に。
そんな彼の態度が、功を奏したのだろうか、リアは少し黙った後、
『兄貴が、私が怒ってた理由分かったら、話してあげてもいいよ。』
と、何でもない事の様に告げた。
『本当か…?』
『分かったら、だからね?どうせまだ分かんないんでしょ?』
不機嫌オーラを残しつつも、実を言えば、リアの怒りは多少収まっていた。
睡眠を挟んだことで、少しは感情が抑制された、というのもあるのだろう。
話をしても良いと思える程度には、気持ちが落ち着いていた。
しかし、そう思ったとしても、素直に言い出せないのがリアである。
条件を出し、それを達成すれば話す、とは彼女なりの最大限の譲歩だった。
リアの性格なら、大体そんなところだろう、と推察するエルは、しかし、理解したと思い込むのは、驕りなのだ…と、否定するように首を振って、考えを振り払う。
『…分からぬのだ、我は…。』
呟くようなエルの言葉も、彼の正面に相対するリアには、ハッキリと聞き取れた。
であれば、自分に掛けられた言葉だと思うのが自然で、考えても分からなかった…と、エルが降参したかに思えた。
『私の方から教えてなんてあげないんだから。』
だからリアは、そういう対応で返すが、
『ああ、否…考えておる間に、我は自分自身が分からなくなった。』
と、エルは自嘲気味に、リアの想像の斜め上を行く解答を放ち、
『我の言葉が、只の傲慢…と、お前の目には、そう映ったのかもしれぬ。結論を押し付けていたに過ぎない…のであろうな。』
続け様に、訳の分からないことを言い出すのだ。
『…何の話?』
リアが訝しむのは当然だ。
抽象的な表現を並べるだけ並べて、リアから具体的な答えを引き出そうとしている可能性を疑いたくもなる。
だが、リアから送られる疑惑の視線に構うことなく、エルは疾く喋り続ける。
『リアに、朋希と仲良くなって欲しかったのは事実だ。それは単に我の願望で、最終的に決めるのはリア自身だということは、我も分かっておる。…だが、我の言い方では、友達を用意してやる、と言うに等しかった。…すまなかったと思う。それに、お前は茉莉以外の人間を知らぬのだから、配慮すべきであった。前に、人間が束になって掛かってきたら、お前は勝てぬと言っておったな。お前の中には人間に対し、得体の知れなさを感じる心が存在するのやもしれぬ。だから───』
『もう良い!分かったから!』
放っておくと、いつまでも終わらなそうな雰囲気を悟り、リアは遮った。
『リア…?』
割り込んだのは、これ以上見当違いな内容を聞かされたくない、という思いからなのか、内容が正しかったからなのか、どちらか判別出来なかった為に、エルは情けない声で妹の名を呼ぶ羽目になった。
呼ばれた側は、そっぽを向きながら、
『分かったなら良いの。』
短く口にした。
どうやら後者だったようで、エルは一瞬ホッとするが、それだけでは終われない。
『…分かってはおらぬ。』
と、リアを再び怒りの渦中に落とし入れる危険性を孕んだ発言をしなければ終わらない。
当然だがリアは、
『はぁ!?』
と、怒気を多分に含んだ声を上げた。
当てずっぽうで言ってただけなの?…と、次第に落ち着こうとしていた感情が、徐々に蘇えりそうになる。
だが、それよりも早く、
『否、恐らくは…分かっておる…のだが、やはり、リアの口から聞かなければ、完全に分かったとは言い切れぬ。分かった振りをするだけになってしまう。それは嫌なのだ。故に…聞かせて欲しい。』
言い訳にも聞こえる、愚直な台詞を必死で並べ立てるエルの姿に、リアは毒気を抜かれてしまった。
『何それ言い訳?』
初めて目にした、自信なさ気な兄の姿が可笑しかったのもある。
リアは笑いながら放っていた。
『…大真面目だ。』
対してエルは、真剣そのものだ。
それが余計にリアの笑いを誘う。
『馬っっ鹿じゃないの?分かった振りしとけば良いじゃん?何で馬鹿正直に答えてる訳?分かった振りしとけば、私は兄貴を疑わなかったんだよ?』
最早、怒りの感情はどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
『かもしれぬな。…だが、それでは、お前の気持ちと本当に向き合うことは出来ぬのだ。』
それでも尚、真正直に答えを返すエルに、
『は、はぁ!?何それ!?兄貴の考えることって、いつも小難しくて訳が分かんないんだけど!!?』
リアの方が困惑し始めた。
『我は今まで、お前のことを理解したつもりになっておった。今後は、そうならぬように努力する…ということだ。』
『ほんと意味分かんない!今日の兄貴は何かおかしいよ!?』
いつものエルとは何かが違っている。
それはリアも重々感じているのだが、具体的に何処が違うのかを察する事が出来ない。
『おかしいのはお前も同じだ、リア。』
微笑を浮かべ、自分を小馬鹿にする様なエルの言い方は、いつも通りな気もするし、やはり何か違和感を感じる気もする。
だが、直後に、
『否、おかしいと言うのは語弊がある。自覚はないであろうが、お前は変わった。人間界で少なからず影響を受け、変わって行っておるのだ。』
と、エルが続けたから、リアは、兄をおかしいと感じたのは間違いではなかったと理解する、と同時に、
『………私、が…?』
全く気付いていなかった自身の内の変化を指摘され、戸惑ってしまう。
リアにも当然、思い当たる節があった。
自分に嘘を吐けなくなってしまっていた事に対して、だ。
エルは、戸惑うリアに優しく頷き、
『そうだ。だから…その…妹の成長が嬉しくてな。つい、気持ちが先走ってしまったというか。あの様な言い方をしてしまったのは、完全に我の落ち度だ。…すまぬ。』
今回の件に関する、心からの謝罪を行う。
『まぁ…うん。別に、今はそんな怒ってる訳じゃないし、許してあげても良い。』
心の整理が付かないまま、視線を泳がせながらも、リアは謝罪を聞き入れ、
『感謝する。』
許された方は、心底安堵した表情を浮かべた。
兄のことは嫌いではない。尊敬すら抱いている。
だから、一時負の感情を向ける事があろうと、嫌いになれるはずなどなかった。
兄貴も私には嫌われたくないと思ってるんだろう…と、リアは分かった振りをしてみる。
すると、自然と頬がニヤけてしまう。
エルは気付いているのか、いないのか、そんなリアに、何を言うでもなかった。
だが、暫くの後には口を開き、
『それで…だ、リア。』
『…な、何!?』
頬を紅潮させ、過敏に反応した少女に対し、申し訳なさそうに、
『お前を怒らせてしまった理由を、お前の口から聞かせて欲しい。』
と、頭を下げた。
リアには最早、それを拒む理由はなく、
『しょうがないなぁ。』
あくまで面倒そうに振る舞いつつも、話す意思を露すのだった。




