5話目・その3
猫カフェ『STRAY’t』での一件から翌日。
4月も残すところあと二日となり…その1日目、大半の学生にとっては耐え忍ぶべき時間が終わりを告げた。
今日に関しては、エルも例外ではなかった。
原因は言うまでもなく、昨日の神無月 詩鶴の話を深刻に受け取った為だった。
茉莉に相談する、という一応の打開策を用意出来たとはいえ、集中して授業を受けられる心境ではなかった。
とはいえ授業に付いて行けなくなっては元も子もない。
話半分で、機械的に板書だけは写していた。
目標を見失い、やる気を欠いていた一時期は、ノートすら取っておらず、追いつくまでには少なくない時間を要したことを、既に身を以て経験している。
高等学校における授業は、エルが魔界で半年の間に頭に詰め込んだ中学校以前の内容と比較すると、格段に難しい。
与えられた3年間という限られた時間を、あまり無駄にするのは、好ましくはない。
そう思うからこそ、集中出来ない状態であろうと、最低限の書き写すという行為だけは怠らなかった。
そして、終業を知らせるチャイムによって、ようやくその作業から解放された。
ホームルーム(1-Dでは担任の長谷川が主に世間話をするだけだが)が終わると、帰宅の時間だ。
放課後も、暫しの間、友達同士で談笑するグループが幾つか在る。
エルはクラス内で、どのグループにも属しておらず、普段から直ぐに帰宅するので、彼らのように教室に留まることはない。
しかし、この日、エルが人間界へ来て以降の、ホームルーム後の最長教室滞在時間は大きく更新された。
理由は、茉莉にメールを送ろうとしたところで、既に茉莉の方からメールが届いていたことに気付いたからだ。
内容は、昨日の言い訳をしたいという旨のものだった。
更に、別の人物からもメールが入っていた。
すっかり記憶の彼方だったが、先日、同好会の申請用紙に記名せずに帰った為、藤原 朋希から呼び出しが掛かっていたようだ。
それを見た瞬間、一時の感情に任せて行動するのは良くない、後から面倒事が増えるだけだ…と、エルは数日前の自分を悔い、同時に戒める。
どうやら明日までに新規設立の届け出が間に合わなければ、同好会が作れなくなってしまうようだ。
同好会が設立出来なければ、部室を当てにしていたエルとしても困ることになる。
仕方がないので、茉莉には、『少し帰る時間が遅くなる』と返信を送り、面倒事は先に済ませたい一心で、急ぎ第三校舎の3-L教室へと足を運ぶことにした。
これから部室に赴くであろう生徒達の後に続くように第三校舎の廊下を歩き、前を歩く人が全て視界から消えると、残るは最奥の教室だけとなる。
扉を開くが、中には未だ何者の姿も無い。
自分の方が早く着いてしまったのだろう、と待つこと5分…エルの想像通り、3-Lの扉が開かれた。
扉の向こうから姿を見せた朋希は、
「おう、早いなエル。」
待ち人が先に来ていた事実に、多少驚いていた。
「ああ。名前を書くだけなのであろう?すぐに済ませる。」
そう返すエルからは、早く終わらせて帰りたい…という素振りが、まるで隠せていない。
隠すつもりもないのだが。
しかし、そんなエルの態度を意に介さず、
「あー、それなんだけどさぁ、ちょっと話したいことあんだよ。」
と、引き止める朋希。
「…その話は今日でなければならぬのか?」
エルは当然、渋い顔をした。
「何だよ、この前のことまだ怒ってんの?ちゃんと謝っただろ…。」
この前のこと…とは、三日前に茉莉がエルに呼びかける際、うっかり「魔王くん」と呼んでしまい、それを聞いた朋希が爆笑した件である。
確かに朋希は謝罪のメールを寄越したが、それが“ちゃんと”であるかといえば、少々疑問が残る。
ただ、それに関しては、
「そんなことはもう気にしておらぬ。」
淡白に返す程度には、引き摺っている訳でもない。
「単にこの後、茉莉と話があるだけだ。」
と、エルは続けた。
「へー、そっか。」
抑揚なく返しながら、朋希は妙に意味深な視線をエルに送っていた。
理由に心当たりはあったが、今は一秒でも早く帰宅したいエルは、敢えて気付かない振りをした。
そのことも含めて、朋希とはやはり、一度じっくり話をしなければならないだろう…とエルは思うが、現状での優先度は茉莉への相談事が勝っている為、次のように提案をする。
「今日は無理だが、我からも朋希に話がある。互いに都合の良い日…出来れば早めの方が良いが、改めて話をしたい。」
「あぁ、おう。」
朋希から戻ってきたのは、真面目に話すエルへの返答としては不釣り合いに思える程、軽いものだった。
「ゴールデンウィークと言ったか?連休中は、我は特にこれといった用事は無い。」
心なしかしょんぼりしているようにも見える朋希にも、だがエルは頑なに無視を貫く。
「あ、あぁ。そうなのか。…んー、オレは活動しようと思ってたんだけど、そのついでに話すってのはどうだ?」
察しないエルに少しだけ不満を抱く朋希だが、途中で諦め、自らも会話の流れに乗るよう軌道修正をかける。
「活動?」
「同好会の活動な。連休だし早速活動しようと思ってな。エルが来てくれりゃ、話す時間くらい余裕であるからよ。」
超常現象解明同好会…朋希曰く、全ての超常現象を科学的に解明する為の同好会。
活動に興味はないが、エルとしても早めに朋希と話し合っておきたい。
それに、興味はなくとも、一度くらいは参加してみても良いのではないか、という気持ちがあったのも確かだ。
「そうか、では付き合うとしよう。」
エルは二つ返事で了承した。
「じゃあ明後日で良いか?」
「うむ、了解した。」
話が纏まったところで、朋希は用紙を鞄から取り出し、エルに寄越す。
エルは即座に、制服の胸ポケットに予め準備しておいたボールペンを取り出し、記入を済ませると、渡すついでに朋希の横を通り抜け、3-L教室の扉を出た。
廊下から教室内を振り返り、
「では、またな。」
一声かける。
「おう、じゃあな。集合場所とか時間とかはメールするから確認しろよ。」
朋希の言葉に頷くと、エルはそのまま廊下を歩き始めた。
学校からの帰り道、茉莉にメールで用事が終わったことを知らせたエルは、一度帰宅した後、着替えを済ませて再び家を出た。
彼の目指す場所はコンビニ。
そこが今日の集合場所であるからだ。
いつもならエルが自宅で待っていれば、茉莉の方からやって来てくれるのだが、何だかグラゼルとも昨日の今日で顔を合わせづらいようで、待ち合わせ場所の指定をして来たのは茉莉の方だった。
外出した場合、”聞かれたくない話”をするのは難しくなるだろう。
どこか都合の良い場所はないものだろうか…と、コンビニに向かう道すがら考えていたが、あれこれ思い悩み、特にこれといった場所が思い付くより前に到着してしまった。
仕方がないので先に合流を済ませようと、そのままエルは茉莉の姿を探す。
近隣の学生達の通学路にもなっている表通りに面するこの場所では、私立久十里学園の生徒も、制服姿のまま楽しげに会話に華を咲かせていることが多い。
人通りも当然ながら少なくないが、コンビニという目印の前で立ち止まっていれば、自然と目立つ。
その中に、一人で誰かを待つ可憐に見える少女がいれば、声をかけようとする若い男もいるだろう。
実際に、茉莉を探そうと視線を動かし、目撃した。金髪の男性に絡まれる場面を。
エルは、そういった現場に遭遇するのは初めてだったが、これが俗に言うナンパというやつか…と、目の前で起きている事象を、人間界の偏った知識から引っ張り出し、僅かに感慨を覚えた後、躊躇なく少女と男の間に割って入り、
「悪いが先約がある。」
と、男に一言告げた。
「何だよ彼氏持ちかよ…。」
途端、金髪男は不機嫌になり、ボソッと呟くと、人混みに紛れるように彼らの前から消えた。
「ああいう輩には気を付けた方が良い。周りに人も大勢居るのだ、自分で断れぬなら、周囲に助けを求めるという方法も対策としては可能だったであろう。」
エルは振り返り、絡まれていた少女…つまり、女装の夏川 茉莉に声をかけた。…はずだった。
「あの…ありがとう。…ございました。」
「う…む?」
よく見れば、彼女は茉莉ではない。
遠目には茉莉に見えたが、背格好が似ていただけの、知らない少女だった。
「あれ、私何か変なこと言っちゃいました…?」
何故か面喰らった様子のエルに、少女は焦った。
「否…別にそういう訳ではないが。」
まさか人違いで助けただけとは言えず、エルは自分の勘違いに気恥ずかしさを覚え、言葉を詰まらせた。
しかし何も言わずに去るのも不自然である。
それに、待ち合わせなのだからコンビニ前から距離を置く訳にもいかない。
どう言って離れるのが自然か、と考えを巡らせようとした時、待ち人が来たことにより、その問題は解消された。
尤も、また別の厄介事が生じたが。
「………何やってるの、…エルくん?」
やって来た茉莉は、エルを見つけると、自身の目を疑った。
知らない少女に話しかけていたからだ。
非難めいた声色で、茉莉は二人の間に割って入っていた。
タイミングの悪いことに、茉莉がエルを視界に捉えたのは、ナンパ男がいなくなった直後だった。
「ま、待て…別にやましい事は何もしておらぬぞ。」
まるで言い訳のような台詞を吐くエル。
敢えて否定するのは逆に怪しいのではないか。
気付いたのは、口から言葉を放った後だった。
「本当に?ボクが来るの遅いからって女の子ナンパしてたのかと思ったけど、違った?」
エルの言動や状況を見るに、茉莉が怪しむのも無理はない。
何とか誤解を解こうと、次に発すべき言葉を頭の中から捻り出そうとし、
「ち、違います。」
しかし、それより先に茉莉に応えたのは、エルでなく少女だった。
「この人は、私がナンパされてるところを助けてくれたんです…。」
ずいっと一歩前に出て、困り顔になった少女が精一杯の主張をする。
到底、嘘を吐いてるようには見えない上に、嘘を吐く理由もないだろう。
「………それなら良いや。疑ったりしてごめんね。」
何かまだ不満でもあるのか、茉莉は少しだけ不機嫌さを残しながら、心の篭っていない謝罪をエルに告げた。
「き、気にしなくても良い。」
「ありがとう。」
表面上は社交辞令的な遣り取りであるが、茉莉が浮かべた笑顔は、有無を言わせない笑顔だった。
「それじゃあボク達はもう行くから。」
「…う、うむ。また絡まれぬよう気を付けるのだぞ。」
「は、はい。ありがとうございました。」
結局エルは、思っていた流れとは違ったものの、その場を自然に離脱することには成功した。
茉莉が強引にエルの腕を引っ張り歩いて行った後、
「彼女…さん。かな…。」
少女のそんな呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。




