第2章後編
間宮は榊原に向き直った。
「榊原さん、私からの提案があります」
「提案……ですか?」
「はい。今すぐ死ぬのではなく、まず遺族の方々に会ってみませんか」
榊原は目を見開いた。
「遺族に……?」
「そうです。謝罪し、あなたの思いを伝える。その上で、もう一度考えてください。本当に死ぬべきなのか、それとも生きて償うべきなのか」
間宮は静かに続けた。
「もし、遺族の方々と向き合った上で、それでもなお死を望むなら、その時は私も真剣に考えます。でも今は、まだその段階ではない」
「でも……遺族の方々が会ってくれるでしょうか」
「分かりません。拒否されるかもしれません。でも、試す価値はあります」
間宮は立ち上がった。
「一週間、時間をください。その間に、遺族の方々への連絡方法を調べます。もし可能なら、面会の機会を作ります」
「本当に……そんなことが……」
榊原は混乱していた。
「できるかどうかは分かりません。でも、やってみる価値はあります」
間宮は名刺を取り出し、テーブルに置いた。
「何かあれば、連絡してください。そして、この一週間、よく考えてください。あなたにとって、本当の償いとは何なのか」
榊原は名刺を手に取り、じっと見つめた。
「ありがとうございます……」
彼の声は、かすれていた。
7
アパートを出た後、間宮と綾野は黙って歩いた。
夜の街は静かで、時々車が通り過ぎるだけだった。
「綾野さん」
間宮が口を開いた。
「はい」
「さっきは、少し感情的になりませんでしたか」
綾野は足を止めた。
「……すみません」
「いえ、謝ることはありません。むしろ、あなたの言葉は正しかった」
間宮も立ち止まった。
「ただ、何か個人的な理由があるのかな、と」
綾野は黙っていた。
しばらくの沈黙の後、彼女は小さく答えた。
「私も……昔、大切な人を失ったことがあります」
「そうでしたか」
間宮は、それ以上追及しなかった。
「だから、遺族の気持ちが少し分かるんです。犯人が勝手に死なれたら、どう思うか」
「なるほど」
間宮は頷いた。
「でも、綾野さんのおかげで、榊原さんも何か感じたと思います」
「そうだといいんですけど」
綾野は再び歩き始めた。
間宮も後に続いた。
「間宮さん」
綾野が振り返らずに言った。
「はい?」
「もし、榊原さんが遺族の方に会って、それでもまだ死にたいと言ったら……どうしますか?」
間宮は少し考えた。
「その時は、もう一度考えます。でも、できれば生きる道を選んでほしい」
「なぜですか?」
「罪を犯した人間も、人間です。過ちを犯しても、やり直すチャンスはあるべきだと思います」
間宮は空を見上げた。
「それに、死は解決ではない。生きて、苦しんで、それでも前に進もうとすること。それが本当の償いだと、私は信じています」
綾野は黙って歩き続けた。
彼女の表情は、暗闇の中で見えなかった。
8
その夜、間宮は一人で事務所に戻った。
彼は机に向かい、パソコンを開いた。
榊原誠の事件について、さらに詳しく調べる必要があった。遺族の情報、連絡先、現在の状況。それらを知らなければ、面会の手配はできない。
検索すると、いくつかの記事が出てきた。事件当時のニュース、裁判の記録、そして遺族のインタビュー。
間宮はそれらを一つ一つ読んでいった。
被害者の名前は、伏せられている記事が多かった。だが、いくつかの記事には実名が載っていた。
父親の名前は、田所健一。
母親は、田所美沙。
長女は、田所真奈美。当時十歳。
長男は、田所拓海。当時七歳。
間宮は記事を読み進めた。
事件後、遺族はほとんど表に出なかった。わずかに、叔母が取材に応じた記事があった。
「姉一家を失って、何もかもが変わってしまいました。特に、生き残った真奈美が……」
間宮は目を細めた。
生き残った?
彼は記事を読み直した。
「長女の真奈美は、事件当日、友人宅に泊まっており難を逃れました。しかし、家族全員を失った彼女の心の傷は深く……」
間宮は画面を見つめたまま、動かなかった。
生き残った長女。
真奈美。
その名前が、頭の中で繰り返された。
まさか……。
いや、同姓同名は珍しくない。
だが、間宮の胸には、何か不安なものが広がっていった。
9
その頃、綾野は自分のアパートにいた。
彼女は部屋の灯りをつけず、暗闇の中で床に座っていた。
バッグから取り出した焦げた写真を、じっと見つめている。
今日、榊原誠に会った。
十五年ぶりに、家族を奪った男に会った。
彼は痩せていて、疲れていて、まるで生きる気力を失っているようだった。
綾野は、その姿を見て何を思ったのか。
憎しみ?
怒り?
それとも……。
彼女は写真を胸に抱いた。
「お父さん、お母さん、拓海」
綾野は小さく呟いた。
「あの人は、今も苦しんでいる」
彼女の声は震えていた。
「でも、それで許されるの?」
暗闇の中で、誰にも聞かれることのない問いかけ。
「苦しんでいれば、生きていていいの?」
綾野は目を閉じた。
そして、深く息を吸い込んだ。
彼女の決意は、まだ揺らいでいた。
間宮の言葉。
「生きて償う」。
それは正しいのかもしれない。
でも、綾野の心は、それを受け入れられなかった。
「私は……」
彼女は呟いた。
「私は、どうすればいいの?」
答えは、返ってこなかった。
ただ暗闇だけが、彼女を包んでいた。
10
翌日、間宮は一人で調査を続けた。
遺族の現在の連絡先を探すのは、思ったより難しかった。個人情報は厳重に保護されており、簡単には見つからない。
だが、間宮には独自のネットワークがあった。長年この仕事をしてきた中で、様々な人々と繋がりができていた。弁護士、ソーシャルワーカー、支援団体。彼らの助けを借りて、少しずつ情報を集めていった。
そして三日後、ついに手がかりを掴んだ。
被害者遺族の会に、田所家の関係者が登録されていた。叔母の名前だった。
間宮は慎重に連絡を取った。まず手紙を書き、事情を説明した。榊原が謝罪を望んでいること、面会の機会を設けたいこと。
返事が来たのは、一週間後だった。
叔母からの手紙には、こう書かれていた。
『拝啓
お手紙、拝読しました。
榊原誠が謝罪を望んでいるとのこと、正直に申し上げて、複雑な思いです。
姉一家を失ってから十五年。私たちは少しずつ、傷を癒してきました。でも、完全に癒えることはありません。今でも、あの日のことを思い出すと、胸が張り裂けそうになります。
榊原に会うべきかどうか、私にも分かりません。
ただ、一つだけ言えるのは、真奈美に会わせることはできないということです。
彼女は今、ようやく前を向いて生きています。榊原に会えば、また傷が開いてしまう。それだけは避けたい。
私が会うことは、考えてもいいかもしれません。でも、少し時間をください。
敬具』
間宮は手紙を読み終え、深く息を吐いた。
真奈美。
その名前が、また出てきた。
間宮は、綾野の顔を思い浮かべた。
まさか。
いや、確かめる必要がある。
だが、どうやって?
直接聞くわけにはいかない。
間宮は悩んだ。
そして、一つの決断をした。
もう少し待とう。
もし綾野が本当に田所真奈美なら、いずれ何かのきっかけで分かるはずだ。
そして、その時に話し合おう。
間宮はそう決めた。




