第2章前編
第2章 罪と償い
1
約束の日、間宮と綾野は夕方に事務所を出た。
榊原誠のアパートは、都内の古い住宅街にあった。駅から徒歩十五分。商店街を抜け、細い路地を進んだ先に、築四十年は経つであろう三階建ての建物が立っていた。外壁は色褪せ、階段の手すりは錆びている。
「ここですね」
間宮は建物を見上げた。
「……古い建物ですね」
綾野が小さく呟いた。
二人は階段を上り、三階の角部屋の前に立った。ドアの表札には「榊原」と書かれた紙が貼られている。手書きの文字は丁寧だが、どこか遠慮がちだった。
間宮はインターホンを押した。
数秒の沈黙の後、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、四十代半ばの男性だった。痩せていて、顔色は悪い。目の下には深いクマがあり、髪は白いものが混じっている。だが服装は清潔で、襟元も整えられていた。
「間宮様、ですね」
榊原は深く頭を下げた。
「はい。お約束していた間宮です。こちらは助手の綾野です」
「どうぞ、お入りください」
榊原は二人を部屋に招き入れた。
部屋は狭かった。六畳ほどのワンルーム。家具は最低限しかなく、テーブルと椅子、小さな本棚、布団が畳まれている。窓からは隣のビルの壁が見えるだけで、日当たりは悪そうだった。
だが、部屋は清潔に保たれていた。床は掃除され、テーブルの上には何も置かれていない。まるで、いつでもここを去れるように準備しているかのようだった。
「お茶をお出しします」
榊原は小さなキッチンでお茶の準備を始めた。その背中は丸く、まるで重いものを背負っているかのように見えた。
間宮と綾野はテーブルに座った。綾野は静かに部屋を見回していた。彼女の表情は穏やかだったが、どこか緊張しているようにも見えた。
「どうぞ」
榊原は二人の前に湯呑みを置いた。安物の緑茶だったが、丁寧に淹れられていた。
「ありがとうございます」
間宮は湯呑みを手に取った。
榊原は向かいに座り、深く息を吐いた。
「お忙しい中、来ていただいて、ありがとうございます」
「いえ。メールを拝見して、一度お話を伺いたいと思いました」
間宮は静かに言った。
「ただし、先にお伝えしておきますが、私はまだ何もお約束できません。お話を聞いた上で、判断させていただきます」
「はい、分かっています」
榊原は頷いた。
「それでも、来ていただけただけで感謝しています」
2
榊原は話し始めた。
彼の声は低く、時々途切れた。だが、一つ一つの言葉を慎重に選んでいるようだった。
「私は十五年前、放火をしました」
榊原の最初の言葉は、そう始まった。
「同僚の家に、火をつけました。その結果、同僚とその家族四人が亡くなりました」
間宮は黙って聞いていた。綾野も、じっと榊原を見つめていた。
「動機は……恥ずかしい話ですが、嫉妬でした」
榊原は自分の手を見つめた。
「私は当時、会社で評価されていませんでした。いつも後回しにされ、昇進の機会も与えられなかった。一方で、同僚の彼は順調に出世していきました。仕事もできて、上司からも信頼されていた」
榊原の声が、わずかに震えた。
「私は、彼が憎かった。なぜ自分ではなく、彼なのか。そればかり考えていました。そして、酒に溺れるようになりました」
彼は湯呑みを手に取り、一口飲んだ。
「ある夜、私は酔った勢いで彼の家に行きました。最初は、ただ文句を言いに行くつもりでした。だが、家には誰もいなかった。彼は家族と旅行に出かけていたんです」
榊原は目を閉じた。
「私は、家の周りをうろついていました。そして……ガレージに置いてあったガソリンの缶を見つけました」
間宮は、榊原の顔を見た。彼の表情には、深い後悔と苦痛が刻まれていた。
「次に気づいたときには、火をつけていました。どうしてそんなことをしたのか、今でも分かりません。ただ、何もかもを壊したかった。彼の幸せを、彼の人生を、全て」
榊原は震える手で、顔を覆った。
「でも、家族は旅行から戻ってきたんです。私が火をつけた直後に。彼らは家に入り、そして……」
彼は言葉を続けられなかった。
しばらくの沈黙の後、榊原は顔を上げた。
「四人全員が、亡くなりました。父親、母親、十歳の娘、七歳の息子。全員が、私のせいで」
3
綾野の手が、わずかに震えた。
彼女は膝の上で両手を組んでいたが、その指先が小刻みに動いている。だが彼女の表情は変わらなかった。ただ静かに、榊原を見つめている。
「私は逮捕され、裁判を受けました」
榊原は続けた。
「懲役十五年。それが私の刑でした。弁護士は『酒に酔っていた』『計画性がなかった』と主張しましたが、四人の命を奪った罪が軽くなるはずもありません」
彼は深く息を吐いた。
「刑務所では、毎日が地獄でした。いえ、地獄であるべきでした。だが実際は、刑務所の生活は規則的で、安定していました。食事も、寝る場所もある。それが、私には耐えられませんでした」
「耐えられなかった?」
間宮が尋ねた。
「はい」
榊原は頷いた。
「私は四人を殺しました。でも、私自身は生きている。食事をし、眠り、時には笑いさえする。それが、許せませんでした」
彼は自分の胸を叩いた。
「私は生きる資格がないんです。でも、刑務所では死ねない。自殺しようとしても、看守に止められる。生かされ続けるんです」
榊原の目には、涙が浮かんでいた。
「そして先月、刑期を終えて出所しました。社会復帰のための支援も受けました。住む場所も、仕事も用意されました。『もう一度やり直せる』と、支援者の方々は言ってくれました」
「でも?」
間宮が促した。
「でも、私にはやり直す資格がないんです」
榊原は強く言った。
「四人の命を奪った人間が、普通に生活する。それが、許されるはずがない。被害者の方々は、今も苦しんでいるはずです。遺族の方々は、今も悲しみの中にいる。なのに、私だけが生きている」
彼は両手を握りしめた。
「だから、お願いします。私を終わらせてください。この苦しみを、この罪を、全て終わらせてください」
4
間宮は長い沈黙の後、口を開いた。
「榊原さん、一つ質問させてください」
「はい」
「あなたは本当に、死ぬことが償いだと思っていますか?」
榊原は目を見開いた。
「それは……」
「死ねば、全てが終わる。確かにそうかもしれません。でも、それは本当に償いなんでしょうか」
間宮は静かに言った。
「私は長年、人の最期に立ち会ってきました。病気で苦しむ人、生きることに疲れた人。彼らは皆、耐えられない痛みを抱えていました。だから、私は彼らの苦しみを終わらせる」
彼は榊原をまっすぐ見た。
「でも、あなたの場合は違う。あなたは罪を犯した。その罪の重さに耐えられないから、死にたいと言っている」
「はい」
榊原は頷いた。
「それは、逃避ではないですか?」
間宮の言葉に、榊原は言葉を失った。
「罪を犯した者が、その苦しみから逃れるために死を選ぶ。それは償いではなく、責任の放棄ではないでしょうか」
間宮は少し声のトーンを上げた。
「生きて償う。それこそが、本当の償いではないですか。遺族の方々に謝罪し、できる限りのことをする。それが、罪を犯した者の責任ではないでしょうか」
榊原は黙っていた。
彼の目には、混乱と苦痛が浮かんでいた。
「でも……」
榊原はようやく口を開いた。
「でも、遺族の方々は私を許さないでしょう。私が生きていることそのものが、彼らを苦しめます」
「それでも、生きるべきです」
間宮は強く言った。
「許されないかもしれない。憎まれるかもしれない。でも、それがあなたの罪の重さです。その重さを背負って生きることが、償いなんです」
榊原は顔を伏せた。
「私には……できません」
「なぜですか?」
「怖いんです」
榊原は震える声で言った。
「遺族の方々に会うのが。彼らの目を見るのが。彼らに何を言われるか、何をされるか。それが、怖いんです」
彼は両手で顔を覆った。
「だから、死にたいんです。この恐怖から、この苦しみから逃れたい」
5
綾野が、初めて口を開いた。
「榊原さん」
彼女の声は、いつもより低かった。
「あなたは、遺族の方のことを考えたことがありますか?」
榊原は顔を上げた。
「毎日、考えています」
「本当に?」
綾野の目が、鋭く光った。
「本当に遺族のことを考えているなら、死ぬことが彼らのためになると思いますか?」
「それは……」
「あなたが死んだら、遺族の方々はどう思うでしょう。『犯人が死んでくれて良かった』と思うでしょうか」
綾野の声には、わずかな感情が混じっていた。
「それとも、『逃げられた』と思うでしょうか」
榊原は答えられなかった。
「遺族の方々は、あなたに死んでほしいのではなく、償ってほしいんです。生きて、苦しんで、それでも前に進もうとする姿を見たいんです」
綾野は立ち上がった。
「あなたが死ぬことは、遺族の方々から償いの機会を奪うことです。彼らは、あなたが苦しむ姿を見ることもできない。あなたに怒りをぶつけることもできない。ただ、犯人が勝手に死んだという事実だけが残る」
彼女は榊原に近づいた。
「それが、あなたの望む結末ですか?」
榊原は震えていた。
彼の目からは、涙が流れていた。
「私は……私は……」
彼は言葉を見つけられなかった。
綾野は深く息を吸い込み、少し声のトーンを落とした。
「すみません。言いすぎました」
彼女は席に戻った。
間宮は綾野を見た。彼女の横顔には、何か深い感情が渦巻いているように見えた。だが彼女はすぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。




