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人間の正しい殺し方  作者: ドネルケバブ佐藤


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第1話後編

間宮は眉をひそめた。

 罪、という言葉。

 彼のもとには、様々な依頼が来る。病苦、老衰、精神的苦痛。だが「罪」を理由に終わりを求める依頼者は珍しい。いや、正確には初めてかもしれない。

 間宮は椅子の背もたれに体を預けた。

 この依頼を受けるべきか。

 彼には明確な基準がある。「耐えがたい苦痛を終わらせること」。それが彼の信念だ。肉体的な苦痛であれ、精神的な苦痛であれ、人が耐えられない痛みを抱えているなら、それを終わらせることは救済だと信じている。

 だが罪とは何か。

 それは果たして、終わらせるべき苦痛なのか。

 罪を犯した者が死ぬことは、償いになるのか。

 それとも、逃避なのか。

 間宮は長年この仕事をしてきたが、こうした倫理的な問いに明確な答えを持っているわけではない。ただ、目の前で苦しんでいる人がいて、その人が終わりを望んでいるなら、自分はそれを叶える。それだけだった。

 だが今回は違う。

 榊原誠という男は、自分の罪を理由に死を求めている。それは本当に、救済なのか。

 間宮はしばらく考えた後、返信を書いた。

『榊原様

ご連絡ありがとうございます。

一度、お会いしましょう。

ただし、お約束はできません。

お話を伺った上で、判断させていただきます。

日時と場所をご指定ください。

間宮和也』

 メールを送信した直後、背後で物音がした。

 振り返ると、綾野が立っていた。彼女は間宮の自宅兼事務所に、合鍵を持っている。

「おはようございます」

 綾野は穏やかに微笑んだ。

「おはよう。早いですね」

「今日は書類整理があるので」

 綾野はキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始めた。間宮は彼女の背中を見ながら、先ほどのメールのことを伝えようとした。

「綾野さん、新しい依頼が」

「拝見しました」

 綾野は振り返らずに言った。

「……見たんですか?」

「メールの通知が見えました。榊原誠、という方ですね」

 間宮は少し驚いた。綾野は時々、こうして鋭い洞察を見せる。あるいは、彼女は間宮のパソコンの画面を、さりげなく覗き見ていたのかもしれない。

「ええ。少し変わった依頼です」

「罪、ですか」

 綾野の声が、わずかに沈んだ。

「そうです。詳しくは会ってみないと分かりませんが」

「……間宮さんは、どう思われますか?」

「まだ何とも」

 間宮はコーヒーカップを手に取った。

「ただ、罪というものが、果たして終わらせるべき苦痛なのか。それは考える必要があると思います」

 綾野は黙ってコーヒーを淹れ続けた。彼女の手が、わずかに震えているように見えた。ドリッパーを持つ指先が、かすかに揺れている。

「綾野さん?」

「……大丈夫です」

 綾野はカップを持って振り返った。その顔には、いつもの穏やかな笑顔があった。

「罪を犯した人も、苦しんでいるんですよね」

「そうかもしれません」

「でも」

 綾野は言葉を切った。

「でも?」

「……いえ、何でもありません」

 彼女は微笑んだまま、コーヒーを一口飲んだ。

 間宮は、その笑顔の奥に潜む何かを感じ取った。だが彼は、それ以上追及しなかった。綾野には綾野の、言いたくないことがあるのだろう。

「会うのは、いつにしますか?」

 綾野が尋ねた。

「明日の夜を提案しようと思います」

「私も、同席しますか?」

「ええ、お願いします」

 間宮は頷いた。

「分かりました」

 綾野は静かにコーヒーを飲み続けた。

 だが間宮は気づかなかった。

 彼女の目が、一瞬だけ、鋭く光ったことを。

5

 その日の午後、間宮は一人で書斎にこもっていた。

 榊原誠について、調べられる範囲で調べていた。インターネットで検索すると、いくつかの古いニュース記事がヒットした。

『住宅火災で一家4人死亡 放火の疑いで男を逮捕』

 記事の日付は、十五年前の十一月。

 間宮は記事を読み進めた。

 榊原誠は当時三十歳。職業は会社員。彼は同僚とのトラブルから、その同僚の自宅に放火した。火は瞬く間に燃え広がり、同僚とその家族四人が逃げ遅れて死亡した。

 榊原は逮捕され、裁判で懲役十五年の実刑判決を受けた。そして先月、刑期を終えて出所した。

 間宮は画面を見つめたまま、動かなかった。

 一家四人。

 父親、母親、そして二人の子供。

 上の子が十歳、下の子が七歳。

 記事には被害者の名前も載っていた。だが間宮は、それを口にする気にはなれなかった。

 彼は深く息を吐いた。

 これは、受けるべき依頼なのか。

 榊原は罪を償ったのか。法的には償った。十五年の刑期を全うした。だが、それで終わりなのか。

 一家四人の命。

 その重みは、十五年で償えるものなのか。

 間宮は自問自答を続けた。

 そして、一つの結論に至った。

 会ってみよう。

 榊原誠という男が、何を考え、何を望んでいるのか。それを直接聞いてみよう。その上で、判断しよう。

 ただし、間宮には一つの信念があった。

 どのような罪であっても、人には生きて償う道がある。

 死は終わりではなく、逃避だ。

 真の償いとは、生き続けることではないのか。

 間宮はそう考え始めていた。

6

 夜、綾野は再び街を歩いていた。

 だが今夜は、いつもより長く歩いた。

 彼女の足は、特定の場所を目指すわけでもなく、ただ無目的に街を彷徨っていた。古い商店街を通り抜け、閑散とした公園を横切り、住宅街の路地を縫うように進む。

 綾野の頭の中には、一つの名前が繰り返し響いていた。

 榊原誠。

 その名前を聞いた瞬間、彼女の中で何かが動いた。

 長い間、静かに沈んでいた何かが、水面に浮かび上がってきた。

 彼女はベンチに座り、バッグから焦げた写真を取り出した。

 街灯の光に透かして見る。半分だけ残った、人の輪郭。

 この写真に写っていたものを、綾野は覚えている。

 だが今は、それを思い出したくなかった。

 思い出せば、全てが崩れてしまう。

 今まで築いてきた、穏やかな日常が。

 間宮との、静かな信頼関係が。

 綾野は写真をゆっくりとバッグに戻した。

 そして、深く息を吸い込んだ。

 空気が冷たい。

 冬が近づいている。

 綾野は立ち上がり、再び歩き始めた。

 彼女の表情は、暗闇の中で見えなかった。

 ただ、彼女の足取りだけが、確かな意志を持っているように見えた。

 まっすぐに、前を向いて。

7

 翌日、間宮は榊原からの返信を受け取った。

『間宮様

ご返信ありがとうございます。

明日の夜、お時間をいただけるとのこと、感謝いたします。

場所は、私の現在の住居でお願いできますでしょうか。

人目につかない場所で、お話ししたいのです。

住所は以下の通りです。

午後八時に、お待ちしております。

榊原誠』

 間宮は住所を確認した。都内の古いアパートだった。

「綾野さん」

 間宮は隣の部屋にいる綾野に声をかけた。

「はい?」

 綾野が顔を出した。

「明日の夜、榊原さんに会います。同行をお願いできますか?」

「もちろんです」

 綾野は微笑んだ。

 その微笑みは、いつもと変わらない穏やかなものだった。

 だが綾野の心の中では、波が立っていた。

 静かな、だが確実な波が。

 彼女は部屋に戻り、静かにドアを閉めた。

 一人になった彼女は、窓の外を見た。

 空は曇っていた。

 雨が降りそうだった。

 綾野はバッグに手を伸ばし、中の焦げた布を指先で触れた。

 その感触が、彼女に何かを思い出させる。

 だが彼女は、それを振り払った。

 今は、考えるべきではない。

 今は、ただ待つだけだ。

 明日の夜を。

 榊原誠という男に会う、その時を。

 綾野は深く息を吐いた。

 その息は、まるで祈りのようだった。

 あるいは、覚悟のようだった。

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