第54話 悩み
七月二十五日
薬を飲ませたその日に静子様の意識が戻り、後遺症もなく瞬く間に回復した。
頭に溢れた血が綺麗に消え失せ、医師や看護師さんはあの状態からの回復は奇跡だと口々に仰っている。
留守を預かっている間、様々な穢れや祟りや禍々しいものから誰かを守るために、お札を作ることにした。
質のいい紙を買って長方形に切り、それぞれの目的に合わせて筆ペンで書く。
例えば厄除けや悪霊退散や、病気治癒。
文字に通力を注ぐと文字自体に力が生まれるため、手をかざすよりも二倍か三倍程度、効力があがることを発見した。文字をものに変えることもできる。
そうした、イメージを具現化させることも上手くなり始めた。
毎日静子様に必要な着替えや日用品を持ち、花松総合病院へ通った。
静子様は身寄りがないため勤務先にはトクさんに頼んで電話を入れて頂いた。
トクさんや椙森さん、浩さんやとんかつ屋のご主人、街の人々や会社の人たちが心配してよく静子様のもとへお見舞いに来て下さる。
「退院まではどのくらいかかりそうですか」
「あと一週間くらいですって。でも退院してからも、二週間くらいは絶対安静ですって。会社にはしばらく行けそうにないわね」
切開した部分の髪がなくなっており、手術痕が痛々しく思えた。後遺症はないとはいえ薬の副作用が酷く目も回るようだ。私は白い札に手術痕治癒と書いて静子様に渡してみた。
「ありがとう。これできっと治りも早くなると思う」
また、笑顔を見ることができた。以前と全く変わらぬ笑顔。五條天神社のことを話す
と、静子様はとても感謝をしておられた。神様からご慈悲を頂いたのは嬉しいと。
大己貴命様と、少彦名様の秘薬で祖先の怨霊は消えたのだろうか。私の力ではまだそれがわからなかったけれど、もし消えたのなら静子様もこれで災難がふりかからずにすむのだろう。今回の事故が最後の災いであって欲しい。
私は病室で、いつか訊ねた質問をもう一度静子様に訊ねてみる。
「静子様はどうすれば幸せになれますか」
「私は千福がいるだけで十分に幸せ」
同じ答え。納得がいかない。私だけでは静子様をお守りできないし、幸せと感じる心の奥にやはり怯えがある。この怯えを取り去るにはどうすればいいのだろう。
「少し休むわね・・・・・・今日はこれから検査があるし」
体力がお戻りにならないのか、静子様はすぐに目を閉じてしまう。私はそのお顔を見守ってから、病院を出てそのままトクさんの家を訪ねてみた。蝉が鳴き始めている。
「千福ちゃんいらっしゃい。毎日暑いねぇ。静子さんの調子はどうだい」
窓からあがらせてもらった。前に来たときより部屋が片付いて、ちょっと寂しく思えるほどに生活感が薄くなっている。
いわゆる流行の終活でもされているのだろうか。静子様のことがあったあとだからそんなことを考えてしまう。
だが、ざっと感じる限りでは体に悪いところはなさそうだ。
「もう大丈夫です。退院まではまだ時間がかかりそうですが」
「それはよかった。事故の話を聞いたときはもうどうなるかと思ってひやひやしたよ。それに、こんな暑さじゃ静子さんの体も参ってしまわないかね」
「静子様も明るく振る舞ってはいますけれど、私も暑さにやられないか心配しております」
お礼を言うのが先だ。
「今回の件、色々とお世話になりました」
「いいんだよ、世の中はもちつもたれつさ」
お茶を淹れて頂いたので、椅子に腰をかけた。
「なにか話したいことでもありそうだね」
長年生きてこられたカンだろうか。トクさんは私の顔を見る。
「なにか思っていることがあるからうちへ来たのだろう」
はい。と内心で答え思いきって話してみることにした。
「人間というのはどういったことが幸せなのでしょうか」
「というと?」
「静子様はずっと災難に遭われています。私がいれば幸せと言っておられますが、私にはとてもそうは思えず、どうすれば静子様が幸せな日々を送れるのかわからないのです」
湯呑みには茶柱が立っている。なにか縁起のいいことでもある予兆だろうか。
「千福ちゃんがいるだけで幸せなのは本当だと思うよ。でもね、幸せって個人によって違うから私にもわからないんだ。それに幸せは、日々変化していくものさ」
「ではトクさんはなにが幸せですか」
「若返って女学生をやり直すこと」
言葉につまった。
「冗談だよ、冗談。若いときにやりたくてもできなかったこともたくさんあるから、戻れたらいいなと時々思うんだよ。それは誰もが思うことかもしれないね。でも若い頃に旦那と出会って結婚して、息子ができて今では孫もいる。私の今の幸せは翔の成長を見ることさ。あとこの街が見違えるほどよくなって千福ちゃんがいることも幸せかね」
「数十年前の幸せと、今の幸せは違うということですね」
「そう。ただ静子さんには、心の支えになる人が必要なのかもしれない。もちろん千福ちゃんがいることも精神的支柱にはなっているのだろうけれど親戚やご家族を一度にみんな失って、長い年月が経ってもそういうのってなかなか癒えるものじゃないだろうから、精神的に不安定になることだってあるんだと思うよ」
静子様が一人で部屋にいらっしゃるときは、そのようなこともあるのだろうか。
「私には一言も心のうちを吐き出されないのです」
「千福ちゃんを心配させたくないのかもしれないね」
「気を遣わないで欲しいのです」
「神様だからだよ。神様だから、気を遣っているんだよ。だから、人間同士、他に誰か他に寄り添ってくれる人や心底安心できる場所があれば幸せになれるのかもしれないけれど」
文句でも愚痴でも、悲しさでも、眠れないあらゆる原因や心のうちをどんどん気兼ねなく語って下さったほうがお役に立てるのに。
仕事で成功していることは幸せなのだろうか。
それもひとつの幸せではあるのだろうけれど、私にたくさんの着物や浴衣を買って下さったように、仕事をしてぱっとお金を使うことで誤魔化していた部分もあるのかもしれない。
着物や浴衣を大量に買って頂いたとき、嬉しくなかったのは神様として本格的に祀られるようになったときどうなるのかという不安もあったけれど、静子様から幸せを感じることもまたできなかったためだ。
今思い返すと腑に落ちる。貢ぎ物と言って下さったけれど、お金で欠けたお心を埋めようとしていたのかもしれない。
そう、静子様に埋まらないものはやはりある。静子様は大切なものを失うことを心のどこかで恐れている。
だから、仕事以外の付き合いでは友達もご結婚を前提とした恋人もいないのかもしれなかった。
では大切なものができて、それを失わずに過ごすことができたら幸せなのだろうか。
静子様に直接聞いても、多分的確な答えは返ってこない。そういうことはすぐに煙に巻いてしまうのだ。
でも、先ほど感じたように心の底に怯えがあることもまた事実だろう。
だから私を生みだしたのだ。心底安心した生活を送りたくて私を生みだしたのだ。




