結
次の日の日曜日。朝起きてから原はかじりつくようにパソコンの前に座り、没頭して小説を書き進めていた。昨日までが嘘のように筆が進む。何かがふっきれたようだ。
(私が小説を書けなくて、悩んだことや、悔しかったことをそのまま書けばいい)
簡単な事だった。でも、それを自分の中で受け入れ認める事ができなかっただけだ。
頭の中にあるものを形にするのは楽しい。それは彫刻でも絵画でも音楽でも、ありとあらゆる創作に共通しているのかもしれない。物を創ることは楽しいのだ。それをすっかり忘れていた。
朝食もとらずに部屋に引きこもって書き続けた。頭に浮かぶそのままを文字として具現化していく。
こんなんじゃ面白くないかも?
読み手を引き込むためには……。
そういった事は全く考えなかった。考えつかなかった。自分が書きたい物を書きたいように書く。しばらくそんな書き方をしていなかった。
昼頃。
「しずちゃーん、しずちゃーん」
下の階から母が呼ぶ声が聞こえる。返事をせずにいると。
「しずちゃーん、しずちゃーん、お昼よー。降りてらっしゃい」
段々うるさくなってくる。
「はーい。解ったって……」
(今、のってきていいところなのに……)
原は溜息をつき、パソコンをいったん消した。
下に降りると、母が寄ってきて、
「もう朝御飯も食べないで、昨日の晩もなんか部屋で大きな声だしていたみたいだし。大丈夫なの?」
と心配そうな顔で言ってくる。本当に心配してるんだと思う。今は素直に母の心配も受け止められる。
「大丈夫だよ。母さん。ちょっとストレス発散してただけだから」
食卓へ向かうと、父がいつものように新聞を読みながらご飯を器用に食べていた。
「もう、あなた、新聞読みながら食べるのはやめてって何べん……」
「あぁ」
父は母に生返事をして、渋々と新聞を畳んだ。
ありきたりで、どこにでもある日常。それはとても大切で失いたくはないものだと、原は思い始めていた。なんだかとても心が穏やかなのだ。
「あなたも、しずちゃんも休みの日は家でごろごろしてばかり。ほんと親子って似るものなのね」
原はこれもいい機会だと思い、父に提案することにした。
「ねぇ父さん、今度の週末にでもみんなで温泉行こうか?」
父は驚いて、原を見つめる。なんと答えていいのか思いつかない様子だった。
「いいじゃない。ねぇお父さん。行きましょうよ」
母がとても喜んだ様子で言いながら、原の前にご飯をよそった茶碗を置く。原はそんな両親を見比べて、なんか面倒くさいなぁ、などと思いつつも一歩前進できた気がしていた。
原は昼食後、再びパソコンにかじりつく。話は佳境を迎えていた。そこを書ききればあとはエピローグだけだ。終わりが見えてきた事で筆はさらに加速していく。
どれだけ時間が過ぎただろうか。原にはもう時間の感覚がなかった。すごく長い時間書いていたような気もするし、わずかな時間しか経っていないような気もする。部屋はいつの間にか暗くなり、パソコンから漏れる光がわずかに部屋を照らしていた。
(終わった)
原は大きく息を吸い込んで、後ろへ向かって伸びをする。倒れそうになる手前で止まるはずが勢い余ってバランスを崩す。
「う、うわ」
倒れるギリギリで机にしがみつき難を逃れる。
「ふぅ」
安堵の溜息をつき、そして、
「あははははははは」
と笑い出した。やっと書き終わった。“書けない”という小説を書ききった。充実感が原をいっぱいにする。久しぶりに味わった充実感をかみしめながら、原はパソコンの前で笑いながら脱力していた。
そして冷蔵庫からビールを取り出し、「かんぱーい」と一人で言ってから飲み始める。
(くぁーーー! やっぱやめられませんなぁ)
などと、思いながら今書き終わった小説を読み返している。
久しぶりに最後まで書ききった小説は人に見せられないようなひどいデキであったが、原は満足していた。得る物があったという確かな実感がある。
のぶに報告でもしようかと、メッセンジャーを立ち上げると、いつものようにのぶはそこにいる。
「はろ。のぶちゃん。お陰様で書き終わったよ」
「ほう、昨日とはうって変わってご機嫌のようだな。早速ビールで一人打ち上げかい?」
「もちろん。私にとってビールは無くてはならない大切な日常ですから」
「ふん。まぁいいや。それで?」
「まぁまぁ、ほんとは誰にも見せるつもりもないんだけど、のぶちゃんは私の熱烈なファンだってゆうし、迷惑もかけたし、見せてあげてもいいかなーなんて」
「熱烈なんて一言も言ってないが、見せてくれるのなら、読んであげてもいい」
のぶも素直じゃないなぁと思いつつも原は書き上げた小説のファイルをのぶに送信した。
「ふむ、なかなかの大作のようだな。読むのに時間がかかるから、しばらく待っていてくれたまえ」
原は待っている間、機嫌良くビールを呑んでいた。のぶはなんて言ってくれるだろう? 不安よりも期待が大きかった。酷評をされるのは――火を見るよりも明らか――だったが、今回に限ってはそれも受け入れられる。ひどい作品なのは原も自覚しているし。何よりも完結した作品を人に、のぶに見せられた事が嬉しかった。
原が三本目のビールに手を伸ばした頃、ぴんろん、という音と共にのぶのメッセージが届いた。
「ふむ、この小説で得る物があったという事が作品からひしひしと伝わってきたよ。君はもっと現実を大事に生きていこうと、そう思えたわけだね」
のぶの返答は思っていたよりもあっさりとした物だった。きっとのぶも今回の作品が内容よりも書ききることの方が大事だったということが解っているのだろう。
「そうそう。人間関係とかね。もっとちゃんと現実と向き合っていかないといけないかな、とか」
「それがいつまで続くか見物だな」
「そうね。私の性格だからね。でも小説を書くためには本をたくさん読んでるだけじゃ駄目なんだなって」
「書を捨てよ町へ出よう、かい?」
「寺山修司だね。私高校の頃、そのタイトルに惹かれて買ったんだけど、私にはついていけない変態さで、買ったのを後悔したわ」
「寺山先生を愚弄するのか? 初めてだな、君と本の好みで一致しなかったのは」
「まぁともかく、現実の人間関係をちゃんとする。思えば私にとって友人と言えるのはのぶちゃんだけだからね。それもネット上のものだから現実とは言えないし」
「おいおい、寂しいことを言うんだな。僕はちゃんと現実に存在してるんだぜ」
「でも本当の人間関係って、顔と顔を合わせて、膝と膝を詰め合って、お互い腹を割ってって、そういうものでしょう?」
「君がいいたいことはよく分かる」
「のぶちゃんも人間関係とか苦手でしょ?」
「そうだな」
「だからお互いリハビリとして実際に会ってみるのもいいかもよ。どう?」
しばらく時間が過ぎてようやく、
「ちょっと考えさせてくれるか?」
という返事が帰ってきた。パソコンの向こう側で普段から冷静沈着を装っているのぶが慌てふためいている様子が、そう――火を見るよりも明らかに――はっきりと想像できた。
原は残っていたビールを楽しそうに、そしてとても美味しそうにのみほした。
間があいてしまいました。
ここまで読んでくれた方
ありがとうございました。