6. 伏寇側らに在り
焦げたような甘い匂いを感じて、エンは目を覚ました。
身体を動かすことなく、目だけで辺りを見渡す。緑の床に白い壁、工場らしく天井には配管が通っているが、それらの表面はくすんでおり、整備不足を伺わせる。
(ふぅん。さしずめ、違法薬物の精製工場ってとこか)
エンは平然としているが、その手足は拘束され、清潔とは言い難い床の上に転がされていた。見張りはいないが、部屋の出入り口となる扉は一つしかなく、シリンダー錠が付いている。十中八九、鍵がかかっているだろう。
(さて。アニマ持ちの我が恋人殿は、どう動くかな)
エンの唇が弧を描く。この状況は、エンが意図して作り出したものだ。意思を持った人間はこの組織に一人しかいない。ノン・アニマを挑発して、どこまで危害を加えられるか。
『何を笑っている』
予想外の声にエンは目を瞠る。内ポケットに入れていた端末から響く声は、ディーのものだ。
「……。ええー、第一声にそれは酷いなぁ。縛られて冷たーい床の上で震えてるんだよ?せめてそこは、『大丈夫か』とかじゃない?」
やはり、エンは笑っていた。むしろ、目を細めて笑みを深めている。
「2038年は、今より倫理観が高いって聞いてたんだけど。ディーは例外?」
ディーが息をのむ音を、エンは聞き逃さなかった。
「ふっははっ、すごいな。本当にそうなってるんだ。その時代はまだアニマの構想も無いだろうに……まあ、それはいいか。それより、交渉がしたいんだ」
エンはそこで一度言葉を切り、ディーの反応を伺うが、沈黙が続く。顔の見えない相手はやりづらいと思いながらも、エンは絶好の機会を逃すわけにはいかなかった。
「私はね、セキナという少女を探してるんだ。カレル君が探してる子と同じ人物。ディーには、アテがあるんだよね?」
『…………ああ』
ディーは動揺を押し込めながら、ようやく相槌を打った。エンは、セキナを認識できていない。彼女にとって“セキナ“と“セキナちゃん“は別人なのだ。
「私がセキナちゃんの監視役を引き受けたのは、ニグモイ君と接触したかったからなんだよ。彼の関係者である“セキナ“の情報を得るためにね」
ディーは決して頭の回転が遅い方ではないが、動揺も相まってエンの言葉を理解するには時間を要した。そして、ディーにとって無視できない点を聞き返す。
『彼の関係者?“セキナ“は、ニグモイと何か関係があるのか?』
「うーん、母親?」
『は……!?』
むろん、母親ではない。エンとしては言い得て妙だと思っているが、判断力を狂わせるために、動揺させる意図のほうが強かった。
「まあ、なんにしてもディーは“セキナ“と接触しない方が良いよ。ああ、あとカレル君の依頼主にもね」
『どういうことだ』
「出会ったら間違いなく捕まるから。君は招かれざる客、その自覚はあるでしょう?彼らはね、そういうモノを管理する人たちだよ」
ディーの沈黙を、エンは肯定と受け取った。返答を待つことなく、口を開く。
「私が欲しいのは“セキナ“の居場所。ディーに渡すのは、望む情報なんでも。私が知る限り、の注釈付きだけどね」
気になるであろう情報を餌として撒いた。ディーと“セキナ“の関係性が不明な分、要点を突いた揺さぶりはできないが、味方同士にはなり得ないはずだとエンは踏んでいる。
『……わかった。“セキナ“の居場所を教える。ただ、俺が渡せる情報は十日後にセキナがどこへ来るか、だ。それでも構わないか?』
「充分だよ」
エンが重視しているのは、居場所の真偽よりも、ディーが“セキナ“の存在を知っている点だ。むろん、居場所の情報が真実であれば、それに越したことは無いが。
『俺は……正直、まだお前を信用しきれていない。だが、有用な情報を持っているのも確かだ』
「ハハ……そんなこと馬鹿正直に言うかなぁ、普通さ。手を組む相手を間違えたかなって、不安にさせないでくれる?」
エンは素直な感想を告げた。もっとも、エンに関する情報を下手な相手に言いふらされては敵わないという牽制も込みだが。
『俺も同じ不安があるということだ。……お前の意図には乗ってやる。だから――“正しく“お前の正体と目的を教えてもらおう』
エンは笑顔のまま答えようとして、やめた。ディーは、この回答を分水嶺にする気だと悟ったからだ。エンとしては、ディーと今後も協力関係でありたい。
慎重に答える、では足りないと直感した。
エンの推測が正しければ、ディーはその方法に気が付いた時、すべての真実をつまびらかにできる。そのとき、エンがどこまで真実を話していたかで、その後も手を組むか切るかの判断が変わるだろう。
「なるほど、うん。……もし、ディーがあらゆる網という網から、この場の発言を遮断できるなら……私は正しく、君の望む情報を話せる」
『網……?』
「2038年にもその概念はあったはずだよ。いや、1962年には構想があった……たとえば、そこ。見える?」
エンは“網“を見ることができても、干渉はできない。しかし、ディーならば容易く干渉できるはずだ。だからこそ、“あらゆる機器へ即座にアクセスできる“などという芸当をやれているのだろう。そんなこと、本来はどんな凄腕のハッカーだろうと出来るものではない。
『これか』
ディーが呟くと、螺鈿のような虹色が揺らめきながら広がっていく。エンの端末から、床へ、壁へ、天井へ。……今となっては、エンにしか見られない光景だ。
すべての“網“がディーに掌握されたのを見届け、エンは心の奥底から身震いした。
「……いいでしょう」
エンが体を起こし、ディーの気配を真正面から見据えた。乱暴に扱われてほつれた髪が照明に照らされ、顔に深い影をつくる。エンの顔からは笑みが消え、冷然とした気品が漂っていた。
「私は保安統制局の指定局員、ク・リエン。パーティション059に放逐されたニグモイ・ヴァルアーのアニマ保護を任命されましたが……」
昏い瞳のまま、唇だけが薄い笑みの形をとる。
「私が真に望むのは、復讐。そして、クェンの復権です」
題名は「伏寇側らに在り」と読みます。
含みのある題名が付けられて大満足です。お気に入り。




