塗り潰すもの
悪い夢でも見ていたんだよ、と誰かが言った。
朝、八時五分前。わたしはいつものように家を出る。この頃の朝は大体この時間だ。少し前まではもっと遅くに家を出発していたのだけど、最近は八時には家を出るジュンちゃんに合わせてこの時間には家を出るようにしている。
錆びた柵と背中の間にランドセルを挟んで凭れていると、目の前の扉が開かれた。そこから出てきた仏頂面の男の子に、わたしは毎朝の様に微笑んだ。
「おはよう、ジュンちゃん」
返事はないし、わたしも期待はしていなかった。ジュンちゃんはいつもの様にわたしを見ると、綺麗な顔を顰めてわたしの前を黙って横切る。毎朝この調子だから、わたしも気にせずにその後に続く。
カンカンと音を鳴らしながら階段を下っていく男の子の背中を追いかける。これがわたしの最近の日課。わたしが勝手に付き纏っているから、いつも見るのは後姿と横顔くらいだ。真正面からたまに顔を合わすと、ジュンちゃんはその度に心の底から嫌そうな顔をする。だけどそれはわたしにとってなんの妨げにもならなかった。
卵から孵ったばかりの雛が最初に見た動くものを親鳥と思い込み、付いていくのと同じようなもので、わたしがジュンちゃんと一緒にいることはとても当たり前の様な気がしていたから。たとえそれがジュンちゃんの望まないことであったり、本当はとても不自然なことであったとしても。
「ねえ、ジュンちゃん、今日も釣りのおじさんいるのかな」
土手の階段を上がるジュンちゃんの背中に話しかける。
「あ、そうだ、ジュンちゃん。この河川敷で虹を一緒に見た人は、ずっと一緒にいるっている噂があるんだって」
いれるんじゃなくて、いる、だ。それはその人たちが望まなくてもだという噂。恋人同士で見るのならいいけれど、嫌な人と見てしまうと最悪だ。その人とその先も縁は続いていくという。えらくロマンチックなはなしではあるけれど、同時にある意味こわい話しとしてもわたしたちが通う小学校では噂されていた。
石段を上りきると真っ直ぐな道がある。そのすぐ横下に河川敷はあった。河川敷には下りずに、わたしたちは真っ直ぐな道を歩く。この道が学校へ行く一番の近道だ。同じ方向に中学校や高校もあるから、この時間帯この道はわりと学生で賑わっている。わたし達が歩いている間にも、自転車に乗った高校生がわたし達を追い越して行った。
この道は見晴らしが良くて、風もよく吹く。大きな川は雨の日には増水して少し危険だから近づいてはいけないと言われているけれど、それ以外の時にはとても心地いい場所だ。川の上を横切る大きな鉄橋の上を電車が横切る。暫く行くとその線路以外にも小さな橋がかかっていて、その下にはホームレスのおじいさんが小屋を作って数匹の犬猫と暮らしていた。そのおじさんにも近づいてはいけないと言われている。毎朝釣りをするおじさんがいるのはもう少し手前だった。その釣りおじさんとホームレスのおじいさんが友達で、たまに一緒にお酒を飲んでいるのは多分殆どの人が知らない。
わたしたちはそれを横目に歩く。わたしは時々前を見てジュンちゃんの後姿を見る。独り言になることを知っていながら、その背中に話しかける。
クラスの女の子を泣かせてしまったのは、その日のことだった。少し前までは友達だった、こよいちゃん。二重瞼の大きな目をした可愛い女の子。彼女とは保育所からの付き合いだったけれど、他の子たちと同じようにいつの間にか友達じゃなくなっていた。
こよいちゃんと話さなくなってから随分と経つ。教室に入るといつものようにこよいちゃんはジュンちゃんに話しかける。わたしは教室までジュンちゃんに付き纏っている訳ではなったから、後ろの棚にランドセルを置きに行ってから自分の席に着いた。斜め前に座るジュンちゃんのところから、こよいちゃんの声は簡単に聞こえてくる。こよいちゃんは転校生の綺麗な男の子があっと言う間に好きになってしまったらしい。今ではジュンちゃんに近づく子も少なくなったのに、こよいちゃんは別だった。こよいちゃんはクラスで一番可愛くて、多分一番自信に溢れている。それにジュンちゃんも、みんなに対してはそこまで邪険に接したりはしない。
「ジュン君、今日も羊子ちゃんと一緒に来たの?」
視線を感じて顔を上げると、こよいちゃんと目が合った。その目線だけでこよいちゃんがわたしに対してよくない気持ちを抱いていることが分かった。
ジュンちゃんはそんなこよいちゃんを見ることもなく、ぶっきら棒に言う。
「別に一緒に来てるわけじゃない。あいつが勝手に付いて来るんだよ。家も隣りだし。最悪」
その言葉にこよいちゃんはますます嫌なものを見るような目でわたしを見たあと、ジュンちゃんに笑顔を向けた。ジュンちゃんの言葉が聞こえたのだろう、他の子もくすくすと笑い声を漏らして視線を向けてくる。最近はいつもこの調子だ。ジュンちゃんがわたしを良く思っていないのは、わたし自身よく分かっていることだから今更気にしない。
「ねえ、知ってる? 羊子ちゃんのお父さんって変なんだよ」
それまでなんとなく聞いていたこよいちゃんの声が耳に突き刺さった。教科書を机の中から出す手が止まり、冷えつく。
その時まで机に頬杖をついていたジュンちゃんが顔を上げるのが目の端に映った。
そんなの、変だよ。こよいのお父さんはそんなことしないよ。
いつだったか、わたし達がお互い一番の仲良しだった時、わたしとお父さんの秘密をこよいちゃんに話したことがある。人に話したのはあれが最初で最後だった。こよいちゃんは人に言ってはいけないことをちゃんと嗅ぎ分けて、話さないでと言わなくても誰にも話さない。それにこよいちゃんに話した時、わたしはまだそのことをそんなに変なことだとは思わなかった。ただお父さんに「秘密だよ」と言われたから、誰にも話さなかったけれど、こよいちゃんには話してもいいような気がしたから。それはわたしたちが友達じゃなくなったあとでも、ちゃんと守られていた秘密だった。
「画家さんって変わってるって聞いたんだけど、羊子ちゃんのお父さんは特別変」
ぷっくりとしたかたちのいい唇が笑みのかたちに開く。
「だってね、羊子ちゃんの服を脱がすの。絵を描くのだって、自分の子供の裸を描くなんて、変態だよ。それにね」
頭の天辺から足の指先まで氷水に浸けられたみたいだった。わたしが立ち上がって歩き始めると、それに気付いたこよいちゃんが眉を顰めた。さっきまでおしゃべりに夢中だった子たちの声も止んだのに気付いたけれど、わたしは歩くのを止めない。
別にこよいちゃんの言葉に腹を立てたわけではないと思う。頭の中はひどく冷静で、ひどく凶暴な気持ちに支配されていた。
わたしはこよいちゃんを突き飛ばした。彼女の体は簡単に、人形みたいに机と机の間に倒れこむ。途中ぶつかった机が大きな音を立てて動いた。ジュンちゃんの驚いた顔が目の端に映った。
痛そうに目を瞑るこよいちゃんの上に馬乗りになって、わたしは何度も手を振り上げた。こよいちゃんの泣き叫ぶ声が聞こえたけれど、止めてなんかやらなかったし、誰も止めなかった。静かな教室に泣き声と顔を叩く音だけが響く。
優しいお父さんにお母さん、可愛い弟。こよいちゃんの家族。めちゃくちゃになってしまえばいいのに。こよいちゃんのすべてが、めちゃくちゃになってしまえばいいのにと思った。
わたしを止めたのは、担任の先生だった。羽交い絞めにされるまで、わたしは先生が教室にきていることにも気付かなかった。先生に持ち上げられて見下げたこよいちゃんの顔は真っ赤に染まりくしゃくしゃに歪んでいた。その泣き顔を見ると、今まであったわたしの中の凶暴な気持ちはすっとどこかへ行ってしまった。まるで他人がこよいちゃんをそんな風に泣かせたみたいな気分だったけれど、わたしの手はじんじんと痛んでいた。
こよいちゃんは保健室に、わたしはそのまま先生に連れられて他の部屋に移った。教室を出る前に先生は他の子たちに何があったのか訊いた。みんな首をただ横に振っただけだったけれど、ジュンちゃんはこよいちゃんが言ったこと、そのあとにわたしが起こしたことを先生に話した。先生はこよいちゃんが言ったことには触れなかった。ただどうしてこよいちゃんを殴ろうと思ったのかを訊いてきたけれど、そんなことわたし自身にも分からなかったからどう答えていいか分からなかった。先生は結局、二人の間の秘密であったことをみんなの前で話してしまったこよいちゃんに、わたしが怒って殴りかかったのだと結論づけた。
それは間違いではなくて、正解でもなかったけれど、わたしは頷いた。こよいちゃんが友達の秘密をばらそうとしたことは悪いことだけれど、一方的な暴力にでたわたしが先にこよいちゃんに謝ることになった。怪我をしてしまったこよいちゃんは、真っ赤に腫らした頬に冷えたタオルを当てて赤く濡れた目でわたしを見たあと、怯えるように目を逸らした。
「叩いてごめんね、こよいちゃん」
我ながら平坦な声だったと思う。こよいちゃんに対する気持ちはこれぽっちもない。顔を赤く腫らしたこよいちゃんを目の前にしても悪いことをしたと思う気持ちが湧いてこないのは、変なことなのだろうか。わたしは多分、悪い子なんだ。お父さんとの秘密をこよいちゃんにばらしてしまったくせに、それをばらしたこよいちゃんに殴りかかった。わたしがばらさなければ、こよいちゃんがばらす秘密もなかったのに。
頭では分かっていても、心がそれに従わない。わたしは悪いとは思わないし、怒ってもいない。悲しくもならない。ただただ平淡。なにも感じない。
こよいちゃんは結局謝らなかった。先生が恐れていた、彼女の両親が怒って学校に電話をかけてくることもなかった。ただそのあと一週間、こよいちゃんは学校を休んだ。
次の日の朝、毎朝のように隣りの家の扉の前で待っていると、これまた毎朝のように出てきたジュンちゃんがわたしを見て顔を顰めた。ただ、その表情にいつもとは違うほんの少しの戸惑いを混ぜて。
わたしたちはいつものように河川敷の横の真っ直ぐに伸びた道を行く。川の流れに沿ってずっと続くその道は、真っ直ぐに見えて本当は緩やかに蛇行しているけれど、それに気付いたのはつい最近のこと。
「ねえ、ジュンちゃん、川って海に繋がってるんだって。知ってた?」
いつもと同じ独りごとをわたしはジュンちゃんに聞こえるように言う。
ジュンちゃんは立ち止まらないし振り返らない。ずんずんと進んでいく後姿をわたしは追う。けれど、この時はいつもと違った。早足で歩くジュンちゃんが少しずつその速度を落とした。
「お前さ」
ああ、また鬱陶しいとか言われるのかな。そう思った。
「泣いてた」
「え?」
わたしはその言葉の意味が理解できずに立ち止まった。ジュンちゃんはゆっくりと歩きながら進んでいく。
泣いていた。わたしが。それは、いつのことだろう。わたし自身そんな覚えはないのだから、ジュンちゃんの勘違いかもしれない。
その言葉を聞かなかったことにして、わたしはまた歩き出した。ジュンちゃんの背中を追いかける。別にこよいちゃんみたいに、ジュンちゃんのことが好きなわけじゃない。ただ、どうしても必要なものの気がしたから、勝手に傍にいようと思った。それだけのこと。
たまに、本当にたまにだけれど、こよいちゃんみたいに泣き叫びたくなる時がある。だけどいつもその感情を見ないようにする。そうすればいつもそのことはあっという間に忘れる。わたしも、こよいちゃんのようにたくさん殴られればあんな風に泣けるのだろうか。
「ねえ、ジュンちゃん。釣りおじさんと小屋のおじさんって友達なんだよ」
返事はない。わたしはそれでも変わらずジュンちゃんに付いていく。
多分明日も明後日も、その先もずっと。