熱
その日の朝は、珍しくジュンちゃんが迎えに来なかった。そんなことは一年に一度か二度あるかないかだ。その理由は大抵寝坊だった。
だから、今日がそのあるかないかの寝坊の日かと思い、家でゆっくりと学校に行く準備をしていると、家のチャイムが鳴った。
ジュンちゃんはチャイムを鳴らさない。なぜかいつも二、三度扉をノックするだけだ。
誰だろうと怪訝に思いながら扉を開けると、そこにはジュンちゃんのお母さんが立っていた。通勤前なのだろう。肩には鞄を掛けて、しっかりと化粧をした顔と整えられた髪で、いつもの様に微笑んだ。
「おはよう、羊ちゃん。今日ね、ちょっとジュンが風邪で熱出したから、学校休ませるわ。待っててもらって悪いんだけど、今日は一人で行ってくれる」
別に待ってたわけじゃないし、二人で行く約束をしていたわけでもない。
わたしが頷くと、ジュンちゃんのお母さんはいつもの優しい微笑みを浮かべたまま、少し急ぎ足で行ってしまった。
そんな彼女の後ろ姿を見送ってから、わたしはどうしようかと思った。
ジュンちゃんには失礼だけど、わたしは毎朝迎えに来ていたジュンちゃんが来ないという事実で、ちょっとした開放感を感じていた。学校には本当は毎日行くほど興味もないし、勉強はそんなに嫌いではないけれど、あの閉鎖された部屋で他の生徒たちと長時間勉強することはあまり好きとはいえない。だからと言って、休んでばかりいたらジュンちゃんに何故か怒られる。それも面倒くさいので毎朝わざわざ迎えにくるジュンちゃんと一緒に学校に行っていた。お陰様で出席日数は十分足りているはずだ。今日くらい休んでしまっても響かないし、誰にも文句は言われない。
それにしても、ジュンちゃんが熱を出すなんて珍しいことだった。いつもはわたしがその側なのに。
わたしは制服の上からコートを羽織り、鍵だけを持つと家を出た。
隣りの家の扉をいつもジュンちゃんがするようにノックする。けれど、返事はなかった。眠っているのかもしれない。
銀色のドアノブを回してみると、カチャリと音を立てて扉は簡単に開いた。おばさんは、こんなところが抜けている。急いでたからか、ジュンちゃんが家にいるからか、鍵を掛けていなかったらしい。どちらにしても無用心だなあ、と思った。先日近所では空き巣が出たばかりなのに。
「ジュンちゃん?」
開いた扉の間から名前を呼んで、暫く経っても返事はなかったので勝手に上がらせてもらう。
家の構造自体は、わたしの家と全く一緒だ。扉を開けてすぐ左の壁沿いに炊事場があって、すぐ前には居間があり、その奥にもう一つ部屋があり、玄関からでもその部屋のベランダの硝子戸から射し込む光りで奥の部屋が満たされているのが見えた。そこに敷かれている布団がこんもりと膨らんでいるのも。
静かに近寄って覗き込むと、少し顔の赤いジュンちゃんが目を閉じているのが見えた。
枕元には、薬と水の入ったペットボトルが載った小さなお盆が置かれている。
気配に気付いたのか、ジュンちゃんが薄っすらと目を開けた。
「ひつじ……?」
少し掠れた声で、ジュンちゃんは言う。
「おはよう、ジュンちゃん。風邪引いたんだってね」
「お前、学校は?」
「今日はジュンちゃんの看病のために休みました」
とんだ嘘だ。それを見透かしたのか、それともわたしに看病されるのが迷惑なのか、ジュンちゃんは嫌そうに顔を顰めた。けれどそれも一瞬のことで、すぐにその顔にはいつもの笑みが作られる。
「だったら、ちゃんと看病してくれよ」
その言葉に、今度はわたしが顔を顰める番だった。
本当は、なんとなく様子を見に来ただけだ。人の看病なんてしたことがないから、なにをすればいいのかわからない。
「看病って、なにしたらいいの」
「なんだそれ、お前さっきジュンちゃんの看病のために学校を休んだって言わなかったっけ」
言った。嘘だけど。そんなことを言えば、すぐにでも学校に行けと言われそうだったので口を噤んだ。
看病。したことはないけれど、そういえばしてもらったことはある。小さい頃には本当のお母さんに。それ以降は温子さんに。
わたしは思い出して、手を伸ばした。額に掛かる髪を掻き分けて手のひらで触れると、熱い熱がじんわりと伝わってきた。
ジュンちゃんは驚いたように少し目を大きくしたけれど、暫くしてその目は細められた。
「ほんとだ。熱あるね」
「……そんな馬鹿な嘘吐かないよ」
呆れた声で返されたけれど、目は細められたままだ。なんとなくそのまま撫でるとその目は閉じられた。
ちょっとおもしろい。暫くそうしていると、静かな寝息が聞こえてきた。
「おい、羊」
揺さぶられて目を開けると、顰め面したジュンちゃんが目に入った。それと同時に、体がひんやりしていることに気付く。
スカートから出ていた冷たい膝を擦りながら体を起こすと、ジュンちゃんが自分の被っていた布団を頭から被せてきた。
「お前、一緒に寝てどうすんの。しかもそんな格好で。風邪引くぞ」
布団から顔を出すとジュンちゃんは怒ったように顔を顰めたままだった。
そうか。ジュンちゃんが寝たあとに、ジュンちゃんがあんまりにも心地よさそうに寝てたから、釣られて眠くなったんだ。そのままそこで寝てしまったのか。
掃きだし窓からは夕日が射し込んできていた。
結構寝たはずなのに、まだまだ寝たりないのか、身体が酷くだるい。そのまま身体を引き摺るようにして隣りに敷かれたジュンちゃんの布団にのると、ジュンちゃんはぎょっとしたように目を見開いた。
「まだ寝るつもり?」
返事を返さずに身体を倒した。
すぐ目の前にジュンちゃんが寝巻きにしているシャツが見えたけど、気にせず目を閉じる。
暫くして、額に温かいものが触れた。
「うわあ……お前本当に馬鹿だなあ」
心底呆れた声がしたあとにふと笑い声が聞こえた。そのままゆるゆると額を撫でられる。
心地いい。ジュンちゃんがそのまま寝てしまった気持ちも分かる。
ジュンちゃんのお母さんが帰ってきたのはその数時間後のこと。
どうやらわたしはジュンちゃんの熱を貰ってしまったらしい。
わたしのお母さんは明け方まで帰ってこないからと、ジュンちゃんの隣りに敷かれた布団で寝ることになった。
夜にはそれに加わったおばさんと並んで、不思議な川の字を作って眠った。
2.
またか、とジュンちゃんは心底うんざりした様にため息を吐いた。
わたしが風邪を引くのは毎年のことどころではなく、季節毎のことだ。もう何年も付き合いのあるジュンちゃんは、毎年何回もその言葉とともにため息を吐き出す。
「どうせ、おばさんいないんだろ?」
これも毎回のことだけれど、それでもジュンちゃんは甲斐甲斐しい。わたしが風邪を引くと最近ではお母さんではなくジュンちゃんが看病しに来ることもあるくらいだ。だからそんなとき、お母さんはわたしをジュンちゃんに任せて仕事に出ることができる。
わたしの返事を待たずに、それとも元々答えは不要だったのか、ジュンちゃんは慣れた手つきで躊躇もなく人の家の冷蔵庫を開けて食材を探った。
布団の中からその様子をぼんやりと眺める。
テレビが点いているから、会話がなくてもそれなりに賑やかな声が部屋の中に響いている。
毎回のことだけれど、わたしはゆったりとしたこの時間が嫌いではない。身体は火照ってだるいのに、なぜか安心する。
暫く薄目を開けてぼうっとしていたら、いつの間にかやってきていたジュンちゃんが顔を覗き込んできた。
「起きれる? 雑炊できたんだけど」
「……だるい」
言って手をだらりと力なく手を伸ばすと、ジュンちゃんは驚いたように目を円くさせたけれど、何も言わずに身体を支えて起こしてくれた。
肩に頭を預けると、一瞬その身体が震えた。
ジュンちゃんが他人に触れられるのが苦手なことは知っている。なんて言ったって長い付き合いなのだから。普段は何もないような顔をしているけれど不意打ちの触れ合いに、ジュンちゃんは他人には分からないほどの一瞬、身体を強張らせる。
わたしがそれを気にしないで両腕をだらりと横に垂らしたまま凭れ掛かると、耳のすぐ近くで息を呑む気配がした。
「……羊、起きろ」
低く押し殺したような声が聞こえて、うん、と頷く。けど、そのままますます体の力を抜いた。
やっぱり少し熱が高いのかもしれない。いつも以上に頭がぼんやりとする。
暫くすると、ジュンちゃんは諦めたようにため息を吐いた。
「子供じゃないんだから」
呆れたような声が聞こえる。
思えばジュンちゃんはわたしに対して呆れてばかりだ。そう思うとなぜか少し可笑しくなって笑えた。
「子供と大人のちがいってなんだろう……」
「寝ぼけてるのか?」
また呆れた声。
「わたしが子供らしかったことなんてないよ」
何も考えずに思いつきのまま喋る。ジュンちゃんの肩に頬を預けたまま、目を閉じて。すると、またため息が聞こえてきた。
「……確かに、お前はなんにも変わらないな。もうちょっと大人になれよ。頼むから」
頼まれてしまった。
わたしが昔から変わらずにいたせいで、ジュンちゃんに迷惑をかけたことあっただろうか。そんな頼まれるほどのことはなかったと思う。
ふと、頭に柔らかな感触がした。それがジュンちゃんの手だと分かると、わたしは少し驚いて閉じていた目を開けた。
ゆるゆると、それこそ小さな子供するような手つきで頭を撫でられる。
首を少し動かすと、少し困ったような表情で微笑むジュンちゃんの顔が見えた。
どうしてか、見てはいけないものを見た様な気分になって、わたしは再び目蓋を閉じる。
あと少しで分かりそうで分からないことがたくさんある。わたしはそれに蓋をする。見ないふりをする。
腕は体の横に垂らしたままでいい。わたしはその腕を背中にまわさない。
熱を出したら、次もジュンちゃんは来てくれるだろう。だけどそれは昔の罪悪感をずっと引き摺っているから。平気なふりをしてジュンちゃんはその罪悪感に勝てない。それは多分、誠実なジュンちゃんに一生付き纏う。
それでいい。いつまで続くか分からないけれど、次はある。ジュンちゃんの傍はわたしにとっては心地の良い場所だから。ジュンちゃんがそうしようと努力してきたから。
「ほんと、子供のまんまだ」
静かな声にどんな感情が籠められているのかわたしには解らない。もしかすると、感情なんてこれっぽちも篭っていないのかもしれない。どちらにしても、わたしはそこに踏み込まない。
殆どの時間を一緒に過ごしてきたけれど、わたしたちの間には線がある。それ以上はお互いに踏み込まない。踏み込んでしまえば、きっとこの奇妙な関係は簡単に壊れてしまう。
壊すのは、どちらからだろう。今は予想もつかないけれど、もう少しこのままでもいいと思う。
いつの間にか隣りにいることが当たり前になっていたから、今のところジュンちゃんがいなくなったところなんて想像がつかないから。
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