第1部 赤いスイートピー 〜モールデン・ブレイクムーアの花伺い〜①
「婚約破棄をしたいんです」
向かいに座る男性が、そう告げました。
私は思わず固唾を呑みます。
――紅茶を置く手が震えなかったことを、誰か褒めてくださってもよいのではないでしょうか。
残念ながら、今ここにそんなことをしてくださる方はいらっしゃいませんけれど。
それほどまでに驚いている私とは対照的に、主人は悠然と微笑んでいました。
髪に咲く中紅色の花を思わせる、やわらかく美しい笑みです。
「まあ。思い切ったことをお考えなのですね、モールデン様」
鈴を転がしたような軽やかなお声にも、少しの動揺も感じられません。
「お話、お伺いしてもよろしいですか?」
――まだこの方の侍女になって、それほど日も経っていないというのに。
どうして、こんなとんでもないお話に立ち会っているのでしょう。
胸の内の動揺が少しでも外へこぼれないよう、私はエプロンドレスの裾をそっと握りしめました。
侍女のお仕事とは、紅茶を淹れたりお花を整えたりするものだと思っていたのですが、どうやら私のお勤めは、ずいぶん賑やかなものになりそうです。
◆ ◆ ◆
この男性――モールデン・ブレイクムーア様が、私のご主人様であるセラフィタ・ヴェルディエ様のいつもいらっしゃるガゼボを訪れたのは、つい先ほどのことでした。
先日、セラフィタ様の侍女になったばかりの私は、緊張しながらお二人に紅茶を淹れておりました。
赤いスイートピーの花を携えて現れたモールデン様は、どこか沈んだ表情をなさっていて。
ぴんと立った灰色の兎耳に、少し神経質そうにも見える整った面立ち。彼は灰色の兎の特徴を持つ、二ツ足の下半属の紳士です。
確か、ブレイクムーア四爵家の嫡子でいらした……はずです。
もちろん、本日の訪問についてはきちんと事前に予約をいただいております。
お客人のお名前やお家柄を覚えることも侍女の務めですから、私も前もって教えていただいていました。
前もって教えていただいていましたが、まだ見習いの身です。どうやら、もう少しお勉強が必要なようです。
お二人が席につかれ、私が紅茶を淹れ終えたところで飛び出したのが、先ほどのあの一言です。
――婚約破棄をしたいんです。
いささか刺激の強すぎるお話に、私は主人の後ろで、ただ大人しく控えておりました。
少なくとも、見た目だけは。
学院の中庭には、今日も色とりどりの花が咲き乱れていました。降り注ぐ陽光はやわらかく、吹き抜ける風も爽やかです。
そんな穏やかな景色の中、私とともに主人の傍らへ控えている傍仕えのエンヴィアさんは、何事も起きていないかのように静かに佇んでいらっしゃいました。
風に揺れているのは、燕尾服のジャケットの裾ばかりです。
さすが、歴戦の従者は違います。 私も見習わなくてはなりません。
「婚約破棄――。貴方は、ウィニフレッド・グッドファロウ嬢とご婚約されていますね」
主人の口から出たそのお名前には、まだ社交界に疎い私にはあまり聞き馴染みがありませんでした。
ただ、本日のお客人であるモールデン様のご婚約者でいらっしゃることだけは、事前にエンヴィアさんから伺っています。
確か、ウィニフレッド様もモールデン様と同じ四爵家の御令嬢でいらしたはずです。
こういうことを、家格が釣り合う、と言うのでしょうか。
まだまだ難しいことの分からない私ですが、お家の規模だけを見れば、取り立てておかしなご縁には思えませんでした。
あ。念のため申し上げておきますと、冒頭で婚約破棄を申し出られたのは、断じて私の主人ではありません。
モールデン様は眉根を寄せ、苦しそうに口を開きました。
「俺は……彼女をそういう意味では愛していないんだ」
つまり、いわゆる『政略結婚』を望んでいらっしゃらない、ということでしょうか。
この国の貴族は、お家のために婚姻を結ぶことも多いと聞いております。
私も貴族の末席に加わったばかりではありますが、それでも家同士の都合による婚姻そのものは、さほど珍しいことには思えません。
「なるほど……。けれど、愛は伴侶となってから育むもの、という考え方もございます。それでもモールデン様には、難しいお話なのでしょうか」
「無理だ……。俺は、彼女じゃない人を愛しているんだ」
なんと。
危うく声が出そうになりましたが、どうにか喉の奥で飲み込みました。
「そういうことでしたか。それで、私にお話しくださったのですね」
主人は、得心がいったように微笑みました。
「貴女は『花伺い令嬢』――花を持って訪ねれば、どんな話でも聞いてくださる。そう噂に聞いております。学院にいれば、誰でも知っていることでしょう」
私の主人に、そんな噂が。
初めて知りました。
いえ、それよりも。
失礼ながら、こんな、ふとした拍子に醜聞へ転がりかねないようなお話まで、受け止めてくださるということなのでしょうか。
花をひとつ携えて訪ねれば、どんなお話でも。
――ということは、傍に仕えている従者も、そのお話を一緒に受け止めなければならないということでは?
……思っていたよりずっと、大変なお仕事なのではありませんか、これ。
私は、モールデン様が携えてきた赤いスイートピーへ視線を落としました。
これが、今回のお話を伺うための花なのですね。
「ええ。その噂に間違いはございませんわ。美しいお花をありがとうございます」
主人はそう言って、波打つ花弁の縁を指先でそっとなぞりました。
その仕草は、こんなお話の最中だというのに、いつもと変わらず優雅です。
「それで……率直にお伺いいたしますが、貴方が愛していらっしゃる方というのは、どのような方なのでしょう」
モールデン様はしばし迷うように口を閉ざしてから、意を決したように告げました。
「俺が愛しているのは、ウィニフレッドの家で働いているメイドの――アルバなんだ」
あらあらあらあら。
さらに衝撃的なお話が出てまいりました。
婚約者であるウィニフレッド様のお家に仕えるメイドが、意中の方。
――何をおっしゃっているのですか、この方は。
いけません。そんな目でお客人を見てはいけません。
思わずモールデン様へ向きかけた視線を、慌てて床へ落としました。
けれど、動揺までは隠しきれず、私の目は床の上をなんとも落ち着きなく彷徨っています。
その隣で、エンヴィアさんは相変わらず何の反応も見せていません。
やはり、さすが歴戦の従者です。
はあ、婚約者がいらっしゃるのに、それとは別に想う方がいる。
……これは、百万歩ほど譲って、ままあることだといたしましょう。
政略による婚姻ともなれば、お心ばかりはどうにもならないこともあるのでしょう。
そのお相手が平民であることも、貴族としては褒められたことではないのかもしれませんが――恋とは、時にそういうものなのだとも聞きます。
私には恋というものが、まだ今ひとつ分かりませんけれど。
世の中には、身分も事情もお構いなしに誰かを想ってしまうことがあるのだそうです。
そこまでは、良いとしましょう。
ですが。
自分のお家のメイドではなく、婚約者のお家のメイドを愛しているというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
「あら……モールデン様のお家のメイドではなく、ウィニフレッド様のお家にお仕えしている方なのですか?」
「ああ……。俺と、ウィニフレッドとアルバは幼馴染なんです」
貴族のお二人と、平民の娘が幼馴染。
思わず首を傾げそうになりました。
「昔は三人で、こっそりよく遊んでいました。けれど……俺は、ウィニフレッドではなく、アルバを愛してしまった」
テーブルの上で握られたモールデン様の拳が、わずかに震えていました。
どうやら、冗談でも気の迷いでもないようです。
……ううん、なんともはや。
下半属は、上半身が人っぽい、下半身が人外っぽい身体の人々のことです。
逆に上半属は、上半身が人外っぽい、下半身が人間っぽい身体の人々のことです。




