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プロローグ 思い出の味

 その日は雪が降っていた。

 灰色の空から静かに舞い落ちる雪は、まるで世界の音をすべて吸い取ってしまうかのようで。

 少年は震えながら、長い列に並んでいた。

 腹が減っていた。何日もまともな食事をしていない。くたびれた靴の中には雪が染み込み、指の感覚はほとんどない。それでも列から離れなかったのは、漂ってくる香りのせいだ。

 ――温かく、どこか優しげな匂い。


 やがて順番が回ってくる。

 少年の前に現れたのは、想像していたような使用人ではなく、まだ幼い少女だった。おそらくは少年よりも年下の。

 きれいな亜麻色の髪を、邪魔にならないように結い上げ、袖をまくり上げた小さな貴族の娘。

 雪の降る中、彼女は自ら鍋をかき混ぜていた。

「はい、どうぞ」

 笑顔と共に差し出されたのは、ほかほかと湯気の立つ杯(カップ)。そして大人の拳ほどの大きさのパン。焼きたてではないが、まだ柔らかかった。

 少年は戸惑う。

 貴族の娘が、こんなことをするものなのか。

 立ち尽くす少年に、少女は不思議そうに首を傾げた。

「冷めてしまいますよ?」

 その声は、雪よりもなお柔らかかった。促され、少年は恐る恐る杯を受け取る。

 両手に広がる温もり。

 そして一口。


 ――甘い。


 ほんの少し苦くて、刺激があって。でも優しい味。体の奥まで温かさが広がっていく。少年はまた一口、それを飲んだ。強張っていた顔が、緩む。

 少女が笑った。

「おいしい? 牛乳(ミルク)とお砂糖と香辛料(スパイス)入りの紅茶は、身体がとっても温まるんです。東方帝国の飲み方なのですって。えーと――マサラチャイ、っていうのよ。マサラが香辛料でチャイが紅茶に牛乳を入れたもの」

 少年は黙って頷いた。

 そのマサラチャイは、きっと特別なものではなかったのだろう。けれど少年にとっては、人生で一番おいしい飲み物だった。

「あなた、お名前は?」

 少女が尋ねる。

 少年は少し考えてから答えた。

「……カイ」

 少女は嬉しそうに微笑んだ。

「カイ。いいお名前ですね」

 少年は聞き返した。

「――あなたは?」

「はい?」

「名前……」

 その時、遠くから声が飛んできた。

「お嬢様!」

 少女は振り返る。

「今行きます!」

 玉杓子(レードル)を女中(メイド)に渡し、そしてもう一度少年を見た。

「また来てくださいね」

 彼女はそう言って、雪の中へ戻っていった。

 周囲の人々が囁く。

「ご領主様のお嬢様だ」

「ブルーメンフェルト伯爵家の……」

 少年には、その名前が聞き取れなかった。

 ただ覚えているのは、雪の白さと、亜麻色の髪と、マサラチャイの香り。そして、腹の中から湧いてくるようなぬくもり。

 少年は杯を握りしめながら思った。


 ――いつか。


 いつかもう一度、あの少女に会いたい。


 雪は静かに降り続いていた。

 その冷たさは先程と変わりないはずなのに。少しも寒くなかった。

 

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