番外編姉の悩み事(基子姫編)
基子姫は一人で考えていた。いつになったら、左近少将と呼ばれる人から、文がくるのだろうかと。かの人から、文が届いたのは己が十六の春だった。
流麗な筆致で書かれた一首の和歌。とても、綺麗ではかなげな調べ。
桜を思い浮かべながら、兄と共に渡殿を歩いているのを透見した時のことがつい、この間のことのような感覚になる。
とても、涼しげな目元。すっと通った鼻筋。白い肌。雰囲気はいかにも、きびきびとして、水際だったもの。このような殿方が世の中にはいらしたのだと驚いたのであった。
今は初春。桜が咲くにはほど遠い季節。姫は手遊び(てすさ)に、歌を書き付けていた。
〈花の咲く時にはあらぬ春なれど袖にかかりし雪の降るらむ〉
珍しく雲がかかり、どんよりとした空の中。風花が散るのを見て、詠んだ。
こめられた意味としては、(まだ、自分の想いは叶えられてない。その時はやってきていないのだから。袖に冷たい雪がかかっている。一人、寂しい時に、心をほぐしてくれる人は現れるのだろうか)というもの。
ひゅうと強い風が吹いて、基子姫は震え上がった。
「さ、寒い。中へ入りましょう」
室内へ入ると、乳母が待ってましたとばかりにうるさく注意をしながら、衣を肩にかけてくれる。
「…姫様!ご体調がまだ完全には戻られていないのですから、お外に出られますな。熱がぶり返したら、どうするのですか」
眉を逆立てながら、怒られてしまった。
苦笑をしながら、謝った。
「もう、よろしいですよ。火桶を用意しましたから。お側へどうぞ」
そのまま、言われた通りにした。手にじんわりとした温もりが広がる。
「…浮水の君はいつ、来てくださるのか…」
「姫様…」
乳母は心配そうに言った。
「あの方は生真面目で女嫌いだそうね。だから、お返事も冷たいものであったのかしら」
基子姫は苦笑した。乳母はただ、見つめるだけで、黙っていた。 しばらく、沈黙が続いた。
「…それはわかりませんわ。入内なさったと思われて、ご遠慮をなさったのでしょう」
乳母は焦ったようにいう。 確かに、基子姫には東宮への入内話が出ていた。もう一人の候補であった大納言家の姫は、兄である友成と婚約をしている。なので、今度は彼女にその話が回ってきたのだ。
そう、とだけ、呟く基子姫は複雑な気持ちだった。
ただの噂なのに、と思いながら、おこされた炭を見る。
浮水、という呼び名は左近少将のもの。目をつむれば、いつでもかの人の面影は浮かんでくるのに。現にはあまりにも、遠い人であった。




