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第一章 平民家族編

「あぁ、またこのひどい匂いだ」


私がこの異世界で目を覚まして最初に感じたのは、前世と何ら変わらない、底辺の貧困が放つカビと泥の匂いだった。


冷たい隙間風が容赦なく吹き込む、粗末な木造の小屋。


煤けきった天井と、隙間だらけの床板。


18世紀から19世紀のイギリスを思わせるこの世界における、貧困層の生活は極めて過酷なものであった。


私の前世は、極度の貧困とネグレクトの中でサバイバルを強いられた過酷な環境にあった。


父親は重度のギャンブル依存症であり、酒と博打に溺れては暴力を振るう男だった。


母親は完全に育児放棄状態であり、私が何日飢えようが気にも留めなかった。


頼れる大人などどこにもいない絶望の中で、私は生きるために、役所のゴミ回収所に捨てられていた参考書を拾い集め、泥まみれのページをめくって独学で知識を身につけたのだ。


『お腹が空いたわねぇ……ごめんね、クロエ。もう少しの辛抱だからね』


私を抱きかかえる、ひどく痩せこけた女性——この世界での『母親』であるメアリーが、力ない声で呟いた。


その腕は枯れ枝のように細く、服はツギハギだらけだ。


『すまない、メアリー。今日の港の荷下ろしの稼ぎはこれだけだ。硬くなったパンの耳しか買えなかった……俺が不甲斐ないばかりに……』


土気色の顔をした『父親』のアーサーが、深く肩を落として申し訳なさそうに小さなパンの欠片を差し出す。


前世の私は、幸いにして持って生まれた知性を唯一の武器とし、奨学金を得て高校や大学を卒業した。


社会に出ても恵まれた容姿と知性からある程度の成功を得たが、幼少時から少年期の、その地獄のような経験から、他者への信用や親の愛情という概念を完全に欠落させており、金は稼げるが人脈を築こうとしない冷え切った企業家兼投資家として成長したのだった。


他者を蹴落とし、市場の隙を突いて利益を貪る日々。


結果として、その容赦のない合理主義が他者の強い恨みを買い、私は夜の公園で背後から刺されてあっけなく殺されるに至った。


なんの因果か、こうして異世界に転生したわけだが、平民の赤ん坊として転生した直後も、私は新たな両親に対して前世のトラウマを投影していた。


この異世界における貧困層の生活は過酷であり、前世の親と同様に彼らもまた頼りにならない存在であると、極めて冷笑的かつ分析的な視線を向けていたのである。


(栄養価の低いパンを嘆き合いながら分け合ったところで、根本的な解決にはならない。なぜもっと資本効率の良い働き口を探そうとしないのか。投資対効果という概念を知らないのか)


私は声に出せない赤ん坊の喉で、冷たく嘲笑した。


『あなた、この子のために、明日は私が朝からお針子の仕事に出ます。少しでも稼ぎを増やさないと』


『ダメだ!お前の今の体調じゃ倒れてしまう。俺が夜の下水道清掃の仕事も掛け持ちするから……』


『でも、このままじゃクロエが栄養失調で死んでしまうわっ!』


(無駄な自己犠牲だ。労働集約型の働き方で己の時間を切り売りしたところで、待っているのは過労死だけだ。上位の資本家に搾取されていることにすら気づいていない)


私の心には分厚い氷の壁が築かれており、周囲の状況をただ冷徹なジャーナリストの視点で観察する内面描写に終始していた。


愛だの絆だのという不確かなもので腹は膨れないし、命も守れない。


絶対的な「富」と「情報」だけが、この理不尽な世界で生き残る唯一の手段なのだから。


私はただ、自分が一人で自立して稼げる年齢になるまでの間、彼らを「一時的なスポンサー」として利用することだけを考えていた。





私が自力で歩けるようになり、言葉を少しずつ発し始めた三歳の冬。


分厚い氷の壁に閉ざされた私の冷笑的態度は、ある決定的な出来事によって打ち砕かれることになる。


その日、私は両親に両手を引かれ、賑わう市場の片隅を歩いていた。


彼らにとっては何ヶ月ぶりかの休日だった。


『ほら、クロエ。見てごらん。今日は父さんの仕事が少し上手くいったから、特別にあの赤い林檎を一つ買ってあげるよ』


『まあ、よかったわね、クロエ。きっと甘くて美味しいわよ』


二人が貧しい財布の底を叩き、私に向けてしわくちゃの、けれど温かい笑顔を向けたその瞬間だった。


「どけ! どけぇっ!! 貴族様の馬車のお通りだぞ!!」


怒声と共に、石畳を削るけたたましい車輪の音が響き渡った。


群衆の悲鳴があがる。


振り返ると、巨大な黒毛の馬に引かれた豪奢な馬車が、手綱を失ったまま猛スピードでこちらへ突っ込んでくる。


貴族の馬車の暴走であった。


(——回避不能。運動エネルギーと現在の距離から計算して、確実に轢かれる。即死だ)


私の冷徹な頭脳が弾き出した結論は、あまりにも明白だった。


前世であっけなく暗殺されたように、この世界でも私は、上位階級の理不尽な暴力によって命を奪われるのだ。抵抗する術もない無力な平民として。


しかし、次の瞬間。


『危ないっ!!』


『嫌っ、クロエだけは!!』


二つの影が、私の小さな体を突き飛ばすようにして、強く、強く抱きしめた。


直後、激しい衝撃と鈍い骨が砕けるような音が響き、私たちは冷たい石畳の上を激しく転がった。


視界が土埃と、生々しい血の色に染まる。


『……あ、あぁ……クロエ……怪我は、ないか……?』


頭から大量の血を流し、息も絶え絶えになったアーサーが、震える手で私の頬に触れた。


『よかった……クロエに、傷がなくて……』


メアリーもまた、馬車に弾き飛ばされて足に深い傷を負っているというのに、私を庇うように覆いかぶさったまま微笑んでいた。


彼らは、自らの命の危険を一切顧みず、私を致命的な危機から守り抜いたのだ。


(なぜ? 自分たちが死ぬかもしれなかったのに。損得勘定が完全に破綻している。合理的な判断じゃない……こんなの、バカげてる……)


頭ではそう分析しようとしても、私の内側の奥深くから、今まで感じたことのない熱い感情が激しく込み上げてきた。


これが、この自己犠牲の行動こそが、私が二つの人生を通じて初めて経験する「無償の愛」の明確な証明だった。


私の心に築かれていた分厚い心理的防壁が、音を立てて完全に破壊されていく。


血だまりの中で浅い息を繰り返す二人を見下ろしながら、私の脳裏に、この三年間——転生してからの日々が走馬灯のように駆け巡った。


思えば私は、ずっと彼らを「どうせ自分が自立するまでの一時的なスポンサーだ」と見下し、常に冷ややかな視線を向けていた。


貧困から抜け出せない彼らを無能だと心の中で毒づき、なけなしの金で買ってきてくれた木彫りのおもちゃにも、愛想笑い一つ返さなかった。


抱きしめられれば疎ましく思い、その愛情表現を「親の自己満足」だと冷笑してはツンツンと撥ね除けてきたのだ。


だが、二人はどうだったか。


私がどれほど可愛げのない態度をとっても、決して怒らなかった。


粗末な夕食のスープに入ったわずかな肉をすべて私の皿に移し、自分たちは硬いパンの耳だけを齧って「お腹いっぱいだ」と笑っていた。


冬の隙間風が吹き込む夜には、自分たちの外套を惜しげもなく私に被せ、寒さに震えながら一晩中私の背中をさすってくれた。


それらの行動には、前世の私が信奉していた「合理性」も「投資対効果」も、何一つ存在しなかった。


『あぁ……そうか』


私は、いい加減に理解した。

いや、元から理解していた。


彼らは私に見返りを求めていたわけでも、義務感で育てていたわけでもない。


私は初めから、この貧しくも温かい腕の中で、ただ無条件に愛されていたのだ。


それを理解しつつも、親、いや人間なんて所詮利己的な生き物だと決めつけた私のプライドが、彼らの無償の愛を許せなかったのだ。


私の心に築かれていた分厚い心理的防壁が、音を立てて完全に破壊されていく。


私は、前世を含めて初めて、子供のように大声を上げて泣きじゃくった。


血にまみれた二人の手を、小さな手で必死に握り返しながら、止めどなく溢れる涙を拭おうともしなかった。


(私は、愛されている。利用するだけの存在なんかじゃない。私は、この二人の子供なんだ……!)


この日を境に、私の世界は反転した。


両親の深い愛情と家族の温もりを痛いほどに知った私は、前世の知識を自分一人の生存のためではなく、この家族全員で幸せになるために使うことを強く決意したのだ。


(もう、絶対に理不尽には奪わせない。前世の知識も、経験も、知略も、全てを駆使して、私がお父さんとお母さんを必ず豊かにしてみせる)


涙を拭った私の瞳には、かつての冷笑主義は微塵も残っていなかった。


ただ、愛する家族を守り抜き、この過酷な世界を出し抜くという、静かで燃えるような決意だけが宿っていた。





馬車の事故から数ヶ月。


両親の怪我が癒える頃には、私たちの生活は以前にも増して困窮を極めていた。


治療費と休業により、その日のパンを買う銅貨すら事欠く有様だった。


しかし、私の心には確かな炎が灯っていた。


愛する両親を、この理不尽な貧困から絶対に救い出すという強烈な意志である。


私はまだ舌足らずな四歳の子供を演じながら、前世で培った「資本主義のハック」を開始した。


ターゲットにしたのは、父アーサーが働く港の物流システムだ。


『ねえ、お父さん。お船から下ろす木箱の中には、何が入っているの?』


ある夜、薄い毛布にくるまりながら私は無邪気に尋ねた。


『ん? ああ、遠い国から来た綺麗な布や、珍しいお茶、香辛料さ。でも、時々嵐で海水に濡れたり、箱が壊れて中身が少し傷んでしまうことがあってね。そういった「傷物」は貴族様には売れないからと、港の隅に山積みにして捨てられてしまうんだよ。もったいない話さ』


(それだ……! 情報の非対称性と、流通の歪み!)


前世の投資家としての勘が鋭く反応した。


私は身を乗り出して父の服の袖を引いた。


『お父さん! その捨てられちゃう布、お父さんが安く買えないかな? お母さん、お裁縫がとっても上手でしょ? 濡れたところを切って、綺麗なハンカチやリボンに作り直せば、街の女の人たちが絶対に買ってくれるよ!』


『えっ……? しかしクロエ、商品を売るには商人ギルドを通さないといけないし、そもそも仕入れるお金も、お店を構えるお金もないんだよ?』


戸惑う父に対し、私は前世のビジネスモデル——「無店舗型の受注生産」と「広告の概念」を叩きつけた。


『お店なんかいらないよ! この前、街角で紙を配っていた男の人がいたでしょ? 「新聞」ってやつ! あれに、お母さんが作った可愛いリボンの絵を描いて、お金を払って載せてもらうの。「欲しい人は、この広場に何日の何時に来てね」って!』


『し、新聞に商売の宣伝を……? そんなこと、大きな商会しかやっていないぞ。それに、売れなかったらどうするんだ?』


『大丈夫! 注文をとってから、その数だけ作ればいいの。前金でもらえば、仕入れのお金にも困らないよ!』


四歳の子供の口から飛び出す「予約販売」「広告宣伝」「在庫リスクの排除」という近代的なビジネススキームに、父は目を丸くした。


しかし、底抜けに優しい彼らは、私の提案を「子供の無邪気な思いつき」として片付けなかった。


『……あなた。クロエの言う通りかもしれません。私、夜なべしてでも縫います。このまま飢え死にするのを待つより、一度だけ、ありったけの小銭を集めて試してみましょう?』


母メアリーの力強い後押しにより、私たちの小さなビジネスは産声を上げた。


父が港の役人に頭を下げ、廃棄寸前の高級な絹や綿をタダ同然で仕入れてくる。


母がそれを丁寧に洗い、傷んだ部分を避けて、当時平民の間で流行し始めていたデザインの小物に仕立て直す。


そして、私が前世のコピーライティングの知識をフル活用し、「貴族の気品を、あなたの日常に——限定二十品」という煽り文句と共に、新興の地方新聞の小さな広告枠を買った。


結果は、爆発的な大成功だった。


『あなたっ! 見て、こんなに! 用意した商品が全部売れただけでなく、次の注文まで入ったわ!』


数週間後、小屋の粗末なテーブルの上には、これまでの数ヶ月分の生活費に匹敵する銀貨が積み上げられていた。


母は感極まって泣き崩れ、父はその銀貨の山と、私たちを震える手で交互に指差した。


『信じられない……たった一度の商売で、俺の半年分の稼ぎが……! クロエ、お前は本当に天才だ! 天使だ!!』



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